後編 エピローグ
「そう言えば菊さん、おいくつなんですか?」
「十と八です」
「なんだ。年下なのか」
「よく老けて見られるんですよ」
「老けて、じゃなく、大人びて見える、でしょう?」
「ああ、女性になれてらっしゃるのね」
「ああ・・・いや・・・」
小次郎は頭をかく。
菊夜は背が高い。
並みの男と視線の高さが同じくらいはある。
そのため、寺に世話になりだしてからは、小次郎の着物を借りていた。
正味、寺は貧乏。
小次郎もひとにくれてやるほど着物を持っているわけではない。
菊夜が加わったことで、一人分、寺の負担が増えた。
そこでかんざしだ。
藤美禰からもらったかんざしで金策ができそうなので、ふたりは夜に寺を抜け出して、宵闇の市にくり出した。
菊夜は男装している。
小次郎は金髪を隠すため、手ぬぐいで頭を縛っていた。
「ねぇ、小次郎さん」
◇八回目の訪問で、はじめて彼女に名前を聞かれた・・・。
「ねぇ?」
「ああ、いえ。なぁ、小次郎」
「なんだい菊さん」
ふたりは微笑。
「どうして子供達には秘密なんですか?」
「闇市だからですよ」
「闇市?」
小次郎は意外そうな顔をする。
「ご存じない?」
「闇の市・・・?闇?」
「まぁ、あなたが何者かは知らないが、こんな高級品、昼間に俺達があつかっちゃ、盗品だとでも思われて騒ぎになりますからね」
「じゃあ、闇市ってものは騒ぎにはならないんですね?」
「いや・・・どうなのかな・・・?」
「知らんふり?」
「いえいえ、俺もそんなに闇に詳しいわけじゃないんでね」
小次郎の横顔を見つめる。
「あやしいわ」
「あははは~、だ」
菊夜は納得。
「分かりました・・・これ以上は詮索しません」
「よかった」
「え?」
「いえいえ」
山から街まで下りて、小さな質屋に入る。
なんだか分からないが、かんざしが個人的に、素人でも売れるところらしい。
菊夜は小物屋に行くのかと思っていた。
小物屋を知っているだけで、自慢だったのに・・・骨董屋と質屋とも違うらしい。
◇小物屋で買った貝紅をあげた日だった。
「まぁ、ありがとう・・・ああ。ねぇ。そう言えば、あなた・・・お名前は?」
と、まぁ、そんな風に聞かれたのだったか。
「また来たのか、こわっぱ」
店主らしき男が、丸眼鏡を中指で上げた。
菊夜を見る。
「そっちは?」
「新入りですよ」
「ふむ、まぁいい・・・で、今回はなんだ?」
「かんざしですよ」
小次郎はふところから桐箱を取り出すと、番台に置いた。
「拝借」
小箱が開く。
店主の細い目が見開いていく。
「これは・・・これは、これは・・・」
「上物でしょう?」
店主はかんざしを手に取り、よくよくと観察する。
「すごいな。どこで手に入れた?」
「秘密です」
「半年は遊んで暮らせるぞ」
「足元見てますね?」
「バレたか」
店主は口元をにやりと上げる。
「どのくらいになります?」
「店にあるもの全部と取り替えても、まだ足りんかもしれん」
「そんなに?」
小次郎は凭れていた番台に乗り出す。
「いくら?いくら?」
「う~む・・・」
「うひょひょひょひょひょひょひょ、ほくほくだ~」
小次郎は小袋の中身を再度見た。
「どうしよう?ふところに入りきらない」
「良かったですねぇ」
質屋からの帰り道、菊夜の着物を買い終わったあとだった。
小次郎はその場で一回転半。
「ありがとうお菊さん。どうしよう?何に使おう?」
「さぁ?どうしましょう?」
寺の貧乏とはわけが違うが、菊夜は金を持ったことがない。
「おう、兄ちゃん」
小次郎は声の方に振り向く。
菊夜も、自然とそちらを向く。
がたいのいい男がいた。
「ああ、御晩です」
「また開いてるぞ」
