5話
「ああ、よかった。やっぱりピッタリよ。合うと思ったのよねえ」
「ズボンのほうは、もうちょっと長くてもいいんですけど……」
「いいのよ、これくらいで。まだ暖かいからねえ。昼になったらすーぐ蒸れちゃうわよ」
質素な白シャツと、七分程の丈のズボン。
どちらもジョフロワさんの娘さん、コレットさんが用意してくれたものだ。
コレットさんは30台半ばほどで、セミロングの赤髪を後ろでまとめており、オラースさんに比べると随分若く見えた。
また、コレットさんがジョフロワさんの実の娘で、オラースさんは入り婿だったようだ。
ジョフロワさんに比べて物腰が柔らかく、紳士的だった理由がなんとなく分かった気がする。
今はご夫妻の部屋と思しき部屋で、お着換え中である。
ジョフロワさん一家は自身の奥さんと、娘夫婦との二世帯家族らしかった。
家で二人の帰りを待っていたコレットさんも、ジョフロワさんの奥さんであるオリーヴさんも、自身の身の上話を聞くや否や「まあまあ大変だったねえ」と温かく迎え入れてくれた。オラースさんは羊たちを羊小屋へ、オリーヴさんは夕飯の支度へ。ジョフロワさんは娘のコレットさんへ自分のことを任せると、自身は畜舎のほうへ行ってしまった。どうやらまだやることが残っていたらしい。
「息子のおさがりだけど、我慢してね」
「いえ、服を貸していただけるだけでも感謝しきれないくらいです」
まともな着衣を用意してもらって文句など出るはずがない。
何せ今まで古着どころかもはや襤褸をまとっていたわけだし、下に至っては裸だったのだ。
靴も、ジョフロワさんやオラースさんが履いていたような頑丈そうなワークブーツではないが、革紐でかかとや足首まで止めるタイプの履き心地のいいサンダルを用意してもらってしまった。
正直出会ったばかりの人にこんなに親切にされるとは思っておらず、むしろ受け入れてもらえなければどうしよう、なんて考えていたのだ、遠慮と申し訳なさで頭がいっぱいである。
彼女はそんな内心を知ってか知らずか、「あらまあ」やらなにやら頻りに感心した風にしながらも、箪笥を未だにあさり続けている。
子供服を取り出してはどこか懐かし気な表情を浮かべ、「これもまだ着れそうね」とベッドの上に積み重ねていく。
皆似たような簡素な衣類ばかりだが、5着を超えたあたりでその手もようやくとまった。
台所からの方から香ってくるおいしそうな匂いに思わず腹がきゅるきゅると鳴ったのがその合図だった。恥ずかしさからそっぽを向いてしまい、クスクスと小さく笑うのだけを耳にした。
「さ、そろそろご飯の準備もできるから、もうちょっとだけ待っててね」
と、彼女は自分の手を取って部屋を後にしようとする。まさか手を引かれるとは思わず驚いていたが、そんな自分の様子が面白かったのか、「遠慮なんかしなくていいのよ?」と優しい手つきで頭を撫でられた。ジョフロワさんのごつごつした手と違って、力強くも優しい手のひらだった。
「何から何まで、本当にすみません」
さっきからこんなことばっかりだ、と恥ずかしさからつい俯いてしまう。
見知らぬ土地に独りぼっちで投げ出されたのは、実は結構堪えていたらしい。人の温かさが身に染みて、演技をしなくても子供っぽさが出てきてしまう。
「もう、いいのよ? そんなに畏まらなくて。ほんとお父さんにも見習わせたいぐらいだわ」
うふふ、と、彼女はこれ見よがしにお上品に笑って見せた。
「おい、聞こえてるぞぉ」
ややこもった声が壁の向こうから聞こえてくる。
いつの間にか畜舎のほうから帰ってきていたらしかった。
コレットさんと顔を見合わせて、思わず小さく噴き出してしまった。
「おお、随分ましな格好になったじゃないか」
居間につくと、テーブルにはすでにジョフロワさんとオラースさんが座っていた。
オリーヴさんはまだ台所の奥で夕食の準備中のようで、姿が見えない。
「さっきまではやたら小汚かったからなあ」と朗らかに笑うかたわら、オラースさんは何も言わず、ただ緩やかに相好を崩すのみだった。
「本当、残しておいてよかったわ」
コレットさんがしみじみとした口調で零した。その一言で、和やかだった空気が少しだけしんみりとしたものに変化した。
憂い気に微笑む彼女の横顔と、神妙な面持ちで目を細める二人という、なんとも言えない空気に思わず萎縮してしまう。
こういう空気は、苦手だ。ピリピリしているわけでもないが、なんとなくいたたまれない気持ちになって、しかしなにも行動を起こせない。
今自分が身に着けているのは、彼女の息子さんのおさがりの服である。きっとオラースさんも、そのことを思ってあんな顔をしているのだろう。
