9話
「おーい! 酒の追加、持ってきてくれー」
「はーい、ただいまあ」
「ああ、ついでにこっちもだ」
「なあクロエちゃんよう、ちょっとお酌してってくれよう」
「そういうサービスは行っておりません」
騒がしいフロアをパタパタと駆け回る。席もほぼ満席で、一時は店の奥から臨時のテーブルとイスを持ってきてなお足りなかったくらいだ。
なんの騒ぎか気になったのか、近隣のご婦人ご老人方が店の扉をちょこっと開けて、中を覗くと「まあ」と驚いて去っていったりもした。
外はまだ日も天頂に届かないというのに、店内は仕事終わりの時間帯の酒場みたいな有様だ、店内を覗いていれば今の時間帯を忘れてしまいそうになるだろう。
さらに、大柄な男たちが皆思い思いにくつろぐおかげで店内は歩くだけで一苦労だ。
カードやらサイコロやらで賭け事にも興じ、酒も入っているせいか注意散漫。勝敗に一喜一憂するせいで身振りも手ぶりも大きくて、皿の乗ったトレーを運びながら移動するのはひやひやして仕方ない。
「おっと」
不意に伸びてきた手を腰をひねって回避する。「ちぇっ」と聞こえた気がしたが、まあ、聞き間違いだろう。何しろ阿保ほど大きいオーダーの声を聞き逃してしまいそうなくらいに騒がしいのだから。これでは食堂ではなくてまんま酒場のようだが、話によるとどうもそっちもほぼ満員らしかった。
満席に対して給仕がたったの3人ではなかなか手も回らない。マルセルさんは厨房のほうを手伝っているし、給仕の人もセクハラをあしらいながらじゃ能率が……セクハラばっかりかうちの客は。
町への流入者が増えたことで、ロランスで働く給仕さんもまた新顔が増えていた。今日は三人のうち二人がそうだ。
当の二人、クロエさんとソフィーさんは外から職を探しに来た口らしい。こういった、肉体労働以外の職を求めてきた人たちは、やはりバルトーのほうではなく、比べるとまだ近代的な装いのこの町に集まるようだ。最早形骸化していた町を囲む壁なんぞ取っ払って、町をもっと広げようか、なんて話も上がってるくらいには、活気にあふれている。
それでもまあ、小さい町にしては、と注釈がつく程度だろうが。
何せ今主流の工業機械を主軸にした工場なんて一つもないのだから。せっかく石炭が取れるのだから、製鉄所でも作ってはどうかとも思うが、それなら鉄も取れないとダメか。
まあ、仮にもし工場が作られてしまったとしたら、町の発展の反面、住みやすさは激減してしまうのだろうが。他国の話だが、工場の周囲はどうにも環境悪化に加えスラム化が進んでどうしようもないらしい。
それはともかく、見ない顔、そして何より若いこともあってか彼女たちは常連客からもよくちょっかいかけられている。
しかしせっかく若い女の子が入ったというのに、相変わらず男の尻を狙う阿呆どもがいるのはどうにも納得がいかない。まあ、おふざけと、もともとは彼らなりのやさしさだったということはわかってはいるのだが。
ひょいひょいと隙間を縫ってカウンターまでたどり着く。ちょうど出来上がった料理、そして注文のお酒が用意されたところだった。
「今日は、ずいぶん忙しいですね。まだ昼前だってのに」
「そうだねえ。案外皆さぼりだったりしてねえ。あ、アンちゃん、これあっちのお客様に持っていってくれない?」
「わかりましたー」
同僚のイレーヌさんから――イレーヌさんは地元の人で、以前から面倒を見てくれていた優しい女性だ。家では夫を尻に敷く恐妻だとからかわれていたが――ワインやらリキュールやらの酒瓶が並んだトレーを受け取る。
お客さんたちはいつもの汗まみれ泥まみれといった風にも見えないし、さぼりというのは案外的を得ていたりして。
日本以外ではストとかよくあると聞くし、ここでもそうなのかもしれない。
先も言ったようにパーヴァペトーまでは近代化の波は届ききっていない。気分で仕事を休みにするなんてことは……あるのだろうか?
