だいたい全部、聖女のせい。
「どうして……こんなことに……」
カルカディオン王国のバルサンティ公爵家の令嬢シャーロットは、王立学園の中庭に設けられたテラスで細い溜め息を吐いた。
緩やかに波打つ銀糸の髪と菫色の瞳に彩られた美しい容はたっぷりと憂いを含み、彼女が追い詰められていることが一目でわかる。
彼女の心を覆っている憂いの原因は、婚約者である王太子レメディオスの最近の振る舞いについてだった。
昔は良かった。
そうシャーロットは思う。
幼い頃に婚約を交わした二人は、いずれ国を背負って立つ身として共に手を取り合い、互いへの理解を深めてきた。
この学園に入学するまで——いや。
異世界からやってきた伝説の聖女が彼の前に現れるまでは、何も憂うことなどなかったのに。
(彼女が現れて、殿下は変わってしまわれた……)
シャーロットは眉間に僅かに皺を寄せ、唇を噛んだ。
いいや。変わったのは彼だけではない。
シャーロットはレメディオスの側に侍る極めて優秀な高位貴族令息達を思い浮かべた。
穏やかで公明正大な公爵令息フィンセント・ハルヴァー。
頭脳明晰で常に冷静な侯爵令息リュゼ・ダウェンポート。
弁舌に優れ人から好かれる才を持つ伯爵令息オーギュスト・ガランシノ。
レメディオスを支え、時に諫める立場である彼らまでもが、あっという間に変えられてしまったのだ。
(異世界からやってきた聖女、サクラ様に出会い、あの方達は……わたくし達の声も届かぬほど……夢中になって……)
涙がこぼれそうになって、シャーロットは唇を強く噛んで耐えた。ハンカチを手に強く握りしめて気力を保つ。
泣いてはいけない。ここは学園で、人目がある。それに、辛い思いをしているのは、自分だけではないのだと、シャーロットは己れに言い聞かせた。
王太子の婚約者であるシャーロットと共に、三人の令息の婚約者達も、笑顔すら消えるほど辛い日々を送っているのだ。
(ああ。どうすればいいの……わたくしはもう、耐えられないかもしれない……)
国母となる自分がこのような泣き言を吐いてはいけないと理解している。それでも、シャーロットはこんな日々が続くことに、レメディオスの仕打ちに、これ以上耐えることが出来るとは思えなかった。
ほつり、と乱れた前髪を、指ですい、とかき上げた。
その時だった。
「いい! その顔いいね! シャーロット! いいよ〜、それじゃ、次はちょっと顎を引いてみようか! 目線は少しだけ空を見上げるように!」
どこから現れたのか、レメディオスがシャーロットの座るテラスの横にしゅばっ!っと着地した。
「……殿下」
「はい! 斜め目線の憂い顔、いただきましたー! いいよー! 最高だね! はい、次は体の向きをこっちに! 恥ずかしがらないでー!」
「…………殿下っ」
シャーロットは鈍く痛む額を押さえ、レメディオスに向き合った。
「もう……そのようなことはお止めください……っ!」
「何故だ! 今この一瞬はこの時にしか切り取れないのだ! シャーロット! お前の美しい瞬間を後世に残すのは婚約者たる私の義務だ!」
シャーロットの苦言にも動じることなく、レメディオスは手に持った箱のような物を誇らしく掲げた。
聖女サクラが現れてから、すべてが変わってしまった。
レメディオスはともすれば冷たく感じられる美貌と、いかなる時も硬質な態度を崩さない王太子であった。
それなのに。
(聖女サクラ様によって、異世界よりもたらされたあの道具のせいで、殿下は変わってしまわれた……あの、「カメラ」なるもののせいで!)
