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ユアサイド



 大阪府南東部に位置する河内長野市は、その面積の七割を森林が占めている。土壌は肥沃で農作物の栽培に適している。

 昭和二十九年、長野町・天見村・加賀田村・川上村・高向村・三日市村が合併し、河内長野市として市政施行された。

 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、《大楠公》の尊称で名高い武将の楠木正成は、隣接する千早赤阪村で生まれ、この河内長野で幼少を過ごした事でも有名である。

 この地域は、京都や大阪方面から高野山へ通じる《高野街道》が南北を貫ぬいており、その沿道に旅館や温泉などが軒を連ね、かなりの賑わいを見せた時代があった。


 明治の中頃、旧長野村の生産農家だった向井家は、野菜以外に蕎麦の栽培も手がけ、さらにその蕎麦の麺を打つ技術も習得し、温泉旅館などが建ち並ぶ宿場町で《そば処・向井坊むかいぼう》と言う屋号を掲げて商いを始めた。

 自ら育てた蕎麦粉で麺を打ち、ネギや椎茸などの自家製野菜を具とした温蕎麦を客に振る舞った。  

 つゆに使う醤油と出汁は和歌山の知人から取り寄せた。

 現代のようにインターネットやSNSこそ無いが、十割蕎麦を提供する美味い蕎麦屋の噂は人々の口伝えで広まり、その噂は評判となって結実した。そして創業百年を超える歴史が刻まれ、今や老舗屋と呼ばれるようになった。


 ゴンは、向井惣吉ムカイソウキチが《向井坊》の六代目当主を襲名する少し前から関わるようになり、もうかれこれ二十年以上が過ぎた。

 惣吉は、職人が故の気質が影響しているのか少し怒りっぽいところがあり、さらに気難しくてヘンコでもある。だが怒ってもさほど怖くはない。それはどこかにひょうきんさを残しているからなのだろう。

 また、そのせいなのか周りの人から揶揄されることも少なくない。しかしこれは心根の部分に優しさを持ち合わせている証拠ではなかろうか。

と、ゴンは思うのであった。

 

 惣吉は当時、六代目を引き継ぐ事を見越し、片腕になるような商業デザイナーを探していた。そんな時に飲食店の同業者から紹介されたのが《ゴン》こと権田白民だった。

 惣吉は早速住所を調べ、直接ゴンの事務所ゴン・ウッドを訪ねた。しかし初の訪問時、ゴンは打ち合わせのため外出していた。ゴン・ウッドのメールボックスに投函してあった名刺の裏には『また伺います』とだけ手書きで記されてあった。ゴンは早速、惣吉の携帯に電話をした。

 電話に出た向井惣吉と言う人物は、淡々と言葉を発し、ゴンはその口ぶりから、無駄な話は一切しないクールな印象と、同時にアカデミックで博学多才な空気を感じた。

 惣吉は「また改めますから」とだけ言い残し、再訪問の日程を伝える事なく電話を切った。

 それから一週間後、ある飲食店のオープンチラシの入稿が終わり、前日から徹夜で一睡もしていないゴンは事務所内でウトウトと昼寝をしてしまっていた。それが惣吉の二度目の来訪日だった。同じ名刺がまた投函されていた。ゴンは即日架電し、ひたすら電話口で詫びた。

「向井さん、二度もお越しいただき申し訳ありません」

「いえいえ、こちらもアポ無しで伺ったもんで。権田さんのスケジュールも色々お有りでしょうし」 

ゴンは、昼寝をしていましたなどと言える筈はなく、

「向井さん、先週のご来訪も水曜日でした。今日も同じく水曜日です。どうでしょう、よろしければ来週の水曜日に私の方から伺わせてもらえませんか?」

「いやいや、それは申し訳ありません。こちらがあなたにご依頼申し上げるのに」

「いいえ、私はお仕事をお受けする時には必ずお伺いをしてお店を拝見するようにしております。是非伺わせてください」

「そうですか、恐縮いたします。そう言う事でしたら是非弊店もご覧いただければと思います。そうしていただければ幸いです」

「承知しました。時間は午後三時でいかがでしょう?」

「流石です。願ったり叶ったりです」

「では、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」

アポイントの時間をアイドルタイムに合わせて指定したゴンを『流石です』との言葉で称賛してくれた。ゴンの細かい配慮が嬉しかったのだろう。


 惣吉の話は理路整然としている。とにかくわかりやすい。その理由のひとつとして、「え〜」とか「あの〜」などの《フィラー》と呼ばれる口癖が全く無いことも、《話の上手い人》と言う印象を醸し出しているのかもしれない。

 また、三国志の《三顧の礼》よろしく、成り行き上、今回はこちらから訪ねる事になりはしたが、ゴンが提案しなければ、おそらく三度目も惣吉の方から訪ねて来てくれたであろう。年長者に対して律儀と言う言葉は相応しくないが、懇切丁寧な人である事は間違いないようだ。

 向井惣吉は、劉備のように仁義を重んじる性格なのだろうか?逆に筋を通さなければ鬼の形相になって怒りを顕著にする人なのだろうか?まだわからない。

 とりあえずゴン自身は諸葛亮のような天才的戦略家でないことだけは確かである。いずれにせよ、ゴンは何かしら未来への期待を感じていた。


 申し合わせ時刻の三十分前、《そば処・向井坊》の最寄り駅である《河内長野駅》の改札を出て、周辺の景色を観察しながら歩き、現地に着いたのは約束の五分前だった。

「権田さん、わざわざお越しいただきありがとうございます」

「初めまして権田白民です。どうぞよろしくお願いいたします」

 ゴンが思っていたような厳つい人物ではなかった。背丈はゴンよりも低く、体型も華奢である。メガネをかけ髪型は七三のオーソドックスな横分け。蕎麦の手打ち職人と言うより、医者か弁護士と言う雰囲気であり、何となくアニメによく出てくる《キザオ》っぽくもある。

 また、アカデミックな感じを受けたのは、まだ見ずともこの風貌が“人当たり”に反映されていたのだろうか?


