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02


 顔からサーッと血の気が引く。

 さっきまでポカポカしていた体はすっかり冷め、心臓だけが早鐘を打っている。

 ヴィンセントだ。ヴィンセントがいる。私の目の前に、ヴィンセントが立っている。

 ヴィンセント。名前が頭の中で積み重なって、頭痛がする。どうしてここに、なぜ今、どうやって私を見つけた。滴る疑問が、過去の苦い記憶を溶かして舌を焼く。

 受け入れられない現実に思考まで硬直する。


 クビを告げられたのは随分と前のことだ。擦り切れるほど夢に見て、擦り切れてしまって思い出すことのほうが少なくなった。

 思いがけず再開することになった一人での生活にも慣れ、どころか新しい人生を始めてもう長い。

 神官とおかずの奪い合いをして、行儀が悪いと戦士に叱られることのない食事の静けさにも慣れた。寂しさはしばらく引きずったが、幸いなことに腹が満たされれば、まあいいか、と割り切れる図太さを持っていたらしい。

 夜の街に繰り出して女性の胸に顔を埋めようではないか、と寝ている私をベッドから引きずり落とす神官を殴り倒して寝直すことのない夜があるのだと思い出したときは、感動でぐっすり朝寝坊した。

 一人での食事、途切れない睡眠、一人旅、続く静寂。分け合うとか、共有するとか、そういったことから随分と遠のいた。

 そうだ、私はもう一人に慣れてしまっている。

 今更、過去に追いつかれてもどうしてやることもできない。


「エース……」


 子猫が親を呼ぶような切ない声音に背筋が凍った。こぶしを握る。


「あ、あのさ、」


 遮って、渾身の力を込めて、ヴィンセントの頬にこぶしを叩きつける。ダァンッ! と大きな音がして、ヴィンセントの体が床に倒れた。

 硬直していた体に血が巡る。沸騰でもしているのか、凍った背筋が溶けて雫が滴った。暴れる心臓が鼓膜を殴るせいで、周囲の音が拾えない。頭痛がする。うまく焦点が合わせられない。


「ジャック!」


 野太い声と共に、乱暴に肩を揺さぶられた。ハッとして顔を上げると、戦士が血の気の引いた顔で私を見ていた。


「どうしたんだ、あんたらしくもない!」


 どうした、どうした?

 どうしたもこうしたもない!

 床に這いつくばって殴られた頬を押さえている男は、ヴィンセントは、私を散々に踏み躙った挙句に捨てたんだ。要らないと、穴の開いた靴下を捨てるような気軽さで。……いや、それはもういい。過去の話だ。

 歩み寄り語り合う努力を怠った私にも非があったのだと、あれは納得して終わった。あのあと自分なりに反省して、以降は嫌なことを言う相手とも対話する努力ができるようになった。おかげで友達づくりが上手くなったのだから、苦い記憶ではあっても嫌悪することじゃない。


