第十話 焼失
生物最大の感覚器官は?
そう聞かれたら、大概の人が〝目〟だと答えるだろう。
私もそう答える。
生物は、その目を使って様々なものを見て、観て、視る。
そして見ない。
見えるもの。
見えないもの。
見たいもの。
見たくないもの。
見なければいけないもの。
見てはいけないもの。
私は、自分が見たいものを見ることが出来ているのか。
自問自答を繰り返し、悩みの沼にはまっていく。
トラウマに心臓を掴まれて、踏み出す一歩を見失った。
だって私は、見えないものが見える者だから。
叶の記憶が底を突き、現実の私に戻される。
私との出会いからほんの数分前までの記憶。断片的で不明確な酩酊もあれば、視野が広がり高解像度の明晰に置き去りにされることもあった。
頭は情報として淡々と処理していくのに、心が受け止めきれずに硬直する。
全ては一瞬だったのに、全てが果てしなく長い。
感受性の摩擦で焼き切れてしまいそうだ。
謎が増えるばかりで、心は酷く混乱しているのに頭は意地悪なくらいに落ち着いていた。
「叶、今までごめん。私、全然気付いてあげられなかった。叶がどれだけ苦しい思いをしていたのか。それを、私に見せないようにしていた優しさも。気付いてあげられなかった」
その時、扉の鍵が開いた。
誰も触れてないのに、鍵は独りでに開いたのだ。
私は、そのことに少しの疑問も抱かず、扉の引手を撫でるようにそっと追いやった。
靄を掻き分けることはなく、すべてを受け入れて叶の前に膝を付く。
「叶、ありがとうね」
力いっぱいに抱きしめた。
教室を埋め尽くしていた靄が、じわじわと消滅していく。
やっと教室内が見渡せる。
……。
「先生、早く来てください!」
廊下から甲高い少女の声。
先生を呼ぶように指示されていた子か。
「どうしたー。大丈夫かー。……なにがあったんだ!?」
あ、無能が来た。叶の記憶で見た体育教師だ。
「すぐに保健室に連れて行くぞ!」
あー、こいつのせいか。時間が掛かったのは。どうせまた「ただの喧嘩」とか言って、来ようとしなかったんだろ。
「他の先生も呼んできてくれ!」
今回は説得できたんだな。
「……ん、あれ、雪ちゃん?」
目覚めたというか、心を取り戻したという感じか。
とりあえず、いつもの叶に戻ったみたいだな。
「叶、保健室に行こう。ここで倒れてたみたいなんだ」
無理にも程があったな。
「そうなんだぁ。ふへへ、私寝ぼけてたみたいだね」
まだ、完全に快調というわけではないようだ。
できれば、そのまどろみに呑まれて、すべての違和感を消し去ってくれ。
ついさっきまで、叶の感情は暴走していた。
私の時は、前後の記憶が抜け落ちて、今でも思い出せない。
叶がもし忘れているのなら、私は嘘つきにだってなる。
真実は、あまりにも残酷過ぎた。
「ほら、肩貸しな」
叶が私の肩に手を回した時、足元に壊れたスマートフォンを発見した。原型は留めておらず、画面は隆起している。
立ち上がると同時に密やかに拾い、ポケットに忍ばせた。
私は、一目見ただけで絶対に叶に見せてはいけないと確信した。
私には原因不明の頭痛がある。あの日の事を思い出そうとすると、鋭い痛みが走るのだ。
それは記憶を呼び起こそうとしているサインで、いつかあの日の事を思い出さすのだと私は思っている。
叶にも同じ症状が出て、いつか思い出してしまうかもしれない。
何がきっかけとなるかわからないんだ。細心の注意を払わなければならない。
何故なら、叶のスマートフォンは、明らかに握り潰されていたからだ。
保健室のベッドでは足りず、職員室や校長室のソファにまで少女が横になった。
「叶、体調は良くなってきた?」
「うん、大丈夫だよ」
「そう、良かった。少し眠った方が良い」
「うん……」
静かに目を閉じて、眠りについた叶の頭を三回ほど撫でた。
私は、もう一人を助けるためにトイレに駆け込む。
「空川。遅くなってごめん」
個室から鍵の開く音がした。
中には、非常に体調の悪そうな空川が居た。
「随分と、早かったですのね」
「皮肉が言えるなら大丈夫だな」
「そんな、本音ですわ」
「ほら、肩貸して」
空川を校長室のソファまで運んだ。
「保健室は埋まってるんだ。悪いけど少しだけ我慢して」
廊下から教師たちの慌てた声が聞こえてきた。
「目覚めた子は?」
「数名います。ただ、全員おかしなこと言っていて」
「おかしなこと?」
「全員、なぜあそこにいたのか覚えてないんです」
「まさか、集団記憶喪失……。とりあえず、救急車が来るまでの間、保護者の方への連絡を進めなさい」
「一体、何がありましたの?」
「私にもわからないんだ。だから、空川の意見が聞きたい」
