第九話 父
その日の夕食中、珍しく父が帰って来た。才は驚いた顔を隠そうともせず、「え?」と言ってから、
「お帰りなさい。お先に頂いてます」
「ただいま。何だか、久し振りだな」
「はい」
ばあやが食堂に入ってきて、父に向かい、「今、準備致します」と声を掛けて、すぐに出て行った。父は、自分の席に着くと、才をじっと見て、
「元気そうだな」
「はい。おかげさまで」
「何か変わったことはないか?」
「そうですね。友達とロックバンドをやることになりました。それで、オレはベースをやることになって。すみませんけど、買ってください。今度の日曜に買いに行きます」
父の動きが止まった。才は、その様子を黙って見ていた。しばらく考えるように首を傾げるなどしていたが、
「バンド? ピアノはやめたのか?」
「いえ。やめてないです。ピアノはやめません。ただ、行きがかり上、どうしようもなくて」
「よくわからないが、やるんだな。まあ、いいだろう。いくらくらいするんだ?」
「さあ? オレにもわかりません」
「じゃ」
そう言って、部屋を出て行き少しすると手に財布らしき物を持って戻ってきた。
「これを持って行きなさい」
「ありがとうございます。領収書、もらってきます」
ごまかしたと思われたくない。ただ、それだけだった。父は、あまり関心ないような顔で、「そう」と言っただけだった。
少しして、父の食事の準備が整い、お互い黙って料理を口に運んだ。この冷たい空気は、もうずっと前からだ。食事中の楽しい会話は、津久見家には存在しない。普段めったに会わないせいもあるだろう。何を話していいのか、そもそもよくわからない。さっきのように話を振られれば答えられるし、用件も伝えられる。が、何気ない会話。それは出来なかった。
才は食事を終えると手を合わせて「ごちそうさまでした」と小さな声で言い、席を立った。父のそばを通る時、「お先に失礼します」と声を掛けてから食堂を後にした。父は、特に何も返してこなかった。それが、才と父の普通だ。
自分の部屋には戻らず、ピアノ室に行った。発表会は、もう目の前だ。本当は、ベースを買いに行っている場合ではないな、と思う。が、決まったことだ、と自分に言い聞かせた。
そのピアノは、古い楽器だ。母が小さい頃に、祖父が買い与えたらしい。ヨーロッパの有名な楽器で、その温かい音色が、才は好きだった。
ピアノの蓋を静かに開け、指慣らしにスケールをどんどん弾いて行く。それから、今度発表会で弾くことに決めた曲を一度通して弾く。テンポの速い曲だが、楽譜を確認しながらゆっくりと弾く。また、通常の速さで弾く。そんなことをしていると、あっという間に時間は過ぎていく。壁の時計は、十時を回っていた。
「あれ? もう、こんな時間?」
部屋に戻ると、就寝準備をしてベッドに横になった。