「お前に聖女の資格はない!」→じゃあ隣国で王妃になりますね
「聖女リリエル! 貴様が何の役にも立たぬ偽物聖女だったとはな!」
――神聖なる大聖堂に響き渡る怒声。
私は、婚約者であるはずのルシアン王子に糾弾されていた。
突然、近衛騎士たちを引き連れ、大聖堂に押し入るや否やこの言い草。まるで犯罪者を断罪するかのような口ぶりではないか。
「貴様との婚約も今この場で破棄する! そして今すぐ、我がルヴェール王国から立ち去れ!」
「……理由を伺いましょうか?」
突きつけられた言葉の意味は理解できる。しかし、納得できるものではない。
そもそも、聖王国セレシアで聖女として仕えていた私を、このルヴェール王国へ迎え入れたのは他ならぬルシアン王子自身。
さらに言えば、私を妻に望んだのも彼だったはず。
「浄化の奇跡を行えと命じているのに、貴様は理屈を並べて拒否するばかりではないか! もはや聖女の名を騙る詐欺師だ!」
喉元まで出かかった「はぁ?」という声を、どうにか飲み込む。
「それは、あの土地の被害が瘴気によるものではないと判断したからです。何度もご説明しましたよね?」
私の言葉に、王子の背後に控えていた騎士たちがざわめき、さらに修道女たちもひそひそと耳打ちを交わす。
『……聖女様が、殿下にまで楯突いたぞ!?』
『やはり異国の聖女など、招くべきではなかったのでは……?』
『本当に浄化の奇跡を持っているのかしら?』
『まさか、殿下を騙していた……!?』
好き勝手に言ってくれるものだ。
異国の地で、私を擁護する者などいないのかしら?
「ふん、聖王国の聖女がこの程度とは。貴様の国では目上の者に対する口の利き方も習わないのか?」
「私がこの国へ来る際、“対等な立場での聖女派遣”が条件であると申し上げました。……それをお忘れですか?」
「そんなもの、ただの建前だ!! 俺はこの国の王子なのだぞ!!」
――呆れた。
では、あなたは聖女の権威を借りたかっただけで、私個人の力を求めたわけではなかったということね。
浄化の力を持つ聖女が、いかに神の代行者として人々に敬われているか。この大陸において、それは普遍の常識であるはずなのに。
……ああ、違うのか。
この国では、ここ数十年にわたり瘴気の被害がなかった。だから、そんな当たり前のことすら忘れてしまったのね。
(もう、潮時かしら……)
『これはもう、不敬罪なのでは?』
『さっさとこの国から出ていけ!!』
『いや、見せしめに処刑すべきだ!!』
「ククク……見ろ、貴様を庇う者などどこにもいない。さぁ、さっさと荷物をまとめるがいい」
◇
――追放劇から数日後。
冷たい石造りの大聖堂をあとにした私は、エストレア新王国の辺境にある村にいた。
そしてどういうわけか、木漏れ日が揺れる村長宅の庭先にて、優雅なお茶会の場に出席している。
対面に座るのは、翡翠色の髪を持つ青年。陽光を受けた彼の碧色の瞳がやわらかく輝き、茶器を手にした指先までも優雅な仕草を見せている。
「とまぁ、そんな訳で私はルヴェール王国を追放されたのです……その上で私を城に招きたい、と?」
「うん。尚のこと、君に興味が湧いたよ」
「はぁ……」
私はそっとカップを持ち上げ、一口含む。芳醇な香りが舌の上で広がり、ほっと体が緩むのを感じた。
