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スズメバチのお宿 (uroshitok作品集 嘘山行記 7より)

作者: uroshitok

熱中症になるほどの、ある夏の、低山山行。

偶然、小形のスズメバチを助けたらしい。

物語は、彼等の棲む、異次元世界で展開する。

 (一)

 真夏、じりじりと照りつける太陽が、日影の乏しい岩道を直射する。

 ほぼ無名の、田舎の低山。けれども、極めて岩肌の露出は多い。周囲にも、同様な山々が連なっている。

 あの日、これらの山々を、くみし易しと判断して、連日の強烈な暑さも省みず、周回を試みた。

 山道は有って無いような、広がった岩肌の上り坂を、ときには四つん這いになりながら登ってゆく。

 登山帽のひさしは、狭い。

 背後から、首筋に、強烈な日射しが当たる。

 さらに、前夜の睡眠不足も影響して、短時間のうちに、疲労が増していった。

 尾根に達し、小さいが、三つ目のピークの直前で、日影を求めて、倒れこむ状態であった。

 体調は、普段に比べて、良くない。

 けれども、山は低いのだ。やぶ漕ぎも、少なそうだ。くみし易しの思いに、変わりはない。

 当初の目的である、三角点ピークまでは行こう。前進を続ける。

 

 尾根筋は、滑らかな岩肌である。木々は密生せず、到る所で、景観良好である。麓の池は、周りの緑と青空を映し、私の進行につれて、次第に形を変えてゆく。

 南方には、源平古戦場の山が、全容を見せている。その合間に、川が流れ、細長く集落が南西へと広がってゆく。

 ここに、山里のたたずまいがある。

 周回を試みている山塊は二つに分かれ、その一つは、西側にあり、そのピークの四つ目が、最頂上である。その直下は急登であった。普段の自分ならば、難でもない坂が、今は、強烈な負担として、のしかかってきていた。後で思えば、それは熱中症であった。

 岩肌に、疎らに生えた背の低い木々に、日影は乏しいのだ。

 少ない影の中へ、頭部をもぐりこませ、休息する。そうして、乏しいが、体力の回復を待つ。

 これを何度か繰り返して、頂上に立った。

 頂上には、ピラミッド状に、石が積まれていた。見晴らしは、ほぼ360度、良好である。

 だが、景観を楽しむゆとりはない。

 しかし、幸いなことに、ピークの東側は雑木林であった。東に下る山道もあった。

 耐えられずに、直下の乏しい影の中に頭部を突っ込んで、倒れこんだ。全身の力が抜けてゆく。脱力状態のなかで、顔をしかめ、口を大きく開けて喘ぐ。

 激しい呼吸は、次第におさまり、冷静さが戻ってきた。

 木の枝が、目前を被う。目を少し逸らせば、葉をつけた枝も、すぐ近くに伸びていた。

 僅かに風も流れ、細い枝葉も揺れている。

 

 私の気配をあまり感じないのか、一匹のオニヤンマが飛んでいる。すぐ傍らの枝葉に、小形のスズメバチが止まって揺れている。

 私は、仰向けに横たわったままで、腕を上げ、思い切り、背伸びをしたが、疲れ方は、予期せぬ大きさである。しかし、前へ進もう。

 もう一度、頂上へ戻り、景観を見る。カメラも使う。東方向へ、なだらかな尾根が下っている。

 西側の谷は、急激で、険しい様相を見せている。

 東へ進む。雑木林の山道である。

 日影のお蔭で、体力は回復しつつある。すぐに、東側の山塊との間にあるコルに達した。

 コルの中央部は、予想外の切れ込み方をしていた。コルの南北は共に、V字型に切れ込んだ谷であった。

 コル中央部は急坂の切れ込みであり、幅は狭い。とりわけ、西側が崩壊状態であり、飛び降りるにも危険性が高い。コルの東側には山道が見える。

 私は、何度かコル中央への、下降を試みる。だが、足場やホールドが少なくて、成功しなかった。

 ロープがあれば、山道の立木を利用して、下ることも可能であったが、生憎と持ち合わせていない。

 たった一人だけの山行、危険な行動は避けなければならない。

 こうなれば、左右どちらかの谷へと、迂回しなければならない。左の谷は極めて急峻である。右の谷は急坂ではあるが進行可能な気がする。

 