「え?」
「入ったそうだ」
小次郎は眉間にしわを寄せる。
「またですか・・・」
「どうする?」
「どこで?」
男は持っていた酒瓶をあおる。
親指で方向を示す。
「あっちだよ」
「ありがとう」
「いや。またいいの入ったら連絡くれな」
「がってん」
小次郎は菊夜に向き直る。
「少し寄りたい所があるんですけど、いいですか?」
「どこに行くんですか?」
「競りです」
「せり?」
「ええ・・・」
小次郎は示された方向に歩き出す。
菊夜はそれについていく。
「せり、って?」
「商品があって、それをいくらで買うか競うんですよ」
「ああ、一番高値を出したひとが買えるんですね?」
「まぁ、そういうことです」
小次郎は複雑そうに、そう答えた。
「何か欲しいものが?」
「ものじゃないんです」
「え?」
「ひと、なんです」
「ひと?」
「ええ。ひと」
「ひとって・・・人間を売り買いしてるんですかっ?」
「しっ」
小次郎は人差し指で言葉を遮った。
「すいません・・・」
小声の菊夜。
「あのかんざしは菊さんのものなので、使っていいか聞きたいんですけど、いいでしょうか?」
「ひとを買うつもりなんですか?」
「実は、実際に何度も買ってるんです」
「は?」
「子供達ですよ」
「あの子達・・・」
「そう。あの子達の半分ぐらいが、闇市で売られた子達なんです」
「じゃあ・・・」
「ええ。和尚様のご好意で、お金をためて世話をしているんですよ。他の・・・毛色の変わった子供好きに買われたら、どんな目にあうか・・・」
「あんな小さい子達を?」
「嫁にすらしないのです」
「・・・なんてこと・・・知らなかった・・・」
「あなたはどこのお里なんだ?」
「すいません・・・世間知らずだ、世間知らずだ、と言われて育ちましたが、本当に知らなかったことを恥じています」
「・・・まぁ、いい・・・・使わせてもらいますよ?」
「ええ、どうぞ」
ふたりで競り会場に行き、妙な活気に違和感をおぼえる。
首輪をしている、ぼろをまとった人間達が出てくる。
菊夜は雰囲気に馴染めず、戸惑ったまま。
小次郎は真剣な顔で沈黙を保っている。
「さぁて、お立会い。今回の目玉だ~」
会場が色めく。
出てきたのは・・・金髪の、赤子だった。
異様な雰囲気を感じてか、泣き出した。
かなりの競り合いだった。
しかし、落札したのは小次郎。
いくら使ったのか、菊夜には分からない。
金の単位すらよく知らないからだ。
「またあいつか・・・」
と、小次郎を見た誰かが、そう呟いて舌打ちをした。
寺への帰り道。
菊夜は赤子の抱き方を知らないので、金の入った袋担当。
赤子は小次郎の腕の中だ。
眠っている。
「あの~・・・」
「ん?」
少し機嫌の悪そうだった小次郎は、元に戻っているかのように見える。
「私も抱いてみたいのですが・・・」
「ああ。どうぞ」
「やった」
小次郎達は立ち止まり、袋と赤子を交換しようとする。
赤子がそれに気づき、ぐずりだした。
「ああっ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ、どうしようっ?」
小次郎は苦笑。
赤子を取り戻す。
「今日は俺が担当、ってことで」
「ああ、はい」
二人は家路についた。
翌日。
子供達は、いつの間にか増えている新入りに驚いていた。
「いつ来たの?」
「今日だよ」
「名前は~?」
「今から決める」
「僕、決めていい?」
「だ~め」
「ちぇ」
午前中は畑仕事に精を出す。
休憩時間になって、菊夜は近くにあった木の幹に凭れかかった。
この寺では、子供が子供を世話する役回りらしい。