しかし、それでもこの状況をすんなりと受け入れるには、まだ心の整理がつかない。
「私は、さっさと母国へと帰りたかったのですが」
あの一幕があった後、追放の身となった私は早々に国を出た。
もちろん、送迎なんてものは期待できなかった。
だから商人に対価を払い、交易に使っている馬車の一角を借りて聖王国セレシアへと戻るつもりだった。
それなのに、どうして全く別の国に来たのかと言えば――「エストレアの辺境にある農村で瘴気が出た」という噂が流れたからだ。
その噂は旅の商人たちの間で急速に広まった。
結果、どうなったか。
その噂を聞いた商隊長が急遽、進路を変えてしまったのだ。
普通なら危険を避けるはずなのに、彼らにとっては事情が違ったらしい。
『瘴気の影響で農作物に被害が出れば、商品である小麦が高騰する。そうなれば我々の商機になる』
そんな思惑が商人たちを突き動かした。聖王国へと向かう予定だった馬車は軒並み進路を変え、気がつけば私もそれに乗らざるを得ない状況になっていた。
定期の輸送便を待てばよかったのかもしれない。だけど私は一刻も早くルヴェール王国を離れたかった。
(今思えば、選択を間違ったかもしれない――)
私の運命をさらに狂わせたのは、商隊が向かった村に偶然にもエリオット王子がいたことだった。
彼は自国に現れた瘴気の影響を、視察として見に来ていたらしい。
修道服を着ている女なんて、こんな辺境にはまずいない。一目見ただけで、私が聖女であるとバレてしまった。
「で、どうかな。僕が君を守る代わりに、君の力で僕を助けて欲しい」
「しかし……」
「もちろん、どこかの国と違って、ちゃんと手厚く歓迎するからさ」
エリオット王子は、口元にわずかに笑みを浮かべながら、私にそんな提案をしてくる。その瞳は髪と同じ碧色に輝き、まるで私ならやってくれると確信しているかのようだった。
ルヴェール王子とは違い、言葉遣いは優しいけれど……この私がそう簡単に騙されるものですか。
それに私が浄化を渋っているのには、他に理由がある。説明してあげても良いけれど、この王子が理解してくれるかなんて保証はない。
逆上なんてされたら、今度こそ生きて母国へ帰れないかもしれない。ルヴェール王国では、王子の怒りを買った瞬間に全てを失った。もし同じことがここで起きたら、私は二度と自由の身にはなれないだろう。
「殿下、聖女様を試すような真似は……」
「分かっているよ、エドモンド。だが僕は聖女としてではなく、リリエル嬢の意見が聞きたいんだ」
「……それは、失礼いたしました」
――おっと。
さっきお茶の準備をしてくれていた老執事さんが、王子に苦言を呈してくれた。
けれど王子の態度が変わらなければ、私だって考えを変えるつもりはない。
「……私の意見、ですか?」
「浄化の力は疑ってなどいない。むしろ信用しているからこそ、君の考えを知りたいんだ」
うーん、適当に誤魔化しても良いけれど……それはそれで、聖女としての信条に反する。
「……私には、この村を襲っている災害を浄化することは出来ません」
「ほう、それは何故だ? 君の浄化の力では救えないと?」
ジッとこちらを見つめる王子。
言葉ではあんなことを言っていたのに、心の中では私の力を疑っていたのかしら?
(この人もルシアン王子と同じか……)
どうせ貴方もこう思っているんでしょう?