まあ、大変だと口で言えども、それだけ店を利用してもらえているということで喜ばしいことに違いはない。
どさくさにまぎれて〝タッチ〟されるのさえなければ大歓迎なのだが。酒のせいか今日はどうも〝誤タッチ〟が多い。
「はいっ、ご注文のお酒!」
やれパンを売りに来てた女の胸がでかかったとか、あいつの尻のほうがいい形をしているだとか、卑猥な話で盛り上がっている客たちの前にドンっと酒瓶を置く。少し乱暴になってしまったって仕方ないだろう。
そんなものは気にもならないとばかりに「おうきたきた」とすぐさま酒瓶には何本も大きな手が伸びていく。
ふう、と息を吐いてからその場を立ち去ろうとしたのだが、クロエさんのほうを見て――別の酔っぱらいに絡まれていて、まあ一蹴しているようだったが――羨ましそうにしていた一人が「なあ、アンちゃん聞いてくれよ、こいつらったらひでえんだぜ」と相手をしてくれと言わんばかりに絡み始めた。
「はいはいお仕事があるのでまたあとでね」とあしらうも、彼は「いいじゃねえかよう」と引き下がらない。
それどころか周りの連中も「まあいいじゃないか」と悪乗りし始めた。どこからか空いた椅子を引っ張ってきて、肩を押されて無理やり座らせられる。
卑猥な話は勘弁だぞ、と思っていたのだがどうやら違うようだ。
絡んできた男、男にしては長い黒髪を後ろでまとめたような髪型が特徴の彼、ベルナールは完全に酔っぱらった口調で、
「おれたちゃ今よう、バルトーの方に新しくできた炭鉱で働いているだけどよう」
と、予想外にも、彼らの仕事について、を今更なところから話し始めた。
さっきまでの話とまるで違う風なそれに、ちょっと興味が出た自分は『いかにも仕方なく聞いていますよ』、といった感じを装いながらも――いつ与太話に変わってしまっても話を切り上げられるように――少し相手をすることにした。
既に出来上がっているのか、彼の語り口はやや要領を得ないものだ。
「あそこはもともとバルトーの連中が偶然見つけた横穴みたいなところでよう、中はずいぶん深くまで続いていて、まるででかい蛇が這って行った跡みたいにぽっかりと、そんで蛇行していてな。レール引くのがえらく大変だったみたいだぜ。――まあ、それはいい。命知らず怖いもの知らずの地元の若いのがカンテラ片手に潜ってよ、その途中でちょうど炭層が露出してたわけだ。話を聞いて下見に行った石炭公社の連中も、なんでこんなものがあるのか見当もつかなかったみたいだがな、まあもともと穴が開いてるんだ、おかげでハッパもそれほどいらねえで、採炭するには崩れないように支柱建てて補強するくらいでよくてなあ」
「そこから話すのかよ」なんて横やりも入るがベルナールは語りを止めるようなことはない。自分も炭鉱夫たちの仕事話は何度も聞いていたのだが、話の腰を折るのは悪いだろう。
炭鉱はふつう、採掘の前に石炭を掘る場を用意しなければならない。当然、地面をむりやりくりぬいているわけで、放っておけば落盤する危険があるため支柱を立てて事故の可能性を減らす。
「それはまあずいぶん奥まで穴も続いてて、進んでも進んでもずっと頭よりも高い位置に天井があるってもんで、横幅もそれなりさ。少なくともトロッコ2台並べたところで手狭にもならないくらいだ。まるで誰かが意図的に作ったあとみたいだったよ。しかし、そんな連中がいたとして、石炭にゃ興味がなかったのか、炭層はまるで手付かずさ。掘進もさしていらないってことで、ウェルマインの竪穴に潜った時よりは、それはもうかなり楽な仕事だったさ」
「あそこはよう、迷路みたいにおんなじような穴が枝分かれして続いててな、地図を作りながら進んだもんさ。しかも、上にも下にも続くもんだから、どこを誰が掘るかってのは、競争しあったぐらいさ。俺はどうもツキがなかったのか負けちまってよ、ウェルマインで炭掘ってた経験もあったからか、結構奥、そんで下のほうに当たっちまったわけだ。あんまり下のほうだと炭を運ぶのが大変でな。まあ、ほかにも――いや、まだそれはいいか」