小次郎は子供達から赤子を抱き受けると、菊夜に近づいてきた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
小次郎は微笑。
「座っても?」
「ええ、どうぞ」
小次郎は菊夜の隣に座る。
菊夜は手ぬぐいで指をぬぐい、赤子のほほにふれてみる。
「今日は大丈夫かしら?」
「ああ、抱いてみます?」
「ぜひ」
「あぐらをかいたほうがいい」
「あぐら?」
「ええ」
菊夜は今日も男装している。
あぐらをかきながらだっこすると、体重分散が上手くいきやすいらしい。
赤子を受け取る。
今度は泣かれなかった。
まともに赤子に触れたことがなかったので、赤子の体温が意外だった。
やわらかい。
「可愛いわ」
「名前、何にします?」
「決めても?」
「和尚様が俺達が決めていい、って言っていたので、相談に」
「ああ・・・何にしよう?」
菊夜は赤子の顔を見つめる。
小次郎はその横顔を見て、幸せそうな顔をしている。
今日は風が心地いい。
木漏れ日が揺れている。
二人は濃密で甘い時間を感じていたし、互いがそう感じていることに気づいていた。
「ねぇ、お兄」
「ん?」
小次郎はいつの間にか目の前に立っていたすみれに気づく。
「和尚様が呼んでたよ」
「ああ、分かった」
小次郎は片手を地面に突いて、立ち上がる。
「お菊さん、少し任せても?」
「ああ、はい。いってらっしゃい」
「行って来ます」
菊夜は嫌な予感を感じていたが、小次郎に気づかせないよう笑顔で見送った。
小次郎の姿が見えなくなるまで、すみれは黙っていた。
すみれは菊夜に振り返る。
急変。
「言ってないでしょうね・・・・?」
「は?」
「あのこと言ってないでしょうねっ?」
「あのことって?」
「・・・まぁ、いいわ・・・」
「何がいいの?」
「調子に乗ってんじゃないわよっ」
「は?」
「調子に乗ってんじゃないわよ、って言ってるのよっ。あんたなんかすぐに追い出せるんだからねっ」
「じゃあ、和尚様に相談しないと・・・」
「・・・は?」
すみれは必死に動揺を隠しているようだ。
「だから、和尚様に相談しないといけないでしょう?」
「もういいっ」
「何が?」
すみれは悔しそうに唇を噛む。
「もういいっ」
充血した目を見せまいとしたのか、すみれは走って寺に帰ってしまった。
菊夜は大きなため息。
どうしたらいいのか、本当に分からない。
すみれ対策をねろうと思った時、赤子が声をあげた。
「えっ?」
とにかくあやしてみる。
一般的に、ゆりかご、と呼ばれる揺らし方だ。
顔の前で笑ってみせる。
意味が分かっているのかいないのか、赤子が笑った気がした。
菊夜は、この時初めて、母になりたいな、と思った。
母上・・・
母上のように、心密かにでもいいから、特別に好いている男性が欲しい、と思った。
「ねぇ・・・あなたの名前は何なのかしら?」
菊夜は赤子に聞いてみた。
赤子は当然、答えなかった。
街中。
「金髪?ああ、知ってるには知ってるが・・・」
酒をあおっている男。
銭を渡される。
男はにやりと笑った。
「山の中に混血ばかり集めた寺があるんだよ」
「山の中って?」
「ここから一番近い山だよ」
「そうか・・・嘘じゃないだろうな?」
「嘘じゃねぇすよ~」
「金髪の女は?」
「さぁ?」
「そうか・・・まぁ、いい・・・」
「ああ、そう言えば・・・」
「なんだ?」
「あの寺、新入りが入ったって言ってましたぜ。質屋の親父が」
男はさらに指先をこすり、銭を要求。
しかし、
「そうか」
と言われてきびすを返され、聞きに来た人物は去って行った。
小次郎の発し。
「りんどうがいいなぁ」
突然、思いついたのだろうか?
