無価値な救世主様へ
これは社会的に何の価値もない、ただの社会の歯車である僕の、他愛ない積年の思いだ。これを読んだところで、あなたの人生に何か少しでも良い影響があるとは思えない。
でももしこれを読んでくれたなら、ほんの少しでも共感してくれたなら、少なくともあなたは僕という小さな人間を救ってくれた救世主だ。
そんな無価値な救世主という称号に興味がある方だけ、この駄文を読んでくれたら良いと思う。
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今朝の目覚めは最悪だった。連日の徹夜仕事のせいか偏頭痛がひどくて、こんな日に限って朝から天気も大荒れだ。でもそれ以上に、夢の中で昨年末に死んでしまった実家の犬が出てきて、元気に家の中を走り回っていたものだから、目覚めた後の胸の痛みの方がもっとひどかった。
すっかり物置にされてしまった僕の部屋。荷物だらけで埃っぽい。せっかくGWで帰省しているというのに、居心地はよろしくない。きっとあんな夢を見たのも、こんなところで寝ていたからだろう。
昼頃にのそのそと起きると、僕は隣の家へ向かった。少々特殊な家庭なのだが、僕の実家は一軒家が2つ連なっていて、片方が僕の生家、もう片方が母方の実家になっている。僕から見たら隣は「おばあちゃん家」なのだ。
僕は帰省している間、毎日そのおばあちゃん家に寄って仏壇に線香を供え、手を合わせる。それは子どものころからの習慣だった。
いつもなら誰かしらが出迎えてくれるのだが、今この家には誰も居ない。今というか、もうしばらくの間この家は無人だ。
元々住んでいた母方の従兄弟たちは、皆自分よりひと回りほど年上なので、とっくの昔に家を出た。家族関係も正直良くなかったので、ここに帰ってくることはまずない。その従兄弟たちの母親 (僕から見た伯母)は、10年ちょっと前に膵臓がんで亡くなった。その旦那は存命だが、単身赴任で昔からほとんど家に居ない。祖父はもう20年以上前に亡くなっているし、祖母はつい3ヶ月ほど前に亡くなった。ついでに僕が生まれて以来、兄弟のように育ってきた猫も居たのだが、僕が中学3年のときに腎盂炎で天寿を全うした。
年々、この線香で想う人が増えていく。同時に、この家からはどんどん人も動物も居なくなっていく。
僕はいつからだったか、異常なほど過去に縋りつく性格になってしまった。見知った景色や人々が変わっていく様を見るのが、ひどく悲しくて仕方ないのだ。
きっかけはいくつか思いつく。たとえば中学生の頃、僕は一時期ほとんど引き篭もりみたいな不登校児だった。今考えてもあれほど精神状態が劣悪だった時期は無いかもしれない。
引き篭もりあるあるなのかはわからないが、記憶が更新されていくような出来事が起こらないので、常に昔の夢ばかり見るようになるのだ。昔といっても中学生だから、幼稚園とか小学校低学年くらいのことばかり。しかも最悪なのが、周りの同級生に混じっている自分だけが何故か大人の姿だったり、逆に赤ん坊の姿でみんなの中に入っていけなかったりするのだ。
そんな頃から「あの頃は良かった」なんて、年寄りみたいな思考が自分の中に根付いていたような気がする。
そしてとどめが先述した猫の死だ。15年間一緒に過ごしてきた家族がこの先の未来から居なくなってしまったことが受け止められなくて、僕はそのときから日記を書くようになった。大きな出来事を記録するためではなく、誰の記憶にも残らないような取り留めのない日常を、何とかして遺しておきたかったからだ。
だが残酷にも、世界は止まることなく変わっていく。そして人々の記憶も、どんどん新しい常識に塗り替えられていく。
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僕が生まれた町は、ベッドタウンの新興住宅地だった。ほとんどその区画に一番乗りみたいな状態だったから、小さい頃家の周りは更地ばかりで、遊び放題だった。
そこに段々と家が建ち、人が増えていった。自分と同い年くらいの子どもがいる家族が多かったらしく、近所の友達もけっこうできた。