それは不思議な道具だった。
その箱を通せば、目の前の光景を紙に焼き付けることが出来るのだ。人の姿であっても、絵画以上に鮮明に。
その道具にすっかり夢中になったレメディオスは、常にその箱を手にシャーロットの周りでパシャパシャとシャッターを切っている。
「悩ましげな表情! いただき! いいよ〜! うん! 次はちょっとだけ大胆に、挑戦的な目でこっちを見てみようか!」
この世界には存在しない不思議な道具に魅了されるのはいた仕方ない。
しかし、ここ数ヶ月、毎日毎日カメラを向けられるシャーロットの忍耐は限界に達していた。
「……殿下、わたくしばかりでなく、風景などを写してはいかがでしょう?」
「私はシャーロットの美しい姿をカメラに収めたいんだ! はい! こっち向いて〜! いいね! おっと、シャッターチャーンス! 思わず瞳の潤む瞬間、いただきましたー! 次はちょっと下のアングルから撮るよー! はい、リラックスしてー、自然体で!」
王太子が芝生に身を横たえ、シャッターを切る。
間違っても、一国の王太子が見せていい姿ではない。
「殿下……もう、いい加減に……」
シャーロットは血を吐くような気持ちで苦言を呈そうとした。
だが、その時、一人の令嬢がよろよろと庭に駆け込んできた。
「うう……っ」
打ちひしがれた様子で、顔を押さえた彼女の姿を見て、シャーロットは立ち上がった。
「フェリシア様!?」
トランセド侯爵家の令嬢フェリシアが、力なく歩き、シャーロットの胸に倒れ込む。
「友を胸に抱く令嬢! いいね〜! まるで聖母の姿!」
「フェリシア様、どうなさったのです?」
「……シャーロット様……わたし、わたし……もう、駄目ですっ……耐えられないっ……」
パシャパシャとシャッターを切るレメディオスは無視して、シャーロットはフェリシアを抱き留める。
フェリシアは鈴の転がるような声を震わせて涙をこぼした。
「わたし……わたし……っ」
「フェリシア!」
「ひっ……」
そこに現れた公爵令息フィンセントに、フェリシアは怯えて身をすくませた。
「フェリシア! どうして逃げるんだ! さあ、歌ってくれ! 君のその美しい声で!」
「フィ、フィンセント様……わたし、もう無理です……」
「何故だ!? 君は歌うのが大好きだろう! なんといっても、天使のように美しい声の持ち主なんだ! その声を後世に残すことが、婚約者たる僕の務めなんだよ!」
フィンセントが手にしているのは、聖女サクラからもたらされた異世界の道具「レコーダー」なるものだ。
「ああ! でも、泣き声もいいな! 震えた声も素晴らしく魅力的だ! そうだ! 「フィンセント様、起きて♡」と言ってくれないか! その声で毎朝目覚めることが出来たらどんなに素晴らしいことだろう!」
「うう……ど、どうしてこんなことに……っ」
フェリシアがぶるぶる身を震わせて嘆いた。
その時、庭に面した回廊から男女の声が聞こえてきた。
「もう、いい加減にしてくれ!」
「何故だ!? テオードレア! 君のその可愛いげのない態度はいただけないな!」
メルトーロ辺境伯家の令嬢テオードレアが、姿勢の良い姿で早足で歩いていく。
その後を眼鏡を持ち上げながら侯爵令息リュゼが追いかけていく。
「私は貴方の要求には十分応えたはずだ! これ以上の辱めには耐えられない!」
「何を言う! 君も貴族であるならば、その身を国のためになげうつ覚悟はあるはずだ!」
言いながら、リュゼは懐から包みを取り出して開いた。
「だから次はこれを着るんだ! 「けいさつかん」なる者の装束だそうだ! 君のその背が高くすらりと引き締まった肢体ならばどんな装束でも着こなせる!」
「断る! 「なんとかこーこーのぶれざー」だの「せーらーふく」だの「かんごしさん」だの「すちゅあーです」だの、さんざん恥ずかしい格好をさせられて、私はもう耐えられない!!」