ひとり言に聞こえた。
ゆうげあと、菊夜が赤子をあやしている時だった。
「竜胆って花の?」
小次郎は菊夜を見た。
「ええ、『誠実』って意味です」
「ああ、いいですね」
「じゃあこの子の名前は『りんどう』で・・・いいですか?」
菊夜は口元をあげて賛成した。
赤子の顔をのぞきこむ。
「竜胆、ですって」
その日の夜。
菊夜は突然、目が覚めた。
水が欲しい。
台所に向かおうと、ふとんから抜け出す。
縁側廊下に出ると、ハシゴをかついでいる人物を見つけた。
「小次郎さん?」
小次郎が振り返る。
「ああ、見つかったか」
菊夜は小次郎に近づく。
「どうかされたんですか?」
「いえね。眠れなくて」
「眠れなくて、ハシゴかついでるんですか?」
「そんなアホな。屋根にのぼるんですよ。今日は星が綺麗なんで」
「ああ・・・私もいいですか?」
「えっ?」
「私も」
「ああ、ええ・・・いいんですが・・・怖くないんですか?高い所」
「一度屋根にのぼったことがあるんです。楽しかったわ」
菊夜は少し自慢げに言う。
小次郎は呆れたような苦笑。
「じゃあ一緒に」
小次郎は屋根にハシゴを掛け、先に屋根に。
菊夜がのぼると、自然と手を伸ばす。
菊夜は微笑。
「なつかしいわ」
「え?」
「もう遠い昔のような気がします」
「お菊さん、記憶が戻ってるんですか?」
「え?」
「ん?」
「え?」
「ん?」
「・・・え?」
「ああ、時々思い出す、とか聞いたことがあるや」
「ああ、そうなんですか」
ふたりで屋根の上を歩く。
真ん中の、頂上に近い所まで。
そこで小次郎が寝転んだので、菊夜も真似てみた。
小次郎は空に向かって手を伸ばす。
「何をしてるんですか?」
「星がつかめそうな気がするんですよ」
「本当に?」
「ええ」
菊夜は手を伸ばしてみる。
手を開け閉め。
「近くなったような気がする・・・」
小次郎の微笑の気配。
「あなたは本当に素直な方なんですね」
「は?」
「いえいえ」
「なんで笑ってるんですか?」
「いえいえ」
小次郎が更に笑った気がした。
数日は、うららかな日々を送っていた。
子供達も菊夜になついてきたし、問題はすみれぐらいのものだ。
一番小さかった心太も、さらに年下ができて子育てに夢中だ。
「僕、お兄ちゃん」
菊夜はそれを聞いて嬉しさを感じる。
竹千代丸が、弟が欲しい、弟が欲しい、とごねていたことを思い出す。
「そうねぇ」
心太は自慢げに微笑んだ。
菊夜は、これがとても貴重な時間であることを確信する。
どうやら庶民は、比較的好きな時に好きなことを話してもいいらしい。
誰かに見張られていることもないらしいことも分かった。
庶民にまぎれて、それが幸せだと感じている。
畑仕事の合間に食べる、塩味の握り飯は美味しい。
そんな小さなことに、幸せを見つけられる自分が嬉しい。
◇彼女はその場で紅を塗ってみせた。
恥ずかしそうに微笑まれる。
小さな幸せを感じる。
彼女の名前を知ることもできた。
そうとう大きな、小さい幸せだ。
矛盾しているかもしれないが、あえてそう思うことにする◇
さらに数日後。
夕刻。
「たのもう」
玄関先に出てきた数人の子供達。
目の前には、ひとりの男。
「和尚はいるか」
「和尚様は休まれています」
少しこわごわと、子供のひとりが答えた。
「金髪の女がいると聞いた。出せ」
「わたし?」
偶然いた、金髪の子供が言う。
「違う。十八ぐらいだ。いないのか?」
子供達は不思議そうな、複雑な表情を浮かべる。
「いないのか?」
「お菊姉って何歳?」
「さあ?」
「お菊?」
男が片眉を上げる。
「何してるの?もうすぐ夕飯よ」
竜胆を抱いている菊夜と、その隣を歩いていた小次郎。
強面の男と目が合う。
「ん?お客様ですか?」