「そんで、毎日のようにアナグラに潜っては石掘って、トロッコに乗せては搬出の繰り返しでよう。ただ、だんだん手前のほう、手前っつっても外の光なんて届かねえ場所だけどな、百や二百メートルなんてもんじゃないぜ? もっと奥まで、その時からすでに潜ってたさ。だがまあ、そこら辺からも炭が採れなくなってきたわけだ。だからそれよりももっと深くまで潜るか、もしくは新しく道を掘るしかなくなっちまった」
ベルナールの声はちょうどそのあたりから微妙にかぼそく、かすれ気味になっていった。
聞き手がいることを忘れているのか、まるで自分の記憶を確かめるように、それでいて掘り起こすことをためらっているように、最初の饒舌さは鳴りを潜めていく。
酔っぱらいのことだ、あまり気にしてもしょうがないと思うのだが、うつむき気味で、ここで席を離れたところで気づかれないのでは? と思うくらいに彼は手元のグラスをじっと見つめている。
「そんでドミニク、石炭公社から派遣されてきた、まあ、現場の責任者の一人なんだがな、そいつは短期間でそれなりの結果が欲しかったみたいで、掘進なんて手間のかかることなんてやってられないっつって、元からあった、さらに奥まで続いている穴を補強して、炭層探して、そんで掘るよう指示したんだ。坑道掘るにはよう、発破かけて、片付けして、トロッコで瓦礫運んで、支柱をたてて坑道補強して、と手間が多いからな。だがまあ、なんだかんだでいつかはそこも手えつけなきゃいけなかったんだろうが、どうも俺たちはそこに行きたくなかったのさ」
「なんで?」と相槌を打つと、それに驚いたかのように顔をはっとあげ、ごまかすかのようにリキュールを一杯流し込む。
酒の残った唇を舌でちろっと舐めると、少し調子を取り戻したようだ。
「そっちはどうもな、臭えのよ」
そして、酒臭い声を一際低くしてそう言った。
「臭い? ガス臭いとかそういう?」
炭鉱の石炭層にはよくガスがたまってることが多いそうだ。ガスに気を付けないと中毒や爆発事故につながる。「おっちんじまったら、こいつを墓石にかけてくれ」なんて、笑いながらウィスキーの入った愛用のスキットルを煽る客も少なくなかった。
「違ぇよ。死臭さ、死臭。腐肉やら何やらが発酵してんじゃないかってくらいの気味の悪いにおいでな、湿気のせいかカビ臭いってのもきつかった。風通りなんて最悪な空間だ、近づけば近づくほどずっと臭くなってくのさ。それにあっついからな、シャツも着ないことなんてザラだ、吐き気のしそうな空気がべっとりと体にまとわるついてくるのさ」
うへえ、とでも零したくなるような話に顔をしかめるが、それを察してか「炭鉱にゃお前くらいのガキだって働いてんだぞ?」と笑われる。
「最初は有毒ガスじゃないか、って話になってたんだけどな、迷い込んだ動物か何かが死んでたんだろうって、なんだかんだで細かいやつだからついてきてたドミニクがな、そうヒステリック気味に叫ぶもんだから、俺たちは嫌々ながらも進むことになったのさ。実際、連れてきていたカナリアはまだ3羽とも鳴いてたしな。まあ、熊でもねぐらにしてたらそれはそれで怖いんだが。鉄砲なんて持ち込めねえし、まあ恐る恐る進んでったわけだ」
「クマがいるかもしれねえ、そう考えただけでもおっそろしいのによ、俺を含めた、そん時の連中は、手に安全灯とつるはし握りしめてよ、その底なしの穴みたいな洞窟んなかを歩いていくわけだ。あれほど手元の灯が心強く思えたことは、それこそガキの頃以来だったさ。もう暑かったからか、それとも冷や汗をかいてたからなのか、背中も顔も、汗びっしょりで、寒くなんてないのに歯の音だってなってたやつもいたんじゃねえかな。それだけ暗闇の向こうが怖かったのさ。皆、内心で気づいてたんだ。もし、何かいるとしたらそれはクマなんかじゃない。もっと常軌の逸した、この世にいちゃいけない類の何かだろうってな。それほどあそこは、まあ地獄への入り口みたいな見た目をしてたのさ」
