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第4話 大正浪漫

 僕は本を読んでいた。

 人を待っている間だけ、そんな時間潰しの筈が没頭し過ぎて周りが見えなくなっていた。つまらない悪戯に引っ掛かったのはその所為だ。


「だーれだっ?」

 視界が暗くなったと思うと、耳元で聞き慣れた声がした。少し遅れてふわりと花のような甘い香りが漂ってくる。

 そうだった。僕は彼女を待っていた。

 本を閉じて振り返ると見慣れた真夏(まな)の顔がある。いつの間にか長く伸びた髪、いつもの着物、そして、本を読み耽っていた僕に不満そうな表情。彼女が本に嫉妬をしているのでこちらも反論する。

「君が待ち合わせに遅れるからだろう?」

「それは悪うございました。それでは行きましょうか?」


 僕が歩き始めると、追いかける様に小走りになった真夏が僕の手を握ってくる。上目遣いの彼女の顔を見て、歩く速度が速いと喧嘩した日の事を思い出した。

 気付かれない様に小さく溜息を吐いて歩幅を狭めた。

「ありがとう、正一(しょういち)


 立ち止まって真夏の顔を覗き込むと、頭の中に自然と彼女の真名(まな)が浮かぶ。

志乃(しの)が怒るから……」僕の唇をそっと人差し指で触れて志乃が遮る。

「貴方はだあれ?」

 僕は正一、作家を目指す青年。恋人の志乃にデートの(たび)に小説の書き方を教えている。


 初めて過ごす大正時代は、本で読んだ印象よりも色と音に溢れていた。


 これは夢だ。

 真夏が書いた新作小説の世界観。

 僕は主人公の正一になりきっていて、慎ましやかだけど偶に幼い悪戯心が覗く可憐なヒロインの志乃には、何故か真夏が選ばれてしまった。


 目を開けると自分の部屋。見慣れた洋間の天井。

 自分でも驚いたのは、ヒロイン志乃の仕草一つ一つをその都度文章に表せている正一の感性だ。見たもの、感じたものが殆ど自動で文章として脳内に変換されていた。

 真夏の小説は、そんな正一の作家になりたいという夢が叶った所で終わっていた。


 夢は僕の脳が作り出した産物。だとすると僕にも正一のように文章を書ける力があるのだろうか? もしそうなら嬉しいんだけど、もしかしたら、真夏の小説の完成度が高かっただけかも知れない。現に二人が物語の中でデートをしているような所は描かれていなかった。だけどきっと、正一と志乃ならこんな逢瀬を繰り返していただろう。そういった事まで想像出来るのだ。



「だーれだっ?」

 翌朝、いつもは背後から忍び寄って僕の尻に自分の鞄をぶつけながら挨拶する真夏の(てのひら)が僕の視界を奪う。昨日見た夢の女性、志乃の体温が、匂いが、囁きが脳裏に鮮明に蘇る。

 鼓動の高鳴る音を合図に、僕の腕が真夏の手を払う。

「イタっ」真夏が力加減を忘れて払われた腕を押さえて痛がる。

「あ、ごめん。けど、なんだよ急に! そんなのは恋人同士でやってくれよ。お前に彼氏が居たらの話だけど……」

「ひっどーいっ! ……昨日読んでくれたでしょ、私の新作。ヒロインがやってたじゃない、真似してみただけなのにっ」

 彼女はそう言って膨れっ面をするが、昨日読んだ小説の中にはそんな描写はなかった筈。学校までの道程でその事を問い詰めると、やっぱり真夏の勘違いで二人のデートシーンは推敲の段階で削られていた。


 正門をくぐり、上履きに履き替える。階段を昇りお互いの教室へと別れるまでの間に、迷っていたが昨晩見た夢の話をした。目隠しの悪戯の事は伏せて。

「ふーん」と言った真夏の口角が少しだけ吊り上がってこちらを黙って見つめる。

「なんだよ?」

「夢の中で恋人同士だったんだ、私たち?」

「ば、馬鹿。それは別に……」

「じゃーねー」といってヒラヒラと手を振り小走りでクラスメイトの女生徒に紛れていく真夏の背中に僕の言い訳は届かなかった。

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