「菊夜姫」
「えっ?」
菊夜は思わず反応してしまう。
子供達、小次郎が菊夜に振り向く。
「姫、お探ししました。別所でお話しとうことが御座います」
「姫?」
男は小次郎の質問を無視する。
「姫」
菊夜は困惑。
頭を高速で回す。
戻って来て下さい、なら、この場で言えるはずだ。
至るに、ここを離れた方が、ためだと思った。
父上が私を逃す真似すら、するわけがない。
「小次郎さん」
菊夜は竜胆を小次郎に抱かせる。
「ちょっと出てきますね」
「え?ちょっと待って下さい」
菊夜は聞こえなかったふりをしてぞうりをはく。
「行きましょう」
強面の男はうなずいた。
「お菊さん?」
菊夜は振り返らず、外に出た。
「・・・どこまで行くの?」
「もうすぐ着きまする」
寺のすぐ近く、草原だった。
そこに数人の男達がいる。
いい予感はしなかった。
強面の男が立ち止まったので、菊夜もその手前でそうする。
「それで、お話って?」
男達の中からひとり、歩み寄ってくる者がいた。
「姫・・・」
菊夜は目を見開く。
「紫苑っ」
「やっぱり心配だ。探しに行ってくる」
小次郎は竜胆を子供のひとりに抱かせ、下駄を履く。
「お兄、『姫』ってどういうこと?」
「分からない・・行ってくる」
「ねぇ、和尚様に言っておいた方がいい?」
「ああ・・・そうだな・・・そうしてくれ」
「紫苑・・・」
「姫・・・」
紫苑はたずさえた刀を抜いた。
鞘を捨てる。
菊夜は数秒、構えたその姿を見ている。
「・・・紫苑?」
「俺に任せてくれ」
うしろに控えている、男達に紫苑が言った。
「紫苑?」
紫苑と目が合う。
「姫、どうか俺と、共に死んで下さい」
◇さらおう、と思った。
本気で、だ◇
「紫苑・・・?」
「お館様が言われました。あなたを手に入れてもいい、と」
「それで何故、共に死ぬ、なの?」
「その代わり、死ね、と言われたのです」
「・・・意味がわからないわ。好いている人とは、なるべく長く一緒に生きたいと思うものではないの?」
しばしの、沈黙。
「あなたには・・・そう思わせてくれる誰かがいるのですね」
「え?」
紫苑は無言になる。
「どういう意味?」
◇次の訪問が最後だった。
彼女を迎えに行ったのだ。
彼女の名前にちなんで、百合の花を持っていった。
「俺と共に、生きてください」
「え?」
「俺の嫁になってください」
「私は・・・人間ではないの・・・」
「知っています。あなたは化け狐だ」
「えっ?」
「俺もなのです」
「なんですって?」
「俺は匂いでかぎわけることができるんです」
「じゃあ、それを知っていて人間のふりをしていたの?」
「別に隠していたわけではないのです」
「聞かなかったから?」
「ええ・・・まぁ・・・」
百合亜の微笑。
「ありがとう。嬉しいわ」
「じゃあ・・・」
「ごめんなさい。それは無理だわ」
「無理?」
「結婚が決まったの」
「俺があなたを幸せにする」
数秒の、沈黙。
彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。
「ダメなの。妹を犠牲にするわけにはいかない・・・一族全員が、あいつに殺されるかもしれないの」
「あいつ?」
「名前は言えないわ」
「俺は、これが最後の訪問だと決めてきたのです」
「お願い。帰って」
「俺が嫌いですか?」
「愛してるわ」
「え?」
「愛しているわ。だから、もう、関わらないで・・・」◇
「手に入らないのなら、いっそ・・・殺す・・・」
「紫苑・・・」
◇「ゆりあ・・・」
「やめて。そんなすがる様な声で言わないで」
「どうしてもダメなのか?」
無言。
無言。
無言。
無言。
「・・・分かった。つきまとってすまない。もう、ここには来ない」
