第五話 隙間
生物最大の感覚器官は?
そう聞かれたら、大概の人が〝目〟だと答えるだろう。
私もそう答える。
生物は、その目を使って様々なものを見て、観て、視る。
そして見ない。
見えるもの。
見えないもの。
見たいもの。
見たくないもの。
見なければいけないもの。
見てはいけないもの。
私は、自分が見たいものを見ることが出来ているのか。
自問自答を繰り返し、悩みの沼にはまっていく。
トラウマに心臓を掴まれて、踏み出す一歩を見失った。
だって私は、見えないものが見える者だから。
一つ歳を取った。
退屈な始業式から数日が経ち、ようやく新学期の実感も湧いてきたという時。
私たちは、改革を知らず同じような日常を過ごしていた。
その日もまた、中庭のベンチで一緒にお昼を食べていた。
「また別のクラスになっちゃったね。三年生になったら雪ちゃんと同じクラスだと良いなー」
「気早いな。まだ一週間経ってないぞ」
「だって嫌なんだもん。今のクラス」
叶は素直だ。
思ったことは何も考えずに口に出す。
私としては、嬉しいことも言ってくれるので良いのだが、少し気がかりなことがあった。
「あっそうだ。聞いたよ。なんか告白されたんだってね」
新しいクラスになって友達ができ、その子から聞いた。というわけではなく、お喋りな奴の話を又聞きしただけだ。
「なんで知ってるのー。言わないようにしてたのに」
「なんかねー噂がねー流れてきちゃってねー」
私が聞いた限りだと、三年生の先輩でサッカー部のキャプテンを務めているらしい。ファンクラブがあるとか、写真が販売されているとか、とにかく噂が絶えない人なのだ。
そんな人に告白されるなんて、叶を好む人は、まだまだ大勢いるんだろうな。
「それで、どうしたの?」
「何が?」
「いや、受けたの? 告白?」
「断ったよ」
正直、ここまでは知っていた。
知らない振りをして叶の口から聞いた方が、叶の心情的に楽なのではと思ったのだ。
自分の事を、他人に語られる気持ち悪さは、私が一番知っている。
「えー。どうして断っちゃったの?」
「だって私、あの人の事何にも知らないもん」
「それだけ?」
「それだけってなにぃ? 知らない人とは仲良くなれないじゃん。付き合うなんて無理だよ」
「そういうものなの?」
確かに大切なことだが、それを凌駕するのが好意ってものじゃないのか?
いやまぁ今回は、相手からの告白だから適用されないんだけど、それでも人気の人から告白されたらOKするのが普通なんじゃないのか?
漫画の読み過ぎか?
実際はそんなものなのか?
私は、叶にどうなってほしいんだ?
……私だったら、どうしてたんだろう。
「それに断って正解だったよ。もし私が付き合ってたら、なんでお前なんかがって絶対言われてたもん」
「そんなこと言うやつ……居そうだな」
芸能人の浮かれ話で騒ぎ立てる人と同じだな。
相応しくないだとか、悪い所があるとか、過去にこういう言動をしただとか。誰が相手でも宣うクセに。
ファンクラブまであるなら、可能性は十二分か。
「居、そ、う、じゃなくて居るんだよ。実際に」
「どういうこと?」
「なんか人気だったんだって、あの人。それで調子に乗るなとか言われちゃってさー。嫌がらせとかしてくるんだよ。最悪だよ」
「え?」
私から真っ黒な靄が湧きだす。
【怒】
二、三、五、七、十一、十三、十七……。
素数を数えながら鼻で息を吸って、口で限界まで吐く。
「? 雪ちゃん?」
感情が怖い。
また大切なものを壊してしまうのが怖い。
この半年を私は感情を抑えることだけに費やした。
ただ冷静になろうとするより、素数で頭を無理矢理入れ替える方が有効だと発見した。
名付けて、ところてん方式。
「あぁ、ごめん。何でもないの。それより、大丈夫なの?」
「全然大丈夫だよ。何にも気にしてないし」
何があったのか、聞いた方が良いのかな?
