01
ふわぁあわ、あ……え?
奇妙な音がした。喉が震えたし、聞き覚えのある声であったので、おそらくは私が発したのだろう。フェンリルはインクで塗りつぶしたような真っ黒な双眸を細め、ゲラゲラと笑った。
「なんだい、その変な声は」
愉快だねぇ、と体を揺らす。
真っ白な毛並みは、薄暗い森の中にあっても輝いているようで、陽の下に出たらどれほど美しいのだろう、と思考が飛んだ。
おや、……そういえば、彼女の毛並みは以前も今と同じように美しかったけれど、色は確か灰ではなかっただろうか。そうだ、灰だった。陽光を浴びると銀のように輝く、それはそれは麗しい狼だった。
はて、灰色狼がどうして真っ白になったのか。それに随分と体が大きくなっている。昔の彼女は四足で立って、せいぜいが勇者の胸元辺りまでしかなかったはずだ。それが今は見上げるほどの巨体である。
好奇心が疼き、すぐに問いをぶつけてしまいたいがぐっと堪える。久し振りの再会だし、なにより女性に対してずけずけとあれこれ聞くのは失礼だ。彼女は私のことをひどく嫌っているようだったし、今も私を好いて和やかに笑っているわけではないだろう。まずは軽い挨拶から始めて、ゆっくり踏み込んで行こうではないか。
「すまない、驚いてしまって。それにしても久し振りだね」
まずはまともな声が出たことにホッとする。
「いつ振りだろう。わからないが、君は変わらず美しいね」
「あんたは随分と様子が変わったね」
そうだろうか。……そうだろうな。エースが死んで随分と経つ。何度目の転生か数えるのもやめてしまった。あれからどれほどの時間が経過したのかも、数えるをやめて久しい。
立ち上がり荷物を拾い上げる。懐かしい、なんて感情がまだ私にあったとは驚いた。忘れてしまったとばかり思っていた。嫌ではない。
歩み寄り顔を上げて、……少し下がる。彼女の体は大き過ぎて、近距離で視線を合わせようとすると首がへし折れる。
立ったままでも、視線を交わすのに問題ない距離まで下がる。
「姿かたちがまるで違うのに、よく私だとわかったね」
「あんたの魂はギラギラうるさいからね。一度でも見たら忘れないさ」
「……」
奇妙な顔をしてしまったのだろう。フェンリルが牙を剥きだしてギラギラ笑った。鈍いねぇどんくさいねぇ、と稲光のように喉をゴロゴロ鳴らしている。
魂か、わからない。これまで一度だって理解できたことはないけれど、今回もまたきちんと理解できずに首を傾げる。魂、魂だと。どこの臓器だ。解剖したって出てきやしないのに、一丁前の顔をしてギラギラするんじゃない。
そういえば、以前ヴィンセントもそんなようなことを言っていた気がする。お前の魂はギラギラしている、と。私の魂とやらが見えるらしい知り合いが二人、二人ともお前の魂はギラギラしているという。ならばそうなのだろう。私の魂はギラギラで、おまけするとうるさいらしい。迷惑な話だ。おかげで逃げても隠れてもヴィンセントに見つかってしまう。縁を切ろうとしているのに。
「そんなにうるさいかな、私の魂とやらは。自覚はないのだが……」
自覚しようもないのだが。
「やかましいよ。そんなのは他に見ない」
「そ、そうか」
他に類を見ないほどうるさいのか。それはなんだろう、さすがに傷つく。しかしこれは諦めるしかないのだろうな。人間である私には、いつまでも未知の領域だ。踏み込めないので、知りようがない。
「騒がせてしまったなら申し訳ないな。それより、元気にしていたかい?」
会うのは本当に久し振りのことだ。
勇者が死んでからは一度も顔を合わせていない。孫の代まではそばにいたと聞くが、金を届ける際にも遊びにいった際にも見かけることはなかった。
「相変わらず胡散臭いね、あんた」
しかし彼女は問いに答えず、代わりになにやらぐだぐだネチネチ言い出した。
「ヘラヘラ愛想笑いばっかり浮かべていないで、言いたいことがあるならお言い。食ったりしないからさ。あたしは嫌いだったけど、あいつは好きだったみたいだからね。一緒にいて楽しい人間じゃないだろって何度も言ったのにさ、あいつは楽しいって笑うんだよ。信じられないね、まったく。あんた、今もぐちぐち面倒ごとを抱えてヒーヒー言ってんのかい? おやめよ、無駄だから」
一息つくついでに、ふんっと鼻を鳴らす。
「善人ぶるのは疲れるだろ。向いてないよ、あんた。そもそもそんなにギラギラうるさい魂をした人間が、善人で優しいわけがないんだ。無理を続けると腐るよ。そんなんだからあんた、あのエルフとうまくいかなかったんだろ。あいつは欲張りで見栄っ張りで意地悪だったからね。品行方正に見えるあんたのことは、さぞや煩わしかったろうさ。自分の常識が一切通用しないながらに必死で大事に抱えてるつもりの連中が、どいつもこいつもあんたに懐いちまうんだ。そりゃあ面白くないだろうさ。あたしはあんたのこと嫌いだったけど」