私たち聖女が、ただ浄化の力を持って生まれただけの女だと。
大した努力もせず、才能を振りかざして我が儘をいう愚か者だと。
……いいでしょう。
そうやって私たちを舐めているのなら。
私は言いたいことだけ言って、さっさとこの国から出ていってやる。
「この村の凶作は、植物を襲う病によるものです。瘴気ではありません」
「……その根拠は?」
「この病気は虫を媒介として伝染します。特に湿気の多い土地で発生しやすく、作物の葉や茎に黒ずんだ斑点が現れるのが特徴です」
私は言葉を区切り、エリオット王子の反応をうかがう。しかし、彼はただ静かに続きを待っている。
「この村へ来る途中で、群れを成して飛び交う害虫と、それに食い荒らされるように変色した小麦畑を見ました」
私はそこで一度言葉を切り、王子の表情を窺う。彼の碧色の瞳は真剣で、私の言葉を疑う様子はない。
「被害が広がれば、今ある作物はすべて枯れてしまうでしょう。放置すれば被害は拡大し、村全体の作物が壊滅する可能性があります」
私は一呼吸置き、言葉を選びながら続ける。
「……手遅れになる前に小麦を刈り取り、倉庫へ隔離する必要があります。可能なら燃やしてしまった方が良いでしょう」
「だが、それでは未熟な小麦しか収穫できないな。収穫量が減れば、農民は困窮するだろう」
「えぇ。ですからこうして、王子である貴方に話しているのです」
片手で顎を押さえ、何かを考えている様子。そしてそう時間もかけず、「よし」と頷いた。
「――分かった。エドモンド」
「はっ。近隣の村へ早馬を走らせましょう。しかし殿下……」
「そうだな、目に見える補償が必要だろう。今年の税率を下げる。国庫にある戦時用の小麦も放出しよう。詳細は城に戻ってから官僚と相談だな」
「……承知いたしました。では、さっそく」
「あぁ、頼んだぞ」
エリオット王子が老執事に命令すると、年齢を感じさせない機敏な動きでスッと去っていった。私はただ、椅子に座ったままそれをポカンと見ているしかできなかった。
「意外だった? 僕が君の意見をすんなりと受け入れたことが」
……そうね。てっきり怒り出すのかと思ったわ。それか何だかんだ理由をつけて、浄化だけさせてその場しのぎをするのかと。
そう、あのルシアン王子みたいに。
「ふふっ、まぁその理由はそのうち分かるよ。……それで、どうだろう。少しは僕を信じてくれた? このまま一緒に、王都の城に来てくれると嬉しいんだけど」
「……村の件が済んだのなら、私は帰らせていただきたいのですが」
「おっと、それはいけない。最初に約束したじゃないか、『守る代わりに、君の力で僕を助けて欲しい』と。解決策を出した瞬間に君はもう、僕の保護対象なんだよ?」
うぐ、しつこい。
「聖女の力は使っていませんよ?」
「はぐらかしても駄目」
「別にはぐらかしてなど……」
「んー……なんていうかさ」
エリオット王子は軽く肩をすくめながら、穏やかな笑みを浮かべる。
「君の最大の力は浄化じゃなく、『物事を正確に見極める目』の方だろう?」
彼の碧の瞳が、まっすぐに私を射抜く。まるで、私が認めるまで逃さないと言わんばかりに。
「君がその力で救ったんだから、それを嘘だと言うのは実に良くない」
――くっ。やっぱり、この王子様。
見た目の柔らかさに騙されちゃいけない、王族特有の小狡さがあったわね。
ニコニコとしながらも、あの碧の瞳で『まさか、逃げないよね?』と訴えてくる。
聖女としての信条を自分から出した手前、私も引き下がれない。
それでも迷いはあった。ここに留まることが、本当に正しいのか。
私の本来の居場所は、セレシア聖王国のはず。でも……。
「……分かりました。少しの間だけ、お世話になります」
そう答えながらも、胸の奥にはまだわずかな抵抗が残っていた。
