6話
「いらっしゃいませー」
カランコロン、と調子のいい音を立てて板チョコレートみたいな形をしたドアが開かれる。
くたびれた軽外套をまとったおじさん二人がご来店だ。
「席は空いてるかい?」
芝居がかった仕草でハットをくいっと持ち上げるが、無精に放置された青髭面が覗いてしまっては台無しである。
「空いてますよ、こちらへどうぞ」
クスクスと笑いがこぼれてしまっても怒鳴られるようなことはない。
「飽きないな、お前も」
青髭の彼の連れが心底呆れたようにため息をついた。この二人は、自分が、〝僕〟が現在働かせてもらっている大衆食堂『ロランス』の常連客であった。
***
ロランスは小さな宿場町『パーヴァペトー』にある中で一番大きな大衆食堂だ。
……オラースさんの言いつけに従って、小さな村を一つ越え二つ超えて、ここパーヴァペトーへとたどり着いた。幸いコレットさんに見繕ってもらった清潔な服を纏っていたこともあって、「小さな子供がなんで一人で」なんて怪訝な顔をされこそすれ、執拗に邪見に扱われたりはしなかった。
途中、行商人らしい男性に馬車に乗り合わさせてもらったこともありがたかった。彼はどうにも自分をおせっかいな人なのだと自嘲したが、そのおせっかいのおかげで、大きく救われてしまった。
本当に、出会う人皆親切で、感謝してもしきれない。雇ってくれたロランスの主人だってそうだし、ジョフ爺だって……もっと慎重に行動を、言動に気を付けていればあんな別れ方をしなくて済んだはずなのだ。
いずれにせよ、現在はロランスの主人、エマール夫妻に住み込みで働かせてもらっている。旦那さんのエクトルさんは細身でひょろっとしている一方、奥さんのマルセルさんは恰幅の良い、いわゆる鬼嫁と称される人種で、エクトルさんが尻に敷かれているのをよく目にする。
二人には子供がいないみたいで、我が子のように可愛がってくれるのだが、それが嬉しいようで、いろいろと思うところもあったりする。
そんな二人が経営するビストロ店、ロランスは、パーヴァペトーのメインストリートから一本二本外れた通称『貧乏通り』に店舗を構えていた。
石畳に石造り、まれに木造の建築も混じることがあるが、少し色味に欠ける細い通りである。5人も横に並んで歩けば道を塞いでしまう程の道幅だが、車なんてないこのご時世ではそれほど困ることでもない。
自動車の代わりに主流である馬車の類はもっぱら大通りを通るばかりで、やはり裏道に入るようなこともなかった。
現代日本の雑多というか、多種多様というか、統一感のない町並みに慣れた身としては、灰から黄褐色で、不揃いな石組みの家が並ぶ様というのもそれはそれで趣があっていいものだと思うのだが。
また、貧乏通りと称されはするが、老舗の店が多く、地元の人はだいたいこちらで必需品を買い揃えている。
たとえ質素な見た目とは言え、人の往来も多く活気に満ち溢れていて、なかなか気に入っている。
一方でパーヴァペトーの表通りは基本レンガで統一され、赤レンガと濃青色の天然スレートの屋根が美しい高級志向な町並みだ。
また、オイルランプの街灯が立ち並ぶストリートは夜でも暗闇に閉ざされることはない。
日が暮れる頃になると長い竿を持った点灯夫が火を入れて歩くのがみられるだろう。
並ぶ建物も住居というよりは、外からの客向けの少し高級路線な料理店やら専門店などで、たまに訪れるリッチな方々がいくらかお金を落としていくことで町の潤いに貢献している。
この町自体には名産も特産もなく、観光街としても向いていない。しかし、パーヴァペトーからさらに足を延ばすと鉱山の町ウェルマイン、農園で有名なバルトー、そして牧草地ランステッドなどへと通じ、それらの足掛けとして足を運んでくる人が多いのだ。
パーヴァペトーが宿場町として成り立っている所以である。町の人はみな田舎だなんだと自虐するが、訪れる人はそこまで少なくはない。ただ滞在期間が短いのが難点だが。
なにより、パーヴァペトーは終点とはいえ鉄道が通る町だ。
そう、鉄道、蒸気機関車である。
どうもこの世界ではすでに蒸気機関は発明され、実用レベルにまでの洗練済み。いわゆる産業革命が起こった後の文明水準らしかった。