薄々察してはいたのだが、おそらくはそういうことなのかもしれない。
息子さんの姿は、今の今まで一度も見ていない。
外ももう暗い。
外出してまだ帰ってきていない、なんてわけではないだろう。遠くに、例えば勉強のために地元を離れている、などであればいいのだが。
もしかしたら彼女たちは、自分のことを自らの子供と、あるいは孫と重ねてみていたのかもしれない。
天井から吊るされた、橙色に揺らめくランプの明かりがどうにも胸を切なくさせた。
「なに辛気臭い顔をしてるのさ、ほら、ごはんもできたよ」
台所から大きな鍋をもってオリーヴさんがやってくることで、ようやくしんみりした空気から解放された。
鍋からは白い湯気が立ち上り、鼻腔をくすぐるどこか懐かしい香りに、空気を読んでいた腹の虫もまた騒ぎ出してしまった。
「ほら、コレット、あなたも手伝いなさいな。待ちきれない子がいるみたいよ」と、ちょっぴり恥ずかしい失敗も、暖かな団欒へと様変わりさせる一助となった。
盛り付けや準備の手伝いくらいなら、と思っていたのだが、「座って待っていなさい」とやんわりといなされ、促されるがままにテーブルの一席に腰を掛けていた。
クッションなどない質素な木の椅子だったが、座り心地は少し硬いなと思うくらいで野ざらしの地面と比べるまでもない。
一方でテーブルは使い古された、しかししっかりとした四脚の四角机で、浅葱色のテーブルクロスがひかれている。ちょうど5、6人で囲めそうな大きさだ。
「遠慮なんかしないで、腹いっぱい食えよ? どうもアン坊は真面目が過ぎるようだからな」
「そんなことないですよ」
「ほらまた、ガキらしくない」
「……そんなことないよ」
ジョフロワさんはそれでいいんだ、とばかりに鷹揚と頷く。
「子供はたらふく食うことも仕事のうちだからな。母ちゃんの飯はうまいぞ」
「……楽しみにしてる」
なんとなく、そっぽを向いてしまった。
「はいはい、お待たせ」と、コレットさんが料理の乗った器を運んでくる。
ほどなくして、食卓にはいくつかの料理が並んだ。
主食のパンがバスケットに山盛りに積まれ、大きな木の器に薄切りにされた塩漬け肉、ベーコンが。
肉と野菜のスープ――肉は羊肉らしい――はオリーヴさんが全員分をよそってくれた。
スープ入りの木のボウルに木のスプーンを渡され、またフォークの代わりにナイフが配られる。
陶器の食器などは使っていないようだ。
平成の世の食事情を知っている身としては、食卓に並ぶ料理の数々は〝豪勢〟とはとても呼べない。しかし、温かい、白湯気が立っているというだけでそれはもう魅力的に映った。
初めて食べるまともな食事、とさえ思えたくらいだ。
『いただきます』なんて挨拶はなく、代わりにジョフロワさんが真摯な表情で神へのお祈りを口にする。
自分も見よう見まねで、と思ったのだが、オラースさんたちは苦笑するばかりでお祈りを始める気配がない。
不思議に思って首をかしげていると、
「何気取ってるのさ、いつもそんなことしないくせに」とオリーヴさんが指摘する。
「うるさい見栄ぐらいはらせろ」と、ところどころ詰まりながらも彼は最後までお祈りの口上を述べ終えた。
日本のそれと比べると随分長い食前のあいさつを終えると、ようやく食事となった。
ちょっとばかりうずうずとしていたのは見え見えだったようで、「ほら、もういいわよ」と隣に座るコレットさんにからかわれる。
本日何度目かの気恥ずかしさで顔がほてってしまった。
食事中は黙々と、そして掻き込むように食べているのは自分とジョフロワさんくらいのもので、オラースさんたちは談笑しながら和やかに食を進めていた。
行儀が悪いとはわかってはいても、久々のまともな食事を前に止まることなどできず、そんなことはお構いなしとばかりに口に詰め込み続けた。
厚切りのライ麦のパンとベーコンを交互に、まさにがっつくように掻き込む。飲み下すより早くまた口に入れる。
味付けなんてないちょっと固めのパン、しかし塩っ辛いベーコンとちょうどよく合って、食べる手が止まらなかった。
見かねたコレットさんがパンにベーコンを乗せたものを手渡してくれた。見ると皆、そのまま食べるなんてことはせずパンに乗せて食べているようだった。
無知をごまかすように、恥ずかしさは温かいスープで飲み込んだ。
夜になって若干冷え始めた体にほっと染み込んだ。顔が熱いのはきっとスープのせいだろう。
