横断歩道と変わらない信号
ルールが俺たちを守ってくれるのか、俺たちがルールを守るのか。そのルールを制定した人からすれば、俺たちがルールを守ることで、自分たちの身の安全を守っているということになるのだろう。自由には制限が付き物とは逆説的な物言いだが、制限されることを選ぶこともまた自由ともいえようか。敢えて境界線を引いてしまうことで、お互いに相手の行動や領域を制限できる。そうすることで生まれる利益もある。
法的効果によって生じる利益を法定果実というらしいし、河川法や道路法の適用を受けない水流や道を法定外公共物と呼ぶらしい。では、法の日陰に存在する利益は法定外果実とでも呼べるのだろうか。その果実は、引かれた線引きを踏み越えないと手に入れることのできない禁断の果実。
時にそれは金であったり、時間であったりする。
〇 〇 〇
「車……来ないね」
「来ないな」
何度も左右を確認しつつも赤く点灯する信号機を眺めるその様は、まさに待ち惚け。真昼間から何を立ち尽くしているのかと思われるかもしれないが、案ずることなかれ、そう思ってくれる他人は誰もいない。
手前が三車線、奥が二車線。国道である。そして今、俺たちが立っているのはその国道に渡された横断歩道の前だ。
この街の交通の大動脈とも言えるかもしれないこの幹線道路では、間違いなく車の方がマジョリティだ。しかしこの縦にしか流れない交通に鋭いメスを入れ、横に渡りたいマイノリティに青い光を当てる存在。それが横断歩道だ。まさに「弱きを助け、強きを挫く」とはこのこと。
車など、赤い信号を見た途端に足を止める。さながら「この紋所が目に入らぬか」といった感じだ。信号機が格さんだとしたら、横断歩道が助さんということになるだろうか。
「もうここ、渡ってもいいんじゃない?」
「……うーむ」
「小走りでなら渡りきれるって」
「いや、信号を無視するわけには」
立ち尽くしている間に、信号機をヒーローか何かのように考えていたせいか、安易に無視するという選択に抵抗感があった。
だが妹は不服そうだった。
「こんなのちゃちゃっと渡っちゃおうよ」
「ダメだよ。ほら、信号が赤を伝えてるだろ? 渡るなってことだよ」
「むうー。兄ちゃんは信号が渡るなって言うから渡らないの? じゃあ信号が死ねって言ったら死ぬの?」
「信号はそんなこと言わない! お前は信号を誤解してるぞ!」
「信号の話はいいの! それより私が渡りたいって言ってるのが大事でしょ!?」
「……すまない」
「すまないって何? 兄ちゃんは私よりも信号を大事にするわけ?」
「違うんだ。そうじゃなくて。俺はただ、信号を無視するわけにはいかないって言ってるだけで」
「無視できないって、信号機はクラスの中心人物か何かなの? 一家言持ってるの?」
「そうじゃないんだ。わかってくれよ!」
「分からないよ! もう兄ちゃんが分からないよ!」
「俺は! 守りたいんだ、信号を」
「信号に守られてないと道も渡れないくせに、どの口が言ってんの?」
「確かに信号は、ただ守られるだけのタマじゃない。だけど! それでも俺は!」
「そこまで言わせるなんて……妬けちゃうなぁ」
「……………………いや、何の話だこれ!?」
乗っかっておいてあれだけど、俺たちは何の話をしているんだ!?
「私もいつまで続けるのかと思ったよ。兄ちゃんがいつまでもピリオドを打たないから」
「待ってたのか。すまない」
「さて、ひと段落ついたところで渡ろうか」
「おい待て」
妹は話を戻しつつ、さりげなく自分の都合のいい方へ導き始めようとしていた。まったく油断も隙も無い。
「この横断歩道と信号機って、安全にわたるための設備なわけじゃん? そして今こうして見渡してみるけど、車は来てない。危険はないってことじゃん」
「ああ」
「なら、むしろ渡ってしまう方がこの横断歩道としては冥利に尽きるってもんじゃない?」
「安易。あまりにも安易」
「え?」
「お前は信号機の気持ちがわかってない」
「そのノリもういいから」
「なぬ!? わかった。普通に言う」
「そうして」
思わぬ拒絶を食らってしまった。意気消沈だが、気持ちを切り替えて話し始める。
「信号機はそんな都合のいいばかりの存在じゃない。いわば俺たちを安全に対岸に運ぶ監視塔だ。渡って良しと言われればそりゃ渡れるが、渡るなと言われればそこにも従う義務があるだろう」
「真面目かよー」
「真面目で結構」
「堅物。おかちめんこ。頭でっかち。ばーか」
「悪口やめてくれる!?」
その時、俺たちの後ろを一人の中年男性が通って行った。一瞬だが確かに、俺たちを横目に見ていた。
「ねぇ、兄ちゃん。私たち傍から見たら恋人みたいに見えるのかな?」
「どうだかな」
確かに歳は近いし、距離感だって近い。そう見えてもおかしくはない……のか?
