第10話 聖域の蒼穹(そら)
「瘴気が酷い……」
ポツリと呟かれた言葉に、初は心配そうに庭に視線を送っている羽矩を見た。
「……何か出来る事、ある?」
少しの逡巡の後口を開いた初に、羽矩は一瞬だけ視線を投げかけた。
「央雅の姫が使う“焔”でなら瘴気を除瘴する事は出来る……お前が使った“再誕の焔”を使う気があるのなら」
投げかけられた言葉に、初はすぐさま頷いて立ち上がった。
「焔で燃やせばいいのね?」
すぐさま部屋を飛び出そうとした初に、羽矩は溜息をついて言った。
「焔を使役するつもりなら、央雅の姫としての名を受ける覚悟をしておいたほうがいい。瘴気は村全体を覆っている。……涙花の焔よりお前の焔は稀有だ。それが知られれば、お前は元の村に帰ることすら出来なくなる」
一見冷たく切り捨てたような羽矩の言葉に、藍は困ったように微笑み、初は呆れたように溜息をついた。
「だからって、出来る事があるのに何もやらないっていうのは私の美意識に反するの。それに、それくらい覚悟の上よ」
サラリと告げられた言葉に、羽矩は眉根を寄せて初を見た。
「確かに私を育ててくれたお祖父様や、義兄上は大事よ? あの村もね」
「なら――」
口を挟もうとした羽矩ににっこり微笑み、初は言い切った。
「でも私、負けたまま逃げるの大嫌いなの。あそこまで言われて、のこのこ引き下がれるほど心、広くないから。それで受けなきゃいけない名前なら、喜んで受けるわ」
“だから何をやればいいのか教えて――?”
言外に言葉を混ぜ、至極簡単に答えを出した初に羽矩は一瞬呆れ、苦笑した。
「それじゃ……よろしく、初花」
薄暗く長く続く湿気と、憂鬱な気配。
けして慣れることのない憎悪と、悪意。瘴気の塊……。
長い、地下迷路を抜けた先にある光に手を伸ばすと、そこはこの世界のどこよりも清浄な気配に満ちていた。
『ここは……?』
どこか夢現でここまで歩いていた初――初花は、呆然と辺りを見回した。
「あら? どうしました?」
唐突に視界に入ってきた人影に掛けられた声に、初花は驚き、次に声を掛けた人物を見て硬直した。
「?」
優しく美しい微笑を浮かべるのは、栗色の長い髪に、紫の瞳を持つ女性――
『涙、花……?』
意識を失ったまま、眠り続けていたはずの涙花だった。
「あ……」
驚きに言葉を上手く紡げずにいた初花に、涙花は優しく微笑んだ。
「もしかしてまた、抜け出してきてしまったんですか? 仕方ありませんね」
咎めるような言葉でも、その声音はけして初花を咎めることはなく、初花は安堵の息を吐いた。
――彼女に嫌われる事だけはしたくない……
幾分か唐突に胸に浮かんだ思考に、初花は一瞬だけ疑問を浮かべた。
「……」
黙り込んだ初花を訝しく思ったのか、涙花は困ったような表情に微笑を浮かべた。
「――ここは央雅の全ての“はじまり”の場所。世界の中で最も清浄なる場所……それなのにどうして、央雅は“カレン”を悪しき者としてしか判断しないのでしょうね」
突然問われた、不思議な問いかけ。それは答えを求めぬ問いに聞こえた。
「なぜ……?」
「えぇ、ここは“カレン”が育まれる場所に最も近い――ゆえに私は、カレンを悪しき者と判断できないのです。……いけませんね、私がそうでは村を護る事など出来ないというのに」
悲しそうに告げられた言葉に、初花は切なくなった。
「でも……」
そんな涙花をみて、初花は自然と言葉を発していた。
「でも、そんな姉様だからこそ……その能力を内包して生まれてきたのだと思います。私は特筆した能力など持っていませんから、力にはなれないかもしれませんけれど……」
後半部分は瞳を伏せながら言った初花に、涙花は儚げな微笑を浮かべた。
「そうですね、ありがとう……」
儚い――まるで今にも消えてしまいそうな微笑をみて、初花は切なくなると同時にどこか安堵した自分に気づいた。
笑っていて欲しい。いつまでも。
姉様には……。
自分の思考に違和感を感じた瞬間、初花はもう一人の気配に気づいた。
「花恩様」
涙花に掛けられた言葉に、初花は少なからず驚き、そして声を掛けた人物にも驚いた。
『藍……』
「蒼茨……」
その人物は藍と瓜二つと思えるほど酷似していて――自分の声に重ねられた言葉に、初花は目を瞬かせた。
涙花――花恩に蒼茨と呼ばれた青年は、初花を見てどこか呆れたように溜息を吐いた。
「また抜け出してきたんですね……きちんと鍛錬が終わったらまた連れてきて差し上げますから、帰りましょう――“曖花”様」
蒼茨に掛けられた言葉に驚愕している初花に、まだ幼い少女は少しだけ俯いて答えた。
「はい――蒼茨兄様」
その直後、初花は少女の体から弾き飛ばされたような衝動を感じ、目を開いた。
目の前にいた少女は、幼いながらも姉の面影を持った――曖花、その人だった。
××××
「初!」
突然、身体を揺さぶられ、呼ばれた名前に初花は目を瞬いた。
「ら……ん?」
目の前にあったのは藍と、その背には青い空。
一瞬なぜそんな物が見えるのか思案し、動かした手が砂に触れて初めて、自分が外套のような物の上に寝かされていた事に気がついた。
「大丈夫か?」
困惑したような表情をしている藍を見て、彼がかなり心配していた事を知った初花は、起き上がろうとして突然襲ってきた吐き気に外套の上に逆戻りした。
「寝てろ」
どこか呆れたような声音に声を出さずに頷き、初花は顔を手で覆いながら気だるげに口を開いた。
「私、どうしたの?」
億劫そうにしながらも言葉を紡いだ初花に藍は溜息をつき、濡らした布を初花に押し付けた。
「どこまで覚えてる?」
訊かれた言葉にしばし逡巡し、初花は困ったように首を振った。
「確か瘴気を燃やしてるうちに大元を断ったほうが早いって誰かが言って、一番濃い所を探して……螺旋階段……いや、黄泉の牢まで入った所までは覚えてる……ハズ」
どこか自信なさ気に告げられた言葉に、藍は軽く息を吐いた。
「黄泉の牢に入ったとたん、虚無湖の方――地下迷路に足を踏み入れて、一人で黙々と歩いていたと思ったら、ここに出て……そしたら突然倒れたんだよ」
どこか呆れたように言葉を口にした藍に、初花は溜息をついた。
「あまり訊きたくないんだけど、一応聞いておく。央雅の姫ってさ……遠くのものを視たり、過去を視たり出来るの?」
半信半疑でどこか憔悴している面持ちで訊いてくる初花に、藍は眉根を寄せて考え込んだ。
「涙花は……遠視っていうのかな? 離れた場所で起こった出来事や、これから起こる――未来予知みたいなことが出来るらしいけど。だから八咫鏡と相性が良いし……ってまさか」
驚いた表情で初花を見つめる藍に、初花は溜息を一つ吐くと続けた。
「も一つ、藍のそっくりさんに“蒼茨”っている?」
「蒼茨――って叔父」
サラリと告げられた事実に、初花は泣きたくなった。
「やっぱり本気で、私“央雅の姫”みたい。涙花とは違って、過去を視る力があるらしいわ……」
ウンザリしながら告げられた爆弾ともいえる発言に、藍は唖然としていた。
To be continued...