 殴ったのはだから、それが理由ではない。

 過去の話で、……なぜ過去のままでいてくれないのか。どれだけの年月が過ぎたと思っている。今になって会いに来たりして、どうしようというんだ。何がしたいんだ。

 ふざけるな。


「すまない、混乱している」


 じっとりと濡れた額を拭う。いつまでも心臓が落ち着かない。呼吸の仕方はこれで合っているのだろうか。不安になるほど乱れる。


「あんたがそんなに取り乱すなんて、……こいつ誰だ?」


 戦士の大きな手が背中をゆっくりと撫でていく。幼子でも慰めているような優しい手つきに、情けなくも力が抜けた。


「昔馴染みだよ」


 すんなりとそんな表現が出てきたことに自分で驚いた。


「昔、仲違いをして……気にしていないつもりだったんだが、自覚していたよりずっと深い傷になっていたらしい」


 言ってから気づく。

 ああ、そうか。私はショックだったのか。昔の傷だと自分をいくら慰めて、どんなに慣れたふりをしても所詮、寂しさを振り切ることはできなかったのだ。

 乾いた笑みが血を吐くように口からこぼれた。


「ジャック、大丈夫か?」

「ありがとう、おかげで少し落ち着いた」


 背を撫でてくれる手をそっと遠ざける。いつまでも世話を焼かれるのはくすぐったい。


「みんな、騒いですまない。メリンダ、せっかくの食事を駄目にしてすまなかった。悪いが今日は帰るよ。このお詫びは近いうちに必ず」


 成り行きを見守り、気まずい顔をしていた連中に下手くそな笑みを向ける。みな、気にするな、と声をかけてくれた。どいつもこいつも優しくて、胸が痛い。

 弱々しい声ではあったが届いたのだろう。怯えたように身をすくませていたメリンダがハッとして駆け寄ってきた。


「ジャックさん、大丈夫ですか!?」

「ありがとう、私のことはいいよ。それより驚かせてすまない」

「そんなこと……。気にしないで、また来てくださいね」


 優しくされると困ってしまう。慣れていない。


「ありがとう。近いうちに必ず、また世話になるよ」


 苦しい笑みをなんとか顔に貼りつける。すっかり眉が下がってしまったメリンダも、同じように笑みを返してくれた。


「みんなも、ありがとう。それじゃあ、また」


 代金より多めの金をテーブルに置く。

 メリンダが数えて多くはもらえないと声をあげるまでにここを出なければならない。

 いつまでも床に倒れ伏して、頬を押さえるばかりで起き上がりもしないヴィンセントの腕をつかむ。


「来い」


 返事はなかったが、無視してそのまま引きずって店の玄関へ急ぐ。


「あ! ジャックさん!」


 咎めるメリンダの声が背に刺さった。走る。急に腕を引く力が強まって驚いたのか、あるいは引きずられるのが痛かったのか。されるがままになっていたヴィンセントが転がりながらもようやく立ち上がった。構わず走り続けて店を飛び出す。

 大急ぎで夜の町を駆け抜け宿に戻った。荒い呼吸を整えるのも後回しで、渾身の魔力を練って部屋に防音を施す。

 こんなに走ったのは久し振りで、酸素が足りなくて頭がくらくらする。運動不足、という言葉が浮かんで、慌てて頭を振って追い出した。

 近いうちにギルドへ顔を出して、いくつか依頼を受けよう。こんなにも体が鈍っているなんて思いもしない。案外、私の舌には既に苔が生えているかもしれない、と思ったら肩が震えた。


「な、なあ……」


 部屋に入ってすぐ、床に放り捨てたヴィンセントが鳴いた。


「エース――」

「その名で呼ぶな」


 ぴしゃりと叱りつけるような、鋭い声が出た。深く息を吐いて尖る気持ちを散らそうと努力する。駄目だ、腹が立つ。怒りで頭痛がする。


「何しに来た」


 さっさと用件を聞いて、そしてさっさと追い出そう。

 床に、どうしてか膝を揃えて座ったヴィンセントを横目に、ベッドに腰を下ろす。疲れた。


「お、俺……」


 長い耳がシュンと下を向く。勇者に私たちへの態度を叱られた際、ほんの短い時間だけ見られる光景だ。双眸は不服そうに逸らされていたかつてとは違って、今は自信も驕りも失くしてしまったように不安定に揺れている。


「俺……」


 どうしたというのだろう。こんなヴィンセントは見たことがない。

 私の知っているヴィンセントはいつだって、いつか溺死してしまうと思えるほど自信に満ちあふれていた。こんな風にうつむいて、人の、特に私と視線を交わせないほどおろおろと落ち着きのない男ではなかった。

 口角を吊り上げ、顎を上げ、常に他者を見下すような態度を崩さなかった。エメラルドグリーンの双眸は爛々と燃え盛り、吐き出す言葉の半分は嘲笑混じり。笑み一つとっても、外見に見合う無邪気なものは、それこそ泥酔でもしなければ見られなかったというのに。

 ようやく落ち着きを取り戻してきた心臓を労いつつ、ヴィンセントの様子をしばらく観察する。何があったのか、きょろきょろと視線をさまよわせる様はまるで迷子の幼子だ。

 どれだけそうしていたか、きつく口元を引き結んだヴィンセントがゆっくり顔を上げる。



「一方的にクビにしてすまなかった! 戻ってきてください!」



 ビリビリと空気を震わせる、すさまじい声量が鼓膜を貫いた。目がチカチカする。びっくりして、ベッドから尻が少し浮いた。


「な、何……?」


 言葉の意味が理解できない。

 すまなかった、と言ったように聞こえたが、まさかそんなはずはないだろう。この男は唯我独尊、天上天下において最も崇高な存在は己であるという確固たる自信がある。私に対して謝罪をするくらいなら、私を殺して過失のほうを葬り去るような男だ。

 では後半の、戻ってきて、とは何だろう。まさか私にパーティへ戻れと言うわけもない。では何か私が必要な事態が起きたのだろうか。そもそも必要とされた場面などあっただろうか。何かあった気はするが、記憶が古くて思い出すのに時間がかかる。


