21話
父なるダゴン、それは数多の年月を経て、圧倒的な力を得た海の神の名前。
その巨躯から齎される単純な暴力はもとより、水を統べ、きっかいな呪術すらも操る。
人のおよそ敵う存在ではなく、崇め奉られる人外の神。
彼はその同胞たちの願い、ジューブルッフの中央を流れる川、ジューラ川の本流を溢れさせ、そして遥かかなたまでに逆流させるために、岸へと上がった。
それだけで湖面はめくれ、引き波で水底へ引きずり込まれた深きものや溺れた人間、怯えるようにじっとしていた湖の魚たちをもかきまぜながら岸に打ち上げた。
水かきのついた大きな足が地を踏み鳴らし、低い重低音を奏でながら大地が揺れる。
逃げ惑うこともできない哀れな人間たちなどまるで無視して、かの神は泥濘の地に大きく跡を残していく。
その巨躯を支えることなどとうてい敵わず、大地は沈み、じゅくじゅくと圧縮された泥水が噴き出すが、その足並みは揺らぐことはない。
だからこそ、それが足を止めるのはおよそあり得ないことであった。
あり得ないはずのことが起こったのだ。
人の身では抗うことすら許されない暴虐の化身。その歩みを止めるに叶う何かがそこにはあった。
水底を映したかのようなどす黒く輝く双眼が、湖の畔にたたずむ小さな異形を捉えた。
人の子の器を持ち、しかし背からは深淵なる外宇宙の暗さを孕んだ、濃緑の粘液をぬらぬらと滴らせた荒々しい鞭を生やす。
海神の半身ほどはありそうなそれは根元から4つほど伸び、ウミヘビのような細かな触手はもっと、無数に蠢いている。
やはり人外の美を備えた造形をした、人の枠から外れた相貌は爛々と輝き、地を揺らす海神を睨んで動かない。
彼もまた、請い願われたのだ。
水の神とルーツを同じくするはずの、その眷属の一人に。恐ろしき同胞たちの企みを止めてくれと願われ、その願いを聞き届けたのだ。
ゆえにそこにあるのは明確な敵意。
〝2柱の神〟はお互いを敵と認識し、相反する願いのもとにぶつかり合う。
大気を破裂させんがごとき濃密な邪気が溢れ、遍く物を薙ぎ払う暗黒の暴風が荒れ狂う。
湖は荒々しく波立ち、泥の地面は急速にその水分を弾けさせていく。
そこにあるものはなべて押し流され、遠く離れた草原も、そして無様に転がった生きた贄達も、死んだ者たちも、海の眷属すらも、すべてをひっくり返して遠く吹き飛ばされる。
海神が一歩を踏み出し、その乾き始めた大地を踏み砕いた。
その巨躯ゆえ数歩もいらぬお互いの距離を詰め、そして、その情けを知らぬ剛腕を足元の矮躯へと振るった。
空を引きちぎるかとばかりに轟音を伴ったそれは、小さき体の大きな4本触腕によって捕らえられる。触腕はぶちぶちと音を立て、根元から繊維が引き延ばされるような音を立て、暴虐に裂けた切れ目からはどろどろと忙しなく不浄の泥が溢れ出る。
しかし、それは海神の片腕を半ばまで呑み込み、黒く、そしてやすりのように荒い触手でもって絡めとったまま、握りつぶすように圧をかける。
ざりざりと鱗が剥げ落ち、凶悪な皮膚すらも擦切るようにそれは絞られ、海神は怒りとも痛みともとれる雄たけびを上げた。
触手を引きちぎらんばかりに力を込めるが、しかし腕を引き抜くことすらできない。
怒り狂った海神がその戒めを破らんと残った片腕を小さき邪魔者に向けて振るった。
4本の触手はすでに片腕を拘束するのにすべて使われており、ウミヘビか蚯蚓かのような細い触手の群れでは到底止められない。
地を割るほどの勢いを持った大きな腕を、小さき異形はその細腕でもって止めようとする。
しかし、圧倒的な頑強さの違いに、細腕は圧縮されたように指先から肩口までが勢いよくつぶれ、血しぶきすらも摩擦に燃え尽き、じゅうじゅうと悍ましき音を立てて大気を焦がした。