異世界から聖女サクラによりもたらされた「ミシン」という機械と「制服名鑑」なる書物により、サクラ曰く「めっちゃスレンダーなモデル体型」である婚約者に様々な装束を着せることに夢中になってしまったリュゼのために、テオードレアは日々憂いに満ちた表情を浮かべている。
「テオードレア様も……苦しんでいらっしゃるのね」
シャーロットがますます痛む頭に顔を歪めた。
そこへ、
「きゃあっ」
植え込みの陰から飛び出してきた令嬢が、シャーロット達の前で転んだ。
「メリッサ様!?」
「あ……シャーロット様……お、お助けください!!」
メリッサはシャーロットのスカートにすがりついてきた。ふっくらとして魅力的な頬を涙で濡らすその様は、いやが応にも庇護欲をそそる。
「メリッサ! こんなところにいたのか!」
「いやあっ!」
朗らかな笑みを浮かべて現れたオーギュストに、メリッサが悲鳴をあげる。
「ほら、メリッサ! 遠慮することはないんだよ? 君のために作ったんだ!」
「オーギュスト様……もうお許しください! 私はもう、貴方様の望みに応えることが出来ないのです!」
「そんな悲しいことを言わないでくれ! 僕は君が美味しそうに食べるところが大好きなんだよ! ほら、見てくれこの皿を! 今日はとくに上手く出来たんだ!」
皿に色鮮やかに盛られた美味しそうな菓子が、甘い匂いを漂わせる。
コレックオ子爵家の令嬢メリッサは、確かに食べることが大好きでちょっとふくよかなところが愛らしい少女であった。
だがしかし、聖女サクラにより異世界からもたらされた「おいしいレシピ〜誰でも作れる夢見るお菓子〜」なる書物と、「はんどみきさー」や「おーぶんれんじ」なる道具により、お菓子づくりに目覚めたオーギュストに毎日菓子責めにされたメリッサは、甘い匂いが漂ってくるだけでも身をすくませるようになってしまった。
「シャーロット! 目線をこっちに! その憂いの表情、いいね! いいよ〜! 雰囲気あるよ!」
「フェリシア! 「フィンセント様、遅刻はダメよ♡」って言ってくれ! 「お仕事頑張ってね♡」でもいい!」
「テオードレア! いろいろ考えたんだが、君の凛々しい姿にはカッチリとした制服が似合う!」
「メリッサ! 「まかろん」が上手く膨らんだんだ! 茶色はチョコで白はバニラだよ!」
この国を担う王太子と高位貴族令息達の声が庭に響く。
その婚約者である令嬢達は、異世界からやってきた聖女サクラと出会い、婚約者の声も届かぬほど異世界からもたらされた魅力的な文物に夢中になって変わってしまった彼らに、嘆くことしか出来なかった。
「どうして……こんなことに……」
「はあはあ……私のシャーロットはやはり誰より美しい……」
「ふふふ……フェリシアの声はいかなる時も僕に力を与えてくれる……」
「テオードレア……ただ立っているだけで、歩いているだけで、君はすべての者を魅了する……」
「メリッサが美味しそうに食べる顔を見るのが一番の幸せだよ……そのためならなんだって出来る……」
異世界の聖女サクラは、様々な文物をこの国にもたらして、「もうすぐ期末テストだから勉強しないと! バイバーイ!」と言って帰って行ってしまった。
いろんな道具も持って帰ってほしかった。置いていかないで。
「聖女の力を注入すれば電力不要? バッテリー切れもなし? やばーい、便利ー」とか言っていたが、あれは異世界の呪文か何かだろうか。
「ふぅ……」
あまり人目に付かない学園の裏庭で、シャーロットは同じ悩みを持つ令嬢達と共に浮かない顔でお茶を飲んでいた。
「わたくし達……どうすれば良いのかしら……?」
シャーロットの漏らす呟きに、フェリシアもテオードレアもメリッサも顔を俯かせる。
花もほころぶ少女達のお茶会だというのに、雰囲気は地に着くほど沈み込んでいる。
「陛下もお父様も、一時の熱が冷めれば元に戻るとおっしゃって「我慢しろ」と……でも、いったいいつまで耐えればいいの……?」