 午後三時、店内の客はまばらだった。ゴンは奥の席に通され打ち立ての温蕎麦をご馳走になった。

「権田さん、まずうちの一番人気の商品を食べてみてください」

「ありがとうございます。いただきます」

惣吉は、自分が横に居るとゴンが食べにくいだろうと思い、ゴンの前に蕎麦を配膳すると厨房へと姿を消した。

 具材の《ほうれん草》《椎茸》《人参》《鶏肉》が、細く切られた白髪葱と共に、濃い色の蕎麦つゆの上に鮮やかな彩りを添えていた。

 出汁は鰹と昆布の風味がしっかりと伝わって来て、老舗屋の歴史を感じさせる奥行きの深い味わいだった。

『半端ない商品力や。強烈に美味い』

ゴンは感動した。

 

 二人はしっかり、じっくり話し込んだ。そして考え方、性格、価値観等の《人となり》を確認した上で、お互いに、『この人となら一緒に仕事が出来る』と言う結論に至った。

「権田さん、もうすぐ私が六代目を継ぐ事になります。どうか力を貸してください」

「向井さん、私も《向井坊》の一員となってやらせていただきます。よろしくお願いいたします。」

「権田さん、頼んます」

「任しといてください」

ゴンはさらに続けた。

「向井さん」

「はい?」

「その、権田さんはやめて、ゴンちゃんで良いですよ。なんならゴンと呼び捨てでも」

ゴンの提案に惣吉の表情は一気に砕けた。笑うと意外と愛らしい表情になる。

「ほな、ゴンちゃんでいこかな」

「オッケーです。時期当主。六代目、頑張ってもっともっと繁盛させましょ」

「ゴンちゃんありがとう。とりあえず代替わりの時は宴会をしてくれるそうやから、ゴンちゃんにも招待状送っときますわ」

「楽しみにしとります」

 要所を押さえ分かりやすく伝えて来る『向井惣吉』と言う人物に魅力を感じたゴンは仕事の依頼を快諾した。

 意気投合した二人は、これからの計画内容に好奇心を掻き立てられ、期待に胸が膨らんだ。


 向井惣吉が六代目を襲名した日、《そば処・向井坊》の上得意客と身内のみの宴が、少し客足が減る水曜日に設けられた。

 来賓として招待されていたゴンは自分の席からビール瓶を持って惣吉の元へ挨拶に向かった。

「向井さん、ちゃう、六代目、この度の襲名おめでとうございます」

「ゴンちゃん、襲名なんて大層な。せめて就任くらいにしといてぇな」

「いやいや、老舗屋ですもん。襲名でしょ?」

「わしの代で潰さんように頑張るさかいゴンちゃん、今後ともよろしゅうお頼の申します」

惣吉は椅子から立ち上がり深く頭を下げた。十歳ほど年下のゴンに対しても礼を尽くす人物である。『やはり劉備のようだ』と、ゴンは思った。

「僕の事を六代目の片腕や思てください」

ゴンもしっかり六代目、向井惣吉の目を見ながら宣言した。

 それ以降、酒が入ると『オヤジ〜』『ゴ〜ン』とお互い呼び合うようになるまで、さほど時間はかからなかった。


 メニュー数は多くなく、蕎麦以外には、天麩羅と炊き込みご飯、後は酒とビール、副菜として『椎茸昆布』と『だし巻き玉子』くらいである。

 それらの料理を撮影するため、ゴンはプロカメラマンの段取りをつけ、ゴンも立ち会いながら料理写真の撮影をした。

 ゴンのラフな絵コンテに従い、プロカメラマンは見事に仕事をこなしていった。

 まだデジタルカメラが普及する前の時代だったので、作品写真はすべてポジフィルムでゴンに納品された。それを高性能のスキャナで四色分解してマックに取り込み、そしてイラストレーターと言うアプリを使用して画像を配置しながらグランドメニューを作成していった。

 表紙のデザイン案を三種類プレゼンした中で惣吉が選んだのは、《老若男女おしなべて、そばでながきお付き合い》という文言が施されたものだった。

 全体を太めの明朝体で書き、老若男女おしなべて~の《おしな》の部分と、そばでながき~の《がき》の部分だけを毛筆の書き文字にしたものだった。

 太目の明朝体の部分は色を付けず、地模様として使用した茶系和紙の色を活かして、フォトショップのアプリでエンボス加工し、浮き上がって見えるようにした。書き文字の部分だけ墨痕鮮やかに見えるよう黒で色付けし、さらにシアンを少し混ぜて強調させた。墨文字の部分だけを読むと《おしながき》となるように見せたかったのである。

 このちょっとしたユーモアが惣吉を喜ばせた。そしてこのキャッチコピーを《店是》にすると言い出し、設置予定している暖簾や懸垂幕にもこの文言を施す事となった。

 代々《向井坊》は、漢字の蕎麦を使用せず平仮名で《そば》と表記した。それは、お客様の《傍》、お客様の《側》、と言う洒落から引っ掛けたとの事だった。

 ゴンが提案した《そばでながきお付き合い》のフレーズがその意味合いにピッタリ合致したのであった。


 ここで使った書き文字は外注に出さず、著名な書家の文字をモチーフにしてゴンが自ら書いてみた。惣吉のために、何となく自ら挑戦してみたくなったのである。

 そのためには筆文字の練習が必要だった。

 ゴンは新聞紙を広げ墨汁と筆を用意した。

『お』『し』『な』『が』『き』

一文字ずつ書家になり切って書いてみた。

「いけるやんオレ」

と、独りごちながら、それぞれの文字を三十回以上書いた。

「パクリじゃないよ~モチーフだよ~」

と、自分に言い聞かせながら。

 今度は模造紙を広げ《さいこうさくひん》と、露骨なほどデフォルメさせたひらがなを書き、左下に落款よろしく赤のサインペンで四角い升を切り《権田白民》と篆書体で添えてみた。自画自賛かもしれないが『コンテストに出したら入賞するで』と勘違いするほどの出来の良さだった。