夏になると、家の前からでも遠くでやっているお祭りの花火が見えて、近所の子どもたちと一緒にそれを眺めたりした。だが家が増えていくと、花火も空も建物に隠れて見えなくなってしまった。
自分が大学生になる頃には、当然周りの子どもたちもどんどん大人になっていって、それぞれの家から旅立っていった。僕もそれに違わず進学とともに上京したのだが、間もなく伯母が亡くなり、おまけに僕の両親もいつの間にか離婚していた。
僕がキャンパスライフを謳歌しようとした矢先、実家は大荒れしていて見るも無残に崩壊していたのだ。そのゴタゴタをここで細かく書くことはしないが、超がつくほど保守的だった僕がその様を見て、どれだけ情緒不安定に陥ったかは言うに及ばない。
実家からはどんどん人や動物が居なくなり、対照的に周囲では相変わらず雨後の筍のように家が建つ。僕はそんな対比が嫌でしょうがなかった。
時は経ち、僕も大人になった。社会的に一人立ちできるようになったからか、ある程度の理不尽や時代が変わっていくことは大抵受け入れられるようになったつもりだ。
だが最近、また新たに過去を懐古する自分の感情が芽生えてくるようになった。それはあれだけ次から次へと家が建っていたこの新興住宅地でさえ「年を取っていた」からだ。
色々あって、僕の実家では母がほとんど一人で生活している。そして隣のおばあちゃん家は今や無人。でもそれだけではない。僕が帰省する度、近所にも空き家が増えていたのだ。
社会情勢には疎い方だが、今は一人立ちして上京すると、結婚や出産なんかしたところでわざわざ実家を継ぐために戻ってきたりしない時代なのかもしれない。たまにニュースで「限界ニュータウン」なんて言葉も聞くが、他人事ではないのだろう。
正直、そんな現代日本の社会問題にはあまり興味がない。だが気付けば、あれだけ毛嫌いしていた新しい世帯の台頭すら、僕は恋しくなっていた。というより、この閑散と寂れたご近所周りが、何とも虚しくて仕方がなかった。
「あの頃に戻ってほしい」という僕の中の「あの頃」も、時間を経て知らず知らず様変わりしていたみたいだ。きっと自分自身も無意識に変化しているのだろう。
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無人の隣家に線香をあげた後、僕は家の中を歩き回った。祖母が寝ていた和室、よく猫が覗きに来ていたリビング、しょっちゅうお邪魔して一緒に昼ごはんをご馳走になっていたダイニング。たまにゲームを貸してもらった従兄弟の部屋、伯母が得意だった美術創作に勤しんでいた書斎。今はもう誰も居ない。
過去を振り返るのは、女々しいことなのかもしれない。未来に向かって考え続けることの方が正しいのかもしれない。
でもどんなに上っ面でポジティブに考えようとしたって、未来を見ようとしたって、「あの頃」の幸せな光景は、僕の視界の中でずっと眩しく見えたままだ。大人になった今でも、ずっと。
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あなたがどんな人生を歩んできたのか、僕は知らない。昔を憧憬するなんてくだらないと思うなら、それで良いと思う。
でもそこには、あなたやあなたの周りの人にしか遺せない貴重な歴史があるはずだ。本やネットやテレビなんかでいつでも見られるような、世界や日本の大きな歴史なんて、僕は興味がない。
ただの小さな一市民であるあなたが、どんな歴史を見てきたのか。あなたに繋がるまでに、その親や祖先や周りの大人たちが、どんな歴史を紡いできたのか。そこにこそ僕は大きな感動があると思う。
広大なネットの海で、こんな言葉が何人の目に留まるだろうか。もしかしたら誰にも見られないまま、いつか消えてゆくかもしれない。仮に誰かが見てくれたとして、その誰かの歴史を僕が知ることはできないだろう。
でもせっかくこんな便利な時代なのだから、その歴史そのものを発信して、ネットの海に浮かべてみるのも良いのではないだろうか。世界を救わなくたって、大恋愛をしなくたって、その物語はきっと素敵で、唯一無二の感動があるはずだ。