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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

地下

作者: 活動

「二七五八年、西暦二〇九八年八月九日午前十一時二分。黙祷ッ」伝声管からけたたましく声が響く 。そこからもう一眠りした後、気付けば時計は午後六時過ぎを指していた。

もう幾度と無く数えられない程の手に握られ、真鍮が剥き出しになった手すりを撫でながら蒸し暑い地下行きのコンクリート製階段を下る。低い天井から垂れ下がる剥き出しの白熱電球は所々が切れたフィラメントによって暗がりを生む。階段を降り切って、分厚い鉄板の張られた引戸の関貫をずらすと、蛍のように行き交うカンテラの灯りと、溶接機が吐き出す青い火花が視界に入った。充満した重油の臭いに耐えられず、ヘルメットに掛けた手拭いを鼻までグッとあげる。

「遅いぞ鬼塚、もう終わっちまったよ」声のした方を向くと、金属製の溶接ヘルメットを被った神田の顔があった。火花によって焦がされた作業着は光を吸いこんで、まるで神田の顔を宙に浮かべているように見える。「行こう、上」と神田が口を開いたので、鬼塚は煙草の箱が入っているはずの胸の辺りをまさぐり、もと来た扉の方へと引き返す。神田が溶接ヘルメットを棚に放り投げ、煤で汚れたレバーを下げる。伝声管に向かって「六番、神田!」と叫ぶ。少し間を置いて関貫がずらされる音がして、神田は気だるそうに扉に隙間を作る。二人が滑り込むと扉は再び閉まり、関貫は鈍い音を立ててまるでウツボが巣に帰るように戻される。

重油の臭いから解放された鬼塚はついさっきかけ降りた蒸し暑い階段が幾分か心地よく思えて、階段を登る神田の口笛がコンクリートの壁や天井で反響するのに合わせてタッタッタと階段をかけ登る。寄宿階の階段を三階分通りすぎた頃には顔から汗が吹き出す。十年目になる神田は何も無いように階段を飛ばし飛ばしで登ってゆく。

空気はやがて粘度を増して、地上階に達した頃には二人は赤いゼラチンに包まれた様だった。透明だが重く、沸き立ての風呂の湯のように纏わり付く空気を押し退けながら、やがて屋根が途切れ、オゾンの無い空からの焼けつく様な夕日を浴びる。もう手には煙草の箱を握っている。

「三日振りだ」神田が地面から突き出した鉄筋に寄り掛かかって煙草を咥える。熱い大気中で重ったるい口を開いて「マッチはあるか」と訊ねると神田は懐からマッチ箱大の銀の箱を出して見せた。鬼塚が「爆弾か?」とたじろぎ、神田は笑う。神田は鬼塚にその銀の箱を放り投げる。「燃料式のマッチさ、灯油を入れて使う」鬼塚がそれの蝶番式の蓋を開いて歯車を廻すと、ヂリと火花が飛び、ボゥと小さな音を立てて炎が揺らいだ。ゼラチンのようにまったりと流れ、止めどなく太陽の熱を伝える空気は炎の輪郭をも消してしまった。神田の吸う洋モクの煙が大気に溶け込む。鬼塚の視線は、スロットカーを追うように、けれど非常にゆっくりと地平線を撫でる。無限に重なった陽炎はグラグラと景色を歪ませ、大気は依然として動かない。無音である。地下ではチリチリと音を立てて縮むはずの煙草も、地上では熱いホルマリンに浸けられたようにまるで永久に保存されると思えた。

長い熱風がゆっくりと流れ、知らぬ間に煙草の銘柄は焼き切れた。フィルターの焦げる微かな臭いがした。神田が何も喋らないので、鬼塚は口を開いた。「食事の当てはあるか」神田が無いと言うので、街へ誘う。彼の短くなった煙草が指の間から滑り落ちて音も無く着地した。砂嵐があったか、斜面を下った所に停めてある鬼塚の旧いカワサキのシートは埃を被っていた。神田がタンクをノックして「街までなら持つな」と呟く。鬼塚がエンジンをかけると、景色とは似つかない青白い排気が勢いよく吹き出した。神田の体重で車体が少し沈み込み、鬼塚はギヤを落として発進した。