 一世一代の《さいこうさくひん》を事務所内のコルクボードに押しピンで貼り付けた。今回の仕事が終わるまでここに貼り付けておこう。ゴンはそう思った。


 ゴンは、老舗屋の伝統を残しつつ、まずはグランドメニューと暖簾を一新し、新たに取り付けた懸垂幕にはライトアップの設備を施した。さらにはカラーコルトンを使用した電飾看板も設置。すべての看板に店是を入れた。

 また地元有縁の楠木正成に因み、篝火型のネオンをファサードの横に七台置き、夜の集客増加にも力を入れた。


 惣吉が六代目を襲名してから二十余年。二年に一度のグランドメニューの見直しや、ファサードやディスプレイの変更、土産物コーナーの開設等、惣吉とゴンは色々な案を出し合いながら二人三脚で頑張って来た。その甲斐あって売り上げは右肩上がりに伸び、関西人の殆どが《そば処・向井坊》を認識してくれるところにまで浸透していった。

「ゴンちゃん、ありがとう。あんたのお陰や」

とのセリフは惣吉の口癖にまでなった。

 ゴンと惣吉は単なる業者とクライアントと言う関係を遥かに超え、周りの飲食業界からも「水魚の交わり」と称されるほど親密な間柄を築いていった。

 さらに、参謀としての使命を自覚していたゴンは、時にはきつい言葉で惣吉に進言する事もあった。それが自分の使命と責任だと言う事もゴンは自覚していた。

 指示を待っているようでは良い結果は生まれない。《自発能動》で取り組んだ時に初めて知恵が湧き成就に繋がる。これがゴンの信念だった。

 《向井坊》の発展を、ゴンが自らの目標とするまでに至ったのは、向井惣吉と言う人物の人柄、その発端は《三顧の礼》ならぬ《二顧の礼》に始まっていたのだ。人は受け身で事にあたる時と、自発能動で動く時はおのずとその結果は違ってくる。この二十余年、ゴンは向井坊の《諸葛亮》との思いで戦って来た。


時間ときは経ち…


 間もなく傘寿に手が届きそうな惣吉だが、益々意欲満々で、今年は新メニューの開発にも挑戦すると言っていた。

 ある土曜日、ゴンのスマホが鳴った。惣吉からである。

「ゴンちゃん、若い子にもウケるような新メニュー取り入れたいねん。スケジュールが合えば来週の水曜日、いつもの時間に来てくれへん?」

「了解〜、ほんで六代目、新メニューって、何を作るつもりですのん?」

「それは来てもろた時に話するがな。また力貸してぇな」

「オモロそうですやん、楽しみにしてますわ」

「うん、打ち合わせ終わったら六時頃からまたそこら飲みに行こや」

「そっちも楽しみにしてます」

「そっちの方が楽しみなんちゃうか?」

「当たらずとも遠からず」

「わしもや」

「ほなまた、六代目…」

そう言って電話を切った。


 ゴンは長年使っている黒板の予定表に“十五時〜向井坊、十八時〜六代目と呑み会”と書き記した。

『六代目も傘寿かぁ〜、元気とは言え、後何回飲みに行けるんやろなぁ』

そんな思いがゴンの頭にふと浮かんだ。


 惣吉の奥さんから電話があったのは週が明けて月曜日の朝だった。奥さんからの電話など過去に一度もなかった。ゴンは心の奥に嫌な騒めきを感じた。

 電話に出た彼の目はしばらく事務所の隅に置きっぱなしになっている埃だらけのギタースタンドを見つめたまま動かなかった。

「……、そうですか、昨晩…ですか?

 女将さん、お辛いでしょうがご家族と力を合わせて乗り越えてください。お悔やみ申し上げます」

 ゴンの胸騒ぎが的中してしまった。こんな酷い事があるんや。突然過ぎる。女将さんもご家族も俺なんかよりもっと辛いだろう。

 ゴンは二十余年に亘る様々な記憶が思い出され、鼻腔の奥がツンとした瞬間、鼻からも目からも堰が切れたようにゴンの身体中にある水分が溢れ出した。


 惣吉の死因は《浴室熱中症》だった。高温で長い間お湯に浸かると血管が広がり血圧低下が起こる。その結果熱中症を引き起こし、体に力が入らず自力で湯船から出られなくなる。そのうち意識が無くなり溺死をしてしまう。浴室での事故死ではヒートショックに次ぐ原因のひとつである。


 元々打ち合わせをするために約束をしていた水曜日、ゴンは十八時から執り行われる通夜式に来ていた。紫外線にあたると色が黒くなる調光レンズのメガネをかけて来た。

『ホンマやったら今頃飲みに行ってるのに。どこへ連れてってくれるつもりやったんや?六代目〜』

そんな思いが脳裏を横切り、調光メガネをかけて来た賢明さを自ら褒めた。

 翌木曜日、告別式は十一時からの開式だった。

 僧侶による一連の儀式が終わると出棺の運びとなり献花が始まる。

 元気な惣吉の顔だけを心に焼き付けておきたかったゴンは、出来れば拝顔を避けたかった。そんな理由から通夜式では惣吉の顔を見なかった。しかし最後は花の一輪も捧げたかったし、何よりまた一緒に呑みたかったので、紙パックの日本酒と、木の一合升を用意して来た。ゴンはそのお土産を惣吉の右腕の横に置いた。

 惣吉の顔は穏やかだった。溺死と聞いていたのに優しかった。死を以って清算された惣吉の一生は、この穏やかで優しい相に表れているのだとゴンは確信した。


 ゴンは複数台用意されたマイクロバスに乗り込み、家族親戚と共に斎場まで同行した。釜に火が入り職員が遺族に向かって一礼した。すべて終わった。

『ほなまた、六代目』 

電話口での最後の会話が思い出され、斎場の外に出たゴンは空を見上げ心の中で手を振った。必要以上に澄み切った青空は、惣吉の旅立ちを寿いでいるように思えた。

 ゴンは帰りのマイクロバスを断り、公共の交通機関を利用し帰路につこうとした。すると後ろから呼び止める声がした。女将さんだった。

「権田さん、わざわざありがとうございました。」

「いいえ、とんでもないです。どうか女将さんもお疲れが出ませんように」

「はい、ありがとうございます。

 そして、初めてご紹介しますが一人息子の惣太ソウタです」

話には聞いていたが会うのは初めてだった。東京で経営コンサルタントの仕事を手がけ成功していると惣吉は言っていた。

「アイツは儲けるのは上手いようや。だけどなぁ…」

惣吉の話はいつもここで終わっていた。

 女将さんに紹介され、ゴンは自分の方から先に挨拶をした。

「初めまして権田白民です」

「あなたがゴンちゃんですか?親父からはよく話を聞いてました。あなたも親父のお陰でそこそこ儲けたんじゃないですか?

