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黒鮫 - KOKKO -

作者: 星賀勇一郎






「もうこの辺りで六人目じゃ……」


長老の金吾さんは吐き出す様に言うと両手で顔を覆った。


「波泊の方でも先週、喜八が足を食いちぎられたらしい」


金吾さんはカツカツと音を立てて煙管の火種を納屋の床に落とした。


「しばらく潜れんのお……」


砂男が呟くと、納屋に居た全員が顔を上げる。


「ばってん、潜れんと俺らの生活はどうなるとや……。天草や陸で獲れるモンだけじゃ生活できんぞ」


金吾さんは無言で頷くと俯いた。


「畑ば持っとる奴は何とか食えるかもしれんけど、栄螺や鮑で生活しとる奴は生きていけんぞ」


静寂と溜息で納屋の空気に重さを与えていく。


「とりあえず周造の家にはお悔やみ料を渡す事にする。もうあの家は漁師ば続けるとは難しいじゃろう。とりあえず周造の舟をわしらで買い取って金にしてやろう」


金吾さんは立ち上がり、痛む腰をトントンと叩いた。


「残された家族は村ば出て働くしかなかろうが、今のわしらがしてやれる精一杯の事じゃ」


金吾さんは納屋の戸を開ける。

すると外の明かりが納屋いっぱいに差し込む。


「金吾さん……」


俺は思わず立ち上がり、納屋の入り口に立つ金吾さんの影に声をかける。

金吾さんはゆっくりと俺の方を振り返った。


「なんじゃ、伊織……」


金吾さんは小さな声で答える。


俺は震える声を吐き出す。


「もう少し何かしてやれんやろうか……。周造さんには今までたくさん助けてもらったし」


金吾さんは無言のまま俯いた。

すると傍にいた高次郎さんが俺の肩に手をのせた。


「伊織……。お前が周造の娘と幼馴染なんは知っとるけど、皆カツカツで生きとるんじゃ。人の家の食い扶持まで手の回らん。ましてや黒鮫のせいで潜れんとなると……」


その言葉に皆が一斉に顔を伏せた。


「伊織……。辛いかもしれんが、わかってくれや」


高次郎さんはまた俺の肩を叩いて、金吾さんと納屋を出て行った。

それを合図に漁師たちはぞろぞろと納屋を出ていく。


俺は俯いたまま拳を握っていた。

伸びた爪が掌に突き刺さるのが分かった。






去年の暮に近くの村の漁師の亡骸が浜に打ち上げられた。

腹と足を食いちぎられ、打ち上げられた時は人の姿ではなく、肉の塊に見えた。

明らかに鮫に襲われた亡骸で、その傷の大きさから六尺を超える鮫だという話で、そんな鮫を俺は見た事がなかった。

それから潜り衆が六人襲われた。

俺の村では二人が襲われた。

一人はさっき漁師衆で話していた周造さん。

周造さんの亡骸は打ち上げられる事もなく、乗って出て行った舟だけが沖で漂っていて、高次郎さんが曳いて戻って来た。

多分、生きてはいないという事で、今日潜り衆で集まり話をすることになった。

そしてもう一人……。







「ただいま……」


俺は家に帰り、戸をあけながら暗い家の中にそう言った。


「おう……。伊織か」


日の差し込む小さな家の中で、親父がゆっくりと身体を起こしているのが見えた。


「どうだった……」


親父は、黒鮫にやられて無くした片足で、壁に寄りかかった。


「寝てろよ……。痛むんだろう」


俺は親父に手を貸して、傍に座った。


「波泊の喜八さんも足をやられたらしい」


親父は、焦点の定まらない目で何度か頷く。


「喜八も周造も俺と漁場が近い。あの辺りに黒鮫はいる。罠を張るならあの辺りだ」


俺は親父の言葉に顔を伏せ、首を横に振った。


「何だ、黒鮫退治の話にはならんかったんか」


俺は小さく頷く。

親父は壁を拳で叩き、


「それじゃ周造も報われん……。俺もだ」


親父は悔しそうに顔を顰めると立てかけた杖を握り立ち上がろうとした。


「親父……」


「俺が金吾さんと話してくる」


俺は支えようとしたが、親父はそのまま床に転がった。

親父の無くなった足から滲む血が床板を黒く染めていた。


「親父……」


俺は親父に掛ける言葉がわからず、とりあえず息を荒くした親父を座らせた。


「俺が何とかするけん……」


親父は傍らに置いた湯呑の酒を一気に飲み干す。


「足ば持っていかれたとぞ」


「うん」


「周造も殺されたとぞ」


「うん」


「何人もやられたとぞ」


「うん」


親父は手に持った湯呑を壁に投げ付け、鈍い音と共に砕け散る。

俺はその床に散らばった湯呑の欠片を拾いながら、背中越しに親父に呟くように言った。


「黒鮫は俺が何とかするけん……」






その六尺を超える鮫はほかの鮫より黒く、体は傷だらけだったらしい。

黒鮫を見て生きて帰った何人かは皆、口を揃えてそう言った。

周囲の村の人々は、いつの間にかその鮫を黒鮫、こっこと呼び始めた。

そして親父はその黒鮫の右目に銛を打ち立てた。

それに驚き、黒鮫は逃げて行ったと言う。

その銛がなければ親父も周造さんと同じ様に食われていたのかもしれない。


俺は家の前で鉄鍋を洗い、寺の住職に栄螺と交換してもらった大根や白菜、牛蒡などと一緒に、魬の半身を放り込む。

酒と醤油を適当に入れると、家の囲炉裏の火に掛けた。


親父は酒に酔い横になっていた。

足を黒鮫に食いちぎられて以来、一日中酒を飲んで横になっている。

親父の気持ちも痛い程わかった。

この村でも腕利きの漁師で、人一倍の水揚げが自慢だった親父が舟に乗ることも出来なくなったのだ。

俺でも同じように何をする気も起きなくなるだろう。


俺は眠っている親父に声を掛けると家を出た。


浜に引き上げた舟の傍に行くと、転がっている石に座り、穏やかな海を見た。


沖まで凪いでいる青い海をじっと見つめる。


俺に黒鮫がやれるのか……。


親父がやられてからそればかりを考えていた。

そして周造さんがやられその気持ちは更に強くなった。


明日、親父の漁場に行ってみるか……。


俺はゆっくりと立ち上がり、尻の砂を払った。


見てろよ、黒鮫……。

 