「なんでそんなに怖かったかって? どうにもな、俺達には何かが見えてたのかもしれねえな。暗い中でよ、何かがずっと、息を殺して、な。暗闇自体がうごめいて、どっかからきったねえ臭い息をまき散らすような奴が、びびっちまった俺らに気づかれないように、嘲る声を出すのを我慢してるようによ、そう思えて仕方なかったのさ」
「いよいよ臭いがきつくなってきて、もう炭層を探すってことも頭からすっぽり抜け落ちて、ただただそこが危険じゃないってことを、てめえの身をちょうど危険に晒してる最中かもしれないってのに、歩き続けることで証明し続けなければってのが目的になり始めてたあたりでな、とうとうさっきまでピーピー鳴いてたカナリアが、3匹ともぱったりと鳴き止んだわけさ」
「そん時はもう、俺たちには会話なんてものはなくて、カナリアのさえずり以外はただただ砂利を踏みしめる音、大の大人のくせして淑女より潜めた息遣いくらいしか聞こえなくなっちまった最中でな、だからこそそいつが、きっと心のよりどころだったんだろう、カナリアの声が聞こえなくなった瞬間、すぐに気づいてな、『やばい、ガスだっ!』って俺たちが狂ったように慌てて逃げようとしたとき、」
「とき?」
ベルナールは急に、まるでこの先をセリフを忘れてしまった素人役者のように口をパクパクさせ、半分も残ってないグラスを煽った。
暖炉いらずなほどの室内の熱気にあてられたか、それとも酒で体が火照っていたのか、オールバックに掻き上げられた後の額には脂っこい玉雫いくつもが浮かんでいる。
細いが、ごつごつした指がグラスをふらふらとさまよわせ、「誰か、ついでくれ」と酒瓶を持った連中にそれを突き出した。
「おらよ」と、きつめのブランデーを注がれるとすぐさま飲み下す。彼はそれを何度か繰り返した。自分も酒瓶を「ほら、注いでやれよ」とからかい半分に押し付けられ、仕方なく注いでもやったりもした。
いつまでもサボっているわけにもいかない。
しかし『イヤにためるな』と思いはしたが、彼のあまりにも真に迫った雰囲気に、どうも急かすのは悪い気がして、ただ黙って待っていた。
フロアの喧騒がどこか遠くのもののように聞こえていた。
何杯目かの酒を、舐めるようにそれを口にすると、すっかり酔いが回ってしまったのか赤く、厚ぼったくなってしまった瞼をひどく細めながら、彼はようやく続きを語り始めた。
「――聞こえちまったのさ、パニックになって、やたらめったらにわめき散らしていた俺たち以外の声がな」
神妙に語るベルナールの横で、「へっ」と何人かが鼻で笑った。
それに気分を悪くしたのか、彼の眉はピクリとはねた。
「俺だって、あんなもんただの聞き間違いだったって思いたいさ。洞窟んなかだ、誰かの声、俺らのが反響して、混ざって、変な音に聞こえちまったんだってな。だがあれはそんなんじゃない。もっと甲高くて、だがしわがれてて、わめく俺たちよりももっと早口だった。それこそドブネズミの煩わしい声みたいで、くっせえ息が漏れ出してるのがありありと想像できるほどに気味の悪い声だったんだ」
「何人かはそれに気づいて、いや全員気づいていたんじゃねえかな、ただ振り向いたのは、俺を含めて少数だった。俺とエドガーとアンドレスと、それとドミニクだった」
「ああくそっ、思い出すだけで胃がむかついてきやがる! まちがいない、あれは暑さでもガスの中毒でも恐怖でも、それらが見せた幻覚なんかじゃなくて本物だった! 誰が放り投げたのかは知らねえけどよ、横穴の奥の奥まで転がっていった安全灯の、石と炭と、それ以外の何かを照らし出していた頼りねえ火じゃ全部は見えなかったがな、三つに分かれた道の先にあいつらはいやがったんだ。卑しい顔を歪めて、不揃いに前かがみに立つあいつらがな! あいつらは間違いなく存在してる。この目で見たんだ! あの出来損ないの人間みてえな化け物どもは、神があんなものの存在を許しているとは到底思えないような不潔野郎どもは、あの穴倉の中で今もきったねえ涎を垂らしながら彷徨ってやがるのさっ」
