前編 狐の嫁入り
翌日。
祝言まであと二日。
結納の準備の総仕上げが、屋敷中で行われている。
藤美禰は気が乗らない。
元服したら結婚だと言われ続け、何かと理由をつけては今まで断ってきたが、未だに父が見つからない。
母はもうこの世にはいない。
なぜかいつもの相談役、乳母の姿も見つからない。
父の作戦であることは目に見えている。
敵の侵入を考慮して屋敷の結界を幾重にも、数百種類にも変えているせいで気配が読めないのだ。
敷地の把握すらできない。
それを利用された。
◇最初は利用してやろうと思っていた◇
山茶花彦が白湯らしきものを盆に乗せて持ってくる。
近くに正座。
「お薬です」
「何の?」
「胃の腑です」
「なぜ分かった?胃の具合がよくないこと」
普段表情をあまり出さない山茶花彦が、口元に微量な笑みを浮かべる。
何年の付き合いだとお思いで?
と言いたいのだろう。
紙に包まれた粉薬を口に入れ、白湯で流し込む。
苦いので少し顔をしかめた。
「それで・・・父上は見つかった?」
「いえ・・・」
「そう・・・」
庭師が使う、高枝用のハシゴを偶然見つけ、拝借。
ふたりはハシゴを上る。
「本当にいいのかしら?」
「いいでしょう、これぐらい」
先に到着した竹千代丸が姉の手を取って、屋根の上へとあげる。
「なんだか小慣れているわね?」
「気のせいでしょう」
「ちょくちょく、こういうこと秘密でしていたのね?」
「さぁ?」
「つくしがいればもっと楽しかったんでしょうに」
「つくし、つくし、言わないで下さい」
「そんなに言ってないわ」
「頭の中がつくしだらけなんですよ」
「分かった。あまり言わないようにします」
「からかわないで下さい、って意味です」
「からかってないわよ」
「まぁ、それならいいんですけど・・・」
「あなた普段、どうやって御付きから逃げているの?」
「秘密です」
「ああ、そう」
ふたりは瓦屋根の上を歩く。
風が強く感じられたので中腰だ。
それだけで菊夜はわくわくしている。
頂上に向かって斜めに歩き、しゃがみこんで座る。
「お着物汚れないかしら?」
「お気にせず」
「粗相をすると叱られるでしょうに」
「しらを切り通せばいいのですよ」
「通ったことが?」
「まぁ」
「ということは、やっぱり・・・」
「何です?」
「こんな楽しいことひとりでしていたのね?」
「あ・・・」
「あ?」
「いえ」
「まぁ、いいです」
「聞かなかったことに・・・」
「何のことです?」
「・・・さぁ?」
「それよりも」
「分かっていますよ」
ふたりは頂上の反対側を覗き込む。
そこには忙しなく働いている庭師達が見えた。
―捨て子、だったらしい。
いつそれを聞いたのかは忘れてしまったが、早い内に義理の両親から聞いた。
父は屋敷付きの専用庭師で、俺もその道を選んだ。
ふたりは十代の頃に亡くなり、今はまた、天涯孤独だ。
姫に贔屓にされていることで大半の者から遠巻きにされているが、別段、気にしていない。
お前の好きなように生きろ、と父に言われてからだ。
それから少し、心の中の名前のない感情が少なくなって、楽になった。
前よりも縛られているような気もするが、気にしないことにしている。
「おい紫苑、アレ取ってくれ」
「はいよ」
大バサミをハシゴの上にいる同僚に渡す。
一瞬、視界の中に気配を見る。
斜め横の屋根に振り向く。
黒髪と、金茶髪の頭が、咄嗟に隠れるのが分かった。
あの色は・・・
「どうした?」
「いや・・・・・・何でもない」
気のせいだったことにして、俺は仕事に戻った。
◇生業は嘘偽りなく、盗賊。
解散してきたところだった。
もう昔の血、というやつになっているのだろうか?