「まぁ、大丈夫なら良いんだけど。何かあったらすぐに言ってよね」
私の時とは状況も相手の人数も違うが、何事もなく終わってほしい。
叶には、幸せに暮らしてほしい。
「雪ちゃんはどうなの? 誰か、好きな人とかいないの?」
「へぇっ? い、いないよ。出来たことすらない、かな」
「どうして?」
「いやー、特に考えたことないな」
「ほら、やっぱり雪ちゃんも同じなんだよ。相手の事をよく知らないから、好きにならないんだよ」
「そう言われると、確かに」
知りたいだなんて思う奴なんか一人も居なかった。
ダメだ。どうも悲観的になる癖が抜けない。
とりあえずは、叶がどこの馬の骨かも知らない男に取られなくて良かったと思っておこう。
『お昼行けそうになーい
クラスの子にお昼誘われちゃって断れなかったー
(。-人-。) ゴメンネ』
翌日の昼休み、叶から送られてきたメッセージ。
「もう中庭に居るのだが」
そりゃ、叶は人気だからな。
友達の一人や二人、居てもなんらおかしくはない。
私は大丈夫。ひとりで大丈夫。
鼻で息を吸って、肩で落とした。
放課後、教室に行ってみると叶は帰った後だった。
翌日、購買で買った惣菜パンを頬張りながら、中庭で叶を待っていた。
微振動を感じて、ポケットから携帯電話を取り出す。
叶からのメッセージだ。
惣菜パンを地面に落としてしまった。
『ごめん
今日も誘われちゃった』
不安は、少しずつ大きくなっていく。
「ここは、どこ?」
四方を壁に囲まれている。
壁は遥か高くまで続いていて、天辺にだけ小さな穴が開いている。
僅かな光が差し込んでいるのが見える。
何かが落ちてきている。
壁際に避けて、落ちるものを見る。
べちゃっと泥を撒き散らした様に広がり、ゆっくりと元の形に戻った。
それは、黒くて汚い私だった。
私は次々と落ちてきて、先と同様に広がり戻っていく。
中には体の欠損した者や、元に戻れず無様に這い蹲っている者も居る。
十数人が落ちてきたくらいで、穴に蓋がされた。
なんだか少ないな。
「あああぁぁぁ!」
一人が急に叫び出した。
同調するように叫び出す者、しゃがみ込んで耳を塞ぐ者、ただ茫然と眺める者。
私は、何をするのも恥ずかしくて様子を伺っていた。
叫びあっていた二人が、今度は殴り合っている。
狂気は感染していく。
皆が叫んで、皆が殴り合った。
乱闘が始まって、ようやく私も隣の奴を殴った。
でも、そいつは殴り返してこなかった。ただ、地べたに寝そべって侮蔑の眼差しで私を見ている。
「殴り返して来いよ!」
それでもそいつは何もしなかった。
私は不安になって、皆の方を見る。
皆は仲良く叫び合って、元気に殴り合っている。
皆の方に行こうと走り出すと、そいつは私の腕を掴んで離さなかった。
「なんだよ! 邪魔しないでよ!」
そいつの目は、私を侮蔑しているわけではなかった。
そいつは、私を助けてくれたのだ。
これは蟲毒だ。
心という壺に感情という毒虫。
お互いがお互いを食んでいて、気づいたときには自分の尾っぽをしゃぶってる。
恐怖に心身投げうって、狂っちまったら、それがお仕舞い。
「どうして、私を助けたんだよ」
私は、その問いの答えを聞けなかった。
朝が来て、不思議で不気味な夢から覚めた。
あの時と同じだ。
何かを思い出さないといけない。
何かを聞かないといけない。
もう一度会いたいのに、もう二度と会いたくない。
不思議と呼吸は落ち着いている。
何故、呼吸が乱れているのが普通だと思ったのか。
自分の中の寂寞と焦燥。
そして、乖離と矛盾。
結局、何もかも忘れてしまった。
学校、読み終えた本を机にしまう。
有名だからという理由だけで買った古い本。
人気俳優で実写映画化したらしい。書店では、その俳優の顔が表紙に載っているものがずらりと並んでいた。
たまたま読んでみようと思った時期と重なっただけで、ミーハーな人間だと思われたくはないから、わざわざ古本屋に行って汚い中古本を買った。
表紙違いはいくつもあった。
人気漫画家が描いたもの。
アニメキャラクター化された作者。
人気俳優の写真。
私は、それらとはまた別のものを選んだ。
赤い地面に十字街灯、とぼとぼと歩く人影。
表紙はこっちの方が好みだ。
まぁ、中身は変わらないし、ブックカバーをしてしまったから、もう見ることはないだろうけど。
小説とは人間だ。
色んな名前があって、色んな内面を持っている。
それだけ、という顔を持つものもあれば、人によって見え方が変わる顔を持つものもある。
顔や名前だけで、そのものをわかりきることなんか、絶対に出来やしないのさ。
叶の事も、わかっていたようで、なにもわかっていなかったんだ。
こうやって、友達って居なくなるんだろうな。
私は心の中でぼそっと呟く。
「守上さん」
声を掛けて来たのは……。
見たことある、なんなら話したことある。
でも、名前が思い出せない。
私の机の前で、腰に手を当てている。
なんなら、この立ち姿も見たことある。
「空川ですわ。どうせ、お忘れになっていたのでしょ」
そうだ、空川だ!
