第5話 歌い手の苦悩
文芸部の西条鶴子先輩と一緒に図書室で本を選んでいる。
別段待ち合わせの約束をしていた訳ではなかったけど、今日図書室に行くと先輩も偶然同じ目的で居合わせたのだ。
「朝日君、次の対談の候補本どうするかね?」幾つかの当たりをつけているのか、数冊の(学校図書室内での)新刊を小脇に抱えた先輩が眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げながら聞いてきた。
西条先輩は文章が書けない僕と一緒に書評コーナーを担当してくれている。
以前、西条先輩にだけは、僕の中に文章を書きたい気持ちがある事、そして書こうと思っても書けないと相談したことがある。
その時、先輩は相変わらずの眼鏡をかけ直す仕草の後、少し間を置いてこう言った。
「朝日君。ネット動画等は観た事があるかね?」
「たまになら……」その時はこう答えた僕だけど、先輩の話を聞いてから実はド嵌りする事になるとは思ってもいなかった。
「歌い手の苦悩という話は知っているかね?」と続ける先輩。
歌を唄い続け、その歌唱力が評価され始めると、今度は自分で曲を書けないことを非難される。そして、努力してオリジナル楽曲を作り歌唱しても、以前の方が良かったと言われるという話だ。さらに続けて、
「F-1ドライバーが一流スタッフに車の整備をしてもらっても、運転しか出来ないとは非難されないのにな……」とぼやいた。
「朝日君、君は本を読み、理解する能力に長けている。私はそれだけでも充分誇れることだと思うぞ」
そう言って励ましてくれた先輩と本の話をしていると、僕の書きたいという気持ちが小さくなっていく感じがする。
真夏といると物書きになりたいと焦がれる自分が表に出ようとする。僕にとって先輩は真夏とは対局の関係にあるカンフル剤だ。先輩と時間を過ごしていると、読み専の自分は居心地が良い。
いつも図書室では、周りの迷惑にならないよう隣合って座りお互いに小声で話をする。
「なるほど。君の近しい知人女性が夢の中では恋人役だったのか」昨日見た夢の話をした。真夏の名前は当然伏せた。
「まぁ、そういう事です。でも別にその子の事を好きとかそういうのじゃ無くて……」
そこまで言ったところで、先輩がずり落ちた眼鏡の隙間から上目遣いの裸の瞳で僕を覗き込む視線に気付いた。
「朝日君。それはアレだ。君の中の抑圧された青い性衝動に寄るものだよ。フロイト先生もそう仰っているぞ」
ぐいと顔を近づけ、僕の方を指差していた人差し指でそのまま眼鏡を軽く押し上げ、ふぅーっと吐息を吹きかけて囁いた。
「……相手が必要なら協力してやらんこともないぞ」
「な、何言ってるんですかっ」
のけぞった拍子に椅子ごと転げ落ち、ガタタンと大きな音を立ててしまう。周囲からの視線が刺さる。
「お騒がせした。すまんな」柔らかいが透き通る声を張り、先輩が僕に右手を差し出す。周りの生徒達も静かに本やノートに視線を戻した。
先輩の手を取り、引き上げられながら起き上がり椅子を元に戻す。
眼鏡のブリッジを軽く押し上げた先輩が優しく微笑む。
「冗談だ」