空気が冷え始めた。夜が訪れる。赤い世界は青を経由して黒くなる。河が見えてきた。正確には河が流れていた窪み、なのだが、旧い人はそれを河と呼ぶので、そういう人間以外とは喋っていても面白味を感じられない部類の二人も同じように呼ぶ。鬼塚は左手でライトのスイッチを下げる。闇が訪れると街に近付くまでは暗く、無灯火で走るには難しい。河に沿って走ると、乾いていた地面はやがて行き場を失った地下の管から染み出る油や排水によって湿ったアスファルトへと変わった。遠い地平線には活動を始めた街の灯が浮かんでくる。鬼塚はギヤを一つ落としてアクセルを全開にする。カワサキはワンテンポ遅れて、えづく様に煙を吐きながら飛んでゆく。もう街はそこまで来ていた。


街は明るい。地下では電光看板や窓から漏れ出る店の照明が、それをタイヤ、ホイール、サスペンション、ハンドル越しに感じながら二人はアーケードの下を駆け抜け、古びた白いビルの前でエンジンを止めた。抜いたキーは煙草の入った懐のポケットに突っ込む。朝になればステンドグラスのフリをしたアクリル板が安い原色の光を浴びせるこの通りも、この時間帯は暗く静まり返る。歩き始めると鬼塚は確かに足の裏に光と熱を感じた。地下の音がする。二人が角を曲がると、その入り口はいつもと変わらずぽっかりと二人を待ち構えていた。グレーチングの隙間から、熱い濃い空気がせり上がってくる。

早く楽になりたかった。地下に逃げてしまいたかった。地下に潜れば自分が今生きる現世、絶えなく過去をぶつけてくる地上から逃れられる気がした。煤けた階段を下る。空気はまた熱気を持ち始め、雑踏を感じ、音が増える。


地下通路に達すると熱い風が人々の間を吹き抜ける。

ここでは、地下鉄道の線路に沿って露店が小さな表を構えている。露店と線路の間は四メーター程しか無い。地面は砂利。アスファルトの混じらない、掘りっ放しの地面。日常から目を背けたい労働者、不真面目な軍人、躰を削って生きる少女達がその狭い隙間を歩いているが、鬼塚は自分だけは違うと信じていた。双六の盤面に書かれた決まった世界と同じ、周りの奴等は所詮意思の無い登場人物に過ぎない。そう思っていないと情報が莫大に増す。それに耐えられる自信が無かった。信じる外無かった。

空気が加速する。鉄道が近づいてきた様だ。

地鳴りが。地面が震える。線路を歩いていた人々がこちらへ押し寄せる。息が詰まる。身体が圧される。

露店の灯りに混じって前方に一際眩しい光源が見えた。速い、近づいて来る。タールと砂埃にまみれた黒い燃料機関車が数十センチ横を通り抜ける。轟音。貨車には何だ、石灰石か爆薬か。機関車と合わせて六両編成。ジーゼルの黒煙が遅れて押し寄せる。

二人は丁度行きつけの店の前まで来ていた様で、雑踏の隙間を滑り抜け店の扉を押した。


店はいつも通り、客の入りは四割程だった。白いタイルの床にメッキの曇った椅子と机が乱雑に配置されている。壁の隙間から漏れる地下水が床をテラテラと光らせている。ここの天井には珍しく蛍光灯がチラつく。鬼塚と神田はコの字型のカウンター席の端に並んで腰を下ろした。

この店に来ると戦争の前を思い出す。思い出すというより、戦前に時が巻き戻された感覚に陥る。戦前は良かった。国には家庭が溢れ、家庭には幸せと余裕が溢れていた。しかし死の恐怖は人々の本能を駆り立て、次第に本能さえ削った。男は働き、女は笑わなくなった。男は戦い、女は働くようになった。まるで歴史書を読み還す様に時代は巻き戻った。そして飢餓が訪れた。国に力は無かった。老人達は真っ先に死に絶え、子供も減った。鬼塚の父も海に沈み、体の弱かった母は産まれて来るはずだった妹と共に灰になった。昔の進んだ時代を知るものは減った。最近の退化した時代のみを知るもの達が残された。

