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20話



 体重を乗せて鉈を振るえば、それは面白いほどに簡単に骨ばった体を両断する。

 ぱっくりと開いた切り口からは破裂した水道管のように勢いよく血しぶきが噴き出る。

 もはや避けることなど不可能で、全身に血を浴びながらも残った下半身を蹴飛ばした。


 すぐ後ろから何か槍と銛の中間のようなものを突き出す、どことなくイルカのような顔をした怪物の一撃を手ではじき、お返しとばかりにまた鉈を振るった。

 怪物は初めて死という恐怖を覚えたように、けたたましい叫びをあげながら、ちぎれた片腕を抑えていた。

 断面からは赤い血がどくどくと流れ、ピンク色の繊維質の塊の内側には白いものが見えた。

 喚き声が耳障りだ。

 今にも蹲ってしまいそうなほどのそいつを蹴飛ばしてやれば、すぐ近くの壁に激突し、ぱったりと声もやんだ。



 真っ赤に染まった刃は、いつのまにか刃先がボロボロとこぼれ、切るというよりも引きちぎることしかできなくなっているようだった。

 すぐそばに転がった片腕の断面を見ればそれはもう切り口が潰れ、その先もぶさぶさに皮が伸びきっていた。

 やはり骨を断つのがいけないのか、この鉈はもう使い物にならないだろう。

 殺すことは、当然できる。

 しかし、刀身に走った大きな亀裂を見ると、もう1体も切らぬうちに砕けてしまうだろう。

 だから、落ちている別のものと取り換える。

 彼らは親切なことに、わざわざ武器を持ってきてくれる。


 同じように武器を変えるのは今や3回目のことだった。


 もう何度も、頭から血を被った。

 理屈のわからない、無性に耐え難いイライラが脳を支配していた。それを慰めるかのように、ただ力のままに凶刃を振るった。


 ここまで血を被れば、今更返り血なんて気にする必要もないのだが、殴り飛ばすなんて野蛮な真似はあまり気が乗らない。

 拾ったのは鉈に比べれば小さな、肉切り包丁だった。すでに何人かの血脂を吸ったそれはぬらぬらと赤く輝いている。

 肉片がこびりつき、黄色い脂が刃から柄にまで伝っている。ぬめりが指を濡らし、つんと独特な臭気が鼻をつく。

 怪物たちとはまた違った生臭さがした。



 また、5、6体の深きものが、各々の得物を構えて向かってくる。きっと、必死の形相に分類されるのだろう、大きな、もはや閉じきることのない両目をさらに見開き、血走らせ、口角泡を飛ばしながら喚き散らす。


