02
善人であろうと思った。
いつだったか、何だったか、どこかの誰かが言っていた。強さを求めるのなら、誰かを守ってあげられる強さを目指しなさい。弱かった自分を守ってもらった恩返し。身につけた強さは、他人を助けることに使いなさい。そうすればきっと、君はたくさんの人に愛してもらえる。
善人というのはお得だよ。
顔も、声も覚えていない。思い出せない。
ただ言葉だけを覚えている。
どうしてか言葉だけはいつまでも忘れなくて、せっかく覚えていたのだから実践しようと、そう思った。
自分がどうして強さを求めたのか。正確なところは忘れてしまった。けれど生きていると、弱者ではままならないことがいくらでもある。
最たるものはやはり、魔王の復活だろう。
この世界はやたら魔王を産むようで、やつは事あるごとに現れた。復活した、とみなが言うので倣うが、あれは毎回、別な魔王が立っている。それはいい。
魔王がいると、世界が乱れる。
魔素が濁り、瘴気が満ちて魔族が増える。魔族は不思議と、魔王が現れると数を増やした。まるでポコポコ生えているみたいだ。
魔族の中には人間を殺すことだけに命を使うやつがいる。止まらず迷わず真っ直ぐに、人間のいるところに侵攻しては、その場の全てを蹂躙して次へいく。攻撃されても怯まず、死にかけだろうと体が動くのなら進む。そういう連中は魔王がいるときにしか現れない。
魔王が特別、何かをする必要はないのかもしれないと思うことがある。やつが何もしなくても、いるだけで世界は勝手に乱れていく。
けれど存在が迷惑ならば廃さねばならない。人間とはそういう思考に至るよう設計された生き物なのだ。
魔王討伐の旅に出たのは実のところ、ヴィンセントに拾われたときが初めてではない。幾度も行っている。すべてに成功したわけではないが、なかなかの好成績だと思う。詳細は忘れたし、私が覚えていないだけで実はもっと行っていて、そのすべてに敗北している可能性だってもちろんある。しかしまあ、覚えている限りは、まあまあの成績だろう。
旅に出るということがつまりは、私が己を善人ならしめるために選んだ救済行為である。
魔王がいる世界ならば、どこの誰だって困っている。どいつもこいつも救いを求めているに決まっている。
要するに、調子に乗っていたのだ。
初めて魔族を殺したときのことはもちろん忘れてしまったが、初めて魔族を食べたときのことは覚えている。死ぬかと思った。
体中が悲鳴を上げてここから逃げ出そうと、バラバラの方向に捻じ曲がったみたいだ。臓腑はひっくり返り、脳みそはバチバチと火花を散らした。眼球は溶けて蒸発してしまったのだろう。あるいは単に目を開けていられなくてきつく瞼をくっつけていた。骨が膨張して体の内側を撫で回していく。死ぬかと思った。死んだほうがマシだと思った。
けれど次に目を開けたとき、生き残ったあと、私は人間よりずっと強い何かになった。
角も尻尾もなかったけれど、私は確かに人間の形をした、人間以上の何かであった。己の中を循環する魔力の一端さえ掌握し、湯水のように垂れ流しても痛くも痒くもない。杖の補助を必要としない魔法操作は、それだけは努力で身に着けた。けれどそれ以外は、ただ魔族の肉を食っただけ。食事をして、死ぬかと思っただけ。それだけで、私は強者になることができた。
強くなる、とはこうも簡単なことだったのか。自分の中で大切にしていたはずの何かが、ボロッと自壊した。
私は強いから、弱い誰かを助けてやろう。困っている誰かを救ってやろう。救いを求める誰かを守ってやろう。
そんな傲慢を振り翳し、魔王を討伐してやろうなどと思い上がった。もちろん、そんな思い上がりは長続きしない。あっという間にへし折れた。
救いを求めるすべての人を救うなんて、ちょっと人より強くなっただけの私にできるはずもなかった。端から無理な話である。助けられなかった、救えなかった、守れなかった。そんな経験が積み重なって、善意は義務へと姿を変え、いつしか、誰かのために使うつもりだった力を弱者が己のために使い始めた。私は救済の道具になった。
善人は得だが、無償の正義は損ばかりだ。おまけにひどく疲れる。
やーめた。
