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汝、深淵に呑まれることなかれ  作者: 南天
プロローグ
3/21

3話


 右も左も、上りも下りもお構いなしに、がむしゃらに走り続けた。


 気が付けば化け物鹿の荒い息遣いも、木々をなぎ倒す音も、大樹が倒れ伏す轟音もしなくなっていた。


 ようやく立ち止まって、大樹に背を預けながら一息つく。

「っはあぁあぁぁぁぁ」

 体中の酸素が全部入れ替わるのではないかと思われるほどにごっそりと吐息が溢れ出た。


 走りっぱなしでたまった乳酸がサーっと引いていくような感覚に一気に力が抜け、ふにゃりと足が崩れていき、ざりざりと荒い樹皮に背を削られるような感覚を覚えるが、そんなことはどうでもよかった。まとった襤褸とシャツはめくれあがり、腰当たりは直接樹皮にこすりつけられている。

 噴き出した汗でべったりとはりついていたシャツから解放されて開放感すら覚える。

 トトトっと、途中で破いたのか、風呂敷にしていた布には穴が開き、集めてきた果実がいくらか零れ落ちた。

 無意識にも、なんとかこれは手放さずに済んだようだ。

 いや、緊張が過ぎて握り拳が解けなかっただけみたいだ。こぶしを開きたくとも布の結び目を掴んで離せない。


 疲れた。

 ただただ疲れた。

 乾いた笑いが思わず口をつくも、声にすらならずカラカラと音を立てるだけだった。


 怖すぎるだろう、異世界――。


 ようやく握り拳の解けた指の腹で、額を流れる汗をぐいっと拭った。ぬるりと泥で滑り、不快な感触に眉がピクリと跳ねた。


 そういえば、水場を目指していたのだったか。

 木々の隙間から見える、夕日を照り返しきらめく水面をぼんやりと眺める。

 怪我の功名、どうやらがむしゃらに逃げた先で池のほとりにたどり着いていたようだ。


「……水」


 意識すると、無性に喉が渇く。昨夜から食べ物どころか水すら飲んでいなかったのだ、たった一言口にしただけで喉はひりつくように痛んだ。

 ふるふると、生まれたての小鹿のように頼りない足取りで池を目指す。

 土壌でも合わないのか、池へと続く半ばで木々は途中で途切れ、これまでえと一変して開けた世界が広がっていた。

 向こう岸が見えるほどの幅だが、左右には長く広がっているようで、結構な大きさの池だった。深さはわからない。

 池の左右の端は木々に隠れさらに続いているのか、途切れているのかもわからない。

 流れこそないように見えるが、もしかしたら川なのかもしれない。


 池のほとりには木々の代わりに青々とした草花が茂っている。どれも野放図、というほど伸び切ってはおらず、背の高いものは腰に届くかというくらいのカヤくらいだ。

 相変わらず鳥の一匹も鳴いていないが、そんなものはすでに承知のうち。

 地面は小石交じりとはいえ柔らかな土と、芝のような背丈の短い雑草に覆われて歩きやすい。ふらつく足でもほどなくして水際までたどり着けた。



 池の水は水草もほとんどない、碧色に澄んだきれいな水であった。水際にたどり着くや否や、かぶりつくかとばかりに顔を押し付けた。

 ごぼごぼと顔の周りが泡立つ中で、夢中で水を飲み続けた。

 感覚が麻痺していただけかもしれないが、青臭くも泥臭くもない。

 時折喉を流れ落ちていく浮遊ごみなど気にならないくらいに渇いていた喉を一気に潤していったた。


「っぷはぁ!」


 魚でなくとも水を得ると元気になるのか、体の隅々まで一気に活力が漲った気分になる。

 無気力感が吹き飛び、停止しかけていた思考にも火が入ったようだった。

「うまいっ、生き返るなぁこれは……」

 こんなにも水がうまいと感じたのはおそらく生まれて初めてのことである。水の滴る顔を拭っていたが、ついでとばかりに掬った水で顔を洗う。

 ぬるぬると滑り、見る間に汚れが落ちていくのを感じる。ただ顔より先に手を洗ったほうがよかったかもしれない。

 さんざん鬱陶しがったハエのように、ジャバジャバと音を立てて手をこすると、水に溶かした絵の具か墨かのようにもわっと汚れが広がっていく。こんな汚い手で顔を洗ったのかと、思わず「うへえ」と顔をしかめてしまう。