後は僕が七代目を引き継ぎますのでご安心を。またあなたの力が必要だと感じたらこちらから相談しますよ。あ、それとも逆に、あなたがもっと儲けたいと思うのなら仕事は色々ありますので遠慮なく僕に訊いてください。親父はあなたに大変世話になったと言ってましたし。その分のお礼くらいしますよ。まぁ頑張ってください、ゴンちゃん」

 ゴンはこの礼儀知らずの若者の言葉に開いた口が塞がらなかった。女将さんもそれを咎める事なく容認している。

 《向井坊》ともこれまでか?と言う絶望感を、いや、失望感がゴンの脳全体を埋め尽くした。

 惣吉が自分の妻をゴンに紹介しなかったことも何となく理解できた。

 ゴンはマイクロバスに乗り込もうとする二人の背中を見送った。

『六代目〜、俺は《向井坊》が好きやったんやないよ。アンタが好きやったんや。アンタは居らんようになったけど、これからも友情で結ばれときたい。でもリアルで《向井坊》とはもう無理みたいやわ。もうそれでええやろ?六代目』

再び空に向かってそう伝えると、先ほどとはまた違った、悔しさと哀れみは勿論、何より強い憤りが染み込んだ得体の知れないモノが体中から溢れ出した。そして、この悔しさを誰かにぶつけたかった。

 二十年以上に及ぶ友情が息子の一言で崩壊してしまったこと。クライアントと業者の垣根を超えて共に戦って来たのに残念な結末を迎えてしまったこと。あれこれ考えながら南海電鉄の普通電車に乗り込み帰路についた。


 ゴンは気持ちを落ち着かせたくて《堺東駅》で下車し、昼飲みの店を探し、小一時間ほど和食屋で呑んだ。

 その後、再び普通電車に乗り、今度は《新今宮駅》で降りた。

 駅からほど近い、コの字カウンターだけの店に入り瓶ビールとイワシフライを注文した。アルミの皿に入れられたそれと、横に添えられたキャベツをしがんでいた。すると、たまたま隣りに居合わせた作業服姿の男性のスマホが鳴り、男性は電話に出て小声で話し出した。

「いま店ん中ばい、なん?急ぎん用事ね?」

九州方面出身のようだ。

「ちょっとメモするけん」

と、彼は言いながら筆記用具を探し始めたが中々見つからない様子だった。ゴンはいつも携帯している自分の手帳からボールペンを抜き取り彼に渡した。男性は手刀を切ってそれを受け取った。何やら誰かの電話番号を書き留めている様子だ。

「あがとござましたぁ」

ボールペン返却時の礼の語尾が上がった。

「九州のご出身ですか?」

「はぁい、熊本の益城町でぇす」

「震災の被害が大きかった?」

「そぎゃんです」

「大変でしたね」

「そん前は阪神淡路も酷かったやなかですか?」

「そうですね」

「熊本ん時も余震が怖かけん引越しも考えよったとですが、家族ん連中のこん町が良かて言いよるもんでですね、家ば修繕してずっと益城町で暮らしよるとです」

「ご家族と離れて、今はご主人だけが大阪で働いてらっしゃる?」

「そぎゃんです」

「さみしくないですか?」

「いやぁ、もう慣れっしもてですね〜、どぎゃんでしょね」

と言いながら男性の目が潤んだのをゴンは見てしまった。

 涙目になった事をゴンに気づかれ、逆に気持ちが楽になったのか、男性はしみじみと喋り出した。

「子ども達には会いたかですね〜」

「ですよね」

「嫁ゴにも会いたかですよ」

「そりゃそうでしょ」

「来年は長男坊が高校卒業して就職すっとです。ちょっとでん暮しの楽になれば良かばってん」

「これからも無事故で頑張ってください。病気や怪我は家族を一番悲しませるから」

「嫁ゴのよぉ言いよるとです。アタは高っか所で仕事しよるけん、ほんなこつ気ぃつけんばならんとぞ。万が一命を落とす様な事があったなら…

 会えん淋しさは辛抱でくるけど、居らんごつなった悲しさは我慢出来んとばい」

男性はそこまで話し終えた。

ゴンはそこまで聞き終えた。

二人の男は同時に目頭を押さえた。


 ゴンのスマートウォッチが午後四時半を表示している。一期一会を記念してゴンが熊本の《ヨカニセ》に奢ってあげた。男性に確認すると《ヨカニセ》は熊本ではなく、鹿児島の方言である事をゴンは初めて知った。


 『「居らんごつなった悲しさは我慢出来んとばい」あの一言、今の俺には効いたなぁ。六代目は居らんけど、でも俺にはササが居るし、ユキオさんも居る。幸せや。

 それはそれとして、七代目のあのクソ生意気な捨てゼリフは釈然とせん。

 あかんあかん。また腹が立って来た。でも俺、熊本のヨカニセと話してる時、何で標準語になったんやろ?』

そんな事を呟きながら愛妻の元へゴンは歩みを進めた。


 開店時刻の午後五時、家庭料理居酒屋《葉乃》の扉を開けると既にユキオさんが指定席に座っていた。まだお湯割は飲んでないようだ。ユキオさんはササと「あっち向いてホイ」と、大きな声で叫びながら遊んでいた。