私はすぐに善人であろうと思った過去の自分を葬り去った。他者からの愛を欲しがるのは、やめにしよう。私は善人ではない。でも、善人であったために得られた得は総取りしよう思った。
「私が善人ぶってるのはただ、昔の癖が抜けないだけさ」
己が善人であるなどと、そんな自惚れはもう微塵もない。ただ、善人のふりをしているほうが、猫を被っているほうが色々とお得なのである。
「あるいは、見せかけだけでも善人でありたかったのかも」
「気持ち悪い」
言葉にまったく遠慮がない。彼女は出会った頃から遠慮なんて言葉とは無縁であったけれど。
「そうは言うが、おかげで色々と得してきただろう?」
私の善人面のおかげで、警戒されずに町に入れた。巨大な狼を連れた冒険者パーティなんて、怪しまれて検問で延々と質問される。そこを私が説き伏せて、耳に心地いい言葉で丸め込んできた。
魔王を討伐するのならついでに、と押し付けられる数々の面倒を追い払ったのも、労働に対する正当な対価を支払わせることに成功したのも、ひとえに私の善人面のおかげである。
どうだ反論できまい、と反応を待つ私に、フェンリルは深い溜め息を長々と吐き出した。
「気持ち悪い」
このフェンリル、私のことが嫌い過ぎる。
「挫折をそんな風に笑って受け流すところも嫌いだよ」
「……」
そう言ってくれるなよ。
私だって平気でやってるわけじゃない。もう癖になっていて、やめられないんだ。
「あんたみたいな生き方をするとそうなるのかね。ぞっとしない話だよ」
人に好かれることが好きでない。
人に好かれることに慣れない。
人に嫌われると安心する。
私は人を好きになることが、恐ろしい。
「私の魂は永遠だが、私という個体が継続できる時間には限りがあるからね」
どうしてか胸を焼く感情に突き飛ばされ、言葉がこぼれ落ちた。
無茶をして人間の器を超越しても、寿命まで伸ばせるわけじゃない。ただ人よりちょっと魔法の扱いに長けて、人よりも潤沢な魔力を得られる。それだけだから、私は誰とも仲良くなりたくない。
死んでもどこかで誰かとして復活する私と違って、私が築いた関係性は一過性のものだ。死んだら終わり。それを辛いと、悲しいと、そう思ってしまった。私は彼らを知っている。私は彼女らを忘れない。別の肉体を得たとしても私は私であり、これまで通りの関係を築けるのに、彼らは、彼女らは、もう私を知らないのだ。そんなこと、耐えられない。
「友人たちの子孫へ名乗るのでさえ嘘を吐かなければならない。私は確かにエースであったのに、エースとは二度と名乗れない。彼の知り合いで、頼まれて、託されて、そんな嘘をいくつ重ねればいい?」
そんな生活をいつまで続ければいいというのか。
「嫌われていると楽だ。死んだら終わり。受け入れるのが楽になる」
お前はどうせ嫌われている。諦めてさっさと次へ行け。自分に言い訳を用意してやれる。
善人じゃない。そう見えたかもしれないが真実は違う。いい人を演じているだけの、ただの悪党だ。私の善は偽である。悪事を働く人間は得てして、善人な顔をしているものだよ。
「私は自分を可愛がることだけは得意でね。まあ、人間というのはみなそうだが。だからね、私はただ、楽なほうへ流れただけだよ」
どうせ生きるのなら楽がしたい。私が善人を演じているように見えるのならそれは、そのまま私の浅ましさが漏れ出しているだけである。
「反吐が出る」
「受け入れてもらおうとは思っていない」
そんなことを強要する気はない。放っておいてくれれば、それだけで私は満足だ。
「ここまで語っておいて悪いが、私はこの話を続けたくない。話題を変えさせてもらうよ」
自分の浅ましさなら、愚かさなら、嫌というほど知っている。他者に語って聞かせるような話でもない。語って愉快なわけでもない。
「先祖返りしたと言っていたな。魔族には多い現象か?」
この話はこれで終わり。強く態度で示すと、フェンリルは鼻の頭にしわを寄せて低く唸った。けれど文句を垂れ流すことはせず、代わりに大きな体を縮め人の形へと姿を変えた。
真っ白な髪が風になびく。肌が白い。黒い双眸は、そこだけぽっかり穴でも開いてしまったように黒々としている。美人だ。昔とは少し雰囲気が違う。かつては凛とした中にも愛らしさを隠していたが、今は機嫌が悪いせいもあってかそういった気配はない。