スープは塩と胡椒であっさりした味付けで、柔らかくなるまで煮込まれた野菜の甘さが際立っている。大きなカブを口の中でハフハフと転がしていると、「がっつかないの」と、木製コップに入った水を渡された。
一方で大人の面々が飲んでいるのはおそらくワインだろう。いつの間にか子供の鼻にはちょっときついアルコール臭が漂っていた。
酒も入ったため、彼らのよく日に焼けた肌にほんのりと赤みがさしていく。
酔っぱらってしまえばもう仕方がない。
食卓は段々と賑やかなものになっていった。
「うまいか、アン坊」
コップをタン、と小気味よくテーブルに置くと、ジョフロワさんは酒焼けした声でそう尋ねてきた。
「うまいっ」
口に詰め込んだものを飲み込むのもそこそこに、ほとんど間を置かずに答えると、彼は「はっはっは」と大仰にのけぞって笑って見せた。
マナーもまるでなってないようにもちゃもちゃと両の頬に詰め込んでいる様を、深く皺を刻んだ顔を綻ばせて、何が楽しいのかずっと眺めている。なんとなく気恥ずかしくて、パンをぐっと口に詰め込んだ。
「たらふく食えよ、こんなうまい肉は都市の方じゃ滅多に食べられないんだからな」
「それは随分昔のことですよ、今じゃちょっと高いくらいですって」
「ばっかやろう、うちの羊はそこいらのよりよっぽど美味いわっ」
「ああ、そういう意味ですか」と、オラースさんはすごすごと引き下がる。どちらもいよいよ酒が回っているのか、顔が真っ赤である。
「それにしてもよく食べるねえ」
酔っ払いたちのことなど知らんと、オリーヴさんが感心したように呟いた。
そりゃあもう、今まで果物だけで飢えを凌いでましたから。
「元気の証だ、こんだけ食えりゃその細っこい体もすぐ大きくなるさ」
ジョフロワさんは丸太のように逞しい腕で力こぶを作って見せた。日に焼けたその肌はとても健康そうだ。
だが、それに異を唱えるのはコレットさんだ。
「駄目よ、アンはせっかくかわいい顔してるんだから、こう、スラっとした体に育ってくれないと」
「んむっ」
頬を両手で挟まれて、縦に引き伸ばすように引っ張られる。口に入れたままのパンがはみ出そうになってしまう。
「馬鹿野郎、昔のこいつみたいに育ってみろ、すぐ死んじまうぞ」
バシバシと、隣に座るオラースの背中をたたく。
「ひどいですよ、お義父さん」
むせっかえりながら、オラースさんは心外だとばかりに訴えるが、
「ああ、あなたも昔はもっと格好よかったのにねえ。いつの間にか熊みたいになっちゃって」
と、援護どころか追い打ちを掛けられていた。
「まあ、元気に育ってくれればなんだっていいんじゃないかい」
オリーヴさんだけが、彼らのやり取りを外から愉快げに眺めていた。
そして、
「人さらいから逃げてきたって聞いたけど、今までご飯はどうしてたんだい? ちゃんと食べていたの?」
オリーヴさんが、気づかわし気にそう尋ねてくる。
まあ、聞かれるだろうなとは思っていた。
本当のことを言えば『目が覚めたら知らない土地、知らない世界で、それもごみ溜めの中で目が覚めたなんです』なのだが、こんなことを馬鹿正直に答えるわけにはいかない。
ただ、食糧事情ばかりは隠すほどのことでもない。
大変といえば大変だったが、なんだかんだで滅茶苦茶に飢えた、ということはなかった。
最悪2、3日食事を抜いたところで何とかなるのではとさえ思っていた。気の緩みでリンゴに手を出していなければ、実際にそうなっていたかもしれない。
「大きなリンゴが成っていたので、それで」
もきゅもきゅと、口に詰め込んでいたものを飲み下してから正直にそう答える。
そう答えてしまった。
「――そのリンゴの木は、どこで見つけたんだ」
これまで賑やかだった食卓が、急にピンと張り詰めたのを感じた。
「え、えっと」
何かやらかしてしまっただろうか。
突然のことについどもってしまう。
リンゴなんて食べ物はない、というわけではなさそうではあるが。雰囲気の変化に戸惑って、原因を探ろうにも頭がまわらない。
「この辺には、リンゴを育ててる奴なんていなかったはずだが」
答えに窮する自分を見てか、ジョフロワさんはそう続ける。
「ほ、ほら。バルトーの方かもしれない。あっちならここよりも涼しいはずだし」
「馬鹿を言うな、どんだけ距離があると思ってやがる」
どうにも焦ったような風のオリーヴさんがフォローをいれるも、一蹴されてしまう。返す言葉が見つからなかったのか、彼女は沈痛な面持ちで目を伏せた。
「……山だろう」
「えっと……」
鋭く引き絞られた眦は、冷酷な猛禽のように恐ろしい。深く刻まれた皺は、先ほどとは温度を一変させている。
「――出ていけ」
「えっ」
なんと言った?