 何度も、何度も、何度も何度も何度も見た光景だ。数に限りというものの見せない彼らを、またもその小さな刃物で乱雑に切り裂いた。


 楽しい。

 愉しい。


 死に触れるというのはこれほど楽しいものなのか。

 一方的に無残に殺されていく様を眺めるのはこれほど愉快なものなのか。

 恨みにも似た黒く、熱く、とげとげしい感情に涼やかな風が吹き付けるように清々しい。


 喚きながら逃げ惑うものも、健気にも立ち向かおうとする者も区別なく、大鉈で、包丁で、棍棒で、何もなければ、その腕で。

 脳漿も臓物も無様にぶちまけながら崩れていく異形の姿はとても滑稽なものに見えた。


 まるでハンティングのような楽しさがある。

 上流階級のお遊びにはそぐわない不愉快な金切り声がいただけないが、あるいはそれもこの狂気に満ちた世界を彩る装飾品なのかもしれない。

 味気のなかった白壁に真っ赤なペイントを咲かせ、生々しい彫像があちこちで地獄という異世界の風景を再現する。



 新たに迫る集団を手早く片付け、足早に歩を進めるも、すぐにまた次の集団にぶつかる。

 目につくものはかたっぱっしに潰してきたが、そろそろ方針を変えた方がいいだろうか。

 個々の処理にはさして時間もかからない。

 しかし数が数だ。橋までのほぼ最短距離を歩いていたはずなのにまだあの尖塔のもとにすら辿りついていない。


 楽しい、楽しいが、楽しさに最悪目的を見失いそうですらあった。



 刃から血を滴らせながら街路を歩いていると。十字路の先から深きもののそれとはまた違った金切り声が聞こえてきた。

 ひょいと壁から顔をのぞかせると、そこには泣き叫ぶ子供や女性を担いだ異形の集団がいた。こういうのも、少なくなかった。

 連中に構うのもやめようかと思った矢先にこれだ。

 昂っていた気分が、急速に冷めていく。

 この手の横やりは、特攻してくる愚者たちの処理よりも興が乗らなかった。


 見捨てるというのも、まあ調子の悪いもので、数人の深きものの前に姿を現せば、彼らはやはりぎょっとした顔を浮かべた。

 子供は相変わらず「助けて」と耳に障るような甲高い声で泣き叫ぶが、大人の女性の方は一瞬ばかり悪魔でも見たような顔をした後に「逃げて」と叫ぶ。

 せっかく助けに来たというのに逃げてと言われるのは、どうにもおかしな気分だった。


 包丁を振るえば、その役目通りに肉を切り裂く。ぶちぶちと繊維を無理やりに引き裂き、分厚い刃は軋んだ音を立てた。

 女子供を担いだ上半身は支えを失って地に落ちる。べしゃりという汚らしい水音を弾けさせながら連中は絶命し、捕まっていた人間は放り出される。

 4体も5体も同じようにぶつ切りにすると、その場もようやく静かになる。

 命の助かった彼女たちは錯乱することもできないほどに怯えきり、血に染まったこの身から逃れようと這う這うの体で逃れようとする。


 誰も、捕まえる気も殺そうなんて考えも持っていないというのに、腰が抜け、文字通り地を這ってまでも己に背を向けていた。一面に広がった汚らわしい血だまりで体を汚すこともいとわずに這いつくばるも、脂で滑るのか手に力が入っていないのか、まったくもって進まない。

 それもこれもこちらのせいだとばかりに、あの魚顔の人類未満の連中に向けるそれよりも強張った顔で振り返る。


 助けてやったというのに、ひどい扱いだ。

 興奮冷めやらなかった気分はすでにすっかり白けきっていた。


 彼女たちに構う意味もない。

 転がった、包丁よりは扱いのしやすい大鉈を拾って、静かにその場を後にした。



 ***



 町中はどこも酷いありさまだ。

 石畳の上を一直線に走る浅い溝、そこにどろりとした赤い液体が流れ込む。排水用のそれも、粘性の高い血脂では碌に機能を果たさない。

 周囲には肉の切れ端が散乱し、視線をたどらせてみると、そこには黒い制服を着た――おそらくは男性だろう――かつて鉄道警備隊というエリート街道を歩んでいたはずの誰かが何人も倒れていた。どれだけ憎かったのか、それとも単に遊んでいたのか、顔面が耕され、心臓のあったはずの位置にはぽっかりと穴が開いている。

 街灯の光の届かない、家と家の間などは、およそ見れたものではなかった。

 積み重なった死体はどれも必要以上に形を失っている。


 転がった警備隊員の手元には折れ曲がった鉄砲が転がっていた。

 よくみると、人間だけではない、深きものの死体も見える。なるほど〝敵討ち〟だったわけか。

 それはそれは憎かったことだろう。

 この惨状を作ったものはまだここらにいるのか、もう別の場所に行ったのか、それとももう殺してしまったか。

 生きていたのなら、少しくらい心情を聞いてみたいものだ。



 広場を抜け、血の滴ったジグザグの階段を下り、いやに静かなメインストリートまでたどり着く。

 遠くで発砲音や怒声が聞こえてくることから、まだ生き残りもいるのだろうが、町の中心であるはずの街路には人っ子一人いない。


 代わりにあるものといえば、もはや物言わぬ死体だけ。夜とはいえ、まだ人も多かったのだろう。さすが町一番の通りだ、ここまでの道程よりも多数の遺体が転がっている。

 

