第2話 泡沫の邂逅
「やだっ、離して! 助けてカズ、かずひさぁ!」
「愛実!」
必死に伸ばす二人の手はけして届かない。
二人が叫んでいるとき、初はまったく動けずにいた。
それと同時に、この世界に自分をこんなにも惹きつける存在がいた事に、驚いた。
それはそう、まるで――
予感のように……。
「そろそろ気は済んだか?」
初と一久の言い争いに水を指したのは、そろそろウンザリしてきた嵐だった。
それもいつもの事で、アリアは我関せずとすでにそっぽを向いていて、愛実はのんびりとお茶を啜っていた。
「で、一体何よ?」
とりあえず嵐により物の投げあい、罵り合いを一時休戦した初は一久を睨みつけて聞いた。
初と嵐の言葉が引き金になったのか、一久は目を見開いた。
「そうだ、こんなことしている場合じゃなかった! また誘拐されたって!」
一久の言葉に、さすがのアリアも驚いて顔を向けた。
「何でそんな大切な事、一番に言わないのよ! っこのバカー!!」
怒号と共にアリアにアッパーを盛大に、その上綺麗に決められた一久は一瞬意識を手放した。
「初めてじゃない? 満月だけとは限らなかったけれど、下弦や新月の時に誘拐された話なんて聞いたこともなかったし、どんなに時間が経っていても早朝なんて……」
アリアの言葉に、嵐も同意した。
「あぁ、今まだ午前だから誘拐されたにしたってそんなに時間は経ってないだろ」
二人の言葉に、初は無意識の内に爪を噛みながら言った。
「……てっきり、夜だけかと……思い、込んで……」
考え込み切羽詰まると爪を噛む癖を知っている嵐は初の腕をつかみ、口元から手を動かした。
「初、初が全ての責任を負おうとする事は無い。寧ろ朝はみんな油断していた」
嵐の言葉に一つ頷き、アリアからのアッパーによるダメージから何とか立ち直った――とは言ってもまだ座り込んではいたが――一久に向かって初は訊いた。
「それ、どこで?」
多少苦しそうにしていたものの、初の言葉に一久は何とか口を開いた。
「役場。俺が行くと同時に高原の親父が役場に怒鳴り込んでた」
「高原さんの所っていえば、来月祝言を挙げる予定だった千代姉か、二つ下の真理じゃない?」
アリアの言葉に初は持っていた書類を文机の上に積み上げて、立ち上がった。
「分からない。限定しない方がいいかもしれないし、行けば分かる事でしょ」
その言葉を残し、一同は少女が誘拐されたという高原家に向かった。
××××
「……コレは」
高原家の誘拐されたという娘の部屋に入った初達は、呆然とその部屋を見回した。
誘拐されたのはこの家に住んでいた三人の娘のうちの二人。
一人は次女の真理子(初達と同じで十六才)もう一人は三女の香歩子(十歳)。
香歩子に至っては以前から誘拐されていた人たちよりも若干年齢が低いが、それより驚いたのはその二人と共に家財道具一式が無くなっていることだった。
残っているのはせいぜい壁と畳くらいで、あの非常に重い桐箪笥なんかも全て、綺麗さっぱりなくなっていた。
「前例完全無視、新たな犯行って感じ……?」
呆然と呟いた愛実の言葉に我に返った初は、高原夫妻が不在のため、夫妻の代わりに案内してくれた千代子を振り返った。
「千代姉、詳しく説明してくれる?」
「えぇ、昨夜はたまたま香歩子が真理子と一緒に寝ていたのだけれど、二人とも起きてこなくて……八時過ぎた頃部屋から何かを落としたような音がして見に来たら、家財道具ごと二人はいなくなっていたの」
千代子の言葉を聞き漏らさないように聞いていた嵐は、少し驚いたように言った。
「ってことは行方が分からなくなってから一時間も経っていないのか?」
嵐の言葉に、千代子は不安そうに頷いた。
「でも夜じゃないし、どうして香歩子まで……」
