プロローグ
やばい、やばいやばいやばいやばい!
鬱蒼とした森の中を疾走しながら、胸中で毒を吐き捨てる。
聞いてない。依頼は洞穴に棲みついたププカカの討伐じゃなかったのか。あれのどこがププカカなんだ。依頼を出した奴は目が腐ってるか、相当なバカのどっちかだ。
ふざけるな!
持ってきた装備の残りを思い出す。
毒消し草。ププカカは猛毒をまき散らす怪鳥だ。これがないと始まらない。火属性魔法のスクロール。ププカカは火に弱い。ぶつけるならこの魔法に限る。あとは腰にぶら下げた剣と身に着けている防具、回復薬の入った小瓶が一本、それだけだ。あとは全部、使ってしまったか破壊されてしまった。
万事休すってこういう状況を言うんだろうな。
不測の事態による混乱で、いよいよ思考が明後日の方向へ飛び出した。
極彩色の毒々しい見た目、落っこちそうなギョロ目が特徴のあの怪鳥を、何をどうやって見間違えたのか。洞穴に乗り込んだ私を出迎えたのは、まだ幼く小型ではあったものの、なんとまさかのドラゴンだった。
ウズシンリリー種。
毒々しい深い紫の鱗を持ち、金の目の周囲に棘に似た深緑の房毛が生えている。あいつが歩いたあとには草の一本も残らず、土壌は汚染されるといわれるほどの猛毒を内包している。……見間違えるかもしれない。ウズシンリリー種は湿地帯に巣をつくる。しかし発見されたのは森の中の洞穴だ。ププカカは洞穴を好む。いや、待て。見間違えるもんか。ウズシンリリー種は胴が細長く、四足歩行。ププカカはずんぐりとした胴に二足歩行だ。ど素人かよ。
目撃情報に対して詳細な聞き込み調査をするのはギルドの仕事だろう。ふと、最近、職員になったばかりの新人の顔が浮かぶ。あのお調子者が担当したんじゃあるまいな。女が通りかかるたび話が中断されるあの男なら、詳細を聞き逃した可能性は濃厚だ。
ぶん殴ってやる、と意気込むも、彼を殴るためにはまず、この場を切り抜けて生きて帰る必要がある。
無理だ。冗談じゃない。勝てるはずがない。こちとら一介の戦士だ。ここ数百年ほど続けて魔法使いの資質を持つ人間への転生であったのに、急に戦士へ鞍替えだ。剣の振り方などもう忘れてしまっていたし、とっさの判断を迫られる場面ではどうしても魔法を選択してしまう。使えないのに。
そう、今生の私は、魔法の才が一切なかった。
「どうしよう、本当に死ぬぞこれ」
ただでさえ希少なドラゴンの中から引き当てたのがよりにもよってウズシンリリー種というのは、最悪と言って問題ない程度には最悪の事態である。遭遇したら最期。待っているのは死のみだ。あいつの毒はププカカの比じゃない。歩いたあとには草一本も残らない。吐く息を一呼吸しただけで死ぬ。
死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ。
蛇のようなしなやかな筋肉に覆われたウズシンリリー種はとにかく足が速い。翼がないので飛行はできないが、人間だって飛べないのだからむしろ不利なのはこちらだ。人間は全身が猛毒で覆われていないし、オリハルコンより等級の高い鉱物からつくられた剣でなければ切れない硬質な鱗もない。
「うわっ!」
脳天をかすめた何かに心臓がすくみあがる。
そうだ、爪もない。山をも削る鋭利で立派な爪も、人間にはない。
「くそぉ、ドラゴンだとわかってたら近づかなかったのに」
スクロールを発動して、周囲に火を走らせる。熱で怯むか、木でも動物でもいいから何かが燃える匂いで、ウズシンリリー種の気が私から逸れないものかと期待する。この際、森が焼失しようが知ったことか。私が生き残ることが最優先だ。
堂々と自分を可愛がってスクロールを発動させるも、迫りくるウズシンリリー種の勢いにあっさり押し負け燃え広がる気配もない。ウズシンリリー種は燃え上がる足元など歯牙にもかけず、どころか踏みならして火を消して回っている。熱そうな素振りも見せない。
案外、例の洞穴を気に入っているのだろうか。誰だって家の周辺に放火されたら怒るし、消火活動には熱心だろう。
そもそも対ププカカ用に揃えたスクロールでは、ドラゴンを焼くなど不可能である。火力がまるで足りていない。
まとめて発動させたりもするが、結果は変わらなかった。知ってた。
さて、どうしたものか。困ってしまった。じゃんじゃんスクロールを消費したことで、現状を打破して生き残ることを諦めている自分がいることに気づいた。さすがにちょっと落ち込む。
むやみに繰り返される転生によって、死に対して無感情になってきている自覚はあった。どうせ人間だ。八十年も生きられたらいいほうだろう。死んで、どこかで生まれて、また死んで。食事の終わりと一緒。食べ終わったら、終わり。
「やばいなあ……」
懸命に足を動かしながら、真剣になろうと試みる。手を抜けば死ぬ。さっきちょっと諦めたから、もう手札は残ってない。
考える。