 右側の雑木林へ、雑木の合い間をぬって下る。なだらかに、谷に到る場所を求めて移動する。

 一度ならず、コースを変更し、雑木の中を進み行く。

 その私の前方に、スズメバチがいた。頂上付近で目にしたものと同様の、小形スズメバチである。その停まっている木の枝を避けて下る。突然、シャーシャーと、音が身近で聞こえた。

 顔をあげる。2メートルほど前方に、同様のスズメバチが数匹で、バリケードを張っていた。音は、その羽音であった。これは、彼等の領域への侵入を拒否する警告であった。よく見ると、そこ此処に、多くのスズメバチがいる。

 ここは、スズメバチの巣だ、巣に近いのだ。

 私は、動きを止めた。そして冷静を装って、引き返した。彼等の領域を侵しては為らない。

 出来るだけ静かに、下ってきたばかりの斜面を上る。

 背後からの攻撃も無かった。

 スズメバチ達は、侵入者の進行を止めた。目的を達したのである。

 

 コルに戻り、下方への雑木林の立ち木に、白いテープを巻く。”この下にスズメバチの巣あり注意”と書きとめる。

 本日は、これ以上に先へ進む事を、諦めねばならぬ。

 体調も悪い。熱射病の恐れもある。

 

(二)

 その年の12月、同じ登山コースを辿って行く。すでに何度も冷え込んだ後の、さわやかに晴れ上がった日であった。見晴らしの良かった、西側山塊の頂上での、弁当タイムを目論んで、出かけたのである。

 

 前回は真夏、熱中症に苦しんだ登山行であった。

 本日は快調である。

 高山も良いが、低山も良い。

 ここは、視界の開けた低山である。

 しかも田舎の山だ。他に人影も見当たらない。

 今度は、家族や友人を誘って、登って来るのも良いだろう。

 昼食をとる。美味である。

 今日は必ず、東側山塊の頂上にも達し、そこから北にも達し、南に下り、池畔沿いの出発点まで戻ろう。と、あらためて決意しながら。

 あのコルを突破するか、迂回すれば、さしたる困難は無いだろうと思いつつ。

 

 コルは、前回と同様であった。体調は良く、筋肉も比較的に柔軟で軽い。

 またしても、コル底部に下ることを試みた。しかし、やはり、足がかり手がかりが乏しく、体調の良い今日であっても、実行するには不安がある。万が一の危険も避けるべきと再び判断する。

 そこで今回も、前回と同様に、コルの迂回を試みる。

 迂回道は、スズメバチがバリケードをつくっていたコースである。この季節、彼等は出てこない筈だ。


 雑木の中を下りを始める。

 落葉性広葉樹の葉は落ち、様相は一変していた。

 地面も落葉に蓋われ、スズメバチの巣があったとしても、その所在は分からない。

 涸れた谷に向かって進む。谷も向かい側、東の山塊への登りは、密生した雑木林の様相である。

 

 下り降り立った谷の、すぐ下方、西山塊側に、小屋があった。小屋の背後は岩壁である。

 入口には黄色の扉があった。

 誰かの別荘かな。

 ほかにも、山頂から連なる小高い丘には、いくつもの別荘らしき建物がある。

 今は、この小屋に、人の気配は感じられない。低くブーンと音がするのは、空耳か。

 入口の扉に手をやる。扉を押す。

 扉が動く。鍵は掛かっていなかった。

 私は中へ入った。

「こんにちは」と挨拶をする。

 突然、扉が、激しく閉まった。

 闇と光が、私の目の前で交差した。私は意識が消えた。

 

(三)

 ブンブンと、虫の飛ぶような音がする。

 私は意識が戻ってきた。

 建物の内部である。黄色い部屋にいる。ソフトなフロアの上で、上向きに倒れていた。

 天井は六角形である。したがって、部屋全体が六角形である。

 横たわっている私の足側には、入ってきたと思われる入口扉があり、閉まっている。

 さして広くない部屋で、家具や調度品は置かれていない。

 入口扉の向かい側にも扉がある。少し開いているが、奥までは見えない。

 ”変わった部屋だな。さっきは、何が起こったのかな。誰も居ないのかな”次第に、意識がはっきりと戻ってきた。

 