 乱暴に蹴破られたドアと、鎧戸ごと割られた窓。3階の窓の桟から力なく垂れさがるのはきっと隠れていた住人の手だろうか。

 質素ながらも長年その店を支えてきただろう看板は無残にずり落ち、首のない死体がその上で横たわっている。


 死体の中には、どこかで見たような顔もいくつもある。中には、言葉を交わしたものもいたかもしれない。その誰もかれもが恐怖と苦痛に顔を歪ませたまま息絶えていた。


 このありさまでは、墓地は拡張の必要がありそうだ。あそこではとうてい敷地が足りそうにない。



 メインストリートまでたどり着けば、あとは橋まですぐだ。無駄に入り組んだ住宅街もなければ、面倒な生き残りもいない。

 まっすぐの道を歩けばいいだけ。


 あとは――こいつらのように、無限わきに近い深みのものどもを蹴散らせばいいだけだ。


 これまでのような5匹や6匹ではない、もっと多数の者が、家の中から、路地の裏から、そして橋のたもと、岸から登ってくるようにして川から大量の深きものどもが現れる。

 数だけではない。

 現れた彼らのほとんどは、これまでのものよりも少しばかりの変化がある。それはより人間らしさを失い、体を覆った緑灰色の鱗、鮫肌の割合が増え、背や顎にまでヒレや髭のようなものを生やしたもの。


 深きものの血により適合したもの。

 より年経たもの。

 完全に先祖返りしたもの。

 あるいは、かねてよりかのクトゥルーに仕えていたものか。


 恐ろしき形相を歪め、忌まわしい吠え声を喉で鳴らし、その手に太古の武器を握りしめながら。

 彼らは数と質でもって勝ちに来た。


 これはなかなか、面倒そうだ。



 ***



 人外の膂力をもって大鉈を振るえば、いかに力を持った個体であろうと、その四肢も、胴体も、首も関係なしに切り飛ばせる。

 しかし数が鬱陶しい。

 おまけに彼らが手にするのは、古の呪術の施された忌まわしき魔道具。槍で突かれた程度では傷も負わない体であるはずなのに、それはたやすく肌を切り裂き、体に穴を空ける。


 すでに腕や足、狙われやすい腹などには幾ばくかの生傷ができていた。

 血とともに半透明な緑色の粘液が漏れ、傷口はすぐさま塞がっていくが、何か力がごっそりと抜け落ちたようにも感じる。

 受けるのは得策でないとわかってからは回避するようにしているが、そのおかげでどうにも攻勢に出辛くなっていた。


 突き出された槍を体を半身にしてよける。

 横から迫った白刃は、大鉈でもってその腕を切り飛ばすことでやり過ごす。

 得物ごと腕を失ったそれを蹴飛ばすと、それは悪手だったか、足が止まり背後から切りつけられる。外套もシャツもぱっくりと裂け、その下の、浅くはない傷に鋭い痛みが走った。