顔面蒼白、といった感じで今にも倒れそうな千代子にアリアが湯飲みを渡して落ち着かせた。
「それ飲んで、心配しないでって言うのは無理かもしれないけど、千代姉はちゃんと休む。千代姉は、他に考えなきゃならない事があるでしょ?」
淡々と冷たいとも思えるようなアリアの声だが、逆に千代子は落ち着きを取り戻した。
「そうね……ありがとうアリアちゃん」
「他の子もそうだけど、二人が速く見つかるように頑張るから、動揺しちゃダメだよ?」
にこにこ
愛実の人を和ませる微笑に、千代子は何とか微笑を返し、その辺りはほのぼのとした空気が漂っていた。
ぴくっ
和んでいる三人(+一久)を尻目に部屋を歩き回り手がかりを探していた初は、不意にその匂いに気づいた。
「嵐」
後ろに気づかれない程度の小声で初に呼ばれた嵐は、その匂いに気づいて頷いた。
「微かだけど……血の匂いがする」
その言葉に初は気を引き締めた。
「じゃあ……」
ポソリと漏れた言葉に、嵐は初の目を見て頷いた。
「致死量じゃない、でも、まだこの村に“アイツ”がいる」
嵐の言葉と同時に庭から鋭い視線を感じた初は、思いっ切り振り返った。
一気に警戒態勢に入った初と嵐の様子に、アリアさり気なく千代子を庇い、周囲を警戒した。
「初?」
そんな三人の様子とは別に、どこか抜けている愛実は、庭を背にして部屋の奥にいた初を振り返った。
それは、本当に一瞬だった。
「愛実! ダメ!」
初の言葉と同時に、愛実の背後に現れた『それ』は愛実の口を塞ぎ、左手を拘束しながら腹部に手を回した。
「愛実っ!」
慌てて一久が『それ』の手を払い除けようとしたが、一久がその手に触れる前に『それ』は数メートルほど後ろに飛び、庭に降り立った。
「愛実!」
「んんんーっ!? (何ーっ!?)はわひへっ!! (放してっ!!)」
もがもがと言いながら一応自由である右手と共に抵抗していた愛実だが、その手はびくともせず、愛実を捕らえていた。
「お久しぶりですね、嵐」
外套――フードのようなもので顔を隠し、愛実を捕らえている人物から発せられた声は、男女関係なく惹き付けるように甘い、そして心地よく耳に馴染む声だった。
『彼』の声に魅入られたかのように愛実は大人しくなり、振り上げていた右手が偶然フードに当たり、青年の顔が露になった。
闇を吸ったような、光さえ吸い尽くすような漆黒の髪に、矢車菊のような蒼と、琥珀のオッドアイ。
顔の造形は恐ろしいほど整いすぎていて、見るものの時を止めた。
「……茨、麻」
搾り出すような嵐の声に、茨麻は困ったように苦笑した。
「申し訳ありませんが、この方にお付き合いいただきます」
「愛実をどうする気?」
辛そうに、そしてどこか呆然としている嵐に変わって、アリアが問いかけた。
「手荒な真似は致しません。ただこちらとしても少々事情がありまして……」
「愛実を返せ!」
茨麻の言葉が終わる前にようやく正気に戻った一久が、茨麻に向かって叫んだ。
「嵐、この方を返して欲しければ“村”へ“彼女”を伴って来て下さい。それまで預からせていただきます」
淡々と嵐に言葉を発し、茨麻は愛実を抱えたまま塀に飛び乗った。
その拍子に拘束されていた愛実の口から手が外れ、愛実が一久に向かって叫んだ。
「やだっ、放して! 助けてカズ、かずひさぁっ!」
「愛実っ!」
塀に向かって走りながら手を伸ばす一久と、必死に一久に手を伸ばす愛実だったが、その手はけして届く事はなく――
「それでは」
そうとだけ言葉を残して、魅入られたように言葉を発せずにいた初の瞳だけを見つめながら茨麻は愛実と共に消えた。
「愛実ー!!」
一久の叫び声だけが、辺りに響き渡った。
To be continued...