8話
月ももう少しで満月となる。
あと二、三日とかからないだろう。
小さな格子窓から見上げる月は、薄く散らばる雲を周囲に従え、悠々と佇んでいた。青白く輝くその身が、やさし気な光でもって地上をなめている。
仕事も終え、店じまいの後のことだ。もう眠りにつこうという時間だというのに、今日に出会ったあの客のことを思い出してしまって、どうにも眠気がやってこない。
記憶にあるのとさして変わらない、慎ましいベッドから身を起こすと、サイドチェストのランプをつけることもなく窓際へと歩み寄る。
申し訳程度に置かれた数少ない家具の一つ、小さな丸テーブルとスツール――背もたれのない椅子にそっと腰を下ろす。
物置を掃除して使わせてもらっている、少し埃っぽいこの小さな部屋で一人きり、あの紳士の格好をした男の言葉をぼんやりと思い返す。
あの不気味で気に食わない男は、自分の、この体の持ち主の少年の母親と顔見知りだと言っていた。
人となりがわかるくらいには、きっと付き合いもあったのだろう。
彼曰く、慈しみがあるらしい〝この子〟の母親は、ならばなぜあんな場所に子を捨てたというのだろうか。
生きていたのなら普通捨てたりはしない。
もし、既に死んでしまっていたのだとしたら、埋葬してやるのが尋常なことだ。
捨てざるを得ない事情がその親子にあったのだろうか。
捨てざるを得ない事情が、この体にあったのだろうか。
そんなことを考えていると、ついジョフロワさんに追い出された時のことを思い出す。
たった数時間の付き合いだったとはいえ、思わず深い信頼を寄せてしまうような優しさを持った人物だった。そんな彼の態度を一変させてしまうほどの理由がある、ヌティスと呼ばれる山。
だが、あれは自分が目覚めてからの理由だ。
この体にあるかもしれない事情とはおそらく無縁なはずなのだ。
ならば一体何があったというのか。昔話なんかで考えれば、鬼子などだろうか。
親に似なかったという意味での鬼子。
そして、もっと単純に、鬼の子。
西洋風に言えば、悪魔の子、となるのだろうか。
月の明かりに、小さな手のひらをかざしてみる。青白く照らされる肌は、それでもしっかりと生きている感覚を伝えてくれた。
小さな筋肉の動きから、腱の緊張、そして青白い中にも残る、ほんのりとした朱色。
白魚のようだった指も、最近は労働の成果か少しばかり逞しくなったように見える。
見た目には、何もおかしなところなんてない。
腹が空けば腹の虫が鳴るし、悲しいことがあれば涙だって流れる。体に通っているのは赤い血で、生きているこの体はきっと皆と同じで温かい。
ただ、少しばかり視力や聴力が優れているな、と思うこともなくはないが。
一番不自然なのは別人の思考が働いているくらいで、以前のこの少年には何もおかしなところなどないはずだ。
ごみの中に埋もれなければならないような理由など、きっと。
……しかし、そういえばなぜあの、入ってはいけないらしい山にあんなごみ溜めがあったのだろうか。入ってはいけないというなら、普通ゴミすらないものじゃないか? 誰が捨てに来たのだという話になる。
それも、あんな大量に捨てたとなると一度ではとても済みはしまい。何度も繰り返し山に入る、もしくは、大人数で、荷車のようなものを大量に使って山に入る。そうでもしないとあれほどのごみの山にはならない。
そんな目立つことをして、ランステッドの人たちはそれに気づかなかったというのか?
禁則地だからといって目にも入れたくなかったのだろうか。
そして、山に入った者たちは、あの化け物じみた野生動物たちに襲われることはなかったのだろうか?
ロランスで働くようになってから知ったことだが、この世界は自分が当初思い描いていたようなファンタジーなつくりをしていないらしい。どちらかといえば記憶の中にある世界と似たような歴史を歩んでいる気がする。
町の中央にある駅舎にSLが止まっているのを見たときなんて、本当は異世界ではなく異国にただタイムスリップしてしまっただけなのでは? と思ったほどだ。まあ、タイムスリップを〝だけ〟なんて捉え方をするのもいかがなものかとも思うが。
なんにせよ、この世界では魔物なんて存在はありはせず、当然それに対する勇者様や冒険者なんて存在もまた、ありえないのだ。せいぜいが都市部の衛兵や警官隊、地方ならば憲兵隊。民間で言えば自警団、そしてナイフや猟銃、リボルバー拳銃などで武装した程度の一般市民。
重ねて、拳銃の所持は認められているようだが、これまで接客してきて拳銃を普段から持ち歩いている人なんて数えるほどしか知らない。となると、どれだけ普及しているかもわからない。
そんな程度であの怪物たちから身を守れるのか? あのたくましい筋肉には刃や銃弾なんてものが通るのか?