小さき異形は絶叫をあげ悶えながらも、弾き飛ばされまいと足を踏ん張る。肩口には縒り集めた無数の触手を宛がい、剛腕を絡めとろうとする。
体重をかけながら圧縮されるような両面からの力、そして地に向けて押しつぶそうとする海神の凶行に、小さな二足を支えていた地面がとうとう深く沈んでいく。
踏ん張りが利かなくなっていく小さな両足はしかし崩れることはない。それどころか、大地がひび割れるのに呼応するように、いや、その変異に大地が連動するように。
海神の強圧に、かろうじて保たれていた均衡が崩れていくように、地が割れ、深い深い亀裂をつくる。
小さき異形の身が、身にまとっていた布切れを内側から弾けさせるようにして膨張する。
露出した肌は冒涜的な水疱のように泡立ち、炭化するようにどす黒く色素を深め、皮膚が大きく膨れ、体積を増し、やがてその異形の触手と同じく丸太のような太さを――大樹の幹のような頑強さを持ち始める。
小さな靴は既に弾け、なめし革に隠されていた、段々と荒々しさを増していく大きな蹄が露わになる。
巨大となった両足に見合うように上体も変容し、泡立つ皮膚は黒い粘液状の泥を弾けさせながらも膨張し、肌色の体をすべて覆い隠すかのように悍ましき瘤に飲み込まれていく。
つぶれた腕も、残った腕も、首から上すら飲み込んで、それはぼこぼこと泡立つ倒卵形を形作る。
ところどころに切れ目が浮かび、それは怖気の走るような裂肉歯の並ぶ異形の口となる。
植物の蔓のような触手が全身を覆い、背から出るだけだった4本の触手が新たに巨体から無造作に生え、押しつぶさんと力を込められた海神の片腕に絡みついた。
矮躯はいよいよ海神の半分に至ろうかというほどに膨張し、押し負けていた力も同等近くまで増大した。
今なお両腕をやすりにかけられているような海神は苦悶の怒声をまき散らし、怒りに燃えた紅蓮の双眼で異形の大樹を睨む。
蔓のように、枝のように伸びる細い触手が黒い影を作るほどに束になり、海神の体へと走っていく。だらだらと溶解液を滴らせながらのそれは無骨な鱗を溶かし、分厚く発達した皮膚に徐々に徐々にしみこんでいく。
皮が溶け、肉にまで届き、胸を悪くするような臭いがあたりに漂い始めた。
両腕を絡めとられた海神にはそれを払いのけるすべはない。
せめてもの抵抗として鋭い爪を備えた巨大な足で黒い異形を蹴り上げるも、それは地に根でも張ったかのように動かない。
爪に抉られ肉を散らし、傷口から不気味な粘液が飛び散った。それは大地を溶かすほどの強酸で、半ば指先を食い込ませるようにして蹴り上げてしまった海神の足が先のほうから溶けていった。
骨すらも溶かされ、その体積の半分ほどを失う羽目になった海神は聞くものを狂わせるような悍ましき絶叫をあげた。
寄生植物のように絡みつく異形は耐久性と再生力に優れ、そしてじわじわとなぶるような趣味の悪い構造をしていた。
もはや海神は、素手での脱出のすべを失った。
だから海神は、己の肉体での解決を諦め、太古から身に着けてきた、その外法の術を用いた。
海神はほぼ唯一といっていい、自由な部位である顔を天へと向けた。
小さき異形を睨み付けていた顔を逸らし、天を見据えると、にわかに雨の勢いが強くなる。
何もかもをもかき消すほどの雨音と、しかしそれの中でも揺るがない雷鳴が遥か上空で迸る。
怒れる海神はいかつい大顎を上下させ、およそ人間の骨格では正確に発音できないような言葉を紡ぐ。
それはただの言葉ではない。
神が紡ぐ、神の御業を起こすための、超自然の起動言語。