蒸気機関車のほか蒸気船も運航しているらしく、お金がたまったらちょっと水辺の街に旅行に行ってみるのもいいかもしれない。
印刷技術の機械化も進んでいるようで、週に一度は新聞を詰め込んだ大きな箱を抱えて、配達人が鉄道に乗って新聞を売りに来る。お客さんの読んでいたそれを見せてもらうと、活版技術も進んでいるのだろう、ズレなんてほとんどない、細かい文字がびっしりと並んでいた。使われているのは見慣れたアルファベットであったが、残念ながらほとんど読めはしなかったのだが。
残念といば、電気の普及もまだだ。エジソンやテスラのような発明家の登場が待たれるばかりである。
この世界で目が覚めてからは、もっと低い文化水準なのだろうかと想像していたのだが、思った以上に発展している。
この町も、程よく田舎で程よく都会的で、居心地がよい。
最近、石炭の掘れる炭鉱が見つかったとかなんとかで、もしかしたらここも炭鉱の町になるかもしれないと、常連の客の一人が話しているが、あまり変わってほしくないなあと考えていたりもする。
もっとも、たしかつい最近奥さんに逃げられたばかりのダミアンという男の与太話が出所のため、どれだけ信ぴょう性があるか疑わしいところだったが。
ダミアンの与太話はともかく、現状居心地の良いこの町に根を張ろうかと思っている。
エマール夫妻のおかげでひとまずの職と住まいを得ることもできたわけだし、下手な失言さえなければ追い出されるようなこともあるまい。
ただまあ、ちょっとした悩み事として、夫妻からたまに『養子に興味はないか』といった雰囲気を醸し出されたり、ロランス内での立場がただの給仕ではなく〝看板娘〟扱いされてしまっていることがあったりする。
後者は、まあこちらの問題もあっただろう。
他人に受け入れられようと、少しばかりおべっかを使ったし、そもそも容姿がいくらか優れていたせいもある。借り物の体といった意識が強く、今ではあまり喜べないのだが、そのおかげで助かっていることも多い以上複雑な気分である。
マルセルさんや顔を覚えてもらった常連さんなんかには「アンのおかげで客が増えたね」なんてからかわれることもしばしばだ。
今はまだ性差が出る前の肉体年齢ゆえ、幾分納得できるが、成長期が来たらどうしろというのだろうか。女装はさすがにしたくないし、させないだろう、とは思うのだが。
***
「こちらでお待ちください。ご注文がお決まりでしたら、どうぞ」
一礼をして席を離れると、
「おいおい窓際に案内されちまったぜ」
「すいてるからな」
と、背後で凸凹な会話が繰り広げられているのを耳にした。
ロランスは土地ばかりは余っているとばかりに、店内は相席向けの6人掛け長机が8席、2~4人向けの丸テーブルが窓際に4席と、2人で操業しているには少し多いんじゃないかというくらいには広く、収客力がある。場合によっては店の奥から追加でテーブルを出すこともあるとかないとか。
そんな中二人を通したのはこのうち丸テーブルのほうである。
高級志向なレストランとなどでは見てくれのいいお客を窓際に案内するらしい。青髭さんが話のタネにしているのは、まあそういう意味だ。
しかしロランスは別に集客には困っていないし、更に言えば訪れるのはほとんどが地元の人間。今更見栄えなんか気にしない。時間帯によってはとにかく混むので回転率や席効率のほうが重視される。
今は昼前の混む時間帯より前ということもあって、ゆっくりできそうな席へと案内しただけである。
そもそも自分が給仕として働く以前はやはり大衆食堂だからか、席案内なんて一切行っていなかったらしい。勝手に入って勝手に空いている席を見つけて勝手に座る。
まあ、普通といえば普通か。
自分の接客も過剰だとよく言われる。気前のいいお客さんはチップだと言ってポケットにコインを突っ込んでくるのだが、セクハラである。まれに外から来たお客さんがまねをして、ズボンのなかにあったブツに驚いた、なんてこともあった。
セクハラである。
慣れとはやはり怖いもので、これくらいの接客が普通なのだと心の奥底に根付いていた。
こちらもまあ、「まるで高級店に入ったようだ」と喜ばれるので構わないのだが「これでもっとおかみさんが別嬪だったらなあ」や、時折見せを手伝って貰う、いわゆるアルバイトの方々に「見習ったほうがいいんじゃないか?」なんてことをのたまってマルセルさん達にはたかれるのも、働き始めたころはよく見られた光景だった。