 「なぜ、あんな人間が居るんだ。誰が入れたんだ」

 「変換直前に、飛び込んで来たんだ」

 突然、私の脳内に、会話が飛び込んで来た。

 頭を巡らせて、周りを見るが、誰もいない。

 少し開いた扉の辺りで、二匹のスズメバチが飛んでいる。

 「生きているようだ。この部屋には、酸素は少ない」

 「彼は、真夏にここへ来た男だ。オニヤンマからの攻撃で、私を救ってくれた人間だ」二匹のスズメバチが会話をしていたのであった。

 私は飛び起きた。

 入口に向かい、扉を開いた。

 だが、どうしたわけか、外は岩盤でふさがれていた。

 一瞬、私の思考は錯乱する。”涸れ谷があるはずだ”扉を間違えたのか。小屋の裏側は岸壁だったはずである。

 対面の半開きの扉に向かい、その中を覗き見する。

 この部屋と同様の、黄色い六角形の部屋があった。

 この部屋の中央には、球形の物体が置かれていた。物体面は透明である。よく見ると、内部や表面には、多数の刻み目などがある。

 球は六つの壁と、上下の天井と床に固定されていた。

 さらにその奥には、又もや、半開きの扉があった。

 私は、球体の固定棒をくぐりぬけ、その半開きの扉を大きく開けた。

 そして、その扉の外を見た。

 非常な広さの空間があった。

 ”黄色い建物は、宙に浮いている”果てしない空間が広がっている。

 部屋の下は深遠であった。

 上方は傾斜して前方へ高く伸び、灰色の岩盤がうねるように、どこまでも続いていた。扉の付近を数匹のスズメバチが舞っている。黄色い部屋の構造物は、岸壁に張り付いているかの様であった。

 

(四)

 又もや、不思議な世界が出現したのだ。

 ”ここはなんだ? この奇妙な部屋はなんだ? この丸い物体は何だった?”

 ”私は、どうなっているんだ?”

 ”ここには酸素が少ない、と言っていたな。あのスズメバチ達は何者だ?”

 耳をすましてみるが、彼らの会話は聞こえてこない。

 だが、ほんの少し間を置いて、聞こえてきた。

 「あなたに、我々の会話が聞こえていたとは、驚きでした」一匹のスズメバチが話しかけてきたのだ。これは、テレパシーである。

 「我々は、我々の会話の盗聴を遮断していました。あなたの脳の反応が、ある程度は理解できたからです」この蜂は、私の眼前で、黄色い壁に止まって話しかけている。

 「あなた方は何者ですか?」私も動転の内に、心中の思いを語りかける。

 「我々は次航バチです。異次元間を航海する蜂です」

 「ここはどこですか?私たちの住んでいる宇宙では無いのですか?」”ここは異次元世界なんだ”と思いつつ聞く。

 「あなたの住んでいた宇宙とは異なります」と、この蜂は答える。

 「一体、どんな宇宙なんですか?」と聞く。

 「詳しい説明はしかねますが、あなたの住んでいた世界が、写真でのポジであるとすれば、ここはネガに近い世界です」と蜂。

 「それは、陰と陽の違いの様な、互いに逆の世界のことですか?」

 「そうですね。それが三次元で、カラー付きで、およそ75%のネガ世界だと想像してください」と。

 「そんな世界が、あるとは!」

 私には、驚きを超えた驚きである。私は、否、人間は如何に無知な存在だったのか!

 人間としてのおごりが、次航バチの前に消し飛んでいった。

 驚きのあまり、伸ばした手が、近くの球体に触れた。痛くない、ソフトな感触である。

 

 (五)

 「大地は空間のごとく、空間は大地のごとく変化した異次元の世界です。本来、植物や動物は存在しないはずでしたが」と。

 なぜか、次航バチの言葉には確信が欠ける。

 「今、あなた方は、なぜ此処にいるのですか?」私は聞いた。

 「ここが安全だからです。春から秋に掛けては、ポジ世界で食料を貯えます」

 「ここの空気中には酸素が乏しい、と言っていましたね。あなた達は、どの様にして呼吸をしているのですか?」と聞く。

 「別の階に酸素室があります。我々はミツバチが蜜を蓄えるように、酸素も蓄えるのです。我々は腹中に酸素を取り込めます。無酸素の空間であっても行動できるのです」

 「では、どうやって異次元空間を行き来するのですか?」これが、最大の謎であった。

 「その前に、こちらから質問したいのです」次航バチは壁から離れ、私の眼前に羽ばたく。上下に動く。

 