神田の声で我に返る。カウンターには分厚いコップに入った水が置かれていた。鬼塚はコップの水を一気に飲み干した。内蔵の形がくっきりと浮かぶ。いつも通りだ、と安堵。外から機関車の地面を蹴る音が聞こえてくる。微かに床が振動する。それさえ心地良い。改めて地上を忘れることの心地よさに酔いしれた。神田が注文したであろうアルコールの瓶と培養植物の料理がカウンターに置かれる。飲み干した水のコップにアルコールを注ぐ。瓶を置き、神田がそれを手に取る。注ぐ。互いにコップを低く掲げ、一口、二口。ルーチン。直ぐに鼓動が速まる。脳が頭蓋を押す。眼球の動きが鈍くなる。樹脂製の箸で料理を取り、口へ運ぶ。いつもと同じ味。コップ、三口目。ルーチン。いつも通りだ。落ち着け、落ち着け。

料理人に目をやる。目が合うと彼は薄い銀の灰皿をよこした。キンと聞きなれない音が聞こえ、灯油の匂いがする。神田がそれをこちらへよこした。懐をまさぐり、くしゃくしゃになった煙草の包みを引き出すと指を突っ込んで一本を抜き取る。火を点ける。細い煙。一口目は美味い。味のしない粗悪なアルコールとは違い、煙は心地よく喉を締め付け、肺を満たし、血液を満たす。吐く、かすかな甘い香りが鼻を抜ける。二口目はいつもの味。地上を思い出す。地上を、現実を。これもいつも通りだ。

神田が不意に口を開き「今晩押す」とだけ言った。鬼塚は耳を疑った。料理人の振るう鍋の金属音も、客の声も、外の機関車の音も、空気がゼリーに替わったように遠く聞こえた。十秒は経った。鬼塚はくぐもった声で「そうか」とだけ答えた。いつもと違う。異常を嫌う鬼塚は飛び上がりそうに嬉しかった。煙草の味が引戻しかけた地上の景色は遥か彼方へ消え去った。今夜世界が終わろうとしている。もう苦しむのもあと少しで済むのだ。自分ひとりで進んで行く双六の明日のマスも、そのマスの文字を見る前に、神田が全てを消し去ってくれる。鬼塚は震えた。椅子がガタガタと音を立て、客がこちらを見るのが分かった。

神田がアルコールをもう一本頼んだ。ああ、いつもと違う。鬼塚の胸は高鳴っていた。明らかにそれはアルコールでも、培養植物に含まれる促進成分によるものでもない。鬼塚は五割ほど縮んだ煙草の火を叩き付けるように灰皿で押し消し、震えの治まらない手で新しい一本に火を点けた。一口目の味、吐く、一口目の味、吐く、一口目の味。甘い香り。遂におかしくなったのだと確信した。吐く、また一口目の味。震える手でまだ長い煙草を消す。神田が席を立った。鬼塚は「もうすぐなのか」と尋ねた。「ああ、帰ったらだ」と神田。神田は回れ右をすると店の出口へと早歩きで進み、戸を開ける。雑踏が聞こえる。一秒、戸が閉まる。鬼塚は灰皿を掴むとそれを床に叩き付けた。音がタイルに反響する。ゼリー状の空気はその響きを何重にもして鳴り止ませない。店内の人間が一斉に彼を見たのが判った。重い頭をもたげて、カウンターに突っ伏せる。三十分は経った。彼は眠って居たのかも知れない。それは当人にも分からなかった。依然として空気は澄み渡らない。彼はまた煙草を取り出した。神田の燃料式マッチはカウンターに置かれたままだった。火をつける。一口目の味、何度も、一口目の味。手が震える。体が本能的に恐怖を感じて震えている。灰が落ちる。鬼塚は気に食わなかった。こんなにも憎んだ世界に、己の体はまだすがり付こうとしている事が。嬉しい筈なのだ。なのに震えは治まらなかった。神田の家はここから近い。早足な彼ならば十分も経たずに着いているだろう。鬼塚は立ち上がった。椅子が倒れる。ズボンのポケットから紙幣を掴み取り、カウンターに放り投げた。店の戸を蹴り開ける。雑踏。なにも知らない人々。群衆。いつも通りだ。やはり。鬼塚はゆっくりと群衆に紛れて歩き出した。

再び押し寄せる人波。

接近する鉄道。

迫り来る轟音。

その一瞬。

無音。

ゼリー状の空気は一瞬にして澄み渡る。

鬼塚は悟った。

悟った。

神田は押したのだ。

二〇九八年八月九日午後八時三十八分だった。



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