第二話 疑問
生物最大の感覚器官は?
そう聞かれたら、大概の人が〝目〟だと答えるだろう。
私もそう答える。
生物は、その目を使って様々なものを見て、観て、視る。
そして見ない。
見えるもの。
見えないもの。
見たいもの。
見たくないもの。
見なければいけないもの。
見てはいけないもの。
私は、自分が見たいものを見ることが出来ているのか。
自問自答を繰り返し、悩みの沼にはまっていく。
トラウマに心臓を掴まれて、踏み出す一歩を見失った。
だって私は、見えないものが見える者だから。
ある秋の日の下校中、公園で少女がわんわんと泣いているのを見つけた。
正座を崩したような、いわゆる女の子座りをして、目を拳で押さえ涙を受け止めている。
ここは登下校で通る道、時々少女を見かけることもあった。
その時は連れ人がいたはずだが、辺りを見渡しても居るのは少女だけ。
放っておこうと思った自分を止めて、私は少女と向き合う。
少女も私も一人だったから。
人助けというより、罪悪感に苛まれたくなかったという方が正しい。
結局は自分の為なのだ。
「……ど、どうしたのぉ?」
頭では優しい口調のつもりだったのに、発せられたのはきょどっている不審者のそれだ。
私は、そもそも子供が好きではなかった。ましてや、泣いている子供との対話なんてできるわけもない。
対話を諦め、原因の追究に移る。どこか怪我をしてないか、少女の身体をくまなく観察した。
少女の胸に靄が集まっていく。
それは渦のように穴のように黒を強めていく。
【痛】
その文字は、胸の靄から突如として出現した。
「なに、これ……?」
腰を抜かし、ただ見つめることしかできない。
その文字は林檎程度の大きさをしていて、黒い靄とよく似ていた。僅かに浮遊した後にボロボロと崩壊し、また別の文字が現れた。
【怖い】
体勢を立て直し、尻を払って少女に問う。
「どこが痛いの?」
【あ し】
私の問いに答えるように、靄からまた現れる。
「……スカート、少しめくるね……」
半信半疑でスカートをめくると、本当に膝に怪我を負っていた。
【困】
その文字は私から出現した。
気づかなかった。私の胸にも靄が集まっていることに。
今はまず、少女優先だ。脳みそにそう言い聞かせて、思考停止を阻んだ。
「と、とりあえず、そこで洗おっか」
少女を抱えて水道まで運ぶ。傷口を洗ってハンカチで結んだ。
傷口を洗っていると「やめて」と泣かれ【痛 辛】という文字が出てきた。何故か私も痛くて辛い。
何が何だか、わけがわからない。……とりあえず、この子を家に帰さないと。
「家、わかる?」
「言わない」
口を結んで、首をブンブンと振り回す。
これだから子供は嫌いだ。お箸もイカのお寿司も蜂蜜自慢も使いどころを間違えれば、自分の首を絞めるというのに。
自分より未熟な人間を怒る対象にしていけない。
怒りの感情は最初の六秒しか保てない。
どこで聞いた言葉だったか。それだけを頼りに冷静の装う。
私もまだまだ子供だな。子供嫌いというか同族嫌悪、もはや自己嫌悪だな、これは。
「どうしたもんかな……」
誰かに連絡。
……当てがない。連絡帳に居るのは自宅とおじいだけ。
「とりあえず学校行こう。おぶってこうか? 歩けそう?」
「……歩く」
少女の小学校がわからない為、私の通う中学校に連れていくとこにした。そこなら大人がいる。丸投げしてしまおう、という考えだ。
中学校までは五百メートルくらいだったが、途中でしゃがみ込んでしまった為、結局私が背負って連れて行った。
学校に着いて、まず保健室に向かった。養護教諭に少女を任せ、職員室にいる先生に事情を伝えた。
保健室に戻ると、少女が自身の名前と自宅の電話番号を言ったことを養護教諭から伝えられた。
知らない人という括りであれば、私も教師も変わらないであろうに。
迎えが来るまで待とうか、とも思ったが、特に懐かれているわけでない。
先生に一言「帰りますんで、あとよろしくお願いします」とだけ伝えて帰ることにした。
帰り際、窓ガラス越しに養護教諭と先生の文字が少しだけ見えた。
【面倒だわ 押し付けないでよ】
【偉いぞ 良くやった】
養護教諭は口では褒めていたが、文字はそうではなかった。対称的に言葉にはしなかったが、先生は文字でやたらと褒めてくれた。
家に着いた時には夕方も終わり頃。
茜色の暖かい光に照らされた廊下を抜け、自室の扉を半分だけ開ける。隙間から鞄を放り投げ、居間に向かう。
どうせ今頃は、居間でくつろいでいるだろう。
……だじゃれではない、偶然である。
おじいは湯呑にお茶を煎れ、新聞紙を目を細めて覗いていた。
「おけーり」
「おじい、靄の正体わかったぞ」
「ほう、それで?」
「あれは、心だった」
「うん、当たっとる」
「どうして、心が見えるんだよ」
「そういう家系だからな」
おじいは、目線を上げることもせずに答える。
「どんな家系だよ」
机を挟み、おじいの向かいの椅子に私は座った。
「陰陽師とか、悪魔祓いとか、霊媒師とかそういう類だ」
「マジ? なんでまたソッチ系? 武闘派かと思ってた。刀やってるし」
おじいが新聞紙から顔を傾け覗かせる。少しきょとんとした表情だ。
「お前、精霊は見えてないのか?」
「何それ? 見えてないけど」
心の次は精霊とか、マジでどんな家系だよ。
おじいが新聞紙を畳み、お茶を飲んで一つ息を置いた。
「なんかこう、小さくて黒いやつだ。意外とウジャウジャいるぞ」
精霊が黒くてウジャウジャって、何もかも解釈違いだな。
特別な存在で白光りしているものだと思っていた。
「その精霊を守るのがおじいの仕事?」
「いや、その逆だ。精霊を退治するのが、俺の仕事だ」
あれ? なんで私は、守るという発想をしたんだろう?