本当、考える度に疑問がわき出てくる。
考えても仕方ないか。
そもそもこの身に、真実自分の身に起きたことからして、何もわかったものではないのだから。
さしあたって問題なのは、自身がなんとも高貴な出だと勘違いされてしまったことだろうか。マルセルさんや給仕の同僚たち、果ては店の隅で縮こまって、スープをつついていた客たちまでいらぬ想像に考えをはせていたみたいだった。
家出したお坊ちゃんでも没落貴族でもないわ。
……明日も早いのだ、無理やりにでも寝てしまおう。
***
ようやく眠気が来たかと思った頃、どこからともなく聞こえる、ガサゴソと何かを漁るような音に意識がすっと覚醒していく。
夜中でも外を出歩く酔っ払い達すらも寝静まるほどの夜更けのことだ。
野良猫か、野良犬だろうか。
ロランスは飲食店なだけあって、他の一般家庭よりも結構な生ごみが出る。そのため漁りに来る動物は少なくない。最悪、食事を買えるだけの金のない貧しい人たちが集っているのかもしれない。
普段はさして気にならないというのに、妙に目が冴えていた今日ばかりは仕方がない。
瞼だけはもうくっつきたがっているのだが、頭の中はいまだ元気が残ったままだった。
近世、とでも呼べばいいのか、近代科学がいまだ発展途中であるこの世界の水準では、ビニールのごみ袋なんてものは当然ない。おそらくそのこともゴミ漁りを助長しているのだろう。
ゴミは麻袋や樽に詰め込んで、それを糞尿とまとめて町はずれの下水に流している――袋も樽も、再利用されている。
収集業者はいるのだが、町中を走るゴミ収集車なんてものは当然ない。
各家庭が荷車などで捨てに行くか、週に二度のリヤカーを引いた収集業者が回収にくるまで保管するかのどちらかだ。
そのため、家の裏口――といっても戸内に収めておくのが原則なのだが、こればっかりは守らない人も多い。いくらカラッとした気候で、温暖な時期の少ないここらでも、やはり屋内においておけば臭いも気になる――などに仮置きされている生ごみなんかを漁りに、カラス含め野良の動物たちが悪さをしにくる。
野良と言ってはいるが、実は猫に限っては町で飼っているような節もある。どうもかつてのネズミ対策の名残のようで、町を囲う石積みの壁の中すべてが彼らの家であった。町中を歩けばいたるところで猫がくつろいでいるのを見かけることができるだろう。
そのため、町中ではよく猫の糞を見かけたりする。町全体に石畳が敷き詰められているので、隠すための砂がない分結構目立つのだ。
猫の数も多く、その分、まあ縄張りの誇示かなんかの関係もあるのだろう、毎回微妙に落ちている場所が違う、なんて愚痴をまだ若い掃除夫から何度か聞いたこともある。
気ままな猫が相手となると〝常に清潔〟を目指すのは難しいだろう。
――ガサゴソという音にに混じって、何かを咀嚼するような音もかすかに聞こえる。
くちゃくちゃと、汚らしいそれを耳が捉えて離さない。それはひどく耳障りで、臭いまで想像ができそうなほどに気分が悪い。
お隣でも、別の通りでもない、うちのゴミを漁っているのに間違いはないようだ。
うちもゴミは戸外に置いていた。量が量ゆえ、結構なスペースをとるし、何より臭いもすごいからなのだが、あんまりにも被害がひどそうならば無理にでも戸内に置くことをエクトルさん、いや、マルセルさんに進めたほうがいいかもしれない。
もっとも、こんな時間まで起きていて、そして音に気付いているのは自分だけかもしれないが。もしそうなら、自分が我慢するだけで済む。迷惑をかけたくないという思いと、それと下手にわがままを言うと、こう何かと不都合なことになるかもしれない。具体的には、なぜか喜ばれてしまう、など。
くちゃくちゃ……
ぐちゅぐちゅ……
……猫の糞がどうたら、というのはともかく、ヨーロッパ的な世界ということもあって『町中に人糞が散乱しているのでは?』という懸念もあったのだが、そちらのほうは案外問題になってはいないらしい。
何も各家庭に水洗トイレがあるわけではない。