俺が家に入ろうとすると見かけない余所者が周囲を見渡しながら歩いているのが見えた。

その男は俺を見つけると、小走りに傍にやって来た。


「あんた、この家の人かい」


男はぶっきら棒にそう言う。


「ああ、何ね」


家に入ろうとする俺に、男は手に持った紙を見せた。


「周造の家を探しているのだが……」


まったく訛りも無い様子を見ると、この近辺の者でも無いようだった。


「ああ、周造さんの家なら其処だよ」


俺は斜め向かいの家を指さして教えると、男は振り返り周造さんの家を見た。


「ありがとうよ……」


男はそう言うと、俺に微笑み、周造さんの家の戸を叩いた。

俺はそれを見て、家の中に入った。


「ただいま」


俺は戸から向かいの周造さんの家を見ている親父に声を掛けた。

親父は透かした戸を閉めながら俺に訊く。


「誰ね……」


「ああ、知らんばってん。他所モンたい」


親父は再び、戸を薄く開け、周造さんの家を見つめる。


俺は囲炉裏に掛けた鍋の蓋を開けて、煮え加減を見た。


「あれは女衒たいね……。佐奈ば売るっちゃろうね」


俺は親父の言葉に手を止めた。


「女衒……」


「まあ、周造もおらんようになったら、佐奈ば売って金にでもせんと食っていけんやろうな……」


俺は鍋に蓋をして立ち上がる。


佐奈……。


俺は裸足のまま家を出て、向かいの周造さんの家の戸を開けると、さっきの男が框に座り込んでいた。

男と佐奈、幼い弟を抱いた周造さんの奥さんの間には醤油の瓶が三本と十円札が揃えて置いてあった。


「何ね……。さっきの兄ちゃんか」


俺はその男を睨むと、框に置いてある金と一升瓶を掴み、男に突き返した。


「何ね……。お前には関係無かろうが」


男は金と一升瓶を抱えてゆっくりと立ち上がった。


「帰れ……」


「伊織……」


佐奈は枯れた声で俺の名前を呼ぶ。


「良かけん……。今日は帰れ……」


俺はその女衒の男を睨み付ける。


「ちっ……。奥さん、また明日来る。それまでに決めといてくれ」


男は醤油と金を手に持った鞄に詰めると周造さんの家を出て行った。


「伊織……」


俺は框に座る佐奈を見ると、小さく震えているのが分かった。


「佐奈……」







「醤油三本と百円なんてね……。あたいも安く見られたモンたい」


佐奈は暮れた海を見たまま言う。


「千円くらいは付けてくれんとね」


振り返った佐奈の眼には涙が浮かんでいた。


「佐奈」


俺は今の佐奈にどんな言葉を掛けるのが良いのか分からず名前を呼ぶしかなかった。


「本当はね、女郎屋ではもっと小さい頃から修行するらしか。あたいくらいの年ならもう客を取るらしかとよ。その分安かったいね」


俺は目を閉じて俯く。


「それしか方法のなかとや……」


俺は波の音を聞きながら佐奈に訊いた。


「うん……。小さな弟もおるしね。母ちゃんが働いてもそんな金にもならんし」


俺は佐奈の顔を見る事も出来なかった。

幼い頃から一緒だった佐奈が女郎屋に売られていく。

それが俺は堪らなく嫌だった。

そしてどうしようもない事実に無力さを感じた。


「ちょっと和尚に相談してみるけん……」


俺は立ち上がって、佐奈に背を向けた。