盗賊の性がうずく。
女を欲することはもちろんあったが、今回の「欲しい」は今までとは何かが違う。
いずれ、と宣言してしまったし・・・
いったい、どうしたものか・・・
悩み、悩み・・・
やはり数日後、再びの訪問を選んでみる◇
翌日。
結納の儀の為、牛車の行列は進む。
吉凶を占い、その道順通りに進むことが決まっている。
しばらく、時間がかかりそうだ。
藤美禰はため息を吐く。
「いかがしました?」
「何でもない・・・」
「お相手は美姫だと密かに有名だとか」
「それは聞いている」
「何かご不満で?」
「私よりも美しいのか?」
「それは・・・申し訳ありません。調べておりませぬ」
「まぁ、いい・・・どうせ我が家の家名欲しさの世間知らずだろう」
「物事をあまり負の方に考えなさりませぬように」
「贈り物は?」
「ここに」
山茶花彦は桐箱を取り出す。
藤美禰はふたを開け、ふむ、と納得。
「さて、いつ渡すことになるやら・・・そうか・・・楽しみにしていればいいのだな?」
桐箱を山茶花彦に渡す。
山茶花彦は何も答えなかったが、その考えを否定はしなかった。
「そろそろお着きになる時間でしょうかね?」
数人の侍女が、菊夜の着物の着付けをしている。
「さぁ・・・どうかしらね」
「やはり・・・あまり乗り気ではないのですね」
「ねぇ、つくし」
「はい」
「あなたには好いている方がいる?」
つくしは最後の仕上げ、羽織を菊夜の腕に通しながら言う。
「心密かに・・・」
「そう・・・」
「誰かは聞かないでおくれまし」
「分かっています」
他の侍女が言う。
「なんでも姫のお相手は名家の美男だとか。ほんと、うらやましい限りですわ」
菊夜はもう片方の袖に腕を通す。
◇・・・そうだ。
三回目は、名前を聞くのを忘れていて、聞きに行ったのだった・・・◇
「確か、ふじみね、と言ったわね?」
「藤美禰様、とお呼び下さい」
「年下なのに?」
「旦那様になられる方ですよ」
菊夜は無言。
「私は恋をして結婚したいのよ」
「恋?」
「そう、恋愛、ね。下々の者には許されているのでしょう?」
「ええ、まぁ、そうなのですが・・・」
「なぜ私はダメなの?」
「ダメではありませんよ」
「どういうこと?これは政略結婚よ?」
「そのお方と恋愛をなさればいいのですよ」
菊夜は大きく瞬き。
「ああ、なるほどっ」
「私は一生の奉公を誓ったので結婚はできませんが、菊夜様には幸せになっていただきたいのです。菊夜様が幸せであるなら、しもべにとっても幸せなのですよ?」
「ありがとう、つくし。どうするか・・・考えておく」
◇「ご機嫌麗しゅう」
「また来たの?」
「そう言えばまだ、名前すら聞いていないなぁと、思いましてね」
「なぜ言わなければならないの」
「もう決めてあるのです」
「何を?」
「あなたを妻に、と」
「は?私を?」
「そうです」
「本気で言っているの?」
「ですから、いずれあなたをさらう、と言ったでしょうに」
「いつ決めたの?」
「二回目に会った時ですよ」
「なぜ?」
「一目ぼれならず、二目ぼれ、とでも申しましょうか・・・」
「あなたの話し方、本気かどうか分からないのよ」
「本気も本気、大本気です」
「私をからかってるの?」
「なぜ怒っておられるのですか?」
「別に怒ってなんかいやしないわよ」
微笑。
「なぜ笑ったの」
「いやぁ、怒った顔も可愛らしいなあ、と思いまして」
「やっぱりバカにしているのね」
「やっぱりとは・・・いつから確信していたのですか?」
「もういい、帰って」
「これはまずい。本当に怒らせてしまったようだ」