海神が口を開くたびに何かの力の波動が周囲にあふれ、大気は何かの前触れのように引き締まり、大地はまるで蠢くようだった。
何が起こるのか、それを理解しているのかどうかはわからないが、相対する異形はそれを止めようと、海神の口へと触手を伸ばす。
大きく開かれた口を、その穴を塞いでしまおうと束ねられた触手が蠢き、口内へと侵入する。
海神はそれを、己の口が溶け落ちるのを承知の上で噛み千切った。
無数の触手が呆気なく噛み千切られ、切断面で悍ましいほどに真っ黒な肉が蠢いた。
大量の溶解液があふれ、海神の口を溶かす。
二つの巨体からこの世の終わりのような咆哮が放たれ、辺り一面をこれまで以上に消し飛ばす。
悍ましき絶叫。
およそ生物が耳にしていいものではないそれは、もしこの場に生物が他にいたのなら、万に一つの例外もなく神経すべてを破裂させせていたに違いない。
互いが大きな負傷を負いながらも、海神は口に含むことになった千切れた触手の束を吐き出した。
そして、焼けただれた口に構うことなく、その言葉を再び紡ぎだした。
触手の再生も間に合わず、新たに伸ばすにもそれは時間が足りなかった。
海神が、最後の一句を唱え終わった。
地が揺れた。
地上の影響ではなく、地下深くから、何か巨大な力が胎動するかのように、どう、どうと揺れる。莫大な轟音が次第に地上付近までせり上がり、そしてとうとうそれは大きな破裂音を伴って地上に現れた。
強大な水の奔流。
水源地ということもあり、周囲からまるでかき集められたかのような大量の鉄砲水が地下から噴き出る。
間欠泉のように雄大な飛沫をあげながら、それは海神もろとも異形を吹き飛ばした。
――勢いのある程度おさまった大水は2柱の神が立っていた地点を源泉とし、四方八方へ流れていく。内陸で起きた津波が大地を舐め、草原を薙ぎ、とうとうあばら家の町すらを飲み込んでジューラ川へ、そして反対方向へは湖と傍流へと流れ込んだ。
湖は水かさを増し、その大きさを拡張し、さらには周囲の湖とつながることで大湖となった。
川は一時的に水量を増し、上流と下流のどちらにも流れ、意図せずして氾濫を起こすに至った。
水が引いた後には、無残に下顎の溶け落ち、両腕がずたずたに削られ、焦げた肉が露わになった、しかし悠然と立つ海神だけが残った。
***
何が起こったのか、今いち理解が及ばなかった。
完全に拘束していたはずのダゴンが、いつのまにか腕――触手から抜け出してしまっていること、そして、地に投げ出されてしまったことだけが現状わかることだ。
体に力を込めようとするも、〝両の腕〟の指先がぴくぴくと痙攣するだけで、頭を動かすこともできなかった。
辛うじて瞼を動かし目を開けると、どうやら仰向けに倒れているようだった。
曇天が空を覆い、ぼたぼたと全身に雫が落ちる。痛いほどのそれは皮膚を貫かんと悪意を持っているかのようで、しかし体は動かせず、身を守る衣服すら持たなければどうしようもなかった。
どうやら、ダゴンに敗れてしまったらしい。
やはり、下位のものであっても神は神。呼び出されてしまっては負けだったようだ。
もっと急いで儀式を止めるべきだったのだろう。思えば余裕――というよりも、悦に浸りすぎていた。
まったく、馬鹿をしたものだと思う。
そも、儀式が成功した時点で逃げればよかったものを。
ふと、大地が揺れるのを感じ取った。
大きな揺れだ。
まるで地震のようだ。
だが、断続的なものだ。地震ではない。
つまりこれは、足音だ。
ダゴンの、怒れる海神の足音だ。
足音がだんだんと近づいてくる。両の目をなんとか音の方向へと向けると。
悠然と歩くかの神の姿があった。