「伊織……」


佐奈の呼ぶ声にも振り返らず、俺は村の山手にある寺へと向かった。







「和尚……」


寺の裏手の戸を開けると、和尚が茶を飲んでいるのが見えた。


「何じゃ……、伊織か……」


和尚はそう言って俺に微笑むが、その表情はどうやらすべてを察している様だった。


「そろそろ来るかと思っとったんじゃ……。入れ、茶を淹れよう」


和尚は座ったまま盆の上に伏せた湯呑を取り、火鉢の上の鉄瓶から急須へお湯を注いだ。


俺は和尚の向かいに胡坐をかく。

和尚は俺の前に湯呑を出すと、綺麗に剃り上げた頭を二度程撫でる。


「周造の家の事じゃな……。女衒が来とった聞いた」


俺は小さく頷いた。


「醤油三本と百円……」


「ん……」


「佐奈の値段じゃ」


和尚は自分の湯呑を取り、音を立てて啜った。


「醤油三本か……」


和尚は飲み干した湯呑に、急須から茶を注いだ。


「佐奈はどうしちょる」


俺は目を伏せて、


「震えちょった」


と答えた。


「そうか」


和尚は湯呑の茶を啜りながら天井を見上げる。


「黒鮫一匹で此処まで村の生活が変わるとはな……。何とか退治せんといかんな」


俺は和尚の言葉に強く頷いた。


「漁師衆は何と言うちょる」


和尚は湯呑を卓に置いて俺をじっと見ていた。

俺は無言のまま首を横に振った。


「そうか……。腹を空かせた鮫一匹、漁師衆でも何ともならんか」


俺は喉が渇き、和尚の淹れてくれた茶を手に取って口を湿らせた。


「和尚……」


俺は湯呑を置くと顔を上げる。


「何ね……」


「佐奈ば売らんで済む様に出来んやろうか」


俺は吐き出す様に言うとじっと和尚を見つめる。

和尚は立ち上がり、厨へと消えて行った。

そして握り飯と漬物を持って戻って来た。


「食え……。腹が減ってては何も思いつかん」


そう言うと俺の前に皿を置いた。

麦の混ざった握り飯と和尚の付けた大根の漬物。

俺は飯も食わずに飛び出した事を思い出し、その握り飯に手を伸ばした。


「伊織……」


俺が握り飯を口に入れると、和尚は茶を飲みながら天井を見上げていた。


「お前は佐奈ば好いちょるとか」


俺は握り飯を皿に戻して座り直した。


「わからんばってん……。小さい頃から一緒やったけんね……」


和尚はにっこりと微笑むとまた茶を啜った。


「佐奈ば連れて逃げるか……」


握り飯にまた手を伸ばそうとしていた俺はその手を止めた。


「え……」


和尚は歯を見せて笑うと、湯呑を置いた。


「そういう訳にもいかんわな……。お前の親父も黒鮫のせいで傷を負ってるしな」


俺は目を伏せて、頷く。


「食え……」


和尚の言葉に俺はまた握り飯に手を伸ばして貪る様に握り飯を食った。

気が付くと俺は涙を流していた。

そしてそのしょっぱい握り飯を一気に食い、漬物を続けて口に放り込んだ。


「人は食わないと生きていけん。それは皆同じじゃ。わしもお前も、佐奈も……、佐奈の家族も同じじゃ。そのために何をするか……。それが違うだけじゃ。佐奈の母親は食うて行くために佐奈を女衒に売るって判断をした。それも生きていくための術の一つじゃ。それを非難する事はわしらには出来ん。生きていくためと言う理由じゃからな……」


