7話
以前の紳士二人が話していたように、近頃はパーヴァペトーの町もにわかに活気づき始めた。
道路工事の事業を始め、先日事件があったという沼沢地付近の開発、そして何より件の鉱山を本格的に炭坑として開き始めたことで、それらの仕事に携わる人々が足を運ぶようになったのだ。
街道整備のような、近場の仕事の従事者はともかく、そこそこな上役らしい人々が開発予定地の視察のために立ち寄ったり、現場仕事の、後のいわゆるブルーワーカーと呼ばれる人々は――彼らは現地の仮設小屋などで寝泊まりしているようだが――たまの休日に羽を伸ばしにきたりと、通りを歩く人々にも随分と見慣れない顔ぶれが増えてきている。
その恩恵を受けてロランスも連日繁盛しているのだが、職を求めてやってくるのはまあ手持ちの少ない労働階級の人間がほとんどだ。
それゆえ安価な料理店の需要が増えたこともあって『貧乏通り』他、メインストリートから外れた細路地には新たに、または民家から改装したりで大衆食堂が新たに何件かできることになった。
ロランスには多数の常連客という一日の長があるわけだが、新たに入ってきた流入者も多い。あぐらをかいているとすぐに抜かれてしまうと、一時のエマール夫妻はえらく気合が入っていたものだ。
もっとも人の増加はいいことばかりではなく、夜更けに出歩く人も増えた。
「せめてこっちにも街灯が増えればねえ」なんて、マルセルさんがぼやいていたように、今までは小さな町らしくすれ違ったのがどこの誰かは見当がつくくらいだったのに比べ、どうも身元が不明で、そしてまあ挙動がやや不審な者も少なくはなくなったのだ。
貧乏通りまでは街灯は設置されておらず、大通りの街灯の明かりも届かない。日が暮れれば通りの民家や商店などから漏れ出る光だけが頼りとなる。建物の間隔が狭いためまだましではあるのだが、寝静まったくらいの夜、または袋小路などはそれはもう暗い。
今のところ何か騒ぎが起きた、治安が悪くなった、なんて話は聞こえてきはしないのだが、パーヴァペトーに来てから親しくなった人のほとんど誰からでも「気を付けるんだぞ?」とよく念を押されたものだ。自分がまだ10歳前後の見てくれをしているからだと、単なる親切心なのだと、そう思いたい。
***
「ごちそうさん」
「ありがとうございましたー」
がやがやと談笑しながら、酒も入って程よく赤らんだ顔をした団体客を見送ると、店内もいよいよ静かになった。
通り側の壁の、大きな格子の上げ下げ窓からは日もとっぷりと暮れた町の様子が覗く。
向かいがもう少し背の低い建物であれば、ちょうど月も望めたかもしれなかった。
仕事帰りだろう、この時間帯になると夕食目的の客が多数来店する。
土まみれ泥まみれの客も多く、客足が途絶えればすぐにモップ掛けを必要とすることになる。訪れる客は気にしない者がほとんどなのだが、特にこの店の主であるエクトルさんが気にするのだ。食事を出すところなのだからと、彼は清潔であることを信条としている。
食事中の客もまだいるため、ほこりが舞わないようテーブルから離れた、主に出入口付近をそそくさと簡易に拭き掃除をしていると、『カランコロン』とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
大きな影が伸び、板張りのフロアにはえらくスラっとしたシルエットが浮かんだ。
掃除の手を止め、来店の挨拶のため扉のほうへと顔を向ける。すると入ってきたのは、なんとも、こう言っては何だがまさに〝場違い〟といった風の男性だった。
その男は純白のイブニングベストの上に黒いテールコート、いわゆる燕尾服を羽織り、手には白手袋とステッキ、果てには頭にはシルクハットなんてものを被っている。これまでの来客とはまさに正反対といえるほど、身にまとう〝夜会服〟には汚れ一つ見当たらない。