「よろしい。……改めて、ようこそエストレア新王国へ。僕たちはリリエル嬢を歓迎する」
テーブル越しに差し出された手を、私は握り返す。
エリオット王子がしてやったりな顔なのが癪に障るけれど……まぁコレも仕方がないわね。
◆
それから王子が乗ってきた馬車へと乗り換えることになった私は、進路を新王都へと変えて旅をした。
旅の数日間で、私はエリオット王子とエストレア新王国について多くを知ることができた。
立ち寄った村では、市場の活気に満ちた空気に包まれながら、王子が商人たちと気さくに言葉を交わす姿を目の当たりにした。彼はただの王族ではなく、民の暮らしに関心を持ち、実際にその声を聞くことを何よりも大切にしているのだと感じた。
馬車の移動中には、彼が国の歴史や農業政策について語ってくれた。その知識の広さに感心しつつも、何よりも彼の言葉には、この国をより良くしようとする確固たる意志が込められていた。
彼の語るこの国の成り立ち、民を思う心、そして王族としての覚悟。
その全てが、私が知っていた王族とは違っていた。
ルシアン王子とは、まるで別の存在。
私は知らず知らずのうちに、彼の言葉に耳を傾けることが楽しみになっていった――。
そして、ついに王都へ到着。
王都の門をくぐった瞬間、思わず息をのんだ。
そこに広がるのは、まさに歓迎の嵐だった。
王城前の広場には、まるで祭りのような賑わいがあり、人々が歓声を上げながら集まっていた。王様や官僚だけでなく、メイドや騎士団の者までが列を作り、私を歓迎してくれる。
こんなこと、想像もしていなかった。
「聖女リリエル様、ようこそエストレア新王国へ!」
声をかけられ、握手を求められる。まるで国を救った英雄のような扱いに、私は戸惑いながらも丁寧に応じた。
正直なところ、ここに来るまでの旅で私はすでに疲労困憊だった。長い馬車の移動に加え、村々での応対、王子との会話——刺激的ではあったが、心も体も休まる暇がなかった。
馬車の揺れに耐え、埃っぽい道を進み、慣れない環境に神経を張り詰めていたせいで、思考すら鈍くなっていた。
それでも、この場で無愛想な態度をとるわけにはいかない。
行列を作ってまで歓迎してくれた彼らに、私は精一杯の笑顔を返した。疲れていたはずなのに、不思議と温かいものが胸に広がり、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
――そして、あっという間に時は流れ。
私がエストレア新王国に滞在して、ひと月が過ぎた。
結局セレシア聖王国へは戻らず、客人としてエリオット王子の公務に協力することになっていた。
あの農村の瘴気について、聖女としての見解を説明したり。
虫害の対策や、民目線で見た補償の希望を意見したり。
最初こそ戸惑っていた官僚たちだったが、今では私の意見に耳を傾け、真剣に取り入れようとしている。
今日も農作地の改良について、担当の大臣と白熱した議論を交わしていたところだった。
「でもまさか、新しい農薬について尋ねられるとは思わなかったわ……」
「だから言っただろう? 僕たちは歓迎するって」
「王子はまたそうやって言葉遊びを……」
エリオット王子は軽く肩をすくめ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
仕事を終えた私たちは、王子の私室のテラスでお茶を楽しんでいた。
心地よい風がカーテンを揺らし、広がる庭園からは甘い花の香りが漂ってくる。
相変わらず私は王子に皮肉を交えた言葉を投げ、それを彼が軽やかに受け流す。
こんな何気ないやり取りが、今では私のささやかな楽しみになっていた。
だけど、さすがにもう降参だった。
言葉では彼に勝てない。