「図星の様ね」
「……ごめん」
空川は顔色一つ変えなかった。
「別によろしくてよ。今日は折り入って用が有って来たの」
用? 一年も話してない私に?
「何か用あったっけ?」
「一年近く話していないだけで、用がないというのは少々可笑しい考えですわ」
普通の発想だと思うけど。
嫌な予感がする。
突然話しかけてきた人に、良い思い出があまりない。
「安心して頂戴。守上さんに不利益な話ではないわ」
なんでもお見通しのようだ。本当に不思議な力でもあるんじゃないのか。
まさか、私と同じ?
【そのまさかですわ】
そんなわけないか。
え?
【え?】
「え?」
「ほんと、わかりやすいお方ね」
「ええぇっ!」
教室の皆が、ビクッとしてこっちを向く。
恥ずかしッ!
「あーもうっ。ここには居られないわね。行きますわよ」
「私も?」
「当たり前でしょ」
空川に手を引かれ、教室を飛び出す。
「ちょっ、この後、授業なんだけどっ」
「そんな状態でいられるわけないでしょ」
私から出た靄が、私の後方に置き去りにされている。
靄の量は、未だに増え続けている。
階段を駆け下り、校舎裏まで走り続けた。
「ここなら、人目に付かなくて良いですわ」
「はぁ、はぁ、はぁ」
膝に手を当て、肩で大きい呼吸を繰り返す。
すげぇな、あれだけ走ったのに。
空川は、汗を掻かないどころか、息切れ一つしていなかった。
「大前提だけ、伝えておきますわ」
空川が腰に手を当て、ふんぞり返っている。
「力の事は、絶対に口外してはいけない。よろしくて?」
私は体勢を立て直し、袖口で顔の汗を拭う。
「わかってるよ。誰にも話したりなんかしてない。言いたいのは、それだけ?」
わかりきったことを言うためだけに、こんな所まで走らせたのか?
授業さぼって何て言われるか……。
「守上さん、力を付けなさい。あなたは感情を出し過ぎですわ」
「そういうことなら、私は教室に戻るよ。力の事なんて考えたくもないんだ」
私に修行でもさせる気だったのか?
私が力を付けて、何になるんだよ。
感情だって抑えられようになってきているんだ。
今、修行なんかしたら逆効果じゃないか。
もう、あんな目には遭いたくないんだよ。
「結論を出すのが早すぎますわ。話は最後まで聞くものよ」
どうして私に拘るんだよ。
空川の目的は一体なんだ?
「疑っているようですから、一番伝えたいことだけ先に言っておきますわね」
こいつ、いくら心が見えるからと言っても、流石に読みすぎだろ。
私は、そこまで見えないぞ。
いや、おじいは私の力を十段階の六だと言っていた。
つまり、空川は私より上?
力を扱えるようになると、より見えるようになるのか?