「めったにあるもんじゃないよ。あたしも経験するのは初めてさ」
「……ふむ」
ふいっとそっぽを向く様は、ちょっと愛らしかった。こういうところが好きだったんだろうな、勇者は。流れで思い出しそうになった勇者の溶けた顔面と砂糖を煮詰めたような声、そして語られた耳が熟れそうな惚気話は、思い出す前に腹の底に沈めた。あれは一度聞けば腹いっぱいで、思い出でも胸焼けする。
「興味深い現象だから詳しく話を聞けたらと思ったんだが、残念だ」
先祖返りとは本来、子孫に先祖の性質が強く受け継がれる程度のものである。彼女の魂がこの世に戻ってくるようなことは、先祖返りとは言わない。
魔族は魔素と瘴気が強く結びついたものを核として成り、死後、肉体が朽ちれば核は分解される。それだけのことがどうして、再び結びつき彼女の魂となった理屈はわからない。魂のことは、いつまでもわからないままだ。
「君、私に話し相手になれと言ったな。食われそうになったら自分で撃退するから、好きにするといい。代わりに、私の研究に付き合え。人生一回分、君のために使ってやる」
「はあ?」
「本腰を入れて魂の研究をしてみることにした」
疼いた好奇心には素直に生きる。
「人生一回分。随分と軽々しく言ってくれるが、安売りするつもりはないんだ」
「人間風情が……!」
「気に入らなければ殺してみるといい」
次は反撃するぞ。
見据えて告げる。
勇者の嫁さんを殺すような真似はしないが、上下関係を明確にすることは拒まない。私は楽をして生きていたいんだ。かつての仲間が愛した女性とはいえ、良いように使われるだけの人生などごめんだ。
私の視線を受け、フェンリルはしばらく悩むように沈黙していたが、やがて視線を逸らした。
「契約が必要かい?」
「必要ないよ。嫌になったら好きに離れてくれ」
そのほうが私も楽だ。言いつつこちらも視線を逸らす。
振り返って、放置していた毒キノコたちを回収して回る。
「それを、あたしに言うのかい」
嫌っている、と声を大にして宣言する彼女に責任を負わせる。離れたのは彼女の意思であると。嫌われていると明確に知れて都合がいい。
「言うよ」
「……くそったれ」
「知ってる」
言葉で殴っても傷はつけられないと思い知ったのか、フェンリルは黙った。
回収した毒キノコを眺める。オニザリアタケと目が合った……気がした。そんなのは錯覚に過ぎない。わかっているが、気がしたものはしかたない。
強制的に気分を高揚させ、幻覚を見せる。息つく暇もない笑いを呼び起こし、腹がつるほど笑い転げて死ぬ恐れのある危険なキノコだ。
「えい」
フェンリルめがけて投げてみる。
「ふっ」
吐息一つであしらわれた。
ばふっ、と音がして、顔中にキノコの胞子がまとわりつく。声を出したものだから口は開いていたし、息もしているので思い切り吸い込んだ。……吸い込んだ。
「うォ、ボッげほっ、おぇ……ぐぁぶふんぐ、ふぇ」
気持ちの悪い声が出た。吸い込んだ胞子を吐き出そうと咳をしたい喉、ただ吐き出したい喉、文句を言ってやりたい喉。全部が混ざっていっしょくたになって一度にまとめて出たせいである。
「あははははははは!」
狂ったような笑声が、意思に反して喉から垂れ流しになる。
「あはははは、ヒーッ! ヒッヒ、ぅげ、ははははははは!」
うまく呼吸ができずにえずいた。力いっぱいに息を吐き出し、けれど吸うほうはうまくいかず激しい引き笑いを起こしながらどっこいどっこい吸う。喉が締まった。頭痛がする。
「あはは! ざまあないね!」
機嫌のいい高笑いが降ってくる。見れば腹を抱えて笑っていた。かちん、とくるが、それらしい表情を浮かべる余裕がない。
不機嫌に狂気の笑声をばら撒きながら、集めたばかりの毒キノコをじゃんじゃん投げつける。
「あはは! そんなわかりやすい攻撃が当たるわけがないだろ」
ひょいっと容易く避けるフェンリルはいよいよ楽しそうで、私は手加減せず魔力を練った。投げるだけでなく、魔法でキノコを飛ばす。そして。
「あっはっ――むぐっ!?」
口の中にオニザリアタケをねじ込むことに成功した。
「は、あんた……はは、」
「ははははははは! ざまあみろ!」
「~~~~っっっっ、ふ、ふ、ぁははははははっ!」
ざまあみろ!




