第七話 本当は……
「坊ちゃま。遅かったですね。濡れませんでしたか? ばあやは、坊ちゃまが心配で心配で」
「ばあや。心配かけて、ごめんね。傘を借りたから、濡れないで済んだんだ。この傘は、ミハラくんが貸してくれたんだけど、ミハラくんがさしてきたのは別の人の傘で。ややこしい。とにかく、この傘をミハラくんに返さなきゃいけなくて、ミハラくんはその為だけに、オレをここまで送ってくれたんだ。ばあや。ミハラくん、オレをかばってズボンのすそが濡れちゃったんだけど、乾かせないかな」
「乾かしますとも」
「ありがとう、ばあや。ねえ、ミハラくん。乾かす間、お茶でもどうかな」
三原が、才とばあやを交互に見てくる。しばらく考えている様子だったが、首を振った。
「いや。今日はこれで帰るよ。また誘ってくれ。どうせ、乾かしてもらっても、帰り道で濡らしちまう」
それは確かにあり得そうなことだった。才は、残念に思いながらも、三原を引き止めることはしなかった。
「わかったよ。じゃあ、今度誘った時は、絶対家の中に入ってよ?」
「ああ。約束する」
そう言った後、三原はばあやの方に向き、
「お邪魔しました」
深々と頭を下げてから傘を開いた。そして、才をじっと見てから片手を軽く上げると、笑顔で、
「じゃあな」
「うん。またね」
手を振り合った。三原は、振り向かずに小走りになりながら、津久見家を出て行った。才は、しばらくその姿を目で追った後、
「ばあや。オレ、お腹すいたな」
甘えるように言うと、ばあやも優しく微笑み、
「すぐに準備しましょう」
玄関の鍵を閉めると、台所へ向かった。
翌日の朝、才は昇降口で三原に会った。「おはよう」と言うその声に、いつものような強さがない。才は、不思議に思って、
「おはよう、ミハラくん。あの……何かあった?」
才の言葉に、三原は首を振った。上履きにはきかえた三原が、才を見ながら、暗い調子で言った。
「サイ。昨日は、ごめん」
「ごめん? 何、それ」
いきなり謝られて、才は訳がわからなかった。三原は、はーっと息を吐き出すと、
「昨日、あれから考えたんだけどさ。オレ、昨日さ、頭回ってなかったな。あそこ、商店街だし、コンビニもそばにあるし、傘、買えたよな」
言われて初めて、そのことに気が付いた。才は、感心して、「ああ。そうか」と言い、
「オレも、全然思いつかなかったよ。そうか。その手があったんだね」
「だろ? なのに、オレさ、とにかくおまえを無事に家に帰さなきゃって、そればっかり考えてて。送らなきゃって思っちまって。いきなり家まで来られて、迷惑じゃなかったか?」
強そうな人なのに、意外と些細なことを気にするんだな、と才は内心驚いていた。が、その気遣いが、才には嬉しかった。つい、口元に笑みが浮かんでしまう。
「いや。オレ、家に来られるのは全然平気だから。それより、ミハラくん。オレのことかばって制服濡れちゃったよね。オレの方こそ、謝らなきゃね。ミハラくん。ごめんね」
「オレが、したくてしたことだから。おまえが謝ることじゃない。それに、制服は乾いた。何も問題ないだろ」
「じゃ、謝罪じゃなくて、感謝するよ。ミハラくん。昨日は本当にありがとう。今度は、本当に家の中に入ってもらうからね」
「ああ。絶対だ」
そこで、ようやく三原の顔に安堵が見て取れた。才は、ほっとして三原に微笑む。それを見た三原が、才の髪を撫でた。鼓動が速い。
「サイ。おまえ、本当に可愛いな」
そんなことを言われたら、つい、何かを期待してしまう。それでも、才は自分の感情を認めたくなかった。才は、三原の手を払うと、
「ちっちゃい子じゃないんだから、やめてよ」
そう言われて、三原は、はっとしたような表情になり、才から手を離した。離されて才は、何とも言えない気持ちになる。
(本当は……)
その先は、自分の心の内ですら、言ってはいけない。才は、冷静を装って、
「じゃあ、またお昼に」
「ああ」
三原が背を向けて歩き出したのを見送ってから、才も自分の教室へ向かった。