「俺が悪かった!」


 そうこうしている間にもヴィンセントの発声はますます勢いを増していく。部屋に防音を施しておいて良かった。

 悪かった、とはやはり謝罪なのだろうか。信じられない事態に脳が理解を拒む。誰だ、こいつ。本当にあのヴィンセントか。

 とっさに浮かんだ疑問にはっとする。

 そうだ、もしかするとこいつは、ヴィンセントの偽者かもしれない。だってあのヴィンセントが私に謝罪をするなど、やはりどう考えてもありえない。

 この偽者はきっと、私を誑かしてどうにかするつもりなのだ。だからこんなに真摯な謝罪をぶちまけているに違いない。……そんなわけない。今更のこのこ私の元へやってきて、どれだけ必死に謝罪したとて、そんな行為に意味などない。

 謝罪するには時間が経過し過ぎている。気持ちはどうあれ、もう過去のことだ。蒸し返す

にしても既に腐っているだろう。謝ったから仲直りしてさあ友達、なんてことにはならない。なってたまるか。

 騙されないぞ、といきり立つ気持ちを落ち着ける。


「ひどいこと言ってごめんなさい!」


 ゴツン、と硬い音がした。見ればヴィンセントが床に額を打ちつけている。これはあれだろうか。土下座、というやつだろうか。謝罪の最終形態だと、どこかで聞いた覚えがある。

 実際にやっている人を見るのは初めてだ。しかもそれがヴィンセントともなると、これは奇跡の瞬間かもしれない。かつての仲間たちがこの場にいないことが残念でならない。みんなで声をそろえて大笑いして、笑い転げているうちにひょっとすると神官の顎が外れたかもしれない。それほどの衝撃的な出来事だ。楽しかっただろうに。


「お願いします!」


 戻ってきてください、と再び鼓膜を貫いた言葉を聞き流し、眉間を捏ねたり、こめかみを揉んだりしてみる。大きな声にも慣れてきた。これで思考に集中できる。

 やはりこいつは偽者だと思うのだ。

 考えれば考えるだけ、その思いは強くなる。

 もし仮に、万が一、ヴィンセントが改心したとしよう。……いや、そんなことあるはずがない。ヴィンセントは己が正しいと確信している。疑うことはない。

 私を追い出した後、戻ってきた勇者にこてんぱんに叱られたとすればどうだろう。……だから何だ。その反省で今、謝罪に来たなんて、そんなバカな話があるものか。一年、二年の話じゃないんだぞ。遅過ぎる。そんな無駄なことはない。これも違うだろう。ヴィンセントであればこれだけの年月を経ないと反省できない、と言われればまあそうなのだが、だからって受け入れることなど不可能だ。

 では一体、こいつは何をしにきたのだろう。そもそも本物のヴィンセントかどうかも怪しい。……考えるのがしんどくなってきた。もう帰ってくれないだろうか。

 どうしたものかとヴィンセントのほうへ視線を向けると、目があった。どうやら頭を下げる姿勢はやめたらしい。そういえば、いつの間にかうるさかった声も止んでいる。


「お前……」


 今度は小さな声で、ヴィンセントがゆっくり言葉を吐き出していく。


「人がこれだけ必死に謝ってるのに、どうしてそこまで無視できるんだ?」


 正気か、と本気で怯えているらしい様子で声を震わせた。ぷちーん、と頭の中で音がした。今日はどうしたものか、あっさり血が沸騰する。


「ふざけるなよ、お前。急に現れて、謝罪のできる俺ってばなんて偉いんだろうって悦に浸りに来たのなら帰れ。何に対するいつの謝罪だ、ふざけるな。……そうだよ、大体いつの話をしてるんだ。あれからどれだけ経ってると思ってる。捨てたごみが惜しくなったのか? それとも何か面倒事を押しつけようって魂胆か? 何にせよ、もう何もかも手遅れだから帰れ。二度と来るな!」


 感情のままに怒鳴って、少しだけすっきりした。

 あの時も、こうしていれば良かった。最初から、怒鳴っていれば良かった。そうすれば、もっと早く、本当に過去の話として忘れていられたのかもしれない。思い出すたびに口の中に苦みを感じるような、そんなことにはならなかったかもしれない。