出ていけ?
どうして?
彼は、静かに、しかし明確な威圧感を持ちながら立ち上がった。
隣に座るオラースさんが宥めようとしているが、まるで意に介さない。
それどころか、オラースさんの顔にすら、険が寄っていた。
それを見て、ようやく取り返しのつかない何かをしてしまったのだと悟った。
席を立ち、ずかずかと寄ってくるジョフロワさんから庇うように、コレットさんがいまだ固まったままの小さな体を抱き寄せる。
「やめてよお父さん! アンはどこもおかしくないじゃない!」
耳元で大きな声を出され、頭に強く響いた。
だが、そんな程度ではフリーズした思考は動き出すには至らず、弁解の言葉なんて何も出てこない。
きっと、きっとあの山に入ってはいけなかったんだ。それだけはなんとなくわかってしまった。
大股で歩く彼の足が、部屋の隅に置いてあった汚い布袋に引っかかる。
もともと破けていた穴から、黒々とした果実がごろりと転がり出た。
床に転がるそれらは、オレンジ色の温かい光を受けてなお、毒々しさを失わない。
それを忌々し気な目で睨み付けると、
「ダメだ」
と。
ただ一言、無情な言葉を告げた。
鬼気迫る表情の、彼の大きな手で腕を掴まれた。
痛い。痛かった。
それでも痛いと声を上げることすらできない。
細い腕が折れてしまいそうなほど力が込められ、ミシミシと痛みさえ訴えているというのに、あまりにもな豹変ぶりに衝撃を受けてしまった体はいまだにピクリとも動いてくれない。
ただただ目をぎゅっとつぶり、抱きしめられているコレットさんの体に、擦り付けるように身を寄せるしかできない。
なんで、どうして。
頭の中はそればかりがぐるぐるとしている。
……父と娘ではどうあがいても力の差は歴然で、とうとう彼女の腕の中から引きずり離されてしまう。
「っ!!」
無理やり立たせられ、足がもつれて転びそうになる。だが転ぶことすらも許されず、玄関の方へと引きづられていった。
離して、その一言すらも口をついて出ない。
「なんでよ、どこもっどこもおかしくなってなんてっ……!」
ただただ混乱した頭で、泣き崩れる彼女をオリーヴさんが宥めているところを見ているしかできなかった。
***
家の外まで引っ立てられ、放るように手を離された。
「いたっ!!」
尻もちをつき、ついた手のひらは小石で切ったのか血が滲む。
「……ここにはもう近づくな」
怒気すらも感じられない冷徹な声で、彼はそれだけを告げた。
「なんでっ!何がいけなかったのさっ!」
あんなに優しくしてくれたじゃないかっ。
手のひらに走るぴりぴりとした痛みにようやく我に返り、怒りと疑問と、そして諦めの混じった声で叫んだ。
だが、彼はそれにこたえることはなく、ゆっくりと扉を閉じる。簡素な木製の扉のはずなのに、それは鋼鉄の扉のごとく重い音を立てて閉じられた気がした。
もう、さっきまでの暖かさに触れる余地がない、それをはっきりと伝えてくる。
「うぅっ、うううううううっ!!」
何もかもが一瞬のうちに過ぎていった。
捨てるなら、最初から拾わないでくれっ。
自分から関わりに行ったこと、きっと禁忌を犯してしまったということ、それは痛いほどにわかっていた。
それでも胸にはぽっかりと穴が開き、大事なものを取られてしまったかのような喪失感に、胸の真ん中あたりがひどく傷んだ。
「うぅううううっ……」
どれだけそうしていただろう。
しばらくの間、扉の前で蹲っていることしかできなかった。
すると、ギィと小さな音を立てて扉が開かれた。
涙ぐんだ顔を上げると、橙色の光を放つランタンを手に、オラースさんが現れた。
「何が、何がいけなかったんですか?」
泣きじゃくるのをやめ、涙を手の甲で拭うと、彼へとそう問いかけた。