「ふん、私たちの方がお似合いなんだからね。信号機」
「そのノリもういいって言ってたよね!?」
「いやー、やっぱりちょっと楽しくて」
「気分屋かよ」
「あ、兄ちゃん、あれ」
妹の指さした先では、さっきの中年男性が道路の方を向いていた。
「な」
そして次の瞬間、彼は国道を横断し始めた。横断歩道などない道なき道を。なんというか、「直なる今の世を横に渡る男あり」といった感じだった。
「なんてやつだ。信号を待つのは嫌、だけど信号無視も嫌。だから横断歩道のないところを渡ればいいやってことか。ふてぇ野郎だ」
「あやつ……できる」
「はい?」
それを見た俺と妹では、評価が分かれた。
「兄ちゃん、あれこそ生きにくい世の中を生きる気遣いだよ」
「……説明してみろ」
「兄ちゃんは言ったね。信号機の気持ちを考えろって」
「言いかけて、もういいって言われたよ」
「信号機は渡ってほしくない。でも自分は渡りたい。そこであのおっちゃんは一歩道を譲って、お互いの気持ちがぶつからないように避けたんだよ」
「そんなカッコいいもんじゃないだろ、あれ」
「自分が一歩道を譲ることで、ともすれば汚れ役を買って出ることで、スムーズに事が運ぶんだよ? これを気遣いと言わずして、なんて言うってのさ!」
「せこいんだよ。それにその気遣い、誰の利益にもなってない」
「利益ならあるよ。ほら、こうしてここに、おっちゃんの行動に心打たれた少女がいるでしょ? これを利益と言わずして、なんて言うってのさ!」
「結果論も甚だしいよ。絶対そんなの意図してないよ」
「わかんないよ? もしかしたら計算ずくだったかも」
「いや、ないだろ」
自分が横断歩道を避けて道を渡る姿に、近くにいる少女が心を打たれると思っていた、と。それが本気だったら頭おかしい。話のレベルとしては、社長令嬢から「なんて効率的に動ける人なの! あなた、うちに来ない?」と引き抜かれたくて、風呂場でズボンとパンツを一緒に下ろす姿を見せるくらいのものだろう。
「とにかく! 俺はあんなやり方は認めない!」
「堅物! 頭でっかち! ばーか! ばーか! ええっと……ばーか!」
「語彙力が貧弱!」
とはいえ罵倒するための語彙など、無いに越したことはないが。
「兄ちゃん! 私たちは信号に縋って生きているだけの人生でいいの!?」
「いいよ! 俄然いいよ!」
「それじゃあもし天変地異が起きて信号機が無くなったら、兄ちゃん道渡れないんだよ!? 生きる強さを忘れた現代人だよ!? 野生を思い出せ! がお!」
「信号待つだけでそこまで言われんの!?」
「夕飯には肉を食べたいがお!」
「欲望に忠実か!」
「デザートにはプリンが欲しいし、今日は宿題しないで寝たいがお」
「めっちゃしっかり現代人じゃねーか!」
何が「がお」だ。せいぜいが家猫だろうに。ソファに寝転んでお菓子を食べながら漫画を読んでいる普段の姿を思うと、無人島で一週間と生きていけなさそうだ。かくいう俺も割とインドア派だったりして、サバイバル生活とかはやれないと思う。血は争えない。
「ねー、このまま信号機さんの気が変わるのを待つの?」
「そうさ。雨が降るまで雨乞いをするし、ドアが開かれるまでノックをする。石の上にも三年、桃栗も三年、柿は八年だ」
「そんな暢気なことを言ってる場合じゃないよ。時は金なりだよ。女の子は時間が経つにつれて減少していくんだよ?」
「なにが?」
「なにがって……なにかが」
「…………でも」
変わるまで待つとは言ったが、確かにおかしい。なにがって、ここまで信号が頑として変わらないことが、だ。いくら何でも嫌われすぎている。
目の前には横断歩道。そして空にそびえる信号機は、依然として車に青を、俺たちに赤を見せている。左右を見る。どちらも遠くの方に交差点がある。
「まさか。そんな、ことは……」
俺は一つの可能性に思い至り、妹にそれを確認する。
「なあ、一ついいか?」
「なに?」
しかし、それしか考えられなかった。
「押しボタン、押したか?」
妹がはっとした顔で、支柱に取り付けられている黄色い箱を見た。そしてそろりと手を伸ばし、赤いボタンを指で押し込んだ。
「おまちください」
ゆっくりとこっちを見た妹は言った。
「こりゃうっかり」
そのちょっと後、俺たちは無事に横断歩道を渡ることができたのだった。渡り終えた後、妹は言った。
「私ってば、うっかり八兵衛さんだね!」
俺は心の中をそのまま言葉にした。
「人事を尽くして天命を待てよ!」
「渡れたからいいじゃん」
俺たちは「法」という叡智によって利益を得られる。しかしそれをそれと知らなければ、全く宝の持ち腐れ。人間は考える葦であるとは言うが、つまり考えなければどんな叡智も猫に小判、豚に真珠。どうやら俺と妹の目指すべきは野生ではなく、考える葦の方だったらしい。
「……食後のプリン、買って帰るか」
「ほんと!? やったー!」
考えるにも糖分が必要だ。そのエネルギーでまた、宿題でも見てやるとしよう。