「そうよ」
「では、また」
「もう来ないでっ」
「それはお約束できません」
「今度来たら屋敷の者を呼びますからね」
「困ります」
「はぁ?」
「そろそろお暇しよう。では、また」
「だから来ないで、って言ってるでしょうにっ」◇
牛車の列。
その先頭、三つ目の黒牛。
ある屋敷の門前まで来ると、立ち止まる。
優雅でのんびりとした声で牛が言った。
「藤美禰様一行、到着いたしまして候」
◇その日の帰り道はご機嫌で、
やはり彼女との会話が充実していて楽しいものであることを確信する◇
「やはり・・・面白くない」
つくしは瞬く。
「何がですか?」
「それが何かが分からないのよ」
つくしは困惑。
「菊夜様?何をお考えで?」
「私、屋根にのぼったの」
「やね?屋根っ?」
「そう、あなたの目を盗んで」
「なんてはしたない」
「はしたない?」
「いえ・・・うらやましい、の間違いです」
数秒の間。
沈黙。
「申し訳ありません」
「私、屋根にのぼるたけであんなに楽しいなんて知らなかったわ」
菊夜は眉間にしわを寄せた。
不貞腐れているようだ。
「・・・面白くない」
結納の儀が始まる。
すでに贈り物が山のように設置されている。
両家の親戚が対面して座っている。
今はまだ、互いに顔を合わせてはならない決まりだ。
菊夜は御簾の中にる。
正面に小柄な白髪の男が座っているが、顔はよく分からない。
向こう側からも、こちらの顔は見えないはずだ。
「お初にお目にかかります、菊夜殿」
菊夜は深々と一礼。
「藤美禰と申しまする」
「菊の夜と書き、菊夜と申します。長々と、これからどうかよろしゅう」
「こちらこそ、どうぞよろしゅう」
「素敵な香のかおりですね」
「おおきに」
その日の夜。
横になっている菊夜は、几帳の向こう側にいるつくしに話しかけた。
「ねぇ、まだ起きている?」
「はい。いかがなされました?」
「あなた・・・前に好いているひとがいると言っていたわね?」
「はい」
「それは」
「言ってはいけません」
「竹千代丸ではなの?」
「言ってはいけないと申したでしょうに」
「ねぇ、つくし」
「ダメです」
「まだ何も言ってないわ」
「逃げろ、とおっしゃるのでしょう?」
「なぜ分かったの?」
「身分があまりにも違います」
「なぜ分かったのか聞いているのよ」
「あなたがお小さい頃から御仕えしているからですよ」
「そう・・・竹千代丸はその気みたいよ?」
「半ば、でしょう?」
「知っていたの?」
「知っている、というか・・・気づいてはおりましたよ」
「そう・・・」
「はい」
「そう・・・おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ」
「つくし」
耳元でささやく声。
「つくし」
つくしはうっすらと目を開ける。
女装している竹千代丸が目の前にいた。
驚いて息を飲もうとした瞬間、口元を手で押さえられる。
人差し指を唇に当て、し、と言う。
顔を近づける。
「竹千代丸様・・・?」
口付け。
つくしは身をまかせ、目をつぶる。
ゆっくりと目を開ける。
「これは・・・夢でしょうか?」
「どうだろうね」
「竹千代丸様」
「僕の気持は伝えた。明日までに、決めてくれ」
「竹千代丸様?」
「待ってる」
竹千代丸はそれだけを伝えると、部屋を出て行った。
つくしはしばらくの間、竹千代丸が出て行った場所を見つめていた。
◇見つめている。
ひさしにしゃがみこみ、琵琶の音を聞いている。
五回目の訪問のことだ。
とてもとても雅やかな時間で、俺は聞き惚れている。
いや、見惚れている?