和尚はそれだけ言うとまた静かに茶を啜った。


「そういう意味では鮫も同じじゃ……。奴らも生きていくために人を襲っとるんじゃ……。生き方に正解なんて無いんじゃよ。生き抜く事だけが正解なのかもしれんのう」


俺は黙って和尚の話を聞いた。

何の答えでもない和尚の言葉が俺には突き刺さる様に響いた。


「伊織……。お前が生き抜くために必要な事、お前の大事な人が生き抜くために必要な事。仏も神も関係ない。生き抜く事。それは誰にも咎める事の出来ない、いわば正義じゃ……」


正義……。

俺は、和尚に微笑み頭を下げた。


「和尚……」


和尚は目を細めて俺をじっと見ていた。

そして笑った。


「ありがとう……」


俺は和尚に深く頭を下げた。






寺を出て集落の方へと帰ると漁師の納屋の方が騒がしかった。

俺は家の前を通り過ぎて、納屋へと走った。

そして納屋の前に集まる人を掻き分けて納屋を覗き込んだ。

納屋の中には羽交い絞めにされる杖を突いた親父が立っていた。


「何人やられたと思っちょるとか」


親父は声を荒げ、羽交い絞めにする若い衆を二人振り払ったが、その勢いで地べたに転がった。


「親父」


俺は転がった親父を抱かかえて座らせた。

親父は俺を見ると顔を上げて、漁師衆を見上げる様に見た。


「俺らと同じ漁師が何人もやられとるんじゃ……。お前らは悔しくなかとか」


親父の眼には涙が滲んでいた。

俺も親父と同じように周囲を見た。

しかし、漁師衆は目を伏せていた。


「俺達の手には負えんのじゃ……。わかってくれ」


金吾さんはゆっくりと立ち上がると、親父の前に立って言う。


「お前が黒鮫の眼に銛を突き立ててくれた。それだけがわしらの誇りじゃ」


親父は震えながら杖を突いて立ち上がる。


「周造もやられて、娘の佐奈が女郎屋に売られようとしちょる……。たかが鮫一匹のせいで。それでもお前らは何も感じんとか……」


その言葉に漁師衆は一斉に俺を見ていた。

俺はその様子を見て、親父を支える様に手を添えた。


「帰ろう……親父」


俺は親父を支える様にして納屋を出る。


「伊織、しっかり親父を見とけ……。役に立たん奴に騒がれても迷惑なだけじゃ」


納屋の入り口に居た砂男が俺に言った。

俺はその砂男に掴みかかり壁に砂男の背中を押し付けた。


「もう一遍言うてみい……」


周囲はざわつき、俺の傍に集まって来た。


「やめんか伊織……。こいつらに何を言うても無駄じゃ……」


親父はそう言うと一人杖を突きながら納屋を出て行った。

俺は砂男を掴んだ手を放し、納屋の入り口に立った。


「お前らは生きるために何かしたんか……。生きるために、人のために何かできるんか……」


俺は吐き捨てる様に言って納屋を出て親父を追った。






俺は親父が眠るのを見て、一人家を出た。

そして浜に上げた俺の舟の傍にある石の上に座った。

静かになった浜には凪の波の音が漂っていた。

俺の舟の隣には周造さんの舟が置いてあった。


周造さん……。

俺はどげんしたら良かとですか……。


空を見上げると星が瞬いているのが見えた。


誰が死のうが、誰が苦しもうが、星の輝きは変わらない……。


そう考えるとおかしくなり俯いて笑った。


「どげんしたら……」


「何ばしよると……」


俺がその声に振り返ると佐奈が立っていた。


「佐奈……」


佐奈はゆっくりと俺の傍に来て座った。


「何か騒がしかったね」


「うん。悪い……。親父がな。一人で黒鮫を退治するって納屋に乗り込んだらしかとよ」


俺はそう言うと俯いた。


「もう片足しか無かとに……。何も出来んくせにな……」


佐奈は俺と同じように星を眺めた。


「あたいのためやろ……。嬉しかとよ。何も変わらんかもしれんばってん……」


佐奈は俺を見て微笑んでいた。

しかしその佐奈の瞳には涙が滲んでいるのが分かった。


俺はそれを見て見ぬふりをした。

それが俺に出来る精一杯の事だった。


「ねえ、伊織」


佐奈は石に座る俺の前に立った。


「何ね……」


佐奈は俺に手を伸ばして、俺の手を握る。


「お願いのあるとよ」


俺は佐奈の手を握ったまま立ち上がった。


「あたいば抱いて」


佐奈は手を握ったまま俺に背を向けた。


「どうせ知らん男に抱かるるとなら、伊織に抱かれたか……」


そう言うと佐奈は陸に上げた親父の舟に乗り込み、着物を脱いでいった。


「佐奈……」


俺は佐奈の後を追い舟に乗った。

 





