04
森を抜け出す、と見せかけて、近くの洞窟に駆け込んだ。ここは先日、棲みついていた熊の親子が引っ越したので空になっている。彼らは魔蟲に寄生され、背中から特殊なキノコを生やしていた。
ニードホルニーという糸のような見た目をした魔蟲は一般的に、宿主の栄養という栄養を喰い尽くす。妊娠などしていようものなら、子を喰い殺して成り代わり、子のために蓄える栄養のすべてを横取りする。そうして最後は母親の腹を食い破って外に出て、その肉まで喰い尽くす。食べること。それだけに心血を注ぐような蟲である。それがどうしてか、その熊は無事に子を産み、自身の腹を食い破られることもなく生きていた。
こんな事例は見たことがない。調べるしかないだろう。気になったら止まれない。出産直後で気の立っていた熊と三日三晩の睨み合いを経て、私は彼女らとの同棲を開始した。あれは実に楽しかった。
結果としては、寄生したニードホルニーが母親の腹の中で死んでいた、というだけのことだったが、魔蟲の持つ微量な瘴気はじわじわと彼女を弱らせていた。背に生えたキノコは、漏れ出す瘴気と空気中の魔素が結びつき発生したものであり、彼女の精気を養分にしていた。彼女が子に与える乳にも瘴気が混じり、生命の糸は日に日に細くなっていった。
腹を裂いて魔蟲の死骸を取り出せれば話は早いのだが、まさか子熊の前でそんなことをするわけにもいかない。とにかくたらふく食わせ、噛まれようが引っ掻かれようが構わずひたすら回復薬を飲ませ、教会からぶんどってきた聖水を飲ませ続ける日々。背中のキノコは生える端から引っこ抜いて、生えなくなるまで聖水を塗り込んだ。
何をしても瘴気と反発するせいでひどく痛むらしく、毎回のように大暴れされては腕を折られ顔を削られ、私は血みどろだった。回復魔法を使える魔法使いでよかったと心から思う。
楽しい日々だった。瘴気が濃くてキノコを食べることができなかったのは悔しいが、その他は概ね面白おかしく過ごせたと思う。しかしそんな生活は永遠には続かない。
熊の親子は完治すると早々に引っ越していった。
人間である私と過ごした日々で、すっかり野生が薄れてしまったせいだろう。賢い獣だ。野生を忘れ去る前に、彼女らは私という異物から離れていった。……いや、単に私が開発した魔物を呼び寄せるキノコ団子に嫌気が差しただけかもしれない。
瘴気が濃くて食えないキノコに腹を立て、どうにか利用できないものかと頭をひねったのだ。生き物の精気を養分にするキノコである。何かに使えるはずだろう。役にも立たずただ生えているなど許せん。
試行錯誤の果て、開発したのが撒き餌だった。細かく刻んだキノコと薬草を混ぜ、蜜を混ぜて練り団子状にする。微量な魔素と瘴気で魔物を呼び、混ぜ物によって食った魔物を殺すことも痺れさせることも眠らせることもできる。
キノコ自体が希少品であるために量産はできなかったが、私が使用する分には非常に愉快で役に立ったので良しとする。
ただし嗅覚の優れた獣にはにおいがきつかったらしく、団子をつくったあとは洞窟内に入れてもらえなかった。団子のせいで魔物は寄ってくるのに、寝る場所のない私は夜通し魔物を狩って過ごす羽目になった。
彼女らは何度追い出してもきついにおいをさせる私に、嫌気が差して出て行ったのだろうか。去り際に後ろ足で土をかけられたことを思い出し、肩を落とす。寄るな、くさい、みたいな意味だったらどうしよう。ちょっと立ち直れないかもしれない。
いや、でも食うわけでもないのに大量の木の実を置いていってくれたのだった。あれは彼女らなりの礼だろう。そうだろう。そうだと思うことにしよう。
なんだか落ち込んでしまった。
ぐっと伸びをして、頭のてっぺんから暗い気分を絞り出す。
そろそろヴィンセントは見当違いの方向へ走り去っただろうか。町のほうまで行ってくれているといいが。フェンリルはまだいるだろうか。荷物を回収したい。
はあ、やれやれ。
肩を回しながら外へ出て、――……ヴィンセントと目があった。
「うっっっっそだろ……」
「ジョ、……エースてめえこのバカ!」
瞬きの間に駆け寄ってきたヴィンセントの拳が、頬を強く打った。突然のことに驚いて、足がもつれる。勢いづいていた彼もろとも倒れ込んだ。打ちつけた後頭部から鈍い音がする。肩を強かに打って、すごく痛い。
先に起き上がったのは、ヴィンセントだった。
「逃げてんじゃねぇぞ、このバカ!」
バカ、と言うたびに拳が降ってくる。でたらめに殴りつけるので、額をかすめたり頬骨を打ったりめちゃくちゃだ。鼻と目だけは手のひらで庇うが、他は黙って受ける。空いている右腕も床に置いたまま、じっとさせておく。
彼には殴る権利がある。私には殴られる義務がある。そこまで言ってしまえば卑屈だが、そう思ってしまうのだからしかたない。私の罪悪感がそうさせるのだろう。……ヴィンセントを相手に、まさか罪悪感を抱く日がこようとは。
向き合う勇気がなくて続けた逃亡生活だ。見つかったからには、もう逃げられない。
「お前、バカ! 勝手に……バカ!」
相変わらず罵倒の語彙は増えていないのか、ヴィンセントはバカと繰り返しながら拳を振り下ろす。