片足のつま先を失ったためかどうにも歩きづらそうだ。
それはジューラ川ではなく、迷うことなくこちらへと向かってくる。
どうやら、とどめを刺すつもりらしい。
今の自分では、逃げることも、当然抗うこともできやしない。
ただただ、あの恐ろしき神の裁きを待つしかできないのだ。
ここで終わるか。
碌でもない第二の人生だった。
今となっては、第一が本当にあったのかも疑わしいほどに、それをまともに思い出せないのだが。
しかし、まあ。
思えば悪いことばかりでも無かったな。
心躍るような出来事こそなかったが、優しい人たちとの出会いは、胸が温かくなったものだ。
それがどんな気持ちだったのか、もう満足に思い出せないことだけが、心残りかもしれない。あるいは、最大の不幸か。
海神はもう目の前に来ていた。
鼻をつく生臭さが、いやに不快だった。
ダゴンはどうやら足で一思いに踏みつぶすつもりらしい。
まだ無事なほうの足で体を支え、骨と肉の露出した、半分になった足で――
***
ぐしゃり――と、随分と呆気ない音が雨音の中響いた。どす黒い液体が海神の足元を広がるが、もはやそれが足を焼くことはなかった。
その液体はすぐに雨に流され、地を滑り、どこか無限の方向へと溶けていく。
長い時間をかけて大地に染みわたり、それは不毛の地を作るかもしれない。
あるいは、豊穣の血を継ぎ、豊かな森を作るかもしれない。
長い、長い時間をかけて。
――しかしそれは、海神にも、そしてその呪いか恩恵かのどちらかを受け取ることになる、その地に住まうジューブルッフの民にとっても、もはや関係のないことだ。
海神は、小さな異形を踏みつぶした足をどけることなく、そのままジューラ川を目指そうと、一歩踏み出した。
踏み出して、そして――呆気なく潰れた。
いつしか暗雲から、へその緒のように歪で、ねじれ曲がった一本の管が伸びていた。
それが、海神――ダゴンの体を絡めとったのだ。
巨体を余すことなく包み込むほどにそれは長く、太く、そして恐ろしき力を備えていた。
遠くから見ればまるで竜巻のようだったかもしれない。
暗雲も、いつしか雨を降らす雲ではない。
もっとどす黒く、霧状の粒が一つ一つ胎動する、悍ましい何かの集合体であった。未知なる力場を周囲にまき散らし、世界を侵食するような暗撃を振りまきながら膨張するそれは、ある種の神々しさすらも持っていた。
偉大なる異形の神によって齎された小さな裁きが、一つの長き時を生きた神の命を終わらせた。
少しして、暗雲からは無数の管が伸び始めた。それは一つとなった大きな湖の中、そしてその周囲へと行きわたり、先端はぱっくりとあいた口となって倒れ伏したものたちを攫い始めた。
何本も何本も、何本も何本も何本も。
やがて地を埋め尽くすようだった触手は、上空でゆっくりと管を巻き、雲の中へと帰っていった。
地上には深きもの、人間、そしてダゴンの死体すら残らなかった。
ただただ無残に潰された、人の形をした小さな牡山羊の体だけが残っていた。
暗雲から再び、そっと一本の触手が伸ばされた。
それは牡山羊の元まで延ばされると、潰れた頭蓋も、千切れた四肢も、臓物のまき散らされた胴も、零れ落ちてしまった血の全てをも掬い取り、やはりゆっくりと雲の中へと消えていった。
――とうとう後に残ったのは、星々の輝く、清らかな夜空だけとなった。
***
ガタン、ガタン、と、心地のいい揺れが体に響く。
どこか懐かしく、しかし居心地の良さは少し違う。記憶の中にあるもののほうがもう少し穏やかだったような気がする。
体は優しい肌触りの布に包まれ、何か温かいものが体に被せられている。