【考】
何してるんだ。
抑えろ。感情に支配されるな。
力は抑えることだけに集中するんだ。
上達したって良いことないだろ。
「はぁ」
空川が、それはそれは大きい溜息を付いた。
「そのままだと、また力を暴走させますわよ」
頭に乾風のような痛みが走る。
確実に存在しているのに、思い出せない。
そういう事実があったことは理解している。でも、詳細が記憶から抜け落ちている。他人事のように感じてしまう。
「なんで、知ってんの……」
あの日の事は、おじい以外知らないのに。
何者なんだ。
【何故】
「守上さん、先程も申し上げましたが、感情を出し過ぎです」
「答えてよ……。どうして知っているのか」
「今はまだ言えません。守上さんが私のお話を聞いて下さるのなら、お教えできます」
こいつ、完全に上に立ったつもりだな。
「そう、まぁ別に良いよ。知ったところで意味なんてないしさ。じゃあ私は戻るから」
「お友達がどうなっても良いの?」
空川の胸ぐらに掴みかかる。
最近、叶の様子がおかしかったのも、全部こいつのせいか。
「叶に、なんかしたのか!?」
「何かしている、それは守上さんの方ですわ」
「はぁ? な、何言ってんの……」
「守上さんが力を使えていないのが原因ですわ。その影響をお友達が一番に受けているの」
「影響って……。適当な事言うな!」
「守上さんは、この力の何を知っていらっしゃるの?」
胸ぐらを離すとささっと払い襟を整えた。
「……それは。そんなこと……。嘘でしょ……」
なんなんだよ。急に表れて、言いたい放題言いやがって。
また私が悪者かよ。
なんでだよ。
なんで私なんだよ。
「目的を教えて、じゃないと信用できない」
私の問いが終わる前に、空川は膝から崩れ落ちた。
「空川!?」
胸に手を当てて、苦しそうにしている。
「心配要りませんわ。とりあえず、落ち着いてくださるかしら。そんなに大きい感情、傍にいるだけで、胸が詰まりますわ」
靄が雲海のように広がり、辺りの地面を埋め尽くしていた。
こんなになるまで気付けなかったなんて……。
空川の額に汗が滲んでいる。
さっきのは、溜息じゃなく深呼吸だったんだ。
空川から離れて、少しでも靄を遠ざける。
ところてん方式で頭の中をスッキリさせた。
「……ごめん、落ち着いた。大丈夫?」
空川は、校舎の壁に背を預けて座り、大きく息を付いた。
「色々聞きたいでしょうけど、あまり考えすぎないで頂戴。守上さんは、知りたいという感情が人より強い傾向にあるようですので。その感情が暴走を引き起こしている、と言っても過言ではないですのよ」
「わ、わかった」
返事と共に、もう一度深呼吸をした。
「私の目的は、守上さんの手助け、ですわ」
「手助け? なんでそんなこと」
「力を暴走させて、苦しんでいる同級生を放っておけない。それだけですわ」
何故今なんだ。
あれは、もう半年も前だ。
来るなら、その時に来てくれよ。
……何を考えているんだ。
仮にも助けたいと言ってくれているんだぞ。
いつからこんな、おこがましい考えをするようになったんだ。
被害者面してんじゃあないぞ。
「あっ」
考えすぎって、この程度でもダメなのかな?
まぁ、考えてから気付いても意味はないんだけど。
「守上さん」
「はいっ」
「考えるなと言って、逆に気にさせてしまいましたね。ごめんなさい。私としては、自然体で居てもらえれば助かりますわ」
「あ、うん、わかった」
まさか、謝られるとは思わなかった。
私は、すっかりわからなくなっていた。
空川を疑えば良いのか、信じれば良いのか。
お嬢様で横柄とも取れる大胆さが、彼女の本分なのか。
それとも、弱り蹲る少女が見せる礼節が、彼女の本来の姿なのか。
「守上さん、私の話を、力の話を聞いて下さるかしら。あなたにとって、そしてお友達にとって、とても大切なことよ」
今まで力の事、そして自分の事を知ろうとしなかったのは、ずっと怖かったからだ。
自分には、もう手の施しようがないのだと宣告されるのが怖った。
でも、いつまでも逃げていたらいけないんだ。
力を使って、叶の為になるのなら。
私は、私の事を知らなくてはならないんだ。
「空川、さっきはごめん。お願い、聞かせて」
「ありがとう存じます」
私の靄は今も出ている。
それなのに、空川の表情はとても軽やかだった。
「今、危惧されていることは二つ。一つは守上さん自体が暴走してしまう事。二つ目がお友達の事」
「私の事は良いの。叶はどうなっちゃうの? 私の所為、なんでしょ……」
「お友達は、精霊に心を支配されてしまうわ」
不安と焦りは、また少し大きくなる。
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