 「あなたは人間のように見えますが、この酸素の少ない大気の中で生きている。なぜですか?あなたは我々の会話を聞き分け、私ともテレパシーで会話ができる。なぜですか?」

 彼らは私の正体に疑問を抱いている。

 私は蝶ケ山以来の、関係ありげな、私の身に起こった出来事を、出来るだけ手短に話した。

 自分にも、よく理解出来ていないことを告げた。

 「そうですか。どうやら、あなたにも次航能力があるようです。だが、その方法を、まだ把握していらっしゃらない様に思われます」

 「えっ、そうなんですか。あなた方の、次航方法を、出来れば、教えて下さい」私は、驚きと同時に聞く。

 「私たちは、あなた方から見れば、昆虫です。蜂です。ハチ特有の行動が、永い歴史を経て、次航能力を確立したのです」

 そう言いながら、そのハチは、私の眼前で8の字形に旋回した。その瞬間、そのハチの姿が消えた。

 「うっ。」

 私は、おもわず、うめいた。

 少し離れた位置で、数匹のスズメバチ達が見ていた。

 「どうなったんですか?」

 私は彼らに向かって声をかけた。一匹が答えた。

 「彼は、異次元へ行ったのです」次いで、もう一匹が答えた。

 「メビウスの帯の表面を潜り下り、その裏空間へ渡ったのです。すぐに戻りますよ」


 メビウスの帯とは、一本のテープ状の帯を、半回転ひねり、その状態のまま、帯の両端をつなぎ合わせた輪状の帯のことである。閉曲面であって、表裏が無い。


 「表裏の分けられないものは、この人間社会には存在しない。唯一、その存在の可能性を示唆するものが、メビウスの輪(帯)です。その裏へ侵入することが可能だと言うのですか?」

 表裏の無いものには裏も無い。矛盾する。

 人間の知識の限界を超えた能力、次航バチは超能力の持ち主であるのか。

 「あなた方、人間の脳では、これの判断は出来ません。我々のような、ある種の昆虫だけが、これを理解出来うるのです」

 「ある種とは?ほかにも?」

 「ミツバチ等の蜂以外にも、いく種かのトンボ等にも、この能力があります」

 「オニヤンマも?」と私は、つぶやいた。

 オニヤンマは、最初に聞こえてきた次航バチ達の会話の中にも、出ていた。

 「そうです。彼らは、我々を襲う敵でもあります。この夏には、あなたに助けられました」

 「ああっ、あれは偶然でした」

 私は思い出した。暑さで倒れこんだ、木陰での出来事を。

 「オニヤンマは、腕を上げて、背伸びをした私の動作に驚いて逃げたのでしょう」

 夏の、この山での、頂上直下での、激しい疲れを思い浮かべながら、言った。

 

 (六)

 「それにしても」と、一匹の次航バチが呟いた。

 「彼は、戻ってくるのが遅い」

 彼とは、先ほど、異次元へ消えた次航バチのことらしい。そして、呟いたハチは何故か、中央の球形物体に向かった。

 そして、声高に言った。

 「次航角がづれている。これでは簡単に戻れない。彼は危険だ!」

 ハチ達は、その球形物体に集まった。

 「誰かが、このコンパスを動かしたのだ」と、動きが慌ただしい。

 私は、思い出して言った。

 「少し前に、私の手が触れたんですが」

 「この装置に、無闇に触れてはいけなかったのです。我々の注意不足でした」とリーダーらしきハチが答えた。

 「彼は、体内コンパスを、位置がづれる前の、この次航コンパスに合わせて、セットしていたのです。このままでは、簡単には、ここへ戻れません」

 「まず次航コンパスの位置を、元に戻そう」そのリーダーらしきハチが、球体に接して動いた。

 球体がわずかに動いた。

 戸惑いを隠せない私に、ハチが説明をする。

 「異次元を安全に航海する。それには厳密で正確な羅針盤が必要なのです。この球体は、その羅針盤なのです。次航コンパスです」

 「と言うことは、彼の戻りに向かう次航コンパスが、ここにある球体コンパスに合致しなければ、ここへ戻ってこれないのですか?」と私は聞く。

 「そうなのです。彼はここへ戻ることが出来なっかたので、彼の体内次航コンパスを操作しながら、いろいろと帰還を試みていることでしょう。異次元を彷徨い、体内酸素量が尽きれば、彼は死に絶えるでしょう」

