第十話 Je te veux
耳元で囁くように、「サイ」と呼ばれた。才は目を閉じたまま、「何?」と訊く。
「あの曲。ここの家の電話。待ってる時に流れてるあの曲さ。何て曲?」
「あ。あれか」
才は、曲名を告げたものか、考えてしまった。黙った才をどう思ったのか、三原は「ん?」と言い、
「曲名、知らない、とか?」
「いや。知ってるんだけど……」
「ここに電話する度に聞いてたから、何か気に入っててさ」
「いつも待たせてたからね。ごめん」
わざと話をそらしてみたが、
「じゃなくてさ、気に入ってるって言っただろ。待つのは、構わないさ」
「ありがとう」
「で? 何て曲?」
「えっと……『Je te veux』っていうんだ。サティっていう人のピアノの曲なんだ」
才が説明すると、三原は才から離れ、嬉しそうな顔で才を見ながら、
「ピアノの曲なのか。じゃ、おまえ弾けるのか? 弾いてくれよ」
「え?」
「聞きてえ」
「は?」
「だからさ。弾いてください。聞きたいです」
いきなり丁寧な言葉でお願いされ、才は戸惑いながらも頷いてしまった。三原が才をギュッと抱き締め、
「よーし。じゃ、早速聞かせてくれよ」
「あ。じゃあ、ピアノ室に行こう」
「おお。行こうぜ」
才は三原から逃れると、少し早足で歩き始めた。三原も才の後についてくる気配があった。廊下に出ると、「こっち」と言うだけ言って、止まらずにそのまま歩いた。
廊下の突き当りにピアノ室がある。防音されていて、ドアを閉めてしまえば音漏れはほとんどない。
「ここだよ」
ドアを開けて、少し遅れて来た三原を待った。三原は部屋を指差しながら、
「ここか。すげー。ピアノもでかいな」
「これはね、母の形見なんだ。祖父が母に買い与えたらしい」
「へー。何かそれ、すげーな」
「どうぞ、中へ」
三原が中に入ってから才は中に入り、ドアをしっかりと閉めた。三原がドアを見ながら、
「ここ、防音になってるのか?」
「そう。だから、夜中でもピアノを弾いてる時もあった」
過去形で言わなければならないのが、少しせつない。
「あの……ミハラくん。オレは君たちを裏切って、それで……だからピアノをやめたのに、弾かせようとしてる? 弾いていいってことかな?」
三原が大きな溜息を吐く。才は、三原をじっと見る。三原は才に一歩近付くと、優しく抱き締めて来た。
「ミハラくん……」
「言っただろ。ピアノはおまえの命なんだから。弾けよ。アスピリンのメンバーの誰が、おまえがピアノ弾くのをやめさせようとするんだよ。あいつらみんな、おまえのピアノが好きだぞ、絶対」
「いや。それは、どうかな」
「そうに決まってる。だから、弾け。弾いてくれ」
そう言って、三原は才から離れた。才が、尚もためらっていると、
「ほら」
ピアノを指差し、才を促してきた。才は小さく頷くと、ピアノのそばに立った。ピアノの側面を撫でながら、「ごめん」とピアノに向かって言った。
ピアノの椅子に腰を下ろすと、ピアノの蓋を静かに開けた。
「ちょっと、指慣らしさせてね」
三原に断ると、スケールをどんどん弾いて行った。ピアノに触れていることが嬉しくて、涙が出そうになっていた。しばらくそうして、手を止めた。三原の方を向くと、
「お待たせしました。あの曲弾くね」
「えっと、何てったっけ?」
「Je te veuxだよ」
「ん? 何だって? それ、何語?」
「フランス語。意味は……」
言おうとしたが口を噤み、そのまま弾き始めた。意味は、『おまえが欲しい』。恥ずかしくて、三原に伝えられそうもない。その代わり今、この演奏に気持ちを込める。
弾き終わって立ち上がると、三原に向かって礼をした。三原は、「すげー」と言いながら拍手をし続けた。あまりに叩き続ける三原の手を握って、無理矢理止めさせると、
「もう、いいから」
そんなにされると、余計に恥ずかしくなる。三原は、首を傾げて、
「何で? すげーからすげーって言ってるんだぞ。おまえ、やっぱりピアノ弾かなきゃダメだぞ。ピアノはおまえの基本だ。やめちゃダメなやつだ」
「うん」
「で? 曲名の意味って何だ? さっき、言いかけなかったか?」
問われて、才はためらって黙ってしまった。三原は才を見つめながら、
「で?」
「えっと……Jeが私。teは君。veuxは欲しい」
「ん? 何だ。オレの気持ち、そのまんまじゃん」
三原がにやっと笑い、才を強く抱き締めて来た。才は、ただ、されるままになっていた。
「オレはな、サイ。ジュ……えっと……何とかだ。オレは、おまえが欲しいからな」
「えっと……」
「何だよ。嫌なんだな。ま、いつかな」
そう言うと、三原は才に口づけた。