 店の扉を開けて立ちすくむゴンの眉間の皺に向かってユキオさんは言った。

「ゴンちゃんお疲れやったなぁ。長いこと一緒に頑張って来た恩人の葬式やってんて?まぁ俺の横に座りぃな」

ユキオさんは自分の隣の椅子を引いてくれた。

「今日は息子が小遣いくれよったんや。奢ったるさかい呑め」

「ええ息子やなぁユキオさん」

何もかも知っているかのようなユキオさんの一言と、熊本の《ヨカニセ》との会話にも助けられて、さっきまでの怒りが少しだけ和らいだ気がした。

 ココで今日の腹立たしい出来事をぶちまけてしまったら、当然ササもユキオさんもゴンと同じ怒りの生命が出てくるだろう。そして相手を敵対視する事になる。

 得てして人は、敵と味方に二分したがる。自分の意見を肯定する人は《味方》、反対する人は《敵》と見なすところが往々にしてある。

 勿論《戦い》となればそれも大切だろう。スポーツの世界でも推しのチームが勝てば嬉しいし、応援もする。またそれが身内に対する《情》の証にもなるだろう。

 ただゴンは、イタズラに闘争心を煽り、ゴンの周囲の人間が、ゴンを擁護するために相手を憎もうとする心を芽生えさせる事だけは避けたかった。それは憎しみと言う負の連鎖である。この延長線が個人の枠を超えた時に社会問題となり、さらに進めば国際問題に繋がる。その先にあるのが《戦争》だ。

 大きな単位の争い事も、元は一個人の許し難い確執が原因ではなかろうか。人が持つ《喜怒哀楽》の中で、最も強いエネルギーが《怒り》と言う感情だとも言われる。

 ゴンは怒りの集団を作りたくなかった。ゴンはユキオさんの優しさに包まれ、悔しさを飲み込む事が出来た。感謝である。


「ゴンちゃん、もうネクタイ外したらどや?」

ユキオさんが教えてくれるまで気づかなかった。

 黒いネクタイをやっと外したゴンは出稼ぎで大阪に来ている熊本男児の話を二人に聞かせた。そして三人で感動を新たにした。ササは感涙した。

 話の中で《ヨカニセ》は、途中から《イケメン》となり、最終的には《美少年》と変遷を遂げていった。

 

「いらっしゃーい」

ササは涙目を拭いながら元気な声を店内に響かせた。ユキオさんはゴンと二人で《あっち向いてホイ》を始めた。



 その週の土曜日、ゴンは自分で撮影して来た写真をトリミングしたり切り抜いたりしながら、作りかけていた焼き肉レストランのチラシを作成しかけていた。最近は広告にかける費用を節約する店や企業が増え、ゴンもプロカメラマンに仕事を回す事が激減した。そして自らがカメラマンもどきになる事を余儀なくされ、そのためカメラも購入した。

 ミラーレスの一眼カメラは画像も良く、何より小型で軽い。車を持たず、どこに行くのにも電車で移動するゴンにとってはそれが何より嬉しい。


 時計は午前零時になろうとしている。隣の家庭料理居酒屋《葉乃》は閉店し、ササが残り物の《里芋の煮物》と《牛肉の時雨煮》を詰めたタッパーを両手に持ち、四合瓶を小脇に抱えゴン・ウッドにやって来た。

「ゴン〜、お疲れサマンサ〜」

「ササか⁈ え?もうこんな時間」

仕事に没頭するあまり時間を忘れてしまっていた。

「たいがいにしときな、ゴン。昨日も徹夜やったやろ?無理したらあかんし」

「そうやなぁ、疲れたから今日はこのくらいで置いとくわ」

「そのチラシまだだいぶかかりそうなん?」

「そやなぁ」

「納期は?」

「あんまりない」

「そっかぁ、でも今日は終わり終わり」

「そやな、気分変えよかな。ササ、ありがとう」

「ううん、でも今週は辛かったなぁゴン」

 木曜日の告別式が終わり、昨日の金曜日には単発で急ぎの仕事が入り、徹夜で仕上げたデータを納品したばかりだった。そのせいでササともゆっくり話が出来ないでいた。

「マジで、六代目が亡くなったことはかなり参ったな」

 ゴンは今なら冷静に話せそうな気がして、ボチボチとササに話し始めた。

「実はそれ以上に悔しい事があってな」

「どないしたん?」

「東京で経営コンサルタントしてる六代目の一人息子にな、俺が食い口稼ぐために《向井坊》に出入りしてたと言われたんや」

「え?ひどっ⁈そんな事よお言うわ!ゴン、自分の店やと思て、身を粉にして頑張ってたのに。

そうかぁ〜、だからお葬式の日、よそで飲んで怒って帰って来たんや?」

「怒ってんのわかった?」

「わかるわ。ユキオさんもすぐわかったみたいよ」

「そうか」

「最初はユキオさん、ゴンが悲しんでたらアカンから《あっち向いてホイ》やって笑かしてろ言うてはったんよ。ほな怒った顔してるから急に『奢ったるから飲め』になってん。ユキオさんあの日は直ぐに帰る言うてはってんから」

「ホンマかいなぁ。ユキオさんに悪いことしたなぁ」

 ササは持って来た二つのタッパーを開け、割り箸を添えて打ち合わせ用の机に置いた。そして四合瓶の封を開けると事務所内にある来客用のお茶の湯呑みにトクトクと注いだ。

「まぁ何と美味そうな」

「ウチもちょっと飲むね」

「うん、ササもお疲れサマンサ」

「今日は土曜日で暇やったし」

「そうかぁ土曜日かぁ」

「ゴン、明日も仕事するの?」

「そのつもり」

「日曜日やし、久々にデートしよ」

ササは上目遣いにゴンを見上げた。

「どこか行く?」

「うん」

「どこ行く?」

ゴンの問いには答えず、“十五時〜向井坊、十八時〜六代目と呑み会”と、惣吉との約束時間がまだ記されている予定表の黒板に近づき、下に転がっていた赤いチョークを拾って来た。

「このチョークを投げて当たったところに行こ」

ササはそう言った。

 事務所内のコルクボードには、どこかからPDFでダウンロードした近畿エリアの地図を、A1サイズの大きさでプリントアウトして貼ってある。ゴンは疲れて来ると、この地図を見ながら脳内で小旅行に出かけ、暫しの休息を楽しむのであった。