 複雑なネットサーフィンに迷い込んで、帰還するよりも遥かに難しそうである。


 リーダーらしき、スズメバチは、さらに説明した。

 「かって、次航コンパスが無かった時代、多くの仲間達が、異次元を彷徨い、この世界に戻れなくなりました。我々次航バチにも、暗黒の大航海時代が有った分けですよ。この球形次航コンパスが発明されて、正確に、様々な異次元を往来することが,可能となったのです。でも未だ、この様な事故に対処する方策が不備なのですね」

 

 メビウスの帯の裏に潜って、異次元世界に侵入した、一匹の次航バチはまだ戻ってこない。

 他の蜂たちは、心配げに帰還を待っている。

 それとは別に、私には異なる不安が増大してきた。

 自分は、戻れるのだろうか?

 自分には、8の字旋回運動などは出来ない。

 この、75%ネガ宇宙世界から、住み慣れた、あの里山へ戻れるのだろうか?

 突然、一つの疑問が湧いて出た。

 そして、私のテレパシーが、次航バチ達に向かって発信された。

 「これまでに、私以外に、この世界に現れた人間は、居なかったのですか?」

 やや間を置いて、一匹の次航バチが応えた。

 「ここへ現れた人間は、あなたが最初です。しかしながら、我々の仲間達が行く多様な空間で、ときおり、人間に出会った、との話は伝わっています。彼らは次航能力を備えた人間らしいとも」

 「彼らの名前は?ご存知じゃないですか?一人でも?」私は、さらには聞いてみる。

 「今は、私達の仲間が危険に瀕しているのです。もはや彼の体内酸素も尽きようとしているのです。今、その返事は出来ません」

 

 ここにいる次航バチ達にとっては、私の言葉は悠長に過ぎた。

 次いで、私は、はっと、閃いた。

 あの消えたハチが、ポジ世界にコンパスを合わせれば、彼は酸素のある世界に戻れる。

 だが、スズメバチにとっては、余りにも寒い酷な世界ではある。

 彼が生命を維持することは、短期間であっても難しい。

 

 (七)

 その時なぜか、私の脳裏に、涸れ谷の巣跡に止まり、じっと動かぬ一匹のスズメバチの姿が浮かんだ。

 私は、周りにいる次航バチ達に、テレパシーを発した。

 「ポジ世界へ戻ってください。彼は、そこに居ます」

 ハッとした様に、次航バチ達が動き出した。

 数匹が、球体コンパスに向かう。そして言った。

 「ポジ世界へ、次元変換します!」

 一瞬、闇と光が交差した。


 「ポジ世界です」

 次航バチ達が、私に伝えた。

 私は、先ほどの、灰色の岸壁に閉ざされていた入口扉に向かい行き、一気に開いた。

 冷気が急激に入ってきた。

 外へ躍り出る。

 背後で、扉がバタンと閉まる。

 扉の外は、あの、涸れ谷であった。

 涸れ谷の向かい側には、西側山塊の、密生した雑木林があった。

 私は、本来いたところの、里山へ戻っていたのであった。


 小屋の扉からすぐ、山の斜面に沿う上方、疎らな雑木林の裏にある、岩壁の低い庇の陰に、スズメバチの巣があった。

 私の脳裏に現れた場所と同じ位置に、一匹のスズメバチが止まっていた。

 私は、死んでるかの様に、動かぬハチを、両手の平で、そっと包み、入口まで運んだ。

 体で扉を押し開き、そのハチを小屋の内部に置いて、外へ出た。

 扉はバタンと閉まった。

 直後に、黄色い小屋は、私の眼前で消えた。

 そして、弱々しいテレパシーが聞こえてきた。

 「ありがとう・・、二度も助けていただいて・・、ツウート・・」

 あとは聞こえない。


 私は、気を取り直して、東側山塊の斜面に取りついた。

 そうしているうちに、思考が整理してゆくかもしれないことを、期待しながら。

 今日の、目的は、東側山塊の尾根歩きであったのだ。


       (嘘山行記7 スズメバチのお宿 改訂版 完)

       (2003.10.31初版)(2019.4.22 改訂版)

ネガ世界の航海は、新たなSF分野の可能性ありか。

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