「エース……」

「その名で呼ぶなと言っただろう。私の名前はジャックだ」


 未練がましく縋ってくるな。

 肩で息をする私の話の何を聞いていたのか、ヴィンセントが再び床に頭を伏せた。


「お願いします、戻ってきてください。俺が間違ってました。反省してます。ごめんなさい」


 涙混じりの声に混乱する。ヴィンセントの涙なんて、それこそ見たことがない。


「何なんだ……。本当に、何しに来た」

「謝りに……戻ってきてほしくて」

「だから、もう遅いって言ってるだろ。無理だよ」


 パッと顔を上げたヴィンセントのエメラルドグリーンが潤む。


「は、反省してる」

「お前の態度は関係ない。戻る意味がないって言ってるんだ」

「お願い……」

「だから、何度も言っているけど、戻らないよ」


 駄々をこねる幼子を相手にしている気分だ。勘弁してくれ。もうくたくただ。

 疲労か混乱か、沸騰していた頭から熱が引く。


「な、何で……」


 これだけ言って聞かせても、ヴィンセントに諦める気はないようだ。よほど切迫しているのか、潤んだ双眸からは今にも涙がこぼれ落ちそうである。往生際が悪い。

 泣こうが喚こうが、戻ることなどできないことを、どうやったら理解してもらえるのだろう。


「私が戻ったところでどうなる? かつての仲間はもういないだろう?」


 戦士も神官も、そして勇者も、もう()()()()()()()のに。私だけがヴィンセントの元へ戻って、一体これから何をするというのか。


「お、俺がいるだろ?」

「君しかいないじゃないか」


 私だって、もうかつての私ではない。昔の話だ。名前すら違う。エースという名は使わなくなって久しい。今後また名乗る予定もない。


「俺にはお前の力が必要なんだ……」

「私はそうは思わない」


 要らない。かつて、ヴィンセントはそう言って私をパーティから追い出した。たとえ私が今、ヴィンセントにとって必要なのだとしても、すぐにまた要らなくなる。そうしたら、彼はきっとまたあっさり私を捨てるだろう。何度も同じ目に遭って堪るか。

 危険に対しては自衛する。そんなの当たり前のことだろう。


「嫌だ。エース、戻って来てくれ」

「嫌だ。私の名前はジャックだ」

「嫌だ。戻れ」

「嫌だ。断る」


 ヴィンセントの双眸に、徐々に光が戻る。伴って、声も力強く、言葉も強くなっていく。決して折れない。屈しない。己の我を貫き通すまで、絶対に引かない。

 こういうときの彼は、心の底から面倒くさいと、私は経験で知っている。


「過去のことは償う。だから戻れ」

「償わなくていいから、諦めてくれ」

「諦めない! お前は俺のところに戻るんだ!」

「諦めろ。何のために戻るんだ」

「俺のためだ」

「だとすればますます嫌だね。戻らない」

「戻れ!」

「断る!」


 押し問答はしだいに喧嘩のようになってきた。戻れ、嫌だ、の応酬だけがいつまでも続く。

 こいつ本当に諦めが悪い。もう一刻も早くベッドで横になって眠りたいのに。疲れた。なんてしつこい。

 面倒で、しんどくて。私の対応はどんどん雑になる。


「戻れ。いつまで過去を引きずるつもりだ。昔からお前はねちねちしつこい!」

「嫌だ。反省なんて言っても所詮その程度じゃないか。お断りだね」

「戻れ。今からだってやり直せる」

「嫌だ。今更やり直すなんて冗談じゃない。しつこいのは君のほうだろう」

「戻れ! お前は俺のものだ!」

「嫌だ! 私は私以外の誰のものでもない!」


 昔もこうして、いつまでも終わらない喧嘩を飽きても続けていた。あんな日々に戻るなんてごめんだ。癒してくれる戦士も、忘れされてくれる神官も、慰めてくれる勇者もいないのに。


「戻れ! お前を見つけたのは俺だぞ!」

「嫌だ! 人を捨て猫か何かのように。そんなだから嫌なんだ!」

「戻れ! エースは俺のものなんだから俺の言うこと聞けよ!」


 かちーんときた。

 謝罪も反省も、結局はその場しのぎ。この男はどれだけの年月を経ようとも、決して変わることはないのだと痛感した。


「嫌だって言ってるだろ! 大体お前、いつまでもエースエースと煩わしい。私の名前はジャックだ! エースなんて名前の人間はとっくの昔に()()()()んだよ! わかったらいい加減、諦めて帰れ!」 


 ヴィンセントが私を追放したのは昔も昔、大昔の話。実に三百年は過去のことである。

 

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