 屍食鬼の爪とはまた違った、抉るのではなく正しく切り裂かれた傷は鋭く痛み、熱を持った患部からはどくどくと何かが流れ落ちていく。


 背後を振り返ることなく今度は大鉈を振るうことで隙だらけだった下手人を討ち取ると、間髪入れずに前方、左右から突き出された数本の槍を後ろに下がることで回避する。


 数えるのも億劫なほどに切り飛ばしたというのに、連中の数は一向に減らず、ましてやはじめより増しているようにすら見えた。


 大鉈も既に限界が見え始め、連中の武器と取り換えようにも、質の悪さを数で補った無理やりの連携になかなか拾うタイミングが掴めない。


 前方から迫った3体、そのうちカギ状の鈍器のようなものを振りかぶった相手に向けてあえて近寄り、腕が振り下ろされるより早くその頭に手を突っ込んだ。

 指先は頭蓋を突き破り、脳漿と水っぽい紙粘土の塊のようなものを巻き込みながら拳を握る。

 びくびくと胴体が痙攣し、今まさに振り下ろそうとしていた腕はだらりと垂れた。

 手に縫い付けた死体を鈍器代わりに勢いよく振るえば、呆気にとられていた残りの2体、そして後ろに更に控えていた数体ごと吹き飛ばした。

 遠心力に耐え切れずに頭蓋の穴が広がり、死体もまとめて壁にたたきつけられる。

 臭いたつ腕を振るって、こびりついた脳髄の欠片を払うと、ぴしゃりと地面で肉片が跳ねた。


 少しばかり汚い殺し方をすれば怯んでくれると思ったが、どうもそうはうまくいかないらしい。


 かえって怒りを買ったのか、激高を挙げながら彼らは突進してくる。


 いい加減相手にするのが面倒になってきた。


 連中を飛び越えて行ってもいいのだが、それでは北の町にたどり着いたとしてもいずれはやつらもやってくる。

 いちいち足を止められるのも手間なのでここで片づけてしまいたいのだが、今度はいつまでたっても終わりが見えない。

 触手が使えれば、一網打尽もできなくはないのだろうが、それでは服が破けてしまう。

 無駄遣いはしたくないし、なにより襤褸をまとうのはもう勘弁で――


 いや、そういえば。

 さっき背中を切られたのだったか。

 思い出したように背の傷がじくじくと脈打った。大きく裂けた服の隙間からならば丸太のような触手の一本、十分に出すことができる。


 しかしそう都合よく位置を調整できるものか。

 まあ、なるようになるだろう。


 迫る深きものを大鉈であしらいつつ、ソレを意識する。


 体の奥で黒い何かが渦をなす。それは急速に形作られていき、ぼこぼこと背の皮膚が泡立つと、まさに先ほどの切り傷から一本の太い、黒く、ざらざらとヤスリ状に荒い目の触手が飛び出した。