 この分では体もすごいだろうなと、匂いたつ体が急にむず痒くなってきた。

 いそいそとシャツとベルトを脱いで、おそるおそる池に足を浸す。深さを足で探ると、膝上あたりで柔らかい泥の底へとたどり着いた。

 ゆっくりと両足を浸し、急に深みになっていないことを確認すると恐る恐る歩を進めていく。ちょっとずつ水深は深くなっていき、腰まで浸かったあたりで歩みを止める。

 肩まで浸かるよう膝を曲げると、一気に心地よい清涼感に包まれた。

 いつの間にか夕方になっていたが、まだまだ気温は高く、走り回って火照った体に池の水が気持ちい。

 一度ぶるりと体が震えるが、それすらも爽快感の一部でしかない。

 温泉とはまた違った気持ちよさがあった。

 あれか、プールか。

 思いつくとついつい泳ぎたくなってしまうが、体は疲れてそれどころではない。ぬめった体の汚れを落としていくと、まるで脱皮でもしているのかと思えるほどにこびりついていたものが剥がれていく。先ほどの比でないほどに一気に水が濁っていった。

 すっきりするような、汚れに囲まれているような、爽快感と不快感の天秤がぐらぐらと拮抗しはじめ、ある程度汚れを落とすとそそくさとその場を離れた。


 改めてきれいな水を掬い髪をなでるが、肩を半ば超えるほどにある長髪ではまるで足りない。

 一度大きく息を吸って、勢いよく潜り、わしゃわしゃと髪をほぐした。

 ぼさぼさの髪に時折指が引っ掛かり痛かったが、それも次第に数を減らしていき、ようやく水中から顔を上げた。

「うわっ」

 澄んだ水は瞬く間に汚水へと変わっていた。

 二度目の移動である。



***



 岸に上がって、身に着けていた布たちの洗濯をしていると、ぴゅうと吹いた風に体が震えた。

 そろそろ夜も近くなり、風が冷たくなってきたようだ。シャツを洗うのは早計だったかと思うがまあ仕方ない。絞ればなんとかなるだろう。えらく楽天的な思考だが、体がさっぱりして気分がいいのだ、今なら大抵のことなら許容できそうだった。

 シャツはともかくマント代わりの襤褸布は汚れこそ落ちても染みついた色までは落ちない。何に使っていたのか、何を被ったのかもわからないが、濁色のマーブル模様はそのままだ。

 襤褸布は案外大きさと厚さとに優れていて、その分この小さな手では精いっぱい水を絞ったところでなかなか水気が飛んでくれなかった。いつまでたっても大粒の雫がだばだばと水面を叩く。


 端まで絞り、それでもなお垂れ続ける水滴に「これ以上は無理か」と引き上げようというとき、風もないのに水面が大きくうねった。


 ふっと過った嫌な予感に、乾いたばかりの背を冷たい汗がつうっと伝った。

 目を凝らさずとも、うねりの中心は見て取れ、遠く池の中心付近、二度三度水を押し出すように圧がかかり、その下で大きな影が揺らめいた。

 手荷物をすべてひっつかんで急いで水際を離れると、そいつが大きな音もなく水中から姿を現した。


 しぶきを上げることもなくぬるりと現れたのは、鱗のほとんどない、はちきれんばかりに体が肥大化した怪魚であった。

 肉か脂肪か、体はでっぷりと太り、不気味に腫れ上がった顔に収まりきらなかったのか、白濁したぎょろめが大きく飛び出している。

 その怪魚は、大人を3、4人は楽に呑み込めそうなほどの大きな口を開け、とんでもない速さで猛然と岸へと迫ってきていた。迫るたびに白波が立ち、はじけた泡がごぼごぼと音を立てる。風がそよぐ音すらない、無音の世界にそれはひどく不気味な音に聞こえた。


 服もベルトもまとう余裕もなく裸のまま逃げだすと、乱立する木々までたどり着いたあたりでそいつは岸に乗り上げた。

 大きく開いていた口をばくりと閉じ、巨体によって巻き起こされた水の流れは津波のように岸を襲う。

 激しい引き波に、ほとりに生えていた草花を文字通り根こそぎ掻っ攫っていくのを見ていると、もし逃げ遅れでもしたときのことを想像させ背筋に冷たいものが走る。水中にいたら、もしかしたら音が立つまで気付かなかったのかもしれないのだ。