まぁ、どちらでもいいのだが・・・
一曲が終わって数秒の沈黙。
彼女は屋敷の者を呼ばなかった。
「来るな、と申したはずですが?」
「来ない、とは言っておりません」
彼女の、大きなため息。
「あなたは何なの?」
「だから、盗賊です」
「ひとりで?」
「ええ、まぁ」
「ああ、そう」
「怖がらないのですか?」
「ある種の怖さはおぼえていますよ」
「俺の肌や髪の色のことですか?」
俺の肌は白く、毛色はブロンドだ。
「違うわよ」
「俺の何があなたを怖がらせるのですか?」
「言わないわ」
「聞きたいなぁ」
「言わないわ」
「まぁ、これからじっくりと・・・」
「また来るつもりなの?」
「当然」
「なにが当然なのよ」
微笑。
「意味不明」
「おや、ひとの気配。今夜はこれで。では、また」
俺は塀から飛び降りて、帰路についた◇
翌日、早朝。
菊夜は庭先にいた。
午後からは祝言だ。
鬱々としている。
もっと見たかったものがたくさんある。
覚悟はしていたものの、未だ納得はしていない。
部屋で飼っていたメジロ。
木製の鳥かごから出すと、メジロは空へと飛び立った。
菊夜はそれを、少しうらやましそうに、ぼうっと見つめている。
椿の茂みから、人影。
日焼けした黒髪の男は、紫苑だった。
「姫、お目覚めですか・・・」
「ええ。おはよう。一体どうやってもぐりこんでくるの?」
「秘密の通路があるのです」
「そうだったの」
「お決まりですか」
数秒の、濃密な沈黙。
「・・・決めたわ」
「お返事は?」
「ねぇ、紫苑」
「はい」
「逃げる手伝いをしてくれる?」
紫苑は立ち尽くし、自然と片足を折り、地面に足をついた。
「どうぞ、ご命令ください」
「私と一緒に逃げて?」
「仰せの通りに」
「菊夜様?」
席を空けていたつくしが登場し、紫苑の姿を見つける。
「祝言の日にお相手以外の殿方とお喋りになられたのですかっ?」
「つくし、私、やっぱり嫌だわ」
「・・・何がでしょうか」
「婚姻よ」
「菊夜様、もう子供ではないのですから・・・」
「まだまだ見てみたいものがたくさんあるの」
「菊夜様、どうか考えをお改め下さいませ」
「つくし」
「はい」
「つくし」
「はい」
「つくし」
「・・・はい」
「つくし」
数秒の間。
つくしは大きなため息を吐いた。
「そうでした。幸せになってほしいと言ったのは私です・・・」
「あなたに犠牲になってもらうつもりはないわ」
「では、どうしろと?」
「分かっているでしょう?」
「身分が」
「身分なんて関係ないわ」
「あるのです」
「そんな世界、変えてしまえばいいのよ」
「姫」
紫苑は立ち上がる。
「参りましょう」
「ええ」
「菊夜様」
「つくし、協力してくれる?」
「もう心を決めています」
「それは」
「そうですよ。協力する、という意味です」
「ありがとうっ。つくしっ」
つくしは再度、大きなため息を吐いた。
「祝言の前に菊夜殿と話しがしたい」
「それはなりません。結納の儀でお話をされました」
「なぜ?妻になる者ときちんと話がしておきたいだけだ」
「なりませぬ」
「じゃあそこに座ってろ」
藤美禰は立ち上がる。
「お待ちを。いずこへ?」
「だから、菊夜殿の所だ」
「いずこか分かりませぬ」
「分かる。結納の時に魂の匂いをおぼえておいた」
すでに正装の藤美禰は歩き出す。
「お待ちを。ご一緒します」
山茶花彦は立ち上がった。
馬屋の前にふたりの人影が現れる。
見張りが声をかける。
「いかがしました?」