ロランスのような大衆食堂にはまるで似合わない格好で、メインストリートの高級レストランにいるほうが断然自然そうな男だった。
流入者が増えてからも幾分経ち、道行く人や訪れる客たちの顔も随分覚えたころだったが、これほどの、過剰に紳士然とした男は一度も見たことがなかった。
しばらく呆けていたが、掃除用具を壁に立てかけその紳士を空いている席へと案内する。
男はカツカツと革靴を鳴らしながら後に続いた。
意図したわけではなかったが、くしくも以前の二人組を連れた席と同じ窓際の席だった。
「ご注文がお決まりになりましたら、およびください」
少しばかり緊張しながらも定例の文句を述べると、紳士はちょび髭を揺らして「ありがとう」と柔らかくはにかんだ。
壮年期も半ば、といった年代かと思われるが、整った顔立ちからかそれもダンディズムをより強調するものとなる。
きっと見るものを、その形こそよりけりだろうが、魅了するような顔であった。
だがどうにも、自分はその上品な笑みは受け入れがたいものに感じた。どこか、ひどい言い方をすればにやけ顔に通ずるものがあるようで、それが顔に出てしまう前に、もやもやとした思いを胸の内に秘めながらカウンターのほうへと引っ込んだ。
「なんだかすごいお客さんがきたねえ」
「そうですね。まさか道にでも迷ったんでしょうか」
それこそまさか、とマルセルさんは小さく手を振って否定した。パーヴァペトーのつくりは単純で、しかもより明るいほうが表通りなのだ、迷いようはほとんどない。
肝が据わっている彼女ですら小声にさせる異常事態である。
「失礼のないように、って言いたいところだけれど、アンなら問題ないだろうさ。しっかり頼むよ」
パンパン、と背中を叩かれてエールをかけられてしまう。どうもあの男性は近寄りがたく、本当は接客は別の人にでもやってもらいたかったのだが、ちらと他の給仕へと目をやるとふるふると首を横に振っていた。
マルセルさんはといえば、いつの間にか厨房のほうへと引っ込んで「あんた、えらい上品なお客さんが来たから、気合入れなよ」とこれまた自分にしたように檄を飛ばしていた。
どうにもそわそわして、紳士のほうを盗み見ると、彼はメニュー表へと視線を落とし、一見真剣そうにそれを眺めていた。
彼が腰掛けるテーブルも椅子も、手入れこそされているが、装飾などまるでなく質素なもので、そして年期のいったものである。しかし優雅に口ひげを弄びながら座る仕草はとても〝様〟になっていて、そこだけ名のある写実派画家の絵画、あるいはまるごと別の世界になってしまっているように場違いだった。
彼の放つ空気にあてられたか、ただでさえ人の減って静かになり始めていた店内はもはやシンと静まり返っていた。
いつもは騒がしい屈強な労働者たちすらもやや窮屈そうにし、食べかけの料理をさも上品につっついている。
しばらくの間そんな謹厳な空気が流れていたかと思うと、注文が決まったのか、呼び鈴もないため男は「よろしいかな」と手袋をはめた手をあげてみせた。
どうも、それすらも芝居がかったようにしか見えず、やはり心中は逆なでされたようにざわついた。彼がわざわざこちらを向いているものだから、余計に気に障る。
同僚の給仕さん達に「ほら」と小声で促されなければ、ともすれば無視してしまいたいくらいであった。
「お決まりになられましたでしょうか」
メモと鉛筆を手に取り、慇懃にそう伺うと、彼はそれを「いや」と否定する。
頭の上に疑問符を浮かべていると彼はこう切り出した。
「少し伺いたいことがあってね」
と。
咄嗟に思い浮かんだのは、メニューのことだった。身なりからして、庶民の料理は普段口にしないのかもしれない。そう推察したわけだ。ならばなぜ来たのだと思わないこともないが、まさか口にするわけにもいくまい。
「何かご不明な点でもございましたでしょうか」
と、これまで使われることのなかった文句を、記憶を頼りにできるだけ丁寧になるよう口にする。
