01
冬の冷たさに身がすくむ。
先程からしきりに揉んでいる指先は赤いまま、一向に熱を蓄えようとはしない。見えはしないが、鼻もきっと赤くなっていることだろう。
寒い。
日が沈んだ途端にこれだ。昼間はわずかに注ぐ陽光のおかげで、活動していればそれほど気にもならないのだが、太陽がなくなるとそうはいかない。動いていないと、否、動いていてもとことん寒い。着込んでいても、わずかな隙間を縫って肌を撫でる風がどんどん体温を奪っていく。
寒い、寒い、とにかく寒い。
帰路を急いで、自然と小走りになる。早いところ暖のとれる場所に移動して、強い酒で喉から臓腑から焼いてしまわないと凍りそうだ。
視線を上げ、街の明かりが近づいていることを確認する。閉門の時間まで多少の余裕はあるものの、寒さに震える人間には欠片の余裕だってありはしないのだ。
吐く息の白さが煩わしい。靄のように広がって視界を遮ることが、どうしようもなく鬱陶しい。ついつい舌打ちしてしまう。
腹が切なげにきゅうきゅうと鳴った。腹が減った。空腹は些細なことで神経を逆撫でる。吐く息が白いなんて、この時期であれば毎日だ。平時であれば気にも留めないことが、今はどれもかちんとくる。
あと少しの辛抱だと、気を紛らわせるために訳もなく八つ当たりしながら、どんどん速度を上げそのまま門に飛び込んだ。
「よお、ジャックじゃねえか。今日はまた随分と急いでるな」
番をしていた男が陽気な声をあげる。
体の大きな男である。日に焼けた肌の下には筋肉がこれでもかと詰め込まれており、子ども相手ならちょっと肩が触れただけでも骨を折ってしまいそうだ。全身をかちっと鎧で包み、腰には立派な剣までぶら下げているとあって、大の男でも初対面では怯むという。実際は元気が有り余っているばかりの気さくな男である。底の抜けた樽のように酒を飲むことが欠点といえば欠点ではあるものの、その程度はすぐ気にならなくなる。
「外に出てみるといい。走りたくなるぞ」
荷物を渡しながら恨みがましい声をあげる私に、男は快活な笑声をあげた。笑い事じゃない。
いいからさっさと通してくれ、と体をぶるぶる震わせながら急かす。
「真面目だと損をするな、ジャック」
「仕事と酒は同居できない」
「そんなもんかねえ……」
手早く荷物を検めているこの男が詰所の奥に酒を隠していることは、馴染みの間では有名だ。相棒は寡黙で冗談の一つも言わない。こんな奴と夜を明かすのに、酒も飲まずにどうやって起きていろと言うんだ、というのが昔からの言い訳だ。相棒でさえ酔っているところを見たことないほどの酒豪であるのが救いだろう。
「よし、通っていいぞ」
差し出された荷物を受け取ると、思いきり背を叩かれた。堪らず咳き込む。
「あっはっは! あんたはもう少し体を鍛えたほうがいいな、魔法使いさまよ」
「……君の規格がおかしいんだよ」
叩かれた背が熱を持つ。こんなことで暖をとりたくはなかったな、と思いながら手を振り、足早に町へ入る。
夜になると、昼間の賑やかさとは違う明るさが通りを流れていく。街灯と、家々から漏れる明かりに照らされた通りは同じ外でもどこか暖かく感じる。
知らず深く息を吐いた。白く広がり視界が覆われるも、不思議と気にならなかった。背を叩かれたとき、咳に紛れて苛立ちが逃げ出したのかもしれない。今度、酒以外の何かを差し入れてやろう、と気前のいい気持ちすら浮かぶ。空腹で変な気を起こしている、とすぐさま打ち消し目的地へ急いだ。
お食事処『猫のしっぽ亭』と書かれた看板を見つけ、ホッと安堵の息を漏らす。店内はまだ明るく、窓から見えるだけでも賑わっていることがわかった。
小走りで入口へ行き入店する。いらっしゃいませ、と喧騒に負けない明るい声が飛んできた。暖かい。強張っていた体から力が抜ける。