「では、予定通り放課後にでも」
「空川は大丈夫なの?」
「これくらい何とも……」
自力で起き上がることもできないらしい。力を使った代償はそれ程までに大きいようだ。
「無理すんなって。一人で帰ることもできないでしょ? 家まで送るから今日は休みな」
「……わかりました。ではまた後日に。ですが、送っていただく必要はございませんわ。すでに手配してありますの」
「そっか、じゃあ大丈夫そうだね」
立ち上がり、深く頭を下げた。
「本当にありがとう。全部、空川のおかげだ」
「そんなことないですわ。頭を上げてください。守上さんが、私を信じてくれたからですわ」
本当に私は恵まれている。
人の事を心から思えて、優先して助ける事ができる人に囲まれている。
「ありがとう」
「……本当に何があったのですか? 今の守上さん、まるで別人の顔をしていますわ」
「あんなの見て、変わらない方がどうかしてるよ……」
「え? もう一度よろしいですか?」
「ううん、なんでもない。じゃ、空川もゆっくり休んでね」
「ちょっと、守上さん」
「守上! ここに居たのか。話が聞きたいんだ。ちょっと良いか?」
「はい、今行きます」
叶の記憶には、首が飛ぶ人間の姿が映っていた。
数人の少女が一斉に背筋を正したかと思えば、白目を剥いて首を伸ばした。足は、地面に張り付いて離れない。限界は簡単に訪れて、皮膚が破れて、筋の弾ける音がした。
叶は、自身を押さえつける少女達を、絡みついた蜘蛛の巣を払うように取り除き、叫び声と滴る血の中で、胴体と分離した生首を踏みしめた。
場面が暗転して現実に戻る途中、叶の感情が僅かに緩んだのを感じた。
あれは、喜びだったのか。
超常、非日常、ありえないことは慣れている。それでも、地獄の惨劇を見ると思うと足がすくんでしまう。
そう思っていた。そんなことはお構いなしに、私の足は散歩でもするように軽やかに教室へと踏み込んでいった。
拍子抜けという驚愕と何故なんだという興味。
血の一滴も見当たらないではないか。
少女達は皆、五体満足で倒れている。
保健室に運ばれた少女達も次々に目を覚ました。
あれは何だったのか。
何より奇妙なのは、あれを誰も覚えていないこと。
あんなものを見て、発狂せずにいられるのか?
感情の暴走で、記憶がなくなるのは経験したことでわかっている。
それは周りも巻き込んでしまうものなのか。
私が見たのは、叶自身も忘れていた記憶だ。
仮にあの場所にいた全員が忘れている場合、あの惨劇を知っているのは私だけ。
叶の記憶には、私に電話をかける場面がなかった。
少女達を蹂躙した後、無意識で私に連絡をしたのだろうか。
何があったのかを知るには、その誰も知らない空白の時間を知る必要がある。
……知る必要あるのか? 知って誰の為になるんだ?
叶を私達の世界に引きずり込むことになるんじゃないのか?
それを叶は望んでいるのか?
私が知りたいだけじゃないか。
私が知りたいから、私が興味があるから。
私は、私の事しか考えられないんだ。
叶から連絡が来なかったら、私はもう叶と友達ではなくなってたのかな。
空川と仲良くしたいとか思ってたんだろ。
居なくなった叶の場所に空川を当てはめて安心してたんだ。
少し関りが途絶えただけで友達ではなくなったと判断して、新しい人材との仲を深めようとしていた。
叶を助けたいと思ったのも、そうすれば空川と話す機会が増えて友達になれるかもって思ってたからだ。
叶は辛くても苦しくても弱音を吐かなかった。
人の心配ばかりして、自分は後回しだ。
叶が私の事をどれだけ思ってくれていたのか。
私は、誰よりも叶の心を裏切ったんだ。
教師との対話は、嘘ばかり言った。
「何があったんだ? 知っていることを教えてほしい」
無能な体育教師も今回ばかりは、ふざけた態度を改めたらしい。
「正直、私もよく知らないんです。叶……遠藤さんといつもお昼を食べてたんですけど、教室に居なくて連絡もなくて、それで探してたら見つけたって感じです」
「守上が付いたころには、あの状態だったってことだな?」
「はい、そうです。全員、気を失ってて……」
「わかった、ありがとうな。また、話聞くかもだわ。そんときは頼んだ」
「はい」
救急車が何台も来て、叶も含めた少女達を搬送していった。
自分が何故運ばれるかもわかっていないようだった。
困惑している子、緊張している子、若干笑っている子。
記憶で見た、死に際に見せる表情の子はいなかった。
午後の授業は臨時休校で打ち切りとなった。
生徒の安否確認を終え、各地区別にまとまって帰宅することとなった。
原因不明の集団昏倒そして記憶喪失。
危険薬物?
