第十一話 またね
才から離れると三原は、
「サイ。もっと、何か弾いてくれよ」
「何かって……何? 何弾いたらいい?」
才が訊くと、三原は才をじっと見て、
「だから、何かって言ってるだろ。何でもいいよ。ただ、聞きたいだけだから」
「じゃあ、あの発表会で弾いた曲にしようか。弾けるかな。随分弾いてないから」
才がためらうと三原は、
「おまえなら大丈夫だろ」
「え? 意味がわからないけど」
「いいから、弾いてくれって」
「わかった。弾くよ」
その曲が何とか弾き終わっても、終わる度にもっと弾くように言われる。ふと壁の時計を見ると、弾き始めてから一時間も経っていた。才はびっくりして思わず手を止め、勢いよく立ち上がり、
「ミハラくん。ごめん。もう九時だ」
「もうそんな時間か。長々と、邪魔したな」
「邪魔じゃないけど。家の人が心配するだろう」
「ま、そうかもな」
そう言って笑う三原を見て、才は鼓動が速くなる。そんな自分を笑いそうになった。
「玄関まで送るよ」
「ああ」
才は部屋の分厚いドアを開けると、三原を先に出した。三原が廊下に出ると才も部屋を出て、ドアをしっかりと閉めた。
「ミハラくん。今日は、楽しかったよ。いろいろ、ありがとう」
「ありがとう? 何言ってるんだ、サイ。オレ、そんなお礼を言われること、してねえぞ」
才は、三原に向かって微笑み、
「オレに、ピアノを返してくれた。オレを許してくれた。それから……」
三原が才を見ながら首を傾げ、
「それから?」
「言えない」
「何だよ、それ」
笑う三原を置いて、才は早足で歩き始めた。
「おい。サイ。何だよ、急に」
才の背中に声を掛ける三原に、才は返事をせずに玄関へ歩いて行った。
「サイ」
ようやく振り向いて、才は言った。
「ミハラくん。オレを好きでいてくれて、ありがとう。そう言いたかったんだ」
三原は口許に笑みを浮かべると、才に一歩近付き髪を撫でて来た。心地よさに、目を閉じる。
「サイ。それはさ、お礼を言われることじゃない。オレは……」
そこまで言った三原が、急に口を閉ざした。ばあやがこちらに来るのが見えたからだろうと思われた。
ばあやは、ゆっくりと才たちの方へ来ると深々とお辞儀をして、
「三原さん。坊ちゃまに、またピアノを弾かせてくださって、ありがとうございます。何があったかは存じませんが、急に坊ちゃまがピアノを弾かなくなってしまい、しかも、お教室もやめてしまわれて、私は何があったのかと、オロオロするばかりでございました。ピアノは、奥様から坊ちゃまが受け継いだものです。やめてほしくないと思うのは、私のエゴでしょうが……。すみません。話が長くなってしまいました」
「ばあやさん。オレは、サイにとって、ピアノは命だろうと思ってるんです。だから、サイにピアノを弾いてほしいって伝えました。取り戻したのは、サイ自身です。オレは、何もしてませんよ」
三原の言葉に、ばあやは首を振り、
「それでも坊ちゃまは、三原さんのおかげでピアノを弾こうと思ったはずです。感謝しております」
「じゃあ、感謝されておきます」
ちょっとふざけたような口調で、三原が言った。ばあやは、ふふ、と笑って、
「三原さん。どうぞまた、おいでください。お待ちしております」
「いいんですか?」
「もちろんです。ぜひ、また」
三原は頷くと、才に視線を戻した。才も三原を見つめる。
「ミハラくん。それじゃ、気を付けて帰ってね。さよなら」
才の言葉に、ばあやが「坊ちゃま」と、やや強い口調で言う。驚いて、才は思わずばあやを見た。ばあやは首を振り、
「坊ちゃま。『さよなら』とは、どういうことですか? また来て頂くのに、もう会えないようなことをおっしゃって。いいですか、坊ちゃま。『またね』ですよ。言ってみてください」
「ミハラくん。またね」
才が素直に言い直したのを聞くと、三原はいかにも楽しそうに笑い出した。才は顔をしかめて、
「ミハラくん。オレ、真面目に言ったのに」
抗議の言葉も空しく、三原は笑い続ける。しばらく才は顔をしかめていたが、そんな自分がおかしくなって、三原につられるように笑い出してしまった。ばあやも、ふふ、と笑っている。
三人の笑いが止まった時、三原がばあやに向かって真剣な顔つきになって言った。
「ばあやさん。オレは、サイが好きです」
才が心の中で慌てていると、ばあやは頷き、「存じております」と普通に受け止めて言った。才は、三原とばあやを交互に見ることしか出来なかった。
「ばあやさん。オレの好きは……」
「存じておりますよ。三原さんは、坊ちゃまに恋していらっしゃるのでしょう? 坊ちゃまを見ていれば、わかります。私は、坊ちゃまがお小さい頃から、ずっとそばにおりますので」
恋してる、とさらっと言うばあやに才は驚きを隠せず、思わず、「え?」と小さく言ってしまった。
「そうですか。わかって下さってるんですね。そうです。オレは才が大好きで、恋をしてるんです。サイもオレを好きで、今日、両想いになったんです」
「ええ、ええ。そうでしょうとも。わかりますとも」
三原はばあやに微笑むと、才に視線を戻し、ぎゅっと抱き締めて来た。
「ちょっと、ミハラくん。ばあやの前なんだけど……」
「知ってるぜ。ま、いいじゃん」
「ミハラくん」
三原は才の髪を撫でながら、「もう、離さないからな」と耳元で言った。才は、三原の背に手を回すと目を閉じて、
「離さないでね」
三原にだけ聞こえるように、そっと囁いたのだった。
(完)