彼はきっと憤っているわけではない。認めたくない何かのために彼は声を張り上げて、そう一息に言い切った。
しかし結局のところ、彼らが一体何を見てしまったのかがわからない。一番大事なところ、話のオチの部分がわからなければ、どうにも腑に落ちない気分になってしまう。
それを問い詰めようにも、ベルナールは「まあ飲めよ」と度数のきつい酒ばかりをグラスに注がれ、彼もそれを何度も飲み干している。周りの連中はベルナールを潰そうと、そして当の本人はむしろ進んで潰されようとしてるみたいだった。
どうにも困ったように、曖昧に笑っていると、横合いから話しかけてくる男がいた。先ほどまで隣のテーブルでピケというトランプゲームに興じていたグループの一人だった。
「俺たちはちっとひどい落盤だって聞いてるんだがな。ただ他の、それまで一番奥のほうで作業してた腰抜け連中も、『やっぱりなんかいるんじゃねえか』ってびびっちまって、おちおち炭も掘ってられねえって言って、仕事にならないわけさ。おかげで三日も前から集めた炭の移送準備がほとんど。それも、今まで掘るのに回ってた連中もはじめちまえばもうやることもなくなっちまう。上のほうの連中も作業を再開するかどうかで揉めててな、なんにせよ、決まるまで俺たちゃ休み。大手を振って昼間っから酒煽ってられるのもまあ、そいつ曰くの化け物のおかげさ。死人もけが人も出なかったしな。このまま引き上げて、稼ぎ口がなくなっちまうのだけが心配事だよ」
そう述べるのはドニという、禿頭に鷲鼻が特徴の男だ。
「お前らは見なかったからそうやって笑っていられるんだ! 実際にあいつらのことを目にしてみろ、エドガーもレニも、部屋に閉じこもって出て来やしねえじゃねえか! アンドレスなんか国に帰っちまった! どこの誰だかわかんねえ神様なんかにお祈りを捧げながらよ! いっぺん、お前らもあの穴んなかに潜ってみればいいのさ! そうすりゃお前もあのにやにや笑いの、カビ臭え犬面が拝めるだろうよ、だらだらはしたなく涎垂らして、お前なんか頭から〝ガブリ〟さ! いや、喉を掻っ切られて終わりだね、あんな不潔な爪で切られてみろ、体中あいつらみてえに腐っちまって、くっさい体臭まき散らして笑いものさ!」
最早若干呂律が怪しくなってきて、口走ることも今いち伝わらないものが増えていた。
こうなってしまってはまともな話なんてもう聞けやしないだろう。
「やなこった。こう見えて俺ぁきれい好きなんだ」
てかてかと光る禿頭をさすりながら、ドニは相手にもしない。
「お前も怖いんじゃねえか」と、ぶつぶつ呟き続けるベルナールはそろそろ酔い潰れてしまう頃合いだろう。顔色も随分悪い。吐かれても困るので、桶の用意でもしておこうか。
「結局、ベルナールさんは何を見たのさ」と、話もできそうにない本人は放っておいて、周りの同僚たちへと聞いてみるも、
「俺は賭けに勝ったからな。んで、こいつは坑内の補修が主な仕事。他も、もっとましな場所で炭を掘ってて……」
一度店内をぐるりと見まわしてから、
「その化け物ってのを見たのは、ここにいる中では、やっぱりベルナールだけなのさ」
と、終ぞわからずじまいだった。
「現場のリーダーまでこいつの話みてえな与太を信じちまったわけだからな、今度憲兵連中を引っ張ってきて連中を皆殺しにするんだなんだって息巻いてたよ。まあそれまで俺たちゃ暇なのさ」
そうドニが話を締めくくって、
「引き留めて悪かったな」と肩を叩かれたのを最後に、自分はその場を後にした。
用意した桶は必要なかったみたいだ。
それから少しして、昼間っから酔い潰れたベルナールは同僚たちに肩を担がれて安宿のベッドまで運ばれていったのだ。