そんな様子を、彼はとても満足気な笑みを浮かべながら眺めていたのだが、
「少し、君に興味があってね」
と、まったくもって予想外なことを口走った。
「は」
驚いて、あるいは呆れ果てて二の句を継げずにいると、「少し相手をしてくれないかな」と向かいの席に座るように、その長い指で促した。
どうすれば、とカウンターの方へと目をやると、困ったような顔をしたマルセルさんが嫌でなければ、と目くばせをしてくる。
仕方なく、本当は嫌で嫌で仕方ないのだが、無下にするわけにもいかず、言われたよう席につく。
引いた椅子の背もたれが、これほど重く感じたことはない。
「それで、どういったご用件でしょうか」
と、暗にさっさと済ませろとばかりに切り出すと、彼は何が楽しいのか決して笑みを崩さずに、綺麗に手入れのされたあごを撫でた。
「君は、ヌティスのほうから来たのかな?」
「ヌティス?」
彼が口にしたのは、自分の知らない、おそらく地名だろうものだった。
「ヌティス連峰。ランステッドの牧草地の、豊かな山々なことさ。君は、そちらのほうから来たのではないかな、と思ってね」
〝ランステッド〟の名を聞いた瞬間、急に鷲掴みにされたように、心臓が引き締まった。
ランステッドは、ジョフロワさん一家と出会った地である。
ならば、ヌティスは、自分の目覚めた、そして〝入ってはいけなかった〟あの山のことだと、当然のごとく結びつけられる。
しかしわからないのが、なぜこいつが、そのことを知っているのかということだ。
相手に対する不信感がますます募っていく。
彼ら一家から話を聞いたのか?
たしかに、変装なんてしていないし、この町でも名前は彼らに名乗ったのと同じ『アンジュラ』で通している。だが、あの山から来た自分のことをまるで忌避するかのような、少しの間といえど共に過ごしていたことすら好ましくないとでも言い出しそうな雰囲気だったジョフロワさんとの別れを思い出すと、それは違うのではないか、と思われる。
ならばもしかして、下山するところを見られていたのか? だが、あの時あの場にはまったく人の気配なんてしなかった。ほんの一週間未満とはいえ、山中で神経を研ぎ澄ませていた身としては、そして人の痕跡を心底から欲していた身としては、顔も把握できるほどそばにいた人の気配を見逃すとは思えなかったのだが。
なんとも希望的観測交じり、後者に至っては自身の感覚に対する過剰評価といって間違いないようなもののはずなのに、この時はそれを疑うことすらなかった。
ひとえに目の前の男性への不信感からだろう。
彼の話す一言一言、いや、一つの動作すら否定したくなる、よくわからない不快感が胸の中に黒い雲を作り出すのだ。
「たしかに、ランステッドのほうからは来ましたけど」
エマール夫妻に、もっと曖昧に事情を説明するべきだったと今更ながらに後悔した。住み込みで働かせてくれと頼んだ際、つい自分がどこから来たのかを口走ってしまったのだ。
もしここで『違う』と答えれば矛盾が生まれてしまうことになる。それはそれでややこしいことにつながるかもしれず、濁すしかなかった。
ヌティスというらしい、かの山のことには触れないよう、あたりさわりない言葉を選んでいくよう心がけなければならない。
パーヴァペトーの人たちが、あの山の謂れを知っているかどうかはわからない。しかしまあ、人の口に戸は立てられない。もしもあの辺り出身の人がいたとしたら、小さな町だ、また居場所を失うことになるかもしれない。
努めて冷静に、こいつとの会話をやり過ごさなければならなくなった。
もっとも、どれだけ意気込んだところで、こいつが周りにあることないことを言いふらせば、そこで終わってしまうのかもしれないが。
身なりのいい、おそらくは貴族や大商家の類だろうこの男と、身元も定かではないただの食堂の給仕。信用の差は比べるまでもない。