彼女がはじめて、俺の名前を切なそうに呼んだ。
せめて、彼女の指先にでもいいから、触れてみたかった。
「あなたに触れたい・・・」
「私もよ・・・」
百合亜は泣いていた。
そうとうな覚悟で、俺を拒絶していることが分かった。
彼女と俺は定められた仲だと、分かった。
そしてそれを邪魔する者がいることを、一時期忘れることにした。
彼女にゆっくりと近づき、ほほに触れる。
俺がやった紅をつけている。
口付け。
ひと時の、逢瀬だった◇
寺。
写経をしている途中だった。
「和尚様」
「なんだ」
背中を向けたままの和尚。
「お菊姉とお兄が・・・」
和尚は振り向く。
「なんだ?」
「変なおじさんが来たんだよ。お菊姉のこと『菊夜姫』って呼んでた」
和尚は目を見開く。
「なにっ?」
「なんだか嫌な予感がするよ・・・どうしよう?和尚様」
「出てくる。みんな先にゆうげにしていなさい」
和尚は立ち上がった。
「でも・・・でも・・・」
「でも、でも、はなしだ」
「・・・はい」
和尚は部屋を出た。
◇その日から、毎日のように彼女を思い出す。
しかし彼女の家には近づかなかった。
どこか遠くに嫁いだらしい◇
「紫苑・・・」
「俺もすぐに、参ります」
「紫苑っ」
斬撃。
菊夜は左肩からななめに、表を斬られる。
大量の血がしぶく。
即死、だったらしい。
ひざから崩れ、そのまま前のめりに倒れた。
紫苑は刀を首に当てる。
「姫、今、参ります・・・」
「お菊さんっ」
息を切らし、小次郎が草原を走って来る。
そこには、黒装束を着た男達。
倒れている菊夜と、見知らぬ男。
「お菊さんっ、お菊さんっ」
かまわず走って近づき、菊夜を抱き上げる。
「お菊さんっ」
「誰だこいつは・・・」
「お菊さんっ」
「見られたからには・・・」
「ああ・・・」
「お菊さんっ」
菊夜を揺さぶる小次郎。
その背中から、影が近寄る。
衝撃。
小次郎はくぐもった悲鳴をあげる。
そのまま、気絶した。
菊夜の上に覆いかぶさるようにして倒れる。
和尚は子供達に見られない所まで歩くと、鼻に集中した。
「草原・・・」
和尚は急に走り出す。
枯れていたとも思えるほどの皮膚に、みずみずしさが戻る。
ハゲあがっていた頭に、金茶色の髪がなびいてくる。
和尚の姿は、二十代半ばにまで変化していた。
その姿は、小次郎に似ている。
◇彼女・・・倒れている彼女を見て、すぐに分かった。
百合亜の娘だと。
どれほど驚いたことか・・・。
明らかに百合亜の姿、生き写しだった◇
全速力で走る。
風を切る音が耳を打ち、過ぎ行く。
すぐに草原につく。
倒れている者が三人。
彼女の髪は、首を取るかわりに切られたのだろう。
半分ほど、無くなっていた。
側まで近づく。
小次郎にはまだ、息があったが、和尚は動けなくなってしまった。
小次郎の喘鳴交じりの声。
「お菊さん・・・」
「小次郎・・・お前は・・・」
「お菊さん・・・」
「菊・・・」
和尚は菊夜の横顔に視線を落とす。
「菊・・・」
◇菊夜、という名前らしい。
毛色ですぐに分かった。
俺の娘であると。
ああ・・・もっと・・・もっと喋っていればよかった。
あまりにも彼女、百合亜に似ているので、目すら合わせないようにしていた。
俺の娘、菊夜。
そしてよそに、いつの間にかできていた、菊夜の兄、小次郎。
ふたりが、互いに惹かれあっていることは薄々気づいていた。
しかし、小次郎には、俺が父親であることすら言っていない。
そう。
気づかれていることに、気づいてはいた・・・。
・・・ああ。
菊夜。
小次郎・・・。
もっと、愛してやればよかった・・・◇
和尚は一筋の涙を流した。
金色の瞳だった。
まるで夜空に浮かぶ満月が、ふくらんで熟した菊のような、そんな日のことだった。