右側から暖かく、そしてまぶしい光が差し込んでいるようで、意識の浮上をゆっくりと促した。
まどろみの中から目を覚ましてみれば、そこはどうやら小さな密室だったようだ。
2、3人掛けの上等のソファが向かい合うように並び、左右には片開きのドアがついている。乗ったことはないが、上等な馬車の客室が、こんな見た目をしていたように思える。
しかし、馬車ではない。
この揺れ方と音、そして何より速さと外を流れる景色は、鉄道からの車窓そのものだった。
また、体にはブランケットが掛けられているようで、もっといえば、体は着たこともない上質の服に包まれていた。
何一つが身に覚えのないこと。
いつの間に自分は鉄道に乗っていたのか。
そもそもどうしてこんな服を着ていたのか。
なぜ眠っていたのか。
最後の記憶を思い出そうとしても、何やら甘い、甘い―腕に抱かれていた記憶ばかりが浮かんできて、その先のものがなかなか見えてこない。
ようやくジューブルッフでの顛末を手繰り寄せたところで、思考も、小さな体も、精神すらもまた優しく何かに抱き寄せられたような感覚が満たした。
その心地よさに思わず浸りそうになり、頬が緩みそうになる。瞼が落ちそうになる。
しかし、一方で思考の深いところはそれに甘えることを恐れているようでもあった。
そして何より、今眠ってしまうということは、意地でも避けたいものでもあった。
自分の現状に〝なぜ〟という疑問を持つ羽目になったのは、まあいい。しかし、こればっかりは認めたくない。
馬車の客室のような小さな密室の中で、何よりも受け入れがたい存在が目の前にあったのだ。
いつの日かのパーヴァペトーで、ロランスに客として訪れた上等な紳士服を纏った男。
優し気な、しかしそこに温かみなど一切持たないほほえみを携えた男が、向かい合うようにして座っていたのだ。
「目は覚めたかな?」
「……」
仏頂面で睨み付けるだけ。しかしそれでも男はやはり笑みを崩さなかった。
ひたすらに気持ち悪い。
それの中身を知った今となっては、嫌悪感を隠す必要もあるまい。
目を合わせるのも嫌だった。
その男を思考から切り離し、身にまとった服へと視線をやる。
暖房なんてもののない客室だ、厚く着込んでいる。
一番上にフロックコート。中には艶のある黒のベストと、ふんわりとした白ワイシャツ、シルクのネクタイまで締められ、そして裾までぴったりの縦じまのスラックスを履いている。
「気に入ったかい?」
ポケットには覚えのない膨らみがあり、そこには財布と、一掴みの革袋。革袋の中身は、大粒の宝石だった。
見たことも触れたこともないそれが、しかし一般にどういう名で呼ばれているのかがなぜか知っている。
「そちらも、彼女が用意したようだ」
「――彼女?」
ようやく、目の前の男のほうを見る。
男は相変わらず深みのない笑みを浮かべていた。
「ああ。その服も、宝石も。どちらも彼女――君の母親が用意したものだ。どうやら思った以上に、本当に予想外なほどに過保護なようだね」
彼はくつくつと笑って見せる。細められた目はしかしこちらをじっと捉えたまま。薄っすら覗く瞳には真っ黒な何かが広がっているだけ。
少しずつ、ほんの少しずつだが、これまでの出来事が脳裏に染みわたっていった。
どうやら、自分はひどく冒涜的な時間を過ごすこととなったらしい。
体が潰れてしまったことは、この際仕方ない。負けてしまったのだから。
しかしその後、すべてを終わらせたバランスブレイカーがこの身を連れ去り、忌まわしき、甘美な時間を貪らされ、そしておめかしをさせられて現世に戻ってきた。