自然と口元が弧を描く、自分の単純さに呆れてしまう。
苦い思い出のある店だ。あのとき腹の底に沈んだ気持ちが晴れなくて一時期は遠ざかっていたものの、そのまま忘れてしまうことはできなかった。旅を再開してすぐ、やはり懐かしさに負けて足を向けてしまった。
変わらないものというのはありがたい。懐古の情はいつだっていい慰めだ。
「あら、ジャックさん。今日は来てくれないのかと思いましたよ」
愛らしい笑みで迎えてくれたのは、食堂の亭主でありホールを担当している猫人族のメリンダである。
「仕事が長引いてね。まだいいかな?」
「ジャックさんなら大歓迎ですよ。注文はおすすめでいいですよね?」
「もちろん、喜んで。お酒もいただけるかな?」
「お持ちします」
危ないところだった、と胸を撫で下ろす。
閉店が近くなると、おすすめと称して残り物の処理を手伝わせるのがこの店のやり方だった。客は安価で食事ができ、店は廃棄を出さずに済む。両方に得がある、私ってば天才、とのことだった。実に商魂たくましい。実際、好き嫌いもなく、ついでに言うなら金もない身としては大変にありがたいシステムである。
まあそれも、亭主のメリンダの笑顔と愛嬌と押しの強さがあってこそ成り立つシステムである。彼女は妙に押しが強いところがあり、何だかんだと人を頷かせる才能があった。祖父の影響だと、いつか話してくれたことがある。
幾度か通うと不意に提案され、あれよあれよという間に首を縦に振らされる。私もそのパターンで、しかし不快感はなく彼女の話術には素直に感心したものだ。無理強いされているわけでもないので、自然と通うのは閉店に近い時間になる。
しかし遅くなり過ぎると、そもそも残り物が残っていなかったり、具なしのスープとパンの切れ端しか残っていなかったりと、食べそびれることになる。食費もままならない己の甲斐性のなさを嘆くしかない。
「ジャックさんは何でもモリモリ完食してくれるから助かってます」
「こちらこそ、美味しい食事が腹いっぱい食べられて助かってるよ」
「すぐお持ちしますね」
「ありがとう」
今日はシチューが残ってますよ、と笑ったメリンダにこちらも笑みを返す。厨房へ向かう彼女の背をこっそり拝む。本当にありがたい。
懐に余裕のあるときくらいはメニューを見て注文しようと昼間に訪ねたこともあるのだが、貧しい姿を見せ過ぎたのだろう。無理しないで、と優しい声で言われてしまったときは心の中で泣いたものだ。
思い出して、あのときの悲しみが再び胸中を濡らす。とほほ、と項垂れていると、近くのテーブルで酒を飲んでいた男が振り返った。
はち切れんばかりの筋肉を惜しみなくさらす彼は、稼ぎの使い道の最優先が猫のしっぽ亭での食事だという。一途な性格は大変に好ましいが、そろそろ別の手段を視野に入れるべきだと思う。戦士は今の時代、あまり儲からない。……椅子の背にかけられたコートを見る。なぜ脱ぐ。この真冬に寒くないのだろうか。
「よお、ジャック。お互いなかなか懐があったまんねえな」
「やあ、まったくだよ」
返事をしながら、そんな挨拶があって堪るものか、と心が泣いた。
懐があったまったところで通い詰めるだろう男に言われたのでは、私の傷は深まるばかりだ。落ち込む私の気も知らず、彼は体をこちらへ向け本格的におしゃべりの姿勢になってしまった。
「たまにはギルドに顔を出してやれよ。あんた向けの依頼があるって、受付嬢が寂しがってたぜ」
新たな魔法の開発だとか、高位魔法の練習台だとか、報酬はいいけれど下手すると治療費で消し飛びかねないような依頼ばかり勧めてくる受付嬢の顔を思い浮かべ、苦笑する。ジャックさんなら大丈夫ですよ、という根拠のない信頼を抱き、純粋なまなざしを向けてくる彼女を振り切るのは骨が折れる。