「何かそんなテレビ番組あったなぁ」

「おもろそうやん。やってみよ。はい、このチョーク持って」

ササは赤いチョークをゴンに持たせた。

「目ぇ瞑ってここの地図に投げてみて」

ササに言われた通り、地図から二メートルくらい離れ、目を瞑ってチョークを投げた。紙に当たり下に転がるチョークの音がした。

「ゴン、まだ目ぇ開けたらアカンよ」

「どこに当たったん?」

「どこやと思う?」

「そんなんわかる訳ないやん」

「ゴンが自分で投げた場所を当てたらご褒美にチューしたげる」

「チューだけかい?」

「ハグもしたげる?ほな目ぇ開けてエエよ」

ササは地図の前に立ち塞がりゴンの方を見ている。 

「はい、何処に当たったでしょうか?」

「う〜ん、河内長野」

「アホ!いつまで引きずっとんねん!もう忘れろ」

「はい、もう忘れた。ほんで正解は何処やったん?」

「ジャン」

と言いながら、ササは体を横にずらし、地図に残された赤いチョークの跡を探した。そして言った。

「ゴン、これどこやろ?川西池田?川西能勢口?の中間くらいに当たってる。ウチ行ったことないわ」

《川西池田》と《川西能勢口》と言う駅名の付近に赤いチョークの粉が付着していた。

「俺も詳しくないけど、大阪から見たら宝塚の手前で豊中やら池田の向こう、伊丹も近いし。川西市か池田市か能勢か、どこやねん」

「ウチもわからん。でも当たったから行ってみよ」

 梅田まで出て阪急電車で行くのが良いのか、いやJRを使った方が便利なのか、まったくわからないので、理由は無いが、とりあえずJRを使ってみようと言う事にした。JRの《川西池田駅》から歩いて十分ほどの距離に阪急電車の《川西能勢口》と言う駅がある。

「この赤いチョーク、よお見たら《川西池田》より《川西能勢口》の方に近くない?」

「ゴン。もうそんなんどっちでもええやん」

「うん、どっちでもええ」

そんな他愛もない話がゴンの気持ちを和ませた。ゴンは気分が良くなり缶チューハイを買いに夜中のコンビニに向かった。

ササは「ウチも一緒に行く〜」と言って追いかけて来、ゴンの右腕に自分の左腕をまわした。

 コンビニに入り、缶チューハイのロング缶を三本と、いつものサラダチキンとチーズ、それと野菜サラダを手に取った。

「ササ、サラダやけどな、キャベツだけかミックスか、どっちが良い?」

「ゴン、どっちでもええやん」

と、ササは言った。

「うん、どっちでもええ」

と、ゴンが答えた。

 結局サラダは両方買って帰り、朝まで打ち合わせ用の机で飲み明かした。


 翌朝の路上は濡れていた。夜中に降ったであろう雨は上がり、時刻はまもなく正午になろうとしている。

「ゴン!行くぞ〜」

ササの声が事務所に鳴り響いた。

「何処に行くねん?」

「川西やん!昨日決めたやんか」

「あ、言うてたな」 

「ウチ自宅でメイクだけ落として来る」

ササはそう言うと、走って二分の自宅まで急いで戻った。

 ゴンは打ち合わせ用の机の上に散乱した湯呑みやタッパーや缶チューハイの空き缶を片付け始めた。ゴンが顔を洗っているとササが戻って来た。二人はまた腕を組んで大阪メトロの駅に向かって歩いて行った。


 大阪駅周辺は相変わらず人が多い。

「早く電車に乗ろう」

ゴンはこの人混みの多さから早く離れたかった。

 JRの普通電車は淀川を渡り《塚本駅》に停車した。次に停まる《尼崎駅》から兵庫県に入る。尼崎を過ぎると《塚口駅》、《猪名寺駅》、《伊丹駅》、《北伊丹駅》を経由して《川西池田駅》に到着した。

 あのゴミゴミした大阪駅からわずか二十分ちょっとで景色も空気もガラリと変わる。

 右手には山の中腹に建ち並ぶ家々が見え、左手には伊丹空港から飛び発ったばかりの旅客機が上空を目指し上昇しているのが見えた。

 二人は改札口を出て阪急電車の《川西能勢口駅》の方角へ歩いて行った。

 阪急電車の駅の周りにはショッピングモールがあり、大阪駅周辺ほどではないが、それなりに買い物客で賑わっていた。ひとしきり百貨店をぶらつき、回転焼を買ってベンチで食べた。

「ゴン、美味しいね」

「うん、美味しいな」

「ウチ幸せ感じるわぁ」

「美味しいモン食べてるからか?」

「ちゃう、ゴンと一緒に居てるから」

ゴンはずっとササの傍にいてあげようと思った。彼女を守るのは自分しかいないのだ。死んだらアカン。だが、年の差が三十歳もあるから、少しでも長く居られるようにするには健康に気をつけなければ。と、改めてゴンはそう思えたのだった。