「馬を一頭、貸してほしいのですが・・・実は酒が足らんようで」
「ああ、どうぞ、どうぞ」
手綱を引いているのは紫苑。
いつもと装いが違う。
私服だ。
その後ろにいるのは、金茶髪を後頭部で結っている人物。
男装している菊夜だ。
服は紫苑から借りた。
馬小屋が珍しいのか、馬にかまったり、周りを遊歩している。
菊夜は鼻歌を歌いながら馬小屋を出る。
近くにはえている楓の木に近づく。
幹を撫でてみたりしている。
そよぐ空気の匂いが変わる。
菊夜は香のかおりに振り返る。
そこには、白髪の少年と短髪で茶色毛の男がいた。
数秒、見つめ合う。
「この香のかおりは・・・藤美禰・・・様?」
藤美禰は意外そうに瞬く。
「まさかあなたが菊夜殿?」
「はい」
「なぜ男装など?」
「逃げようと思って」
「は?」
「ここから逃げようと思っておるのです」
「私からもですか?」
「さぁ?あなたのこと、あまり知らないので・・・分かりませんわ」
「知ろうともなさらないと?」
「失礼かしら?」
「ええ、少々」
「かなり多い少々ですね」
「私をおちょくりになられませぬように」
「こわや、こわや」
藤美禰の呆れたような微笑。
「実はずっと断ってきたのですが、あなたを見て婚姻もそう嫌ではなくなったのですが」
「私も別に、あなたのことが嫌なわけではないのです」
「では・・・」
「では?」
「ええ、では・・・」
藤美禰はそちらを見ずに山茶花彦に片手を差し出す。
それだけで空気を読んだ山茶花彦はどこからか桐の箱を取り出す。
「こちらに」
桐箱を受け取った藤美禰は、手元でふたを開け、それを菊夜に見せる。
「これは?」
菊夜は箱の中に視線を向ける。
「贈り物です。どうかお受け取り下さい」
「綺麗・・・素敵なかんざしね」
「世にも珍しい、本物の人魚の鱗でできたかんざしなのです」
「まぁ」
「我の名にちなみ、藤の花を模してあります」
「いただいてよろしいの?」
「あなたのために作らせたものですから」
楓の葉が風に揺れている。
菊夜はかんざしに手を伸ばす。
藤美禰はかんざしを取り出し、それを差し出す。
「我はあなたを歓迎します」
菊夜の指が、かんざしに触れようとした刹那。
その伸ばした腕をうしろから掴み止める、日焼けした手。
菊夜はきょとんとした顔で振り返る。
馬をたずさえた紫苑だ。
睨まれる。
「紫苑?」
鋭い視線をそのままに、藤美禰に流す。
意外そうな藤美禰。
睨み返す山茶花彦。
藤美禰は口元をあげる。
自嘲とも、紫苑に対する嫌味とも定まらぬ笑みだった。
伏目になるとほぼ同時、笑みは消える。
かんざしを箱に戻す。
ふたを閉める。
「どうかお受け取りを」
菊夜に箱を押し付ける。
「いいのですか?」
「男が一度差し出したものを・・・」
「ああ、はい。すいません。もらっておきます」
菊夜は微笑む。
藤美禰は少し不機嫌そうに見える。
残りのふたりは未だに睨みあっている。
風に吹かれた緑色の楓の葉が、地面に落ちる頃には赤へと変わっていった。
菊夜は紫苑の腕に引かれ、馬に跨る。
藤美禰に振り向く。
「では」
藤美禰は名残惜しそうに微笑。
「ええ・・・では、いつかまた・・・」
菊夜は微笑んだ。
金の屏風を背にして、座っているふたり。
参列している親戚縁者。
列が対面している。
猫足の膳が並んでいる。
新婦はまだ、新郎にも新郎の親戚にも顔を明かしてはいけない。
隣にいる新郎と話をしてもいけない。
白無垢を着たその姿は俯きかげんで、口紅が目立った。
「ほんにめでたや、藤美禰殿」