 反り返った山羊の角のようにそれは渦まき、数メートルもある荒々しい軟体で周囲を薙ぎ払った。


 家の壁も、転がる死体も、今まさに襲い掛からんと目をむいていた暴徒ども、その何もかもを巻き込んで、癇癪を起したかのように台無しにしていく。

 壁も柱も失って、左右の家は大きな音を立てて崩落し、弾き飛ばされた連中はそのまま瓦礫に押しつぶされて死んでいく。


 それでも連中はまだうじゃうじゃいる。


 逞しい触手を無造作に、しかし暴力的に振るいながら歩を進めれば、先ほどの焼き増しのような光景が何度も繰り返された。

 連中も黙ってやられるかと各々の武器を振るうも、それはただ触手を傷つけるだけ。

 傷口から黒やら濃緑やらの粘液状のものがヤニのように湧き出で、すぐさま傷はふさがれる。

 はたから再生する、丸太ほどの太さを持ったそれを切り飛ばすほどの武具はないのか、抗うことも碌に叶わずに瓦礫の山に沈んでいく。


 うようよいた連中は、もう数えるほどしか残っていない。さすがに敵わないと見たか、逃亡するものも出ていた。

 メインストリートは建物ごと崩壊し、道幅が倍以上に広がってしまった。


 しかし、ようやくすっきりとした。


 清々しい気分で橋を越えた。



 ***



 触手を乱暴に、それこそ鞭のようにしならせながら、ぬかるんだ地面を歩く。

 水気を過分に含んだその地面を歩くのはなんとも久しい気分だった。

 下手をすると足元をすくわれてしまいそうなほどのぬめりは二日前よりもずいぶんよく滑る。

 水の気配が嫌に濃くなり、町全体を覆うような魚臭さはもはやその正体を隠すこともない。

 悍ましき魚顔の怪物たちは橋を越えてからもやはり姿を消さず、あばら家や川などから何体も這い出てくる。

 それらを背から生えた大きな鞭で無造作にちぎりつつ、頭一つ飛び出た町の中央に立つ不安定な教会へと足を運んだ。


 神官といえば教会、そんな単純な理由からだ。


 石を積み上げて作られたのっぺりとした教会は静まり返り、扉を開けても中は明かり一つついていない。

 息をひそめて隠れている、というわけでもなさそうだ。

 木で乱雑に作られた説教台と長椅子が何列も備えられたホールのような空間。シャンデリアもステンドグラスもない粗末な内装。

 壁掛けの燭台も火は灯されず、明かり一つない空間であるはずなのに、身廊のその向こう、祭室の中央に崇めるように建てられた祭壇は淡い光に包まれている。


 その源は、十字でも聖人でも聖母でも天使でもない。

 荘厳な気配を放つ台座の上に座るのは、畏ろしき異邦の神。

 蛸のように膨れた頭部と無数の触手、気味悪く膨れた胴体とそこから伸びる鉤爪を備えた大きな四肢。背からは羽毛の代わりに退化した皮膜でつながった蝙蝠のような羽をもつ。

 遥か太古に異星より飛来した、彼ら深き者たちの崇拝する偉大なる神を模した像であった。


 それを眺めていると、腑の底を泡立たせるような異質な感覚を覚える。頭の中がガンガンと音を立て、邪悪な黒い霧から荒々しい枝葉が伸びる。

 脳を侵すようなそれを抗いも受け入れもせず、ただただ祭壇からふっと目をそらした。

 この教会には地下室もあるようだが、そこには生きたものの気配がない。


 どうやら、無駄足だったようだ。


 教会の外に出れば、怒り狂った深き者たちが得物を手に襲い掛かってくる。怒りの琴線を触れるどころか断ち切られるほどにそれは嚇怒に狂い、血走ったぎょろ目がこちらを捉えて離さない。


 それを乱雑に鞭で弾き飛ばせば、やはり体を内側から弾けさせながら転がっていくだけだ。呆気ない。もはや作業じみている。


 周囲を囲むようににじりよる彼らに、リーダーの居場所を尋ねたところで無駄なことだろう。

 さて、どこに向かうべきか。



 連中を適当にあしらいながら、当てもなく歩を進めていると、そういえばとミシェル――情報提供者であった彼の言葉を思い出した。

 彼らは、『父なるダゴンを呼ぼうとしている』と。


 父なるダゴン。

 それは数えるのも馬鹿らしくもなるほどに年を経た偉大なる、生きた神の名前。深き者たちの長であり、強大な水の神。


 そう、彼らは水底に住まうのだ。

 ならば、かのものを呼び出すとなればやはり水の中なのだろう。


 高台から見下ろしたから知っている。北の町、その北端には大きな湖が何個も広がっているのだ。


 呼び出すのなら、きっとそこが相応しい。



 ふと、不気味な風に乗って常人ならば身を震わすような調子を持った何かが聞こえてきた。

 それは遥か北のほうより伝わる、思考を掻き乱すような合唱であった。


 北、北だ。

 間違いなくそこにいる。



 ***



 湿った大地、そこで野放図に伸びた不気味な葉脈を走らせる草を掻き分けながら、ただ一点を目指す。樹木なんてものは見当たらず、子供の身長すら隠せそうな背の高い草だけが茂る。

 草丈のおかげか例の魚連中はこちらを見失ってしまったようだ。しかし、ふらふらせずに目標を定めて進んでいるところを見られたのだ、やつらも慌てて追いつこうとしていることだろう。

 身を隠すほどの草は視界すらも覆ってしまうが、幸いあの不愉快な合唱はいまだ絶えていない。がさがさとし、耳の奥に引っかかるような触りの悪さが鬱陶しいが、これ以上ないほど都合のいい道しるべとなっていた。