「ゴン、喉が渇いたね。どっか喫茶店探そ」

ササはゴンの手を引っ張り百貨店の外へ出た。

 幹線道路を渡り古い民家が建ち並ぶ一画があった。その中に《ユアサイド》と書かれた木の看板が目に入った。

「あそこ入ろ」

ゴンはササに言われるがまま後に続いた。

 入店すると、俳優ジェーン・バーキンのモノクロのポスターパネルが目に飛び込んで来た。

 ゴンは高校生の頃、映画の《ドンファン》を観てからジェーン・バーキンの大ファンになった。

 カウンター内では30歳代前半と思しき笑顔の優しい女性スタッフが、先客のカップルが注文したコーヒーを淹れていた。

「こんにちは、いらっしゃいませ」

彼女ははっきりとした滑舌で挨拶をした。

「どなたかジェーン・バーキンのファンの方がいらっしゃるんですか?」

ゴンはスタッフに訊いた。

「あ、こちらのパネルですか?」

「うん、そう」

「これはうちの母なんですよ。この店のオーナーです」

「え⁉︎」

「ジェーン・バーキンに似てるとよく言われるので、本物のポスター写真に寄せて、シャレのわかるプロカメラマンに撮ってもらったんです」

「そっくりや」

「最初はパロディって言ってたんですが、最近お客さんからはパクリって言われます。そんな時は私、『パクリじゃなくて本物をモチーフにしたのよ』って言ってるんです」

身に覚えがあるフレーズが彼女の口から飛び出した。

 被写体の、虚な目は宙を彷徨い、半口の唇は艶かしく、そして右手は風になびきそうな頭髪を押さえている。

「よくここまで寄せたね〜。細身のスタイルも同じや」

「娘の私から見てもスタイルは良いですね。もうすぐ本人も来ますので見てやってください」

そう言いながら先客のコーヒーを二脚しかないテーブル席に運んだ。

「ごゆっくりどうぞ」

その後ササに向き直り

「何なさいますか?」

「ウチはシードルとイチヂクのガレットください」

「はい、お父さんは?」

ゴンは吹き出した。

ササが笑いながら訂正した。

「お父さんやなくてウチの旦那さんですねん」

「えー、いや〜、すみませ〜ん。失礼しました」

ゴンはいつもの事なので免疫が出来ている。

「いえいえ、慣れてますから」

スタッフは恐縮しながら何度も頭を下げている。

ゴンはササに向き直り

「それよりササ、ガレットって何んや?」

「そば粉を焼いたヤツ」

「それは知ってるわいな。そもそもこのガレットの店、前から知ってたんか?」

とササに訊いてから、何度も頭を下げながら注文を待っているスタッフに、ジャガイモとハムのガレットと瓶ビールを注文した。

スタッフはにこやか復唱してカウンター内に戻った。


 ササはゴンにだけ聞こえるほどの声のレベルを落として話し始めた。

「先週の土曜日に六代目からゴンに電話あったやろ?」

「うん、あったよ。あれが最後の会話になった」

「うん、実はその後でウチのスマホにも電話あってん」

「六代目がササに?」

「そう、

 さっきゴンに電話したところや言うて。

 若い子にウケる新メニューの打ち合わせしたいから来週の水曜日に約束したんや言わはって」

「そうそう」

「ゴンに、どんな新メニューや?何を作るんや?って訊かれてんけど、水曜日に会った時に話すつもりやからまだ言うてないねんて」

「うん、その通り」

「ゴンに言う前に、一回若い女性の素直なところ訊いとこ思てササちゃんに電話したんや言わはってから、

 ササちゃんガレットって知ってるか?て訊ねはったんよ」

「ほう、六代目ガレットの展開を考えとったんか」

「ウチ、友達の麻美ちゃんと一緒に食べた事あったんで、『知ってますよ』って言うてん」

「うんうん」

「そしたら、今度《向井坊》でも、メニュー化したいねん言わはってんやん」

「なるほど」

「ほんでこないだ、たまたま朝のテレビ観てたら、メガネかけた歌手の人が街をぶらぶら歩いて《ユアサイド》って言う店を見つけて入ったんやて」

「それがこの店かいな?」

「そう、ほんで同じ材料の蕎麦粉使こてるから興味あるし、やってみよかな?って思わはったんやて」

「たまたまテレビ観てて?」

「うん、で、そのインタビューの時オーナーが言うてることに共感しはったんやて」

「後から来る言うてたジェーン・バーキン似のお母さん?」

「多分そやろな。店名の由来とかに感動したって」

「ヘェ〜、会うの楽しみやな」

「ジェーン・バーキンに似てるから?」

「それもあるけど」

「それしかないやろ」

「でもササ、オレが投げた赤いチョークな、偶然ここに…」

と言いかけたゴンの言葉を遮る様に店の扉が開いた。

「いらっしゃいませ〜」

そう言いながら入って来たのは正にジェーン・バーキンだった。

ゴンは思わず「おぉっ」と口走ってしまった。


 先にシードルと瓶ビールをジェーン・バーキンの娘さんが運んで来た。

「ガレットはただいまお作りしておりますので少々お待ちください」

実に滑舌が良い。

「ウチら暇ですからごゆっくり」

と、ササが言うと

「お気遣いありがとうございます」

と、応えたのは母親のジェーン・バーキンだった。

 笑顔がまた良い。この笑顔に悪人はいない。ゴンの人相学はほぼ当たる。

 ササが口を開いた

「オーナーさん」

「はい?」

「ウチの知り合いのお蕎麦屋さんが、テレビ番組でこちらのお店が紹介れていたのを観てはってスゴイ興味を持たはったんです」

「嬉しいです。是非またご一緒にお越しください」

「そうしたかったんですか、実は先週亡くなったんです」

「え⁉︎心無い事を申し上げてしまいました。申し訳ありません」

「いえ」

ササは話を続けた。

「そのお蕎麦屋さんが、こちらの屋号にされてる《ユアサイド》の意味がとても素敵やったと仰ってましたので今日伺った感じです」

「あら、そうだったんですね」

ジェーン・バーキンはササとゴンに名刺を差し出した。淡い深緑の特殊紙を使い、住所とアドレス、そして名前の位置には《津中》と書かれていた。

「ツナカさん…とお読みするんですか?」

ゴンが訊いた。

「いえ、それでフルネームなんですよ。《ワタリアタル》と読みます」

 ゴンは理由も無くスゴイと思った。特別な根拠も無く、何かを持ってる人だとも思った。

「これ独身の時の本名なんです。夫婦別姓を通してるんで。戸籍上は違うんですよ。

逆から読むと阪急電車の駅名の《中津》みたいでしょ?」

そう言いながら爽やかに笑った。

 次はササが訊いた。

「屋号のユアサイドってどう言う意味なんですか?」

「それね、私元々お蕎麦が好きだったと言う事もあるんですけど、《そば》ってパソコンをたたくと、食べ物の《蕎麦》以外に、カタワラの《そば》だったり、ガワの《そば》ってあるじゃないですか?」