悪魔祓いと聞けば、退治するというのが素直な発想では?
その瞬間、私の脳内では、知識欲と考察癖が複雑に交わり、あらゆる選択肢が試された可能性があるかもしれない。
そして導き出された答えは……。
いや、別にどうでもいいな。
その間、普通に三秒。
結果、「うぅん」という相槌を吐いただけだった。
「傍から見れば、何もない空間で何かと戦ってるんだから、悪魔祓いとかに見えるんだろ」
おじいがどうやって生活資金を稼いでいるのか。その長年の疑問がようやっと解けた。
「精霊ってどんなことするの?」
私の分の湯呑も用意してお茶を注いだ。
湯気が立ち上り消えていく。
こんな日常を送りながら、おじいは戦っているのか。得体も知れぬ相手と。
「う~ん、一番依頼で多いのは、取り憑かれたから祓ってほしいとかだな」
依頼制なんだ。探偵みたいだな。かっけぇ……。
「なんか精霊てか悪霊だな」
「まぁ確かに、依頼人で精霊だと思う人はいないな。大概が悪霊とか悪魔だって思ってる。悪魔祓いっていうのも、依頼人にそう言われるから、わかりやすいように言ってるだけなんだよ」
卵が先か鶏が先か。今回はどうやら鶏だったようだ。
「取り憑いてなにすんの?」
「その人を暴れさせたり、何かに夢中にさせたりするんだよ」
暴れさせるのはわかるが、夢中にさせるとは随分と地味だな。気づかれなくないか。
「なんでそんなことしてんの?」
「精霊は、人の感情を奪うんだよ」
湯呑を口元で止め、溜息のような声でおじいは言った。
「より多く奪えるように、その人の感情を大きくさせるんだ。暴れたり夢中になったりは、その副作用みたいなもんだな」
「感情を奪って何すんの?」
「さぁな、向こうの事情は良く知らん。だからと言って、放っておくわけにもいかんしな。一応は依頼されてる仕事だし」
精霊は一体何故、感情を奪うのか。
生命活動に必要なのか?
そもそも生きていると言えるのか?
「私にも見えるようになるかな?」
「どうだろうな。雪は、どうして靄が心だってわかったんだ?」
今日の出来事を詳細に思い出す。
「人から文字が出てきたんだ。セリフみたいのもあったし、一文字だけのもあって、その人の考えてることと一致してるかも、みたいな。それで文字が靄と似てたから、靄も心なのかなって。感覚でわかった感じだから、うまく言えないけど」
眼球を上ずらせ、両手を空間を練り合わせる。
ちぐはぐな考えを、即興で組み立てて言語化した。
「うん、雪の考えは正しい。心は、文字はなって現れる。強く思えば思うほど大きくなって増える。無意識の感情は、小さくて識別できない。だから普段は靄のように見えるんだ」
疑問を簡単に言語化された。なんか悔しい。
「雪は、どのくらいの大きさの文字が見えたんだ?」
「んー。このくらいかな?」
手の平で空を掴み、大きさを表現した。
「じゃあ、まだまだ先かもな。十段階で表すと、今、雪が見えているのは六くらいまでだな」
「どうやったら、もっと見えるようになるの?」
「はっきり言って、人それぞれだ。俺は段々と見えるようになったからなー。まぁ、強い感情に当てられて急に見えるようになる、なんてこともあるみたいだが実際はわからん」
私が見えるようになったのは、少女の強い感情によってなのかな。
「私たち以外にも居るの? 見える人って」
「あぁ、居るぞ。数はよく知らねぇけど」
会ってみたいな。もしかしたら友達になれるかも。 いや、親戚なのか?
「…ていうか、なんで、こんなこと黙ってたんだよ」
「絶対、友達とかに言いふらすだろう。変な子だって言われるだけだから隠してたんだよ」
変な子認定はされてるし、友達はいねぇよ。
「なんだそれ。あっ、ねぇあれ教えてよ。あのー昔やった腕を大きくするやつ」
「悪いが、それは言えねぇな」
昔と言ってること違うじゃねぇか。
「それに少し考えてからにした方が良い。この仕事は人の命を預かることだってあるんだ。一度踏み込んだら、戻れねぇぞ。今の生活が大事ならやめときな」
怖がらせるような言い方しやがって。
「じゃあなんで教えたんだよ。余計、気になるだろー」
「雪には色々なものを見て、自分の道を自分で決めてほしい。だからもし、俺の仕事を継ぎたいって言うんだったら、俺は雪を全力で助ける」
おじいの目はまっすぐに私の目を捉えていた。
自分の仕事を継がせたいのか、継がせたくないのかわからん。
「まぁ他にも色々あるけどな」
おじいは新聞を畳み、お茶を飲み干した。席を立ち、湯呑を台所の流しに置いた。
洗えと言うのか。
「もっと教えてよ」
「さっきも言ったろ。少し考えてからにしても遅くはねぇよ」
部屋を出ながら背中で喋る。
私は一人、頬を膨らませる。
新情報が中途半端に手に入ってしまって逆に気になる。
それでも私は、最後まで聞くことができなかったことがある。
躊躇ってしまったのだ。昔は気にならなかった。靄が感情である事は今日知ったから。
靄が見えない人なんて出会ったことがない。……ただ一人を除いて。
私は聞くことができなかった。
おじいからは、靄が見えない理由を。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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