上下水道の整備も、トイレ事情も、思っていたよりもひどくはなかったが、こればっかりは充実しているのは役所や鉄道駅、そしてメインストリートに立ち並ぶ高級店くらいのものである――まあ、これらの下水がどこに流れ込むのかまでは知らないが。やはり川に垂れ流しなのだろうか。
しかし、衛生観念においては、パーヴァペトーは随分マシなほうなのだと、都市に出向くこともあるロランスの客たちから聞いた。
彼らの話によれば、都市部では人も多いせいかルールを破るものも少なくないようだ。
田舎よりも上下水道の整備は進んでいるようだが、やはり庶民の家庭すべてにまで導入するのは難しいのだろう。
工事の技術だって優れているとは言いがたいはずだ。
さらに街中を走る馬車の数もこことは比べ物にならないらしく、そのせいか馬糞もひどいらしい。掃除夫を大量に採用しているようだが、それこそ手が回っていない。昔に比べるとマシらしいとも聞くが、どうにも訪れる気はしなかった。
パーヴァペトーは田舎ならではの綺麗さだ、と誰かが言っていた。単純に一日に出るゴミの総量が少ないこと、町人のほとんどが知り合いなため、自分勝手な人がいたら、すぐ面と向かって文句を言われるのだそうだ。
田舎は田舎で衛生観念が低いのでは、と勝手に思っていたのだが、この町では見てくれをよくして町への来訪者を増やそうとしている以上、そういう方面でも気を配っているのだろう。
何もしなくても、職を求めて勝手に人が集まる都市部と違って、好き好んで汚い思いをしにきたくはないだろうからなあ。
――いつの間に不快な咀嚼音もしなくなり、思考を占めていた話題が程よく入れ替わったこともあって、意識は次第に眠りに落ちていった。
***
表の街灯も点灯夫手ずから消され始めた頃。
睡眠不足感が否めないが、今日も仕事だ、あくびを噛み殺しながら階段を下りる。いつのまにかもう肌寒く感じる季節だ、動いているときはそうでもないが、朝や夜は上着が欲しくなる。
下の階ではすでにマルセルさんが店の準備をしていた。
ちなみに一階が厨房・フロアなど、いわゆる仕事場になっていて、二階が居住スペースとなっている。
「おはようございます、マルセルさん」
「おはよう、アンちゃん」
「すみません、遅れちゃいましたか?」
いつもなら夫妻が起き始める音で目を覚ますのだが、今日は少しばかり深く寝入っていたようだ。
ゴミを漁りに来た奴らのせい、いや昨日のあの男のせいだと内心でやつあたりをする。
「いいのよお、もともと朝は二人でやってたんだから」
長テーブルを慣れた手つきで拭く彼女を見て、自分も布巾を手に取ったのだが、マルセルさんに待ったをかけられた。
「ああ、悪いけれど、裏のほうに行ってくれないかい? あの人が今掃除中だからさ。こっちはいいから、そっちのほう手伝ってきてあげて」
「掃除ですか?」
エクトルさんは、ごみの回収がない日はほぼ毎日、毎朝ゴミ出しを行う。食堂だから臭いには気を遣っているとのことだ。
しかしゴミ出しはしても裏口の掃除まで始めてしまうほどではない。朝は朝食を採りに独り身の客が多く訪れるので、仕込みに時間をかけなければいけないからだ。
「あたしが『代わるか』って聞いても断るんだもの。変なところで頑固なんだから。まあ、アンの〝お願い〟なら聞くだろうから、ね」
――『ね』と言われても。
しかし、調理担当の彼に時間を取らせるわけにはいかない。「わかりました」と一言断ると、パタパタとサンダルを跳ねさせながら裏口へと急いだ。
それにもしかしたら、掃除をしなければならないのも、昨日の物音の主が原因かもしれないのだ。だとしたら気づいておきながら見過ごした自分に責がある。
裏口に向かうと、エクトルさは隣人の方々とモップやらブラシやらを持って忙しそうにしていた。
裏口はいわゆる路地裏に面していて、少しじめっとしている。日もほとんど届かず、風の通りも悪い。よって、臭いがよくこもる。
そのため普段は住人でも滅多に見かけないのだが近所の人たちも掃除に集まるほど、裏口の状態はひどかったらしい。