笑えばいいのか、自重したほうがよかったのか、ナイーブだった当時は生真面目に悩んだものだった。
「注文いいかい」
青髭さんの連れの方が「こっちだ」と手を軽く上げる。落ち着いた雰囲気のおかげでよっぽど紳士然としている。
「はーい」
紙切れと鉛筆に注文された品をメモ書きし、カウンターのマルセルさんのもとへと持っていく。ここで働き始めて早ひと月ふた月立ったのだが、注文をそらで覚えるのはいまだに苦手だった。そのため最近安価で手に入るようになったというメモ帳が手放せない。
「なんだい、昼間っから酒かい」
呆れたようなマルセルさんの呟きも、声量があれば客席まで届くというものだ。
「いいんだよ、忙しくなるのは明日からなんだから!」
へっへっへ、と青髭の彼がにやけた面になる。
「ようやくまともな仕事でも見つかったのかい」
奥の調理場にいるエクトルさんに注文票を渡しながらだというのに、声を張らなくても会話が成り立つのはさすがだと思う。
「街道をバルトーのほうにも伸ばすって話でな、その道路工事の仕事さ!」
「今更あっちに伸ばすのかい。畑と果樹園しかないじゃないか」
奥から戻ってきた彼女は、カウンターに肘を預ける。調理を手伝うほど、まだ忙しくない。
「それが、鉱山が見つかったってのが本当だったらしくてね、規模によっては線路も引くような話も出ているようだ」
「そうそう、そんで俺ら暇人に仕事が回ってきたってわけさ。まあ力仕事だけどよ、あんな汚くてくせぇ都市のほうでせせこましく働くよりよっぽどましだ。ま、今日は力仕事の前の景気づけってやつさ」
どこから聞きつけてきたのか、ダミアンの与太話はどうもでたらめではなかったようだ。
「そのうちここも賑やかになるぞ、なんせバルトーはここよりなんもないからな! 宿だってさっぱりだろう」
「まあ、賑やかになるのは、歓迎なんだけどねえ」
何か懸念でもあるのか、はあ、とため息をつきながら眉根を寄せた。
「なにか心配事でもあるんですか?」
そう尋ねると、彼女はため息とともに心中を吐露する。
「人が増えるってのは、町が活気づくからいいことなんだけどねえ。その分変なやつも増えそうで、ちょっとね」
と。
「そういえば、最近も暴徒鎮圧のために憲兵隊と鉄道警備隊が動いたとかなんとか、そんな話もあったな。たしか、少し手前の沼沢地村のあたりだったか」
補足すると、この国ではどうも地方の治安維持は警官ではなく憲兵が担当するらしい。
「そうそうそれそれ。都市のほうから来たお客さん、それとここの警備隊勤めのコンスタンから聞いたんだけど、この前詳しく聞いちゃったのよ。結構死んだ人も多くて、お墓も結構立ったらしいのよねえ。まったく何の不満があったのやら」
そういって、マルセルさんはやだやだ、と首を振った。
「あれからコンスタンは警備隊の仕事もやめちゃったっていうしねえ。どんな怖い目にあったのやら」
「臆病だっただけだろう、まったく、折角のエリートを、もったいねえったりゃありゃしねえ」
「何が不満ってそりゃあ、周りが発展していく中で取り残されちゃあ腹も立つだろうさ。なんもお恵みもないのに、騒音と煤をまき散らされるばっかりだなんてそりゃあひどいことだろう。ここだってたまたま線路がひかれて駅もできたけどよう、もしウェルマインあたりまで素通りだったらって考えると、文句も浮かんでくるんじゃねえか? 俺ぁ嫌だね。もしそうなら、ここも昔の古臭い町のまんまだったろうさ。紳士の俺には似合わないまんまのな」
「そんなもんかねえ」
いまだ釈然としないといった風な彼女に「はい、注文のお酒」と、グラスとリキュールの酒瓶の乗ったトレーを手渡される。
素面のうちからやたら饒舌な客のもとへ食前酒を運ぶと、「ほらよ、チップさ」と、いつものようにコインをポケットへねじ込まれた。
普段通りのこのやり取りに愛想笑いを浮かべていると「連れが申し訳ない」と、これまた数枚のコインを握らされる。
貯えが増えるのは嬉しいのだが、もう少しどうにかならないものか。
いくら慣れても、そう思わずにはいられなかった。