ダゴンの魚臭い足で潰されて終わってしまったほうが、よっぽどましだったかもしれない。
思い出すべきでもないそれを――しかし染みついて離れないそれを思考の隅に追いやるように、車窓へと目を向けた。
流れる景色は延々と続く田園風景だった。
ジューブルッフのそれを思い出すような風景。遠目には大きな川も見える。
どこの町から乗車したのかは覚えていないが、もしかしたらまだジューブルッフからそれほど離れていなかったのかもしれない。
そういえば、あの町はあれからどうなったのか。
「気になるかい?」
男はいつの間にか手にしていた、大きな木箱といっていいようなトランクから新聞を一束取り出すと、こちらに差し出した。
しぶしぶ受け取ると、それは大手の新聞社から発行されているものだった。
そして、とりとめもない記事の中に紛れて、田舎での出来事――つまりジューブルッフでの事件が取り上げられていた。内容は、真実を知っている身としてはひどく信用のならないものだった。
合っているといえば、合っている。
野蛮な暴徒が町の住人達を襲ったこと。
多くの人間が死んでしまったこと。
そして、最後は局地的な竜巻の発生で、暴徒もろとも町の半分が水に流されてしまったこと。
かの海の眷属たち、そして異形の触手の怪物のことも、血濡れの悪鬼のことも、ある意味当然だが一切語られていなかった。
生き残った者たちが固く口を閉ざしたのか、それとも記者が信じなかったのか、あるいは上役がそんな三流社の記事にも劣る与太話を載せたがらなかったのか。
大した情報もなく、ただ紙面の隅に少しばかり記載されただけの記事。
大した情報もなければ、また他に見るものもない。
不要となった新聞紙は、すぐに男へと返した。
そのまま、再び顔を車窓へ向ける。
流れ行く景色を、ぼんやりと眺めた。
ぼうっとしてるのが楽だった。
何も考えず、ただ眺めるだけ。
面白いことなど、刺激のある出来事など必要ない。
受け入れることも抗うこともない。そうすれば中庸でいられるような気がした。
「これからどこを目指すのかな?」
どこに行こうか。
このままずっと、鉄道に揺られていられればいいのだが。
「ラロシェルで獣狩りでもするのかい? それともパーヴァペトーにまで戻るのかな?」
嫌なことを思い出させる奴だ。
もう、あの町に戻るつもりはなかった。
ジューブルッフにいた頃のように、邪心に狂った精神はもう落ち着いていた。だいぶ精神構造も変わってしまってはいたが、それでも生きていくのならば、きっと人の世ではなければ耐えられないだろう。
しかし、人に寄り添う道は、もう歩めそうになかった。
人はすでに同族でも、庇護対象でもない。
生贄としてみる気も起きなかったが、せいぜいが見ていて気を悪くしない生き物だろうか。
かつての感覚がそれに愛着というものを授けるが、それでも積極的に関わろうとは、もう思えないのだ。
中途半端になってしまった。
狂いきってしまったほうが、もはや楽なのかもしれないくらいに決まりが悪い。
「まあ、私としては君がどんな選択を取ろうと、構いはしないのだがね」
「せっかくの、彼女が用意した上等な役者だ。できれば、より面白い道を歩んでくれることを願っているよ。あいにく、あまりちょっかいをかけると私が怒られてしまう。どうやら彼女は――それこそ思いもよらないほどに君に入れ込んでいるようだから」
「――神々は娯楽に飢えている。君も私と一緒に、少しでも愉快な劇を彼らに見せてくれると、ありがたいのだがね」
愉快気に、しかし不愉快で耳障りな声で、彼は朗々と告げた。
車窓の景色は深い闇に閉ざされる。
機関車は長い長いトンネルの中に入っっていった。
終わり