「そのうちね」
「何だよ、草とばっかり話してたんじゃ、いつか舌に苔が生えるぞ」
「お気遣いどうも。君のほうこそ、客として金を落とすだけじゃなく、たまには花でも贈ったらどうだい?」
途端に彼は顔を真っ赤にして、メリンダに聞かれていないか確認すべく首を忙しなく振り始めた。心配しなくても、意中の相手に秘めているつもりの恋路を見せびらかすような真似はしない。彼が奥手であることは嫌というほど見てきた。
「冗談じゃねえぞ、ジャック!」
「本気だとも。明日にでも、可憐な花が咲いている場所へ案内しようじゃないか」
「ジャック!」
戦士の大声で、近くで聞いていた客たちが声をあげて笑った。彼の恋は見ている側には筒抜けで、みんなヤキモキしているのだ。恋敵は多いが、それはそれとして応援したくなる懸命さが彼にはあった。
負けるつもりはないが、お前も頑張れよ。
恋敵たちはみな、己の感情との矛盾を感じつつも彼の肩を叩く。平和だ。実に平和、素晴らしい。
「はーい、お待ちどおさま。おすすめ定食です」
タイミングよく登場したメリンダに、戦士が絹を裂くような甲高い悲鳴をあげた。再び笑声が弾ける。
「あ、あら、ごめんなさい。驚かせちゃいました?」
「ひゅ、いいえ! めっそうもない! 大丈夫です!」
絶対に大丈夫じゃない返事を元気よくした戦士は、真っ赤な顔をうつむけ、大きな体を目一杯に縮めた。すっかり声が裏返って、緊張しているのがバレバレだ。
「あの……」
「あー、メリンダ? お客さんが来たみたいだよ」
何と声をかけるか逡巡するメリンダの肩を叩き、店の入り口のほうを指さす。今は何を言われてもまともに対応できないだろう戦士のためではあったけれど、嘘は吐いていない。目深にフードを被った、おそらくは男が入り口に立っていた。
足元まで届くローブは体の線を隠してしまっており、正確な性別はわからない。しかし落ち着きなく周囲を見回す際にちらりと覗いたブーツは男物だった。随分と古いデザインのブーツを履いている。
「ごめんなさーい、すぐ行きます!」
メリンダの声に小さく頷いた客は、やはりきょろきょろと店内を見ている。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。
「ごめんなさい、ジャックさん。お待たせしました」
「ありがとう。いただきます」
プレートを受け取り、パタパタと軽快な足音を立て遠ざかるメリンダの背を見送る。
「……ジャック、助かった」
小さな、小さな声で、いまだ赤面したままの戦士が頭を下げる。
「私は何もしていないよ」
ありがとう、と言う戦士の肩を叩いて慰め、ようやく食事に意識を向ける。待ってました、と腹が元気に鳴いた。
湯気を立てるシチューには具がゴロゴロ入っている。今日は運がいい。ちらりと見えた肉に口角が持ち上がる。パンは少し硬くなっているが、シチューに浸して食べるちょうどいい理由ができた。そして嬉しいことにチーズまでついている。形が悪いので切れ端なのだろう、チーズが二種類ちょこんと皿に盛ってある。豪華、豪華。食べ盛りの胃が可愛げなく鳴き叫ぶ。
笑みが溶けかけ、慌てて酒がなみなみ注がれたジョッキを呷って口元を隠す。
「ぷは~~、この一杯のために生きてる~~」
カァッと体内が火照る。やはり冬の寒さに痛めつけられた体を温めるなら酒が手っ取り早い。ちびちびチーズを齧りながら、ジョッキを半分ほど空けたところでスプーンに手を伸ばす。
柔らかく煮こまれた具はどれも中にとんでもない熱を蓄えていて、モリモリ食べる私の口内を容赦なく焼いていく。浸したパンはじゅわっと火傷に追い打ちをかけ、流し込む酒では鎮火も間に合わない。