 やがて雑草すら生えない、開けた地にでた。

 草本、芝の代わりに多様な苔類が表面を覆い、しかし大量の足跡がついている広い一本道だけは不毛の地となっている。


 その先は湖だ。

 いくつもの湖、三日月湖、そして更に向こうにはジューラ川の傍流と、それを橋でもって越える鉄道の線路。


 湖の畔には異常な光景が広がっている。

 大量に群れ、あるものは跪き、あるものは高らかに両手を挙げて、何かを囲う深きものどもの姿。

 その中心には5人の、何か異国風の法衣のようなものに身を包み、杖を持ち、美的センスの決して合わない、一目で異文明のそれとわかる幾何的な金の装飾品を身にまとった指導者たち。


 彼らが立つのは、大地の上に明らかに血で描かれた様子の不可思議なサークル。説明のできない不条理な図形、紋様、文字の描かれた一種魔方陣じみた何かが浮き上がっている。



 深きものどもの密集地帯のすぐ脇には、捕らえられた者たちの終点だったのだろう、まだ生きている人間が縛られたまま放置されている。


 一方で湖の上には小舟がいくつも浮かんでおり、そのそばにはいくつもの水生生物じみた顔面がぷかぷかと浮いている。

 木でできた、マストもない小舟には大量の、それこそ生死を問わない人間が積まれており、時折水面に浮かんでいた魚顔が船に手を伸ばしては、縛られ、重しをつけられた人間を水面に投げ入れている。



 あたりには、日曜の礼拝のように、彼らの神を讃える悍ましき讃美歌が響き渡り、その合唱が自分をここへ導いたのだと瞬時に理解できた。


 そして、これはただの讃美歌などではないと、考えずとも分かった。彼らは偉大なるクトゥルーを讃え、そしてその眷属であるダゴン、ハイドラを三位一体の神として敬い、その願いを叶え、恵を与えられることを望んでいる。

 彼らが長である、深きものどもの到達点、姿かたちの見える神、『父なるダゴン』の招来を望む、忌まわしき儀式なのだ。



 彼らの儀式は止まらない。

 耳障りな合唱は乱れることもなく、今も天に、そして水底にその冒涜的な聖歌が届けられる。

 贄なのだろう、何人もの死体、時には生きていて、死を恐れ喚きたてる人間すらも無惨に水に沈め、かの神への供物としている。


 彼らにも、南部の町で邪魔が入ったことくらい伝わっていただろう。

 そして、その邪魔者がこの場に現れてさえ、明らかに自分の存在を認知していてさえ、儀式は止まらない。


 当然だ、彼らにしてみればダゴンさえ呼べれば勝ちなのだ。

 自分とて、神の一柱に数えられる存在を打倒できるとは思わない。

 だから、彼らを、神官たちを殺さねばならなかった。



 深きものたちの密集地帯、魔方陣を囲うような彼らのほうへと足を向ければ、ようやく連中はそれを防ごうと立ち塞がる。

 並び立つのは完全に異形へと変容した深き者たち。しかし手には魔道具の類は持っていなかった。

 こちらも、すでに大鉈も包丁も捨ててきていた。しかし何よりも圧倒的な鞭があった。


 お互い10歩も進めば接触した。

 とびかかってくる彼らをまとめて鞭で薙ぎ払おうとするも、鞭はぎこちない動きをして満足に動かせない。

 もはや手足の延長がごとく自在に動かせていたはずのそれの自由がきかないのは、さすがに驚き、一瞬動きを止めてしまう。


 それを好機と見たか連中はこの小さな体を押し倒してしまおうと猛然と攻勢をかける。

 外法の魔術に祝福された武器を持たずとも、その膂力と、水かきの付いた大きな手の指先は鋭い爪になっている。力のないものと違い完全なる水の眷属たちの体はそれだけでも恐ろしい、人知を超えた脅威がある。