嫌だ嫌だ、と首を振る。わざとらしく溜め息なんか吐いて、深く息を吸う。
一体どれだけ溜め込んだのか、彼女の言葉は終わりそうにない。まだ続く。
「人間なんて蟻の親戚だと思ってるようなやつだよ。自惚れと自尊心だけを詰めた肉袋が、蟻に足元まで追いつかれちゃ堪らないだろうさ。どうせ追いつきゃしないって甘えてるうちに、気づけば足首つかまって、あたしは笑いが止まらなかったね。エルフなんてお高くとまった亜人種が、自分たちは特別だと顎を上げちまってさ。どんなにか喉元を食い千切ってやりたかったか、わかるかい? それもあいつと会っちまっておじゃんだよ。なんて言うんだったか、らぁい? ベル? なんだっけそう、好敵手。それを見つけていじけてるなんて可愛いじゃないか、なんて言っちゃってさ。ふんっ、可愛いもんか。あんな耳が長いだけの小僧」
何が言いたいのかさっぱりわからないが、とりあえず黙って聞く。主語も登場人物もぐちゃぐちゃで、今は誰への文句で何に憤慨しているのか思考に時間を取られる。唯一、勇者のことを言っている場面だけはわかりやすい。耳がピルピル震えてぺたんと倒れる。彼女は昔から勇者のこととなると途端に砂糖菓子のように甘ったるくなるので、本当に惚れていたのだろう。
勇者に会いに行ったとき、結婚に至った過程を語った彼の言葉が思い出される。
『彼女は情熱家でね。押しが強いとかそんなレベルじゃなかったし、種族が違うせいか人権って言葉を多分知らないんだよ。あっはっは! あ~、可愛い』
あれ、これじゃなかった。いや、これで合ってるのか。
ともかく、彼女は勇者のことを、人権を後回しにして口説き落として結婚して子を設けるほどに愛しちゃっていた。その気持ちは今も薄まってはいないということだろう。
「あいつはあのエルフ小僧を弟みたいに思ってて、世話が焼けるって言いながらえらく可愛がるんだよ。戦士も弟、神官は困った兄ってな風に可愛がってさ。あんたのことだけは、あいつは同士で親友だと言ってたけど、あたしはそうは思わないよ。今でもね。だってそんなの、同じ転生者だって繋がりでそう言ってるに違いなかったんだ。忌々しい。あのエルフがあんたを追い出したときにこっそり食っちまえば良かった。そうすりゃこんな気持ちを抱えて、あんたの魂を見つけたからって追っかけたりせずに済んだのにさ」
ふむふむそれで、と胸中で雑な相槌を打っていた私の脳天に稲妻がズバーンと突き刺さった。目の前がバチバチする。
今、なんて言った?
転生者、と言わなかったか。
「す、すまないちょっと待ってくれ。転生者? 彼は転生者だったのかい?」
それちょっと初耳です。
――ぐわん、と視界が揺れると同時に体がぺちゃんこになる感覚がした。とっさに練った魔力が、寸前で私を死から遠ざける。
危なかった。心臓がバックンバックン暴れ回って口から飛び出す勢いだ。
「ヴ、ェオ……っ、」
跳ねた拍子に心臓が喉に入ったのか、えずく。
何だ何だ何が起きたいやわかり切っているだろう彼女が私を殺そうとしたんだそうだ死ぬところだった危ない急にぶっ叩くんだもの死ぬところだったどうして急にいやそれもよりも殺すなら殺すで一言声をかけるべきだろう急にやられると私だってびっくりするんだぞ見ろ心臓がびっくりして可哀想に体から逃げ出そうとしてるじゃないか。
脳裏をすさまじい速度で言葉が流れていく。息継ぎしない言葉の濁流でまた気持ち悪くなってえずいた。
「あいつの話を覚えていないようなやつは死んじまえ」
殺してから言うんじゃない。死んでたら聞けなかったぞ。
「あたしはあんたなんか大嫌いなんだけどさ、あいつがいなくなったんだからしょうがないじゃないか。孫の成長までしっかり見届けて、あいつのあとを追いかけて、思い残すことなんてなかったのにさ。どうしてか先祖返りなんてしちまって。おかげでまた生きてるよ。あいつがいないこんな世界で、楽しみなんてありゃしないのに。だからあんたを見つけたのは僥倖だよ。あんた、あたしに付き合って話し相手におなり。食わずにいてやる代わりだよ。どうせ死んでも生まれ直すんだ。人生一回分くらい、あたしのためにお使い」
待て、私はまだ先に進めていない。私を置いて行くな。
勇者が転生者? え? マジ? 知らないんだけど。何で言わないんだあいつ。一緒に酒を飲み明かし、下着一枚で床に重なり合って屍のようになって眠った仲じゃないか。多分ちょっと溶けて体が混じるくらいには飲んだぞ。酒と寝起きでガビガビになった声で、嘘やだ私たち一線を越えちゃったかしら、なんて言い合ってあまりのキモさに朝から殴り合って正気に戻るくらい仲良しになったのに。
言えよ、そういう大事なことは。まあ、私は言いそびれてしまったのだけれど。