不審者に襲われた?
なんかの儀式?
様々な憶測が生徒の中で駆け巡り、盛り上がりを見せていた。
騒がしい教室の中でも、静かな生徒は点々と存在している。
勿論、私もその一人だ。
窓辺に座る物静かな少女。
あ。
違う、全員じゃない。
叶が暴走してた時、あそこにいなかった人物がいるじゃないか。
先生を呼びに行っていた子だ。
なんで気づかなかったんだ。馬鹿か私は。勘が鈍いなんてもんじゃないぞ。
この子は記憶を失っていない。
叶が暴走していた時には居なかったが、少なくとも叶がバットを振り回していたのは見ていた。
まずい、この子が全部喋ったら叶の心象が悪くなる。
停学か退学、少年院?
とにかくまずい。どうにかして正当防衛まで持っていけるように、まずはこの子に協力してもらうために説得せねば。
「あの、守上さんだよね?」
向こうから接近してきただとー!?
何回あるんだこのデジャブ。いい加減驚きもわざとらしくなるだろ。
「うん、そうだよ。ちょうどよかった私も用があったんだ」
「え、あ、うん」
余裕のキメ顔したのが裏目った。
こんなふざけたことばかり考えている場合じゃないんだよ。
手招きをして少女を屈ませ、口元に手を当て囁く。
「今日の事でしょ? 騒がれるとあれだからLINEしよ」
少女は小さく頷いて、鞄からスマートフォンを取り出した。
人生で四人目に連絡先を交換するのが、まさか名前も知らない少女とは。
登録名は『信井』。現代少女にしては珍しい苗字のみ。
『今日の事、どれくらい先生に喋った?』
まずは聞きたい事を素直に聞いてみよう。
『何も言ってない
私も驚いてるの みんな倒れちゃってたから
だから守上さんなら何か知ってるかなと思って』
何もの部分が重要過ぎるな。
嘘を付くしかないか。記憶を見たなんて言えないし。
『叶がバット振り回してたのは廊下から見た
先生を呼びに行こうとしたら、廊下の先から先生が来るのが見えて、教室に入ったら急に皆気絶してたって感じ
だから私もよくわからなくて、先生を呼びに行った信井さんなら何か知ってるかなって思ってたんだ』
『遠藤さんがバット振り回してた事、先生に言ってないよね?』
ん? 何で信井から聞いてくるんだ?
『言ってないよ』
『良かった、私も言ってない
誰にも言わないでほしい』
これはまさか、私と同じ思いだったって事?
『大丈夫、私も言うつもりなかったから
もしかして叶の事、気を使ってくれた?』
『私は遠藤さんに助けられたから
私にできることをしたいと思ったの』
『ありがとう、話してくれて』
集団下校が始まり、信井とのLINEを半ば無理矢理終わらせた。
叶にしてあげられること……。
信井の選んだ答えは沈黙。
私は?
一緒に居る事、それが一番叶にとって良くないなんだ。今の私にできることなんて何もない。
私が力を制御できるようになれば、また叶とも楽しく過ごせるんだ。まずはそこを目標としよう。
力についてもっと知識を深めるところからだ。
空川を頼りたいけど、これ以上迷惑かけるのも何か嫌だ。
おじいを頼るか。
なんとなく気まずいんだよな。
おじいは変わりなけど、私の方がよそよそしいというか。
反抗期というか……入りかけというか。
こういう時に素直になれない性格が悪さするんだよなぁ。
だが、そんなことも言っていられない。背に腹は代えられん。
私は景気づけに頬を両手で叩いた。熱く赤く痛くなった頬に信念を誓った。
よし、まずは身内から頼ろう。
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