 何よりも恐ろしいのは、あの怪魚は水中に帰っていくことなく、発達した逞しいひれで陸上を這いまわっていることだ。

 本当に機能しているのかも疑わしい白濁したぎょろ目を、爬虫類を思わせる動きでせわしなく動かし、取り逃がした獲物をことを探し回っている。

 逃げた獲物である自分は、その怪物然とした様子を木陰から覗き込んでいた。


「もう嫌だ」というのが素直な感想である。

 鼻歌でも歌いそうなほど気分がよかったのが、一気にどん底まで叩き落されてしまった。

 この森には安全などないのだろうか、と。


 陸上ではさすがに分が悪いのか、怪魚の歩みは大きくものろい。化け物鹿よりは危機を覚えないが、怪魚の不気味さも相まってか心臓はばくばくと忙しない。

 魚に陸上でも使える耳があるのかは知らないが、万一を考えてこそこそと木々の奥へと退散した。



 そういえば、果実を入れた袋はほったらかしにしていたなと思い出し、記憶を頼りに元の場所へと戻ってきた。辛うじてシャツをまとって、水気を含んだ感触に若干辟易しながら大樹の腹に背を預けた。ベルトもナイフも襤褸も布靴も放り投げてしゃがみこむ。

 せめて枝か何かに干すべきなのだろうが、どうもそこまで気力が回らなかった。


「……疲れた」

 

 呟くのにも随分と力を使った気がする。

 水を得て取り戻した気力が一気に霧散してしまった。テンションもがた落ちである。

 辛すぎるだろう、異世界。

 もはや心は折れかけである。この先生き残る自信がまるでない。


 くぅと腹の虫が鳴る。

 水でごまかしていた空腹がもうぶり返してきたようだ。

 手元に転がっていた果実に思わず手が伸びてしまう。指先はつるりとした感触をすぐさま捉え、気が付けばそれは既に口元にまで運ばれている。微かに香るさわやかなエステル臭が鼻孔をくすぐり、これまで感じていた不快な臭いと正反対なそれが香るや否や、六分ほど開けた口で、それにかじりついていた。

 

 毒の有無がどうこうといったことは頭の外へはじき出されてしまったらしい、無意識に近い衝動のまま、それを貪った。

 手に取っていたのはリンゴに似た果実だった。抜けのない頑丈な歯が、厚く弾力のある皮に守られた果肉へとたどり着くと、驚くほどに甘い果汁が口内を満たしていった。

 パンパンに詰まった果肉もしっかりとした歯ごたえを持ち、噛り付くたびに瑞々しい果肉と芳醇な果汁が口にあふれていく。


 夢中でかぶりついていた。

 芯にたどり着くやいなや食べかすを放り投げ、同じ果実を血走った目で拾い集める。

 黒々と光る皮が今ではやたらに食欲をそそる。

 両手に持ったそれを、順番などなしに噛り付く。口に収まりきらなかった果汁が唇から滴ってべたべたと地面を汚すのも気にならない。魔法の果実とでもいうように、それは魅力的な味をしていたのだ。


 布袋から零れ落ちていた分をすべて食べ終えてしまったあたりで、飢えを満たした恍惚感からはっと我に返った。

 やっちまったと思った時にはもう遅い。

 安全性の保障など皆無な果実を食い散らかした後には、あたりに散らばる無残な姿となった芯しか残っていない。幸い、即効性の毒などは無いようで、「まあいいか」と思えるほどに腹と心と、ついでに喉の渇きばかりが満たされていた。

 仮称リンゴは、食べても大丈夫な果実だったのだろうか。しばらくしてから腹を下すなんてことはあってほしくないが、そこはもうどうしようもないことだった。もはや無毒なことを祈るばかりだ。


 見渡すと、リンゴ以外にも果実は転がっているが、それらは皆手付かずだった。

 もう迂闊な行動はしないとばかりに、これからは可能な限りリンゴだけを選んで食べることにしようと固く誓う。拾った果実は袋に詰めなおし、残骸は一か所にまとめておく。

 放っておいても自然に買えるだろう、マナー違反とは思わないようにしておこう。


 毒を食らわば皿まで、とは少し違うかもしれないがこれから食べるならもうリンゴだけでいいだろう。どれも実が詰まっていることもあって結構腹も膨れるのだ。水分も取れて一石二鳥ですらある。

 集めているときにも思ったが、手付かずの木の実たちは探すのに全くと言っていいほど苦労せず、簡単に見つかる。飢えをしのぐ手段が確定した瞬間だった。



 げふっと、満足気なげっぷが口からこぼれた。走り続けた疲れと、体を清めた爽快感、飢えを満たした満腹感に次第に眠りに落ちていくのは仕方のないことだったろう。


 せめてとばかりに太く絡み合うような形をしていた木の根に体をうずめて、その日は眠りに落ちた。


 月が登りきる前のことだった。





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