私の負け、それは認めましょう。
「ねぇ、エリオット様」
「今は二人っきりなんだ。様は要らないよ。……なんだい、リリエル?」
「……本当に私が婚約者で良いの? 私なんて、捨てられた女なのに……」
そして、これも認めよう。
気づけば、私は彼に惹かれていた。
最初は警戒していたはずなのに、気づけば彼の言葉に心を許し、彼の存在が当たり前になっていた。
恥ずかしながら、たった一ヶ月で彼に絆されてしまったのだ。
今まで意地を張り、聖女としてのプライドを守るために独りで頑張ってきた。
けれど、この人といると、そんな価値観が何だったんだろうと思えるほど、甘やかされ、満たされていく。
そして、その温もりが……今では私にとって掛け替えのないものになっていた。
「なにを今更なことを言っているの? 君と出逢った頃の、情けない僕を思い出してごらんよ。あんな子供みたいに駄々をこねて、リリエルを引き留めていたじゃないか。それに、僕は一目見た時から、君を可愛い女の子だと思っていたよ」
「もう、やめてください! ……あの時の私は気が立っていたんです。申し訳なかったと思っているんですから」
ちょっとした不安も、こうして簡単に溶かされてしまう。
「これからも、僕の隣にいてほしい。君が僕を支えてくれるなら、僕は何があっても君を守るよ」
「……はい」
彼の指がそっと頬をなぞり、熱を持った視線が絡まる。
次の瞬間、彼の唇がそっと触れる。
優しく、けれど確かに愛を感じる口づけに、胸の奥がじんわりと甘く痺れた。
こうして記念すべきエストレア滞在一ヶ月の日に、私はまた一つ、新しい感情を知ることになった。
こんな幸せな日々がいつまでも続けばいい。
だけど――。
◆
王城の執務室に届いたのは、まるで悪夢のような報せだった。
「戦争……ですか?」
「あぁ、遂にやってくれたよ、あのルシアン君は」
ここ最近、ルヴェール王国の動きが不穏だとは聞いていた。国境付近での兵の増強、貴族間の密談、そして度々届く挑発めいた書簡。
けれど、それが本当に戦争へと発展するとは――心のどこかで、信じたくなかった。
私とエリオット王子の婚約が正式に決まり、来月に結婚式を迎えることになった。
……そんなおめでたい日だったのに。
「布告書の名目は……『ルヴェールに災厄をもたらした魔女リリエルを処刑し、その者を匿った愚かなエストレアを滅するため』とある。まったく、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」
エリオットは薄く笑っていたけれど、私はそれどころじゃなかった。
「笑い事じゃありません……!! 戦争ですよ!? もし本当に開戦なんてしたら、多くの民が死ぬんですよ!?」
「うん、そうだね。たくさんの血が流れ、命は失われる。それが戦争だからね」
なら、どうして……!!
「私、ルヴェールに行って参ります……!」
拳を握りしめ、強く言い放つ。手のひらには爪が食い込み、震えを堪えるように力が入っていた。
「あのバカ王子と刺し違えてでも、戦争なんてさせませんから!!」
喉の奥が熱くなる。心臓が激しく脈打ち、全身が怒りと使命感で震えていた。
そうでもしなければ、この理不尽な現実を受け入れられそうになかった。
「……そんなことをしたら、僕は本気で怒るよ?」
エリオットの低く冷たい声が、室内の空気を変えた。
「でも私は……聖女として相応しい行いをしてきたはずなのに……!!」
「――リリエル!! 君はまだ聖女の名に縛られているのか!?」
エリオットの拳が震えている。怒りなのか、悔しさなのか、それとも私を止めたい一心なのか。
「そんなに君にとって大事な肩書きなのか!」
彼の碧の瞳が鋭く揺れ、苦しげな息を吐いた。
聖女の名に……!?