気持ち睨む視線を冷たいものとして、内心を悟られぬよう、悟らせぬよう、そして余計なことを言わせぬよう、この男への興味をまるでなくすよう心掛ける。下手に食って掛かると、この男はそれを手に取って楽しむのではないかと、そう確信めいた予感がするのだ。
しかし、そんな内面も見透かすかのように彼はクスクスと、いや、ニヤニヤとした笑いを崩すどころかますます深めていく。
「そう畏まらなくて、大丈夫さ。何も君が隠したいと思っていることを暴露しようなんて、パンの一欠けほども思ってはいないからね」
ならばなんでそんな話題の切り出し方をしたのかと、胸に広がった黒い雲がざわめき始める。
……できるだけ無関心に、できるだけ表情を変えずに。
「私はただ、ちょっと確かめたいことがあっただけさ。まあ、それももう済んだことなんだけれども」
「やはり君は、彼女の息子のようだ」
彼はさらりとそんなことを言ってのけた。
「……は?」
さすがに、こうも変化球が飛んでくると頭が真っ白になるらしい。
目の前の男に対する不信感も、敵愾心も、一瞬風に吹かれたろうそくのように揺らめいた。
気味の悪い、粘着質な笑みを前にそれもまた静かに勢いを取り戻していったが。
「……母、ですか」
「そう。私は君のご母堂や、まあ親類のような方々と見知った仲でね、ちょっとだけ気になったのさ」
「……」
何を言っているのだ、この男は。
自分の、母だと?
そんなものがいたなんて考えたこともなかった。
いや、身体がこの世にある以上、それこそ神が無から作り出したわけでもない以上、必ず生みの親はいるはずではあるのだが。
しかしゴミの山の中で目覚めた身としては、何よりこの世界の外から来たのだという自覚がある以上そんなものがいたということを、素直に受け止めることができない。
――もしかしたら、この体の母親のことを言っているのだろうか。
この身は10やそこらの見た目をしている。
しかし目覚めたのは半年もいかないほどの、ほんの少し前のこと。これまでを生きてきていた、自分ではない〝誰か〟がこの世界で歩んできていたことがあったとしてもおかしくない。いや、そちらのほうが自然なのだ。
正直、その可能性は何度も考えたことがあった。誰かの体を使っている。
借り物の体。
そう、後ろ暗さをもったまま、これまでを過ごしてきた。そのたびに、あのごみ溜めに埋まっていたことを思い出す。
捨てられてしまった、死んでしまった体に宿ったのだ、そう今のこの身とこの心の在り方を正当化して生きてきた。
目の前の男は、今もその仮面のように温かみのない笑みを崩すことはない。
細められた目が映しているのが一体誰なのか、一体何なのかがまるでわからない。
「サー、もしやあなたの勘違い、ということはありませんか? あなたのような高貴な方と、一給仕でしかない自分の母と縁があるとは思えないのですが」
「いいや、間違いないよ。しかし、まあ君は私のことをわからないようだ。……彼女は慈しみを持ってこそいるが、教育熱心とはとても思えないからね、仕方ないのかもしれない」
慈しみを持っている人があんなところに息子を捨てるわけがないだろう。
男は愉快気にあごを撫で続ける。
しかし、それもはたと止めると、壁に立てかけていたステッキを手に取った。
「ふむ。目的も果たしたことだし、私は退散するとしようかな。君の行く末を、とても楽しみにしているよ……いや、食事もいただいていこうか。ここは料理屋だったね」
上げかけていた腰を、再び音もなく椅子へと沈めた。
そのまま去ってしまえ、と軽く睨み付けるが彼はそんなものどこ吹く風、であった。
形だけ、とばかりに軽食を頼み、瞬く間に食べ終えると――きっと味わうことすらなかったのだろう――男はいよいよ去っていった。
おつりはいらないと多めに渡された勘定も投げ捨ててしまいたい衝動に駆られる。
受け取ったコインも紙幣も、ついさっきまで彼の手に握られていたものだというのに、ひどく冷たく感じた。
気苦労ばかりが残った夜だった。