はふはふ、あちち。
悲惨なことになっている口内に構わず食べ進め、パンがなくなってようやく一時停止した。
残り少なくなった酒と一緒に、最後は惜しみながら少しずつゆっくり口へ運んでいく。
「あの! ごめんなさい!」
不意に耳に飛び込んできたのはメリンダの声だった。見ればまださっきの客と話している。店内の客も随分と減り、私を含めまだ残っている数人の客が帰れば店じまいだろうことは容易に想像できる。粘ったところでない料理は出せない。そんなこともわからないとは、困った客だ。
視線をシチューへ戻す。迷惑な客のさばき方を知らないメリンダではない。それに手を貸す必要があるのなら、その役は戦士に譲るのが男として正しいだろう。いいところを見せる絶好の機会だ。
「ですから今日はもうおしま――」
メリンダの言葉が不自然に途切れた。
よほど腹が減っているのか、客は強引に中へ入ってしまったらしい。メリンダの話術を跳ね返して我を通すとは、なかなかに気の強い客のようだ。
和気あいあいとしていた店内の空気がわずかに殺気立つ。
この時間にこの店へ通う連中なんてのは大抵、私のように金がないか、メリンダのファンかのどちらかだ。特に今この場に残っている客のほとんどは、戦士を筆頭に後者のタイプである。断言してもいい。ニコニコと食事をしながら、彼らは手と口を動かして腹を満たすよりも視線でメリンダを追うほうが忙しい。そんな男たちの前でメリンダを困らせるような真似をするなんて、あの客はこの町が初めてなのだろうか。だとすれば、今日は彼にとっていい日になる。人に迷惑をかけてはいけないと、身をもって学べるのだから。
視線も上げずつらつらとそんなことを考える。騒ぎになる前に食事を済ませて、安全な位置まで下がろう。血の気の多い男たちが暴れだしたら、私のようなか弱い魔法使いはひとたまりもない。巻き込まれるのはごめんだ。
そう、私はしがない魔法使いだ。むくつけき男たちと肩を並べて、どこの誰とも知らない不届き者を追い払うなんて、そんな行動力は持ち合わせていない。
荒々しい足音だけが不気味なほどくっきりと聞こえる。獲物を狩る獅子でも真似ているのか、男たちは息を潜めじっとしているらしい。尖った空気ばかりが肌を刺す。居心地が悪い。
足音が迫る。……迫る?
「エースッッ!」
外套を乱暴につかまれ、ぐいっと引かれた。縮こまっていた体が強引に開かれる。スプーンからこぼれたスープが袖を汚し、揺れた衝撃で肘がジョッキを倒した。残っていた酒がテーブルに塗りたくられる。メリンダの小さな悲鳴が、シンと静まり返った店内に溶けた。
もったいない。人の夕食に何をしてくれるんだ、こいつ。とにかく酒を拭かないと。袖にスープがかかった。エースって誰だよ。
つらつらと苛立ちが膨らみ、眉間が力むのを止められない。思わず漏れた舌打ちに、外套をつかんだままの手が小さく跳ねた。そういえばまだ文句の一つも言っていない。
「あんたなぁ……~~~~っっ!?」
顔を上げ、ひゅ、と呼吸に失敗した喉から変な音がした。
輝かんばかりの金髪は濡れた犬のようにぺしゃんと垂れ、宝石のようだったエメラルドグリーンの双眸は雨に降られたと錯覚するほどシュンと萎びている。
「ヴィ――」
とっさに口を開いて、両手で塞ぐ。ガツンとハンマーで殴られたような衝撃な脳みそを揺さぶった。
『エースッッ!』
そうだ、こいつは、エース、……エースと私のことをそう呼んだ。誰だよ、じゃない。私だ。こいつが、かつて私のことをパーティから追放したこの魔法使い、ヴィンセントが今、私の目をまっすぐ見てエースと、私の名前を呼んだのだ。