なんとなくわかってはいた。それでも、しっかりとした理由が聞きたかった。
何か、ちゃんとした理由があるのなら、受け入れられるかもしれないと。
そばまで寄ってきていた彼は、顔を難しそうに歪め、ただただくしゃくしゃと頭を撫でるだけだった。
オラースさんは自分の小さな手に、幾ばくかの紙幣と硬貨、そして保存食の入っているらしい小さな包みを渡した。
そして、ごみ山から持ってきた、ナイフの収まったベルトと、彼が今まで持っていた30㎝ほどの大きさのランプ――オイルランタンを渡すと、
「あっちに歩けば、いずれ小さな村につく。ただそこも、きっと君の話を聞けばいい顔をしないだろう」
冷たくも、かといって暖かくもない声音で遥か暗闇の向こうを指さした。
「リンゴを食べたのがっ、ダメだったのっ?」
撫でる手が、一層強くなった。
「もっと遠くへ行くんだ。それと、ここでのことはできるだけ話しちゃいけないよ」
彼の大きな手は、ここから去るように促している。
逆らう気力もわかず、なすがなされるがままに、少しずつ歩き始めるしかなかった。
何度も未練がましく振り向きそうになった。
しかし、きっとそれは許されないことなのだろう。
リーリーと、涼し気に鳴く虫の声が聞こえる。
そよぐ風は肌寒く、月はうっすらとした雲に隠れて姿を見せない。
いつのまにか、家の明かりはもう随分と遠くなってしまった。
ここまで歩いてきたが、頭のなかはずうっと堂々巡りをしていた。
そうか、ダメだったか。
ダメだったのか。
リンゴだからというわけじゃないだろう。
きっと全部ダメだったんだ。
結構、おいしかったんだけどなあ。
***
「本当によかったんですか」
オラースは、いつの間にか家の壁に背を預けるようにして立っていたジョフロワに向かって、声をかけた。
だんだんと遠くなっていくランプの明かりを眺めていても、もやもやとした気が晴れることは決してない。
「……仕方ねえのさ。あそこは、入っちゃいけねえ山なんだからな」
遠い目をして、ジョフロワはそう呟いた。
険はもう取れていたが、その分一気に老け込んでしまったように、声にいつもの覇気はなかった。
「今はもう、違うかもしれない」
「馬鹿野郎、アンリがどうなったか、何をしちまったか……俺たちがこんな辺鄙なところに追いやられた理由を、忘れちまったわけじゃあるまい」
思い出されるのは、ちょうどアンジュラほどの年齢だった、愛息のこと。
忘れたことなど、一瞬たりともなかった。
「それにな」
一呼吸おいて、ただ宙を彷徨わせていた視線がこちらを向く。それに気づきながらも、今は後ろを向く気にはなれなかった。
「あの山があんなに豊かなのが、恐ろしいくらいに豊かなことこそが、何も変わっちゃいない証拠さ」
「オラース、お前は都会のほうから来たから知らないだろうがな、あの山は、ヌティスの山は大昔からそりゃあやせた土地で、禿山だったんだよ」
遠い昔のこと、彼がまだ子供だった頃のことを語るその口ぶりは、苦々しさに満ちていた。
「今の、見上げるほどに背のたけえ木が生えてるほうが、おかしいのさ。……なんでそうなったのか、知らないわけじゃああるまい」
「……」
「勘違いをするな。情を掛けたりなんてするな。……もしあいつが、平気だってんなら、一片もおかしくなってないってんならなあ――」
「……いや、何でもない」
「少し、疲れたな」そう小さくつぶやくと、ジョフロワは家の中へと入っていった。その段階になって、ようやくちらと背後へと目を向けた。オラースが見たのは、ひどく小さくなってしまった男の背中だった。
もう一度、アンジュラが去っていった方へと向き直る。
ランプの明かりはもう見えない。
「アンリ……」
小さな呟きは誰にも聞き届けられず、静かに闇に溶けていった。