「おおきに」
藤美禰は微笑。
「これで早よう跡継ぎができれば安泰なんじゃがのう」
「気が早すぎまするよ、伯父上」
三々九度。
その直前、白無垢を着た人物がお付きのつくしに耳打ちをした。
つくしが言う。
「少々、席をはずしまする」
つくしと白無垢を着た人物は立ち上がろうとする。
「どこへ行く?」
屋敷の主人が訝しそうに聞く。
「あなた」
百合亜のいさめ。
「なんだ?」
数秒の間。
「ああ・・・なんだ厠か。それなら仕方ない。行って来なさい」
つくしと白無垢姿の人物は退室。
「それにしても、竹千代丸、具合が悪いと言っていたが、出れぬのか?」
「仕方がありませんでしょう」
「この婚儀に反対、ということか」
「このように突然・・・」
「まぁ、そう言うな」
「あの子は体が弱いのですよ」
「お前に似て、な」
百合亜は押し黙った。
屋敷の主人は酒をあおりながら鼻で笑う。
「開門っ」
門番がそう言うと、屋敷の大きな出入り口が開いていく。
栗毛馬に乗った紫苑と菊夜は、屋敷を出た。
今まで上機嫌だった菊夜の父、屋敷の主人は顔色を変えた。
「どういうことだっっ」
杯を床に叩きつける。
「どういうことだっ」
「お館様っ?」
「いかがなされたのですかっ?」
周りの者が慌てだす。
「菊夜がいないっ」
「どういうことでっ?」
「あやつっ、屋敷の外に出よったっ。探せっ、つかまえろっ」
「一大事っ。すぐに確認をっっ」
藤美禰の親戚側。
「どういうことですかな?」
「まさか逃げた、と?」
「ああいや・・・しばし待たれよ。しばしっ」
「そろそろ我らも参るか、山茶花彦」
「は」
「何をっ・・・」
「我らも逃げる」
「何を血迷うたことをっ」
「恥をかかせる気かっ?」
藤美禰は笑う。
「さようなら、縁があるならまた会いましょう」
ひらり。
みながあっと言う間に、藤美禰とその従者、山茶花彦が消えた。
座っていたその場所には、人の形をした紙。
「化かされたっっ」
「探せっ」
「逃げたのかっ?」
「探せっ」
竹林の中。
白無垢から着替えた竹千代丸と、隣を走るつくし。
ふたりは手をつないでいる。
弾む息。
立ち止まる竹千代丸。
「竹千代丸様?お体の調子が」
「違うっ」
弾む息。
竹千代丸は体が弱い。
「本当にいいのか?」
数秒の間。
意を察するつくし。
「はい」
「本当にいいんだな?何が起こるのか分からんぞ?」
つくしは微笑んだ。
「菊夜様のお付きより、大変なものはありません」
竹千代丸は瞬く。
ふ、と微笑。
「違いない」
竹千代丸はもう片方のつくしの手を取る。
「私と一緒になってくれ」
つくしのはにかみ笑顔。
「・・・はい」
二人で照れ笑い。
「行こうか」
「はい。参りましょう」
「いずこへ行こう?」
「どこまでも」
「ああ、どこまでも」
二人は再び、竹林の中を走り始めた。
その竹林の側。
石垣の塀の外側、その空中に亀裂がある。
そこから見える映像があった。
何とも無い、人間達の日常だ。
子供達が坂道を楽しげに走っている。
「こーら、走ると転ぶぞ」
「転ばないよ~」
そう言った途端、ひとりがこける。
「ほらみろ」
子供を抱き起こす金髪の青年。
着物についた土ぼこりを払ってやる。
足元に斑点。
「ん?」
空を見上げる。
晴天。
手をかざすと、滴が落ちてくる。
一瞬、光の糸が降って来たと錯覚した。
雨だ。
天気雨。
「ねぇ、兄ちゃん。何これ?晴れてるのに雨が降ってるよ?」
美しい青年は遠い目で言った。
「狐の嫁入りだ」