娘のワン・イシュー
「イシューって、何?」
とある土曜日の朝のこと、とある報道番組をリビングで一緒に見ていた娘の問い掛けである。
「イシュー?」
「うん、イシュー。ワン・イシューのイシュー」
ああ、そのイシューか。たった今まで、(N〇Kをぶっ潰せ~!)って右手を突き上げるだけで政治家になったと自称する人物が、報道番組に出演して熱弁を振るっていた。興味がないので国会議員なのか地方議員なのか、そんなことすらも僕は知らない。もちろん、政治家になるような人だ。その発言はなかなかの舌回りだったし、決して(N〇Kをぶっ潰せ~)だけの人である訳はないのだろう。限りない入力と演算処理を介した出力が、結果として(N〇Kをぶっ潰せ~)なのだと感じさせた。まあいい。
「アルファベットでは、I・S・S・U・E。問題とか課題とか言う意味かな、直訳すると。さっき出てたおっさんは、(N〇Kをぶっ潰す)って公約一つで政治家になったって感じ」
「ふ~ん、N〇Kってそんなに悪なのかな?」
N〇Kが悪か?僕自身悪だと考えたことはないが、必要だと思ったこともない。従って、この(N〇Kをぶっ潰せ~)議員を応援する気にも、非難する気にもならない。興味がないのだ。ただ、単純にN〇Kについておかしいと思っていることを、簡単に娘に述べた。
「N〇Kが悪かどうかは別にして、テレビを持っている人はみんな受信料を払わなければいけないってのは、ちょっとおかしいなってと思う。買い物でも何でも、消費者は欲しいと思ったものはお金を払って買うし、欲しくないものや必要のないものは買わない。だからテレビの契約も、N〇Kは映らない。でも受信料も払う必要がないって契約の選択があってもいい・・・というか、あるべきだと思う。視聴者側の選択の自由かな」
そう口にしながら思い返すと、最後にN〇Kを見たのは、浅田の真央ちゃんが現役だった頃のフィギュアスケートのN〇K杯だ。
(N〇Kを見ますか?なら、受信料を払って下さい。見ないのなら放送は映りませんが、受信料は不要です)ってな選択を目の前に置かれたなら、僕の回答は明らかだ。後者だ。
「じゃあ、もしお父さんが選挙に出るとしたら、どんなワン・イシューにする?」
ああ、N〇Kではなくそっちの話だったのか。う~ん、どうだろ。どうせ選挙に出ることなどあり得ないが、それでも国民受けが良いような謳い文句がいいだろう。
暫し考察の時間。
「こんなのどうかな?議員給与の成果給制度導入」
「んっ、何それ?」
「うん、政治家の給料が、成果によって変動する給料体系。例えば、今回のコロナショックなんかで、国民の平均所得が例えば20%減ったとするよね。じゃあ、国会議員の給料も20%一律カットするなんて制度。他の議員は挙って反対するだろうけど」
「ふ~~ん、ちょっと意外。琵琶湖の何とか禁止条例の撤廃って言うかと思った」
バス釣りを嗜む僕は、いまだに滋賀県が制定している琵琶湖のリリース禁止条例は悪法だと思っている。そんな僕の意見を娘も知っているのだ。
「ああ、でもそれだと滋賀県限定だしね。マスク配ります。遅れました。不良ありました。誰も喜びません。使った税金はウン千億円です。そんなでも、自分達の給料が減ることがないから、そんな馬鹿みたいな施策を打ち出すんだよ、あいつら」
「ふ~ん、でも政治家の成果って何を基準にするかって難しいよね」
ほう、さすがに高校生にもなると大人な発言をするもんだと感心する。
「じゃあ、ぴ~(娘のニックネーム)のワン・イシューはどんな感じになるの?」
手前味噌ながら、この自慢の娘は、なかなか豊かな感性を持ち合わせている。
きっと女房の教育の賜物なのだろう。
「う~~ん、敢えて言うならフクシュウホウかな?」
「んっ、フクシュウ?」
「うん、復讐法。例えば、(誰でも構わなかった。死刑になりたかった)なんて理由で家族を惨殺された遺族が、犯人に復讐してもいいって法律」
空恐ろしい娘の思考に、僕は少し驚愕する。
「そんな考え方って、ちょっと・・・」
「でも、もしお父さんが、そんな理由で他人に殺されたら、私は絶対復讐すると思う」
僕が殺されたらって仮定が、ちょっとだけ僕のざわついた感情を宥めたが、しかしそれでもと思う。
「車の事故なんかの不可抗力はなし。犯人の遺族への復讐は駄目。飽くまで、卑劣で身勝手な犯人に対してって限定だけどね。ダメかな」
いや、ダメかなって言われてもって感じ。でも娘の言わんとすることは理解できないでもない。娘の仮定は、(もし僕が殺されたら)だったが、ここで僕と娘の立場を入れ替えると、確かに僕も恐ろしいことを考えかねない。
「ねぇ、お母さんならどう?」
キッチンで洗い物をしていた女房に、大きな声で娘が問う。
「少子高齢化政策」
これまた大きな声で女房が返す。
「な~んだ、普通・・・さて、そろそろ出かけよっかな」
そう言った娘が、リビングに部屋干ししてあった白いブラウスと明るい緑色のスカートを手に取った。
「んっ、出掛けるの?」
「うん、友達とね」
「夕食までには帰ってきなさいよ。相手は鳴戸君?」
キッチンからの女房の大きな声が、またまた響く。
「うん、そう」
鳴戸君というのは、どうやら娘のボーイフレンドのような存在のようで、一度だけ僕は一緒に釣りをしたことがある。去年の春先のこと、メバル釣りだ。礼儀正しい少年だったが、体の出来上がっていないひょろりとした体形が、まだまだ子供という印象を、その時は僕に与えた。すでにあれから1年以上の時が経っている。
「まあ、鳴戸君なら安心だけどね」
洗い物を終えた女房が、そう口にしながらリビングに戻ってきた。
鳴戸君と釣りをして以来、彼についての会話を娘と交わしたことはない。今も、久し振りにその名前を聞いたという感じだ。女房はその後、何度か彼と顔を合わせたことがあるのだろうか。
「お父さん、多少腕に自信があっても、街中で変なのに絡まれたら、ちゃんと逃げるんだよ」
娘が着替えを手にしたまま言う。
僕は学生時代空手部に所属していた。もちろん段位も持っている。
ここ数年は、子供たちを指導しつつ、去年はキックボクシングの大会に飛び入り参加するという無茶もした。まあ、普通の同世代のおじさん達よりは、少しだけ強いはずだ。
でも逆に、そんな経験があるからこそ知っている。
何年にも及ぶ厳しい訓練をした武道の有段者でも、100円ショップで買える素人が振り回す果物ナイフを捌くことすら、決して容易でないことを。
「そんなこと、分かってる。ご心配なく」
「なら、よろしい」
娘は自分の部屋に消えていった。
つい最近まで、平気で僕の前で着替えていた娘なのだが、これも彼女が大人になった証拠なのだろう。
数分後、いかにも夏らしい服装で部屋を出てきた娘は、若い頃の女房に、本当によく似ていた。