「はい、ありますよね〜」

「私、子供の頃に両親からのスキンシップの記憶が無くて、それが淋しくて…だからその反動と言うのか、物理的にも精神的にも、私がいつも誰かに寄り添ってあげられたら良いなって思って《ユアサイド〜あなたのそばにいるよ》っ言う店名にしたんです」

「ステキ〜」

「そのためにはまず私自身が寄り添ってほしいと思ってもらえる人間にならなきゃいけないと思って、そして、

(いつも笑顔でいる)

(人の話をよく聞く)

(愚痴や文句や悪口を言わない)

と言う三つを信条にしたんです。それで、《ユアサイド》と言う名前に恥じない、お客様自らまた来たいと思ってもらえる店にしようと思ったんです」

「ステキ、ステキ〜」

ササは感激している。

 惣吉がオーナーに対して興味を持ったのがゴンにはよく理解出来た。

《向井坊》が、漢字の《蕎麦》を使わず、平仮名表記で《そば》としているのと同じコンセプトである。

 そして次のオーナーの口から飛び出した言葉にゴンもササも驚いた。

「河内長野にある《そば処・向井坊》と言うお蕎麦屋さんがあるのですが、十年以上前に初めて伺った時、グランドメニューを見て良いなって思ったんです。メニューブックの表紙に《老若男女おしなべて、そばでながきお付き合い》と書かれていて、筆の書き文字の部分だけ見ると《おしながき》と読めるんです。そのアイデアもグッドなんですが、キャッチコピーがとにかく素敵なんです。そもそも平仮名の《そば》と言うネーミングが面白いなって。ユアサイドの発想もそこから生まれたんです。」

《向井坊》を知っていた。いや、《向井坊》にインスパイアされていた。さらにゴンが手がけたメニューブックに施された店是にも好感を抱いていた。

 まさかそのキャッチコピーが今オーナーの目の前に居るゴンの発想によるものだとは知る由もない。

 ゴンも敢えて言わなかった。

 さらには、さっきササがオーナーに話していた《亡くなった知り合いのお蕎麦屋さん》が、その《向井坊》の六代目、向井惣吉である事も伝えなかった。オーナーには無関係の事であるし、それをオーナーが知ったとて話の観点からは逸れてしまう。

 ゴンの様子を窺っていたササも一切しゃしゃり出る事をせずに黙ってゴンの顔をを見つめていた。


 「美味しかったです。ご馳走様でした」

瓶ビールを二本飲んでほろ酔いになったゴンは精算を申し出た。そして支払いを済ませてから自分の名刺を差し出した。

「ご挨拶が遅れました」

オーナーはゴンの名刺を両手で受け取り言った。

「ごんだしらたみさん、商業デザイナーさんなんですか?また色々ご教示くたさい」

「こちらこそ、大変勉強になりました。《ユアサイド》とっても良いネーミングです」

「ありがとうございます。またお越しくださいね」

「来ま〜す。絶対来ま〜す」

と、ササが応えた。

「お待ちしております」

オーナーはササにそう言った後、ゴンに向かって

「親孝行な良い娘さんですね」

と、言った。

カウンターの中ではオーナーの娘さんがコーヒーを淹れている手をポットから放し「わっ、いや、あの」と言いながら、その手を横に振っていた。ゴンはサムズアップのジェスチャーをして笑って見せた。


「ゴン、帰りは阪急電車で帰ろっか?」

「どっちでもええよ。ササの好きな方で」

「オーナーの名刺を見てたら何となく《中津》の高架下の食堂に行きたくなってん」

「実は俺も同じ事考えとった」

「ヤッタァ、いこいこ〜」

 終点《大阪梅田駅》のひとつ手前には細い細いホームの《中津駅》がある。電車が通過すると吸い込まれそうで怖い。

 この駅は普通電車しか停まらないので、急行に乗ったゴンとササは《十三駅》で乗り換えて一つ目の《中津駅》で下車した。目的の店は改札口を出て徒歩ゼロ分、わずか五〜六歩で到着する。

 店内に入るや否やゴンは威勢よく注文した。

「瓶ビールと湯豆腐とスルメの天ぷら、あっ、どて焼きも」

ゴンとササの定番である。

 二人は奥の隅のテーブルに陣取った。レトロな店には不釣り合いの大型液晶テレビがブラウン管のそれと入れ替えられている。だが電車が頭上を通るたびにゴトゴトと響いてくるところは昭和のままだった。

 ゴンはコップ一杯のビールを飲み干すと常温の日本酒に切り替え、一緒にカンパチの造りも注文した。


「ところでササ」

「ん?」

「今日行った《ユアサイド》やぁ」

「うん」

「俺が投げた赤いチョークがホンマに偶然当たったんか?」

「あのねぇゴン」

「なんや?」

「そんな小説みたいな偶然ってないやろ〜」

「ササ、ハメたな」

「ゴンが目を瞑ってる時にウチが指で色付けてん」

「やっぱりなぁ」

「当たり前やん」

「ほんで俺が投げたチョーク、ホンマはどこに当たったん?」

その時ゴトゴトと頭上を電車が通過し始め、ササが何か言っているか全く聞こえなくなった。聞き耳を立ているゴンに対してササは身を乗り出し、人目も憚らずゴンの頬にキスをした。

「はい、ご褒美のチュー」

電車は通り過ぎ、そのセリフだけハッキリ聞こえた。

ゴンは言った。

「まさか、そんな小説みたいな話あるんか?」

ササは笑いながら

「あってん」

と、言った。



 翌日、写真の切り抜きの作業が溜まっていた。

「さて、ササのために頑張るかぁ」

コルクボードに貼られた近畿エリアの地図の《川西池田駅》と《川西能勢口駅》の間には、いかにも人の手によって塗られた赤いチョークの跡があった。

 それともう一箇所、こちらは、いかにも人の手によって消したけど消え切らなかった赤い痕跡が《河内長野》の駅名の真上に付着していた。

 ゴンは約束通り『今夜ササをハグしてやろう』と思った。

『いやいや、約束では俺がハグされるんだったかな?』との記憶を辿ったりもした。

そして

「どっちでもええか」

と、呟き、

溜まっていた写真の切り抜き作業に取り掛かった。

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