「そ、そんなこと言ってるんじゃ」
「いいや、この際だから言わせてもらうよ。今の君は聖女になんて向いていない!!」
――バシン。
乾いた音が室内に響き渡った。
張り詰めた空気が一瞬にして裂け、時間が止まったかのように感じられる。
考えるより先に、右手が動いていた。
弾けるような衝動が、私の理性を超えてしまったのだ。
「……ごめんなさい!」
慌てて手を引こうとする私の手首を、エリオットは素早く掴んだ。
驚いて顔を上げると、彼の瞳には深い悲しみと愛情が溢れていた。
「なぜ、君はいつも自分を犠牲にするんだ? どうして僕を信じてくれない?」
震える声とともに、彼は私を強く抱きしめた。
「エリオット……?」
彼の腕の中は、温かくて安心できた。心臓の鼓動が私にまで伝わってくる。
「君が無事でいてくれなければ、僕には何の意味もない。君を失うくらいなら、この国も王位も捨ててしまえる」
その言葉は私の心を深く震わせ、涙が溢れ出した。
「君を失いたくない……だからもう、無茶をしないでくれ」
彼は私の頬を優しく包み込むように撫で、そのままゆっくりと唇を重ねた。
「君はもう、一人じゃない。僕が傍にいるから」
彼の甘く、真摯な囁きに、私の胸は熱く高鳴り続けていた――。
「……ねぇ、リリエル。君は、良い医者の条件って何だと思う?」
「え……?」
しばらくそのままでいると、不意に問いかけられた。
私は戸惑いながら彼の顔を見上げる。
「どんな傷も縫合する腕? 違う。万病に効く薬を作れること? それも違う」
エリオットはゆっくりと首を振り、真剣な眼差しで私を見つめる。
「良い医者の条件はね、良い目を持っていることなんだよ」
「目……?」
「そう、目だ。患者がどんな病で苦しんでいるのか、何を癒せばいいのか。それを正しく見極める目を持っていなければ、どんなに優れた力があっても、正しく使うことはできない」
エリオットは一度言葉を切り、そっと私を見つめる。
「聖女も同じさ。浄化の力だけがすべてじゃない。知識を積み重ね、人々を導くための目を養ってきたんじゃないのかい?」
私は息をのむ。彼の言葉が、心の奥深くに響いていく。
「少なくとも、僕が知っている聖女はそうだったよ」
エリオットの碧色の瞳がまっすぐに私をとらえる。そこには、私への揺るぎない信頼があった。
「エリオット、あなたは他の聖女を知っているの?」
「うん。この国の歴史を、君も多少は知っているだろう?」
エストレア新王国は、かつて滅び、そして十数年の間に再び築き上げられた国。
「僕の母は十二年前、瘴気に飲まれて亡くなった。あの災厄の恐ろしさは、たぶん一生忘れられないだろう」
エリオットの声が少しだけ震えた。
「そして、この国を救ってくれた聖女様への感謝の気持ちもまた、決して消えない」
「お母様が……瘴気で……」
直接見たわけではない。けれど、この国に起こった悲劇は、聖女として学んできた。
数え切れないほどの命を奪った瘴気の嵐。その凄まじさは、伝聞だけでも背筋が凍るほどだった。
ふとエリオットの隣に視線を移せば、老執事のディズも目を伏せ、わずかに肩を震わせていた。
彼もまた、大切な誰かを失ったのだろう。
「……だけど、僕が一番すごいと思うのは、その聖女様が力に驕らなかったことだ」
「驕り……ですか?」
「あぁ、驕りだ。彼女は瘴気を浄化し終えたあとも、この国に留まり、己にできることを探し続けた」
エリオットはゆっくりと息をつき、遠くを見つめる。
「決して浄化の力だけに頼ることなく、学び、行動し、人々の未来のために尽くしたんだ」
そう語るエリオットの表情は、誇らしげで……けれど、どこか寂しそうだった。
私がこの国に来た頃には、もうその人の影すらなかった。
つまり、その聖女は……
「素晴らしい女性だったのですね……」
私の呟きに、エリオットは静かに頷いた。
その聖女は、人々にとって真の光であり、希望だったのだろう。
私は……彼女のようになれるのだろうか?
それとも、違う道を選ぶべきなのか。
エリオットは私の手を包み込むように握り、微笑んだ。
「リリエル、君はもう、聖女という肩書きだけで生きているわけじゃない。そして……僕にとって、君という存在そのものが、何よりも大切なんだ」
彼の言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
彼の温もりが、私の心をそっと溶かしていく。
(――私はもう、迷わない)
この人とともに歩むことが、私の新しい道なのだから。
「この国の民も、君のためなら喜んで戦うさ。……それにもしかしたら、血を流さずに戦争を回避できるかもしれないよ?」
「え? そ、それはどうして……?」
「ふふふ……もう一度思い出してみて、僕らが出逢った時のことを」
……出逢った時のこと?