確かに、扉を開ける前から鼻をつまみたくなるような、いつもよりきつい臭いが漂っていた。
「おはようございます」
「おはよう、アン」
「おはよう、アンちゃん」
てっきりよそ様にまで迷惑をかけてしまっていたのか、なんて思っていたのだが、どうもそういうわけではなさそうだ。
今ではだいぶきれいにされているが、各家の、今もゴミの入ったままの樽やら木箱やらも被害にあっているようだった。蓋が開けられ、中身が飛び散っていたであろう痕跡が、今も壁に残っている。うちだけではなかったのだ。
「代わります」と言ってエクトルさんからモップを受け取る。マルセルさんの言った通り、彼は少し悩んだ素振りを見せはしたが「すまない」と、簡単に代わってくれる。その様子を「えらいねえ、アンちゃんは」など、ご婦人方からやたら猫かわいがりされるのだが、どうにもくすぐったい。
「すみません、昨日の夜、物音がしてたのは気づいていたんですけど……ここまで大ごとになるなんて思ってなくて」
そう頭を下げると、「いや、いいのよ、危ないし」と隣に住むご婦人が一番に応える。
「私は気づかなかったんだけどねえ? うちの亭主だって夜中に気づいてて放置してたんだから。アンちゃんが謝ることじゃないわ」
そう言ってくれたのはロランスの斜め裏の一家の、若い女性だ。
「あの人ったら、まあ神経質なうえに臆病で、野良犬一匹追っ払えないんだから」
「困ったものだわ」と、自らの夫を扱き下ろすと、ご近所さんたちは「うちの旦那も普段はいばりちらしているっていうのに――」なんて同調し始める。
掃除に出てるのはやはりというか女性が多く、エクトルさんは気まずそうに頬を掻いていた。どうにも話の流れ的に居心地が悪いらしく、何か言いたそうではあったが、まあいいかといった様子で「朝食は用意しておくから、終わったら食べるといい」と告げるだけ告げて戻っていった。
自分が店の裏手を掃除している最中も、ご婦人方はしばらく身内話に花を咲かせていたのだが、「それにどうもねえ」と、一人が零すと、内心は同じことでも思っていたのか、皆一様に不可解なことでもあるように眉を潜めた。
少しばかり場の様子が変わったことに気づくと、手は止めないまま、耳だけを傾けた。
「野良猫や野良犬にしては、ちょっと多いのよねえ」
「そう、うちなんて半分くらいゴッソリよ」
と。
「あの、それってどういう?」
一人話が呑み込めないでいると、どうも外に置いてあった生ごみの嵩が、結構な量で減っていたそうだ。
そもそも野良の一匹や二匹、多くて群れでやってきたとしても、一家庭分の生ごみで間に合いそうなものなのに、と。
言われてみれば、それもそうかと納得がいく。
自分が来た時にはすでにある程度の掃除がなされていたが、話を聞くに、今でも痕跡くらいは残っているほど路地はひどい荒らされ方をしていたようだ。
一か所荒らされている程度ならまあわかるが、何個もごみを入れておいた容器やら袋やらが荒らされているとあれば、よっぽどの集団か、あるいは大食いな何かの仕業ということになってしまう。まさか持ち帰ったなんてことはないだろう。
もしくは、グルメだったりしたのだろうか。
残飯を漁っておいてグルメなんてのもおかしな話ではあるのだが、どうもこの世界、というよりもこの時代の食糧事情からだろう、各家庭からでる残飯は〝本当に食べないところ〟だけ、なんてのがほとんどだ。食材は食べられる部分であれば余すところなく利用される。
飽食の世界のように、おいしくないから、今日の料理では使わないから、ちょっと期限が過ぎていたから、なんて理由では捨てることはない。
贅沢できるほどに庶民の生活は甘くないということだ。
だからこそ、なんとか食べられる部分の残ったものを探すため、ごみをほじくり返したりでもしたのだろうか、と。
まあ、いろいろと気になることもあったが、店の手伝いもあるのだ、手早く掃除を済ませると、「それじゃあ、僕はこの辺で」と、皆に見送られながらその場を後にする。
ご近所さんたちはまだ井戸端会議に興じるようだった。