唇が切れた。爪が頬を引っ掻いて熱を持つ。
どれだけそうしていたか、しだいにヴィンセントの拳が弱まっていく。
「バカじゃねえのか、お前……」
声に涙が混じる。拳が止まった。水が滴り、頬が濡れる。
「バカ、バカァ~~~~っっ!」
遂にはわんわん泣き出した。
容姿は青年に見えるほど成長しているのに、泣き方はちっとも変わらない。幼い子どものように泣く男である。
泣かせたのは私であるというのに、まるで現実味がない。
「お前、お前バカ……お前、俺が何でお前のこと追っかけてんのか知ってるだろ! 知ってるくせに勝手に死にやがって! ……大体、何で逃げるんだよ! 俺から逃げるならフェンリルからも逃げろよ! お前は俺のものなんだから、俺に優しくしねえなら他の誰にも優しくすんな!」
バカ、バカ、と。
ヴィンセントは涙で顔をぐちゃぐちゃにして、しゃくりあげながらそんなことを言う。相変わらず、とんでもなく勝手な物言いである。
いつまでも寂しさを引きずって、果てしなく私を追いかけ回す。そんなことはやめなさい、と何度言っても聞き入れない。
「お前、俺が見つけたときどんな状態だったかわかるか!」
わからない。
「肉片と骨の残骸と布切れが混ざって、血と土で赤黒く染まってたんだぞ! 豚どもの唾液だか排泄物だかも流れててくっっっっせぇし!」
最悪だよ、とヴィンセントが嘆く。
最悪だな、と私も嘆く。
「穴掘って埋める間もずっとくせぇし、ただ埋めるだけじゃ土地が腐るから浄化もしなきゃいけねぇし。お前、俺に感謝しろよ!」
「焼いてしまえばよかったのに」
思わずぽつりとこぼすと、ヴィンセントが目を剥いた。
「人間は死んだら土に埋めるんだ、ってお前が言ったんだろ!」
驚いた。どうやら人間の作法で弔ってくれたらしい。そんな気遣いのできる男であったのか。知らなかった。
「ありがとう、ヴィンセント」
「~~~~っっそうだよ! もっと感謝しろ、バカ!」
「うん、ありがとう。……すまない」
「っ……、うん」
ハンカチなんて洒落たものは持っていないので、汚れていないローブの端で、ずぶ濡れになっている顔を拭いてやる。涙は止まっていた。
「おい、このローブくさいぞ」
「贅沢を言うな。君、そんな顔で戻ったらフェンリルにバカにされて、死ぬまで笑い者にされるぞ」
「……」
ひどい顔をしている自覚はあるのか、ヴィンセントは黙ってされるままにある。
「また私の人生を掻き回しにきたんだね」
「お前は俺のものだ。今回は嫌とは言わせねぇぞ」
「言うよ。私は私だけのものだし、君のために人生を使うなんてごめんだ」
「……」
「でも、前回のことがあるからね。仲良しごっこくらいはしてやるよ」
「……もう逃げるなよ」
逃げないよ。はっきり伝えると、ヴィンセントは自分の袖で顔を拭った。馬乗りになっていた私の体を解放し、自分の足で立つ。
私も立ち上がる。すっかり汚れてしまった。それに顔がひどい有り様になっている。これはフェンリルに笑われるぞ。いい気味だと言われてしまうかな。
腫れたり切れたり青痣になったりしているだろう本当にひどい顔ではあるが、彼女の怒りを緩和するのに一役買ってくれるかもしれない。そんな邪なことを考えていると、ヴィンセントが魔力を練った。まさか察したわけではないだろうが、痛みがすっかり消えて無くなる。これでは同情を買えない。……しかたない。罵詈雑言を浴びせられる覚悟をしておこう。
「それじゃあ、荷物を回収しに戻ろうか。今生では、フェンリルと魂の研究をする約束なんだ」
「あいつも一緒なのか」
反射で嫌がるかと思ったが、ヴィンセントは冷静だった。
「私たち二人じゃどうせまた喧嘩別れになるのがオチだ。彼女も交えて、どうせなら三人で喧嘩しよう」
「結局、喧嘩はするんだな」
「しないと思うかい?」
「……」
その沈黙は、肯定だな。
フェンリルは何だかんだと理由をつけていたが、要約してしまえば私の魂を見つけたことで過去が懐かしくなったのだ。今の時代、勇者を知る者はいない。語り合える、惚気話を放出できる相手を見つけて、逃がすまいと脅しをかけたというところだろう。
人権という言葉を知らない、という勇者の言は正しかったわけだ。
どれだけ喧嘩をしようとも、勇者への愛が尽きない彼女は私の元を出て行くことはないだろう。石ころに惚気るよりは、私に惚気たほうが語り甲斐もあるだろうから。
ヴィンセントはヴィンセントなので、喧嘩の具合によっては出て行くかもしれない。けれど今回はフェンリルがいる。彼女が残れば私は彼女の独占だ。私を己の所有物とする彼が、そんなことをみすみす許すはずもない。
せいぜい三人で睨み合い、互いを牽制しようではないか。
そうでもしないと私たちはきっと、仲良しごっこなどできないだろう。私を含め、世話の焼ける連中である。
そういえば、ヴィンセントは一人で魔王を倒しに行ったのだろうか。ふと思い、すぐに打ち消す。問うまでもない。考えるまでもなく、答えは明確だった。
はあ、やれやれ。
まるで彼のことを理解しているような己の思考に、私はひどく嫌気が差した。嫌だ、嫌だ。勘弁してくれ。