「ま、待ってくれ。彼は転生者だったのかい?」
「死にたいのかい?」
「いや、そんなわけないんだけど、本当に聞いた覚えがないんだよ」
「なんて男だろうねぇ。あいつの言葉を忘れるようなやつは死んじまえ」
それさっきも聞いた。なんなら殺しかけただろ。
「いつだったかねぇ、ああ……そうだ。初めて飲み明かした夜って言ってたかねぇ。確か、ぐでんぐでんに酔っ払った勢いで、ぽろっと言っちゃった、って」
「えぇ……聞いてない」
「死ね」
物言いがどんどん雑になる。
「え、待って……本当に? いや、あの日は本当に酔っ払っていたから記憶が……無理だ思い出せる気がしない。それ、彼が夢の中で言っちゃったのを現実で言ったと勘違いしてるとかない?」
そんな話を聞いたら、さすがに酔いも醒めると思う。……多分、きっと。いや、わからん。醒めないかもしれない。酔ったまま聞いて、酔ったまま感動して咽び泣いたかもしれない。
「あんた、感動のあまり咽び泣いてたそうじゃないか。それも忘れちまったのかい?」
「え、じゃあ聞いたな多分」
その反応は間違いなく私、聞いてる。うわー、忘れてた。今も思い出しはしないけど、聞いていたんだろう多分。
「涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、実は私も転生者なんだよねあんまり覚えてないけど、ってあんたも雑に告白したんだろ」
「そー……だっけ?」
「死ね」
慣れてきた。
てっきり勇者には伝えられなかったとばかり。彼は酔った記憶をきちんと引き継げるタイプだったのか。私も基本的には継ぐのだが、あのときはさすがに飲み過ぎた。久し振りに記憶がすこーんと抜け落ちて、二度と酒は飲まないと反省したのだ。その日の夜にはまた飲んだが。
「それは、申し訳ないことをしてしまった」
彼にとって私は、同じ境遇とまではいかないまでも似た境遇の同志だったのだ。
「嬉しそうだったよ。境遇を共有できる相手ができたってね」
共有できただろうか。私は彼の話を忘れてしまっていた。彼から転生に関する話を聞いた記憶は一つもない。
「語り合いたいわけじゃなかったさ。見知らぬ世界で共有できる何かを持ってる相手がいる。それだけで心強くて安心したんだとさ」
見知らぬ世界。そうか、生きていた自分とは違う自分になる。初めての転生だったというのなら、それは確かに未知の世界だったことだろう。私はもう初めてを忘れてしまったけれど、彼にとって、転生を繰り返しても平気そうな私を見ることは不安を削る助けになったのかもしれない。
「あいつは一度しか転生できなかった。あたしもあいつも、それを羨ましいと思うことはなかったけどね」
そりゃそうだ。羨む要素が一つもない。転生を繰り返すなんて、ろくなことじゃない。
「ああ、でも……」
鼻の頭にしわを寄せて、フェンリルはしばらく沈黙した。不快感を隠そうともしていない。しかし言葉を伝えないままにする気もないのか、グルル、と唸りながら牙をガチガチ鳴らしている。
ややあって、こびりついた錆びをこそぎ落とすような声で彼女は言った。
「あんたがいればエルフの小僧は寂しくないな、って嬉しそうに言ってたよ」
「……」
言えよ、そういう大事なことは。
私は君の死に目にちゃんと立ち会ったじゃないか。子どもたちをよろしくね、とか。できれば孫やひ孫……妻の最期にもこうしてそばにいてやってくれると嬉しいな、とか。家族のことばっかり頼んでいたじゃないか。
……ああ、そうか。私が転生者だと知っていたから、そんなに先のことまで頼んでいたのか。気づくべきだった。別れが寂しいばっかりで、任せてくれ、と言葉をかけるだけで精一杯で。彼の言葉をきちんと噛みしめる余裕もなかった。
「君の最期にはそばにいてくれと、そういえば頼まれたよ」
「やめとくれ。お断りだよ。あんたの顔なんて見たくもない」
ふいとそっぽを向いた彼女の言葉に嘘はないだろう。彼女は本当に私のことを嫌っている。知らず安堵の息を吐いて、見咎めたフェンリルの鋭い視線に射抜かれた。
「あんたのそういうところが嫌いなんだよ、あたしは」
どういうところだろうか。首を傾げると、彼女はすっかりへそを曲げてしまったようで、爪で地面をガリガリ削った。
「あいつが言ってたことだから言うんだ。勘違いするんじゃないよ」
どうしてかそんな前置きをする。頷け、と言われたので従うと、彼女は嫌そうに口を開いた。
「他者からの好意を拒み過ぎる。嫌われようとわざと嫌なやつを演じるくせに、態度ばっかり善人ぶるところが気に食わない。あんたの悪い癖だよ。まだ続いてたのかい。まったくしつこい男だよ」
ああ、嫌だ嫌だ。
大袈裟に首を振る彼女の言葉を噛みしめて、ハハ、と乾いた笑みが口から漏れた。
何だ、バレていたのか。