あの辺境の村でのお茶会を?
「……あっ」
「お、気付いたね。そう、あの害虫どもさ」
私が思い出した様子を見たエリオットは、手をパンと叩いて「さすがリリエル」と満足そうに笑った。
最初は瘴気の影響だと誤解されていた辺境の村の不作問題。実際には、作物を襲っていたのは病気を運ぶ習性を持つ虫だった。
それが戦争回避とどうつながるのか――。
「商人に頼んで、あの病害にあった小麦を格安で“とある国”に売ったんだよ。いやぁ、今頃は国中で食べられているだろうね。……ところで、その国の今年の小麦はうまく育つだろうか?」
「……悪魔ですか貴方は。たしかに戦争どころじゃなくなりますが、不作で多くの人が飢えることになりますよ?」
まったく。この人は一体何を言い出すのか。
だが、エリオットは変わらずニコニコとしたまま、むしろ当然のことのように続けた。
「戦争で死ぬのとどっちが多いだろうねぇ。でも、その原因が“聖女を追い出したせい”だとしたら? それに、その対策を聖女がしっかり知っていたと分かったら……聖王国を含めた周辺諸国は黙っているかな?」
「……悪魔を越えた死神ですね、エリオットは。はぁ、分かりました。聖王国の聖女たちに手紙を送ります。これから流行るであろう小麦の不作についてのレポートと、戦争を起こそうとしているルヴェールがその責任を聖女に転嫁しようとしている、という内容で」
「ぷっ……」
「「ふふふふっ!!」」
こうして私たちはすぐに行動を起こし、本格的な戦争になる前に決着をつけた。
ルヴェール王国の混乱はすさまじく、食糧不足により民の不満が爆発し、王宮では内紛が勃発したという。
ルシアン王子は、私を口実にエストレアの領土を狙っていたようだが……すべてが裏目に出た。
せっかく招き入れた聖女を粗末に扱った挙句、追放。
さらには“魔女”と偽り、他国に宣戦布告。
病気を持つ小麦に対する対策を完全に誤り、民の生活を脅かし……。
国内の貴族たちは怒りを募らせ、ルヴェール王家の権威は急速に失墜していった。
飢えに苦しむ民衆の怒りは王宮に向かい、貴族たちの間でも責任のなすりつけ合いが始まった。
結局、数々の失態の責を負う形で、ルシアン王子は投獄された。
王族であった彼の処遇にはさまざまな意見が飛び交ったが、彼が自らの行いを反省することはなかったと聞く。
「……これで、終わりね」
遠く離れたルヴェール王国の混乱を知りながら、私は静かにそう呟いた。
エリオットはそんな私の手を取り、優しく微笑んだ。
「これで君も安心して僕の妻になれるね」
「もう、勝手に決めないでください」
むくれる私に、エリオットはいたずらっぽく笑い、そっと額に口づけを落とした。
彼の唇が額に触れた瞬間、心臓が跳ねる。
からかわれていると分かっているのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
おかげで、私たちは予定通り結婚式を迎えることができた。
今、私は素敵な旦那様と共に、とても幸せに過ごしている。
結婚式の日、エストレアの国民は熱狂的に祝福してくれた。
かつての聖女が王妃となる日を、彼らは心から喜んでくれたのだ。
エストレアの未来は明るい。
相変わらず腹黒い性格は変わらないけれど、それを上回る策士が隣にいる。
でも、それすらも愛おしくてたまらない。
エリオットは微笑みながら私の手を握る。その温もりが、何よりも私の心を満たしてくれる。
「リリエル、これからもずっと一緒にいよう」
「……えぇ、喜んで」
私の答えに、彼は嬉しそうに微笑む。
こうして私は、新たな人生をこの国で歩み始めるのだった。
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