ププカカが相手だと思っていたから剣は鉄製、ウズシンリリー種でなくてもどんなドラゴンだって切れはしない。防具は物理攻撃のダメージ軽減に重点を置いたもので、魔法の一つも施されていない。ドラゴンの爪がかすめようものなら、体ごとバラバラにされる。
勝ち目なし。改めて確信する。
元より私の実力では、装備が整っていたとしてもドラゴンを倒すなど不可能だ。今はただ逃げるしかない。緊急の救援要請は飛ばした。洞穴にいるのがドラゴンだと確認してすぐ、息を殺して逃げ出してすぐのことだ。よくもまあ、あれだけ全直疾走しながら閃光弾を装填して発射までできたと自画自賛する。
まあ、ウズシンリリー種は持ち前の素晴らしい嗅覚で私に気づいて、普通に洞穴から出てきたわけだけど。脱兎のごとく逃げ出しつつ閃光弾を打ち上げた私を見て、張り切って追いかけているわけだけど。追いかけっこの最中スリンガーはあっさり破壊され、閃光弾で目眩ましすることもできないわけだけど。
ともかく、近くに凄腕の冒険者がいることを祈るばかりだ。
誰でもいいから私を救ってくれ。
「あ、っぶね!」
すぐそばの地面が抉られた。
ウズシンリリー種は猛毒を内包しているが、ブレスを吐くことはない。分泌する毒に触れれば死ぬ。呼気に含まれる毒に触れれば死ぬ。表皮に滲む毒に触れたら死ぬ。しかし遠距離で毒を浴びせる手段は持っていない。
だから逃げる。逃げて逃げて、逃げまくる。
とにかく元気で足も速い。取り柄と言える程ではないが、今日ばかりは助かった。魔法の才はなく、ただ体格に恵まれただけの私はもう、体力で相手を上回るしか勝算を稼げない。だって剣の腕は、はっきり言ってくそだ。
一から鍛え直そうにも、とにかくセンスがない。昔から苦手だったが、やはり剣とはとことん縁がないと思い知るばかりだった。とはいえ他の武器が扱えるかと言われるとそんなこともまったくない。
魔法の才に恵まれていたここ数百年は、本当に運が良かったのだ。あちらとは相性がいいらしく、鍛えれば鍛えるだけ強くなった。無茶の押し通し方も心得ている。
「あー……くそ」
せめて周囲にゴブリンか、オークでもいないものかと視線を走らせるが、そう都合のいい展開あるはずがない。
ゴブリンやオークの強烈なにおいは、鼻の利くドラゴンにとって避けたい対象の上位に食い込む。何でも食うドラゴンも、あいつらの肉はさすがに嫌がる。
一匹でも見つければ殺して、血を全身に塗りたくってやるのに。もちろん人間の嗅覚でも間違いなく嘔吐するくらい臭いが、それが何だ。生き残れるならゲロまみれになるくらい大したことじゃない。
生き残りたい。
わずかな未練が足を動かす。私は私の死をそこまで惜しいと思わないが、今回ばかりは事情が違った。残してきた家族がいる。私がちょっと指を切っただけでも大騒ぎする連中だ。死んだなどと知ったら一体どうなるか。
想像するのも嫌で、とにかく逃げる。
しかし長続きしないことは私が一番よくわかっていた。足が重い。息が上がってきた。たかが人間の私だ。いかに体力自慢であろうと、さすがにドラゴンを上回ることなんてできない。
せめて一呼吸、深く息を吸う時間があれば持ち直すのだが、そんな余裕を作り出す術がない。
冒険者になんてならなければ良かった。ありもしない戦士の資質を過信するような真似までして、剣をとるなんて無謀にも程がある。
一攫千金。私の見る夢はいつだって大間違いで、ろくな目に遭わない。次こそは、今度こそ。そんなことこれまでの人生で一度もなかったのに、ついつい賭けてしまうのだ。そうしてきちんと破れる。
「……はは、」
笑ってしまう。いつの間にかすっかり心が折れている。
ここで浮かべるのが残される家族への謝罪でなく、自分への言い訳だというのが実に私らしい。ろくでなしが。吐き捨てたところで、どうせ反省なんてしない。またいつか、どこかの人生できっと同じことをやらかすに決まってる。
足がもつれた。盛大に転がって、しかしおかげで、迫っていた牙を避けられた。ほんの数秒、生きながらえた。
立ち上がり、駆け出す。肺が痛い。頭痛がする。口の中が鉄臭い。
いよいよ限界だ。物理攻撃こそギリギリで回避していたが、毒はそうもいかない。即死しなかった己の図太さに呆れつつ、焼けるように熱くなった喉を震わせる。対ププカカ用の毒対策は無駄じゃなかったらしい。
そういえば回復薬が残っていたはずだと腰のあたりをまさぐり、何もつかめないことにまた笑う。最後の一本、どこで落としたのかもわからない。毒消し草も消えている。
ダメダメじゃねえか。
「はは、あっはっは!」
爪だか尾だかあるいは顔か、とにかく、ウズシンリリー種の肉体のどこかがすさまじい速度で迫る。
あ、これ死んだ。
脳がそう判断したら、体が勝手に動いていた。とっさに頭だけでも庇おうと剣を構え、魔力を練るぅ……ああ、今の私は魔法が使えないんだった。またやった。最期の最期にやりやがった私のバカ!
音が遠のく。ふっ、と顔に風を感じ――はい、死んだ!
ごちゃっ、と。視界も意識も真っ暗になった私の元へ、音だけが鮮明に届き鼓膜を殴った。