「わたしも、この苦しみに耐えきれるか自信がなくて……」
「私がいくら語りかけても無駄だ……どうしてあんな風になってしまったのか……っ」
「私……私……ううっ」
彼女達の精神はすでにぎりぎりだ。
しかし、あまりきつく言えないのは、彼らの行動があくまで「婚約者への愛ゆえに」成されているためである。
しかし、その愛に、耐えられる気がしない。
令嬢達が同時に深い溜め息を吐いた時、悩みの種である婚約者達がやってきた。
「シャーロット! 宮廷魔導師の元に聖女サクラから「声」が届いたそうだ!」
「なんでも「夏休みに入るので遊びにくる」そうだよ」
「皆で海に行きたいという希望だ。聖女の望みは叶えねばならない」
「楽しみだね!」
海。海か。
そうだ。雄大な海を眺めれば、この重い悩みも少しはちっぽけに思えるかもしれない。
シャーロットはそう思った。
そう思ったと同時に、脳裏に聖女サクラと交わした会話が蘇った。
『これが、「すまほ」というものですの?』
『そ! あっちの世界の写真見したげるー! これが友達ー! んで、こっちがねー、こないだ遊びに行った時のー』
『こ、この方達は……何故このようなあられもない格好を……!?』
『あははー。水着だよー。あたしのはツーピースだからそこまでの露出じゃないよー。あたしの友達はボンキュッボーンだから超セクシービキニでさー』
『ひっ……こ、このような布しか与えられないなんて……この方はいったいどんな罪を……っ』
『こっちのビキニとかシャーロット似合いそー。テオードレアはこっちのちょっと変わった形の大胆ビキニがいいよ、絶対着こなせる!フェリシアは可愛い系だよね絶対。メリッサもふりふりのワンピースタイプかな? 今度みんなで海とか行こうよー。あたし、可愛い水着選んであげるー』
ガタ、ガタ、ガタ、ガタ、
令嬢達は音を立てて立ち上がった。
そして、後も見ずに走り出した。
「殿下! わたくしはこのまま修道院へ参ります! 国のためにお役に立てず申し訳ありません! わたくしのことはお忘れになって! 殿下のお幸せを遠くよりお祈りしております!」
「何を言う!? シャーロット!」
「フィンセント様! わたし、隣国の「歌姫」と呼ばれる令嬢と知り合いですの! フィンセント様にご紹介出来ますわ! どうぞ、わたしとの婚約は解消なさって、その方のお声で癒されてください!」
「フェリシア!? 君以外の声など僕はっ」
「リュゼ! 貴方には私のような男まさりな女より、知性と教養のある令嬢の方が似合いだろう! 私は辺境防衛に出ている兄の元に行き、国の防衛に命を捧げようと思う! 私のことは忘れてくれ!」
「笑えない冗談ですよ。まったく、テオードレア、貴女ともあろう方が」
「オーギュスト様! 私、遠い国に嫁いだ叔母の元に身を寄せ、叔母の営む孤児院の手伝いをして過ごしたいと思います! もうお会いすることはないと思いますが、どうぞお元気で!」
「どうしてだいメリッサ!? 僕を捨てるのかい!?」
逃げる令嬢を、令息達が追いかける。
令嬢は本気で走る。
捕まったら、死ぬ。
正確には、死ぬと変わらぬほど恥ずかしい格好をさせられる。
ああ。どうしてこんなことに。
異世界からやってきた聖女サクラによって変えられてしまった彼らが、目を覚ましてくれる日は果たしてやってくるのだろうか。
「絶対に捕まってはなりませんわよ!」
「頑張って!」
「すまない……私がもっと強ければ……っ」
「わ、私のことはお気になさらずっ、先にっ……逃げてっ……」
聖女サクラによって変えられてしまった婚約者に追いかけられて必死に逃げる令嬢達。
だがしかし、聖女サクラはきっとこう答えるだろう。
「えー? あたしのせい? 男どもの愛が重すぎるせいなんでねぇのー?」
全部、聖女のせい。とは言い切れないことは、まあ、確かである。
でもやっぱり、どう考えても、だいたい全部、聖女のせい。である。
完