俺と佐奈は舟の上で明けていく空を見ていた。

東の空が焼ける様に輝き出し、心地良い風が裸の二人を吹き抜ける。


「あたい、此処におりたか……。伊織と一緒に暮らしたか……」


佐奈は何度もそう言うと涙を流した。


「お父さんを殺した黒鮫が憎か……」


俺は佐奈の肌を感じながら頷いた。


その時、俺を見下ろす様に昨夜の女衒が覗き込む。


「おいおい。折角の売りモンに何してくれてるんだ、小僧……」


女衒は俺の腕を掴み持ち上げ、平手打ちを入れた。

俺の体は小さな舟の中で転がる。


「女の初めてってのはな、男と違って金になるんだよ。それを貴様」


女衒は舟の片足を入れてまた俺の腕を掴む。

しかしその瞬間、その女衒は顔を歪めて膝を突いた。


「佐奈」


佐奈の握った銛が女衒の腹に突き立っていた。

俺がもう一本の銛を握り心臓を突くと、女衒は声にならない息を吐いて、舟の中に倒れた。


「どげんしよう……」


佐奈は銛を握る手を震わせながら膝を突いた。


俺は佐奈の手から銛を剥す様に取ると、裸の佐奈の肩を抱いた。


「とりあえず、死体ば隠そう……。着物ば着ろ」


俺は舟の縁に掛けてあった着物を佐奈の肩に掛けた。

そして周造さんの舟を押して、明け方の海に入る。

握り手の擦り切れた周造さんの櫂をとって俺は舟を沖へと漕ぎ出した。


船の上では佐奈がじっと死んだ男を見つめていた。


「殺してしもうた……」


佐奈はそう呟く。


俺は舟を漕ぎながら、


「心配するな……。俺が何とかするけん」


明るくなり始めた村が遠ざかっていく。

俺は舟を村から見えない岬の方へと向け、速度を速めた。


「何とかするけん……」






翌日、俺は縄をかけた黒鮫を引っ張って村に帰った。

左目に折れた銛の刺さったその黒鮫は九尺に近いモノだった。


「ようやったな。伊織」


高次郎さんは吊るした黒鮫を見上げながら酒を飲んでいた。


「伊織……」


杖を突いた親父が吊るした黒鮫の傍に来て見上げるように見ていた。


「ようやったな……」


黒鮫に打ち立てた銛は十数本。

致命傷になったのは眉間に打ち立てた一本の銛だった。


「鮫の血も赤いとやね……」


そう言って俺の横に立ったのは佐奈だった。


「うん……」


俺はそう答えて、また黒鮫を見上げる。


「何人も人を食らった鮫たいね……。食らった人の肉がこん赤い血ば作っとるとたい……」


長老の金吾さんが高次郎さんの傍に立って、嬉しそうに笑っていた。


「これでまた漁に出れる……。伊織……、お前はこん村の英雄たいね」


「波泊の漁師が黒鮫ば見るためにこっちに向かっとるらしか。奴らにとっても憎か鮫たい。しばらくこのまま吊るしておこう」


高次郎さんは微笑みながらそう言った。

金吾さんもそれに頷いた。


これで海に平和が戻る……。

そして、村にも……。


俺はそう考えながら吊るした黒鮫を今一度見た。


漁師衆は納屋に戻り祝杯を挙げるようだった。


「ほう……、仕留めたか……」


和尚はそう言いながら俺の横に立った。


「こん鮫ば仕留める事の出来るとは、伊織しかおらんと思っとったわ」


和尚は声を上げて笑った。

その声に佐奈も嬉しそうに笑っていた。


「見た事も無い大きさの鮫じゃのう……。しかも黒い。漆黒の鮫じゃ……。黒鮫とはよう言うたもんじゃ……。今晩は鮫でも食うてみるか」


和尚は独特の笑いを響かせながら納屋の方へを歩いて行く。

そして少し歩くと歩みを止めた。


「そう言えば、駐在が今峰とかいう女衒を探しちょったって高次郎が言うてたが……。お前、知らんか……」


俺は首を傾げる様にして黒鮫を見上げた。

青く晴れた空に黒鮫の黒がよく映えていた。








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