 爪が服を裂き、皮膚を抉り、筋にすらも指をかける。どす黒い血が傷口からあふれ、併せて漏れ出す緑色の粘液とともに、じゅうじゅうと音を立てた。


 それは肉体を切り裂いた、深きものの指先が溶け落ちる音だった。


 目の前で鼓膜をイライラさせる絶叫を聞かされ、思わず蹴り飛ばした。

 真っ白く不健康そうな腹を不自然に歪ませながらそれは後続の集団へと突っ込み、一部を出来の悪いドミノの列のように倒す。


 どうも自由の利かないのは背中の触手だけらしい。手をグーパーさせても問題はなく、足も変わらず動く。

 触手だけが何か不可視な力で押さえつけられているかのように不自然に動きが重い。

 大きな力、その拘束の元を探るように視線をさまよわせると、前方、あのサークルの外周に立つ、ひときわ豪華な装飾をつけた一人を除き、醜悪な顔に黄金色のサークレットをはめた神官たちがこちらに手を向けていた。

 その手からは異質な力の流れが放たれ、背から伸びる触手を絡めとっている。



 ならば、もう一本あればどうか。

 すでに塞がっていた傷口から、ずるりと粘着質の液体を垂れ流しながら黒く太い触手が這い出した。

 服は背の部分が大きく破れ、びりびりと繊維が引きちぎれていく。


 二本目の触手の出現に、不可視の拘束は明らかに弱まった。どちらも力場のようなものが邪魔をするが、それぞれに半分ずつ力がかかるようになったのだ。幾分スムーズに動くようになったそれをちろちろと揺らすと、遠くで神官たちの顔が大きく歪んだ。


 もう一本。

 そして、もう一本。


 服のことなどもうどうでもいい。

 背から4本の、黒く、荒々しい牡山羊の角のような触手を出すと、神官たちは苦悶の表情を浮かべる。

 そして、背に蠢く触手に力を込め、もはや紙にも劣るような弱々しい拘束を勢いよく引きちぎると、サークル上の神官たちは目玉を破裂させ、血反吐を鼻と口から吐き出しながらがっくりと膝を崩した。



 ――それでも、儀式は続く。


 指導者の死を見ても、喚き立てるものすらいない。

 迫る深きものたちを蹴散らしながら、前方のサークルを目指す。


 ――それでも、合唱は続く。


 それどころか、いよいよ彼らの声は高まり、不可視の拘束などと比べ物にならないような力の奔流がサークルから溢れ出す。

 深きものたちはその御名を叫び、狂気の旋律がいよいよ世界に満ち渡った。

 天を突くような七色の光が視界を埋め尽くし、常人では目を焼くような凄まじい光量が周囲を焼き払った。


 すべてが光に包まれている中、もはや人とは離れてしまったはずの体ですら、胃をムカつかせるような不愉快な生臭さと、圧倒するような純粋な威圧感が振りまかれた。



 光はようやく収まり、周囲は元の光景へと戻った。

 いや、すべてが元通りということはない。


 星々の輝いていた真っ黒な空は、今や分厚い雲に覆い隠され、これまで以上に湿った空気が頬を撫でた。

 ぽつぽつと天から雫がこぼれ始め、それは次第に大粒へと変わり大地を打ち付けるようにまでなる。


 斜め前方から立ち昇る強大な存在感が今なお放たれ続け、もはや絶叫とすら思えるほどに騒がしい讃美歌すらも凌駕するほどの音を立てて湖面が泡立っている。

 やがて津波もかくやというほどに大きな波が岸に押し寄せ、逆らうことなく、深き者たちはその波に呑まれ、あるいは狂喜のままに自ら飛び込んでいく。



 監視の目が解かれたというのに、人質たちは逃げ出すこともできず、ただただ怯えるか気絶するばかりだった。運の悪いものは押し寄せた波に体をさらわれ、縛られた体では抗うこともできずに荒波の中に沈んでいく。

 水の眷属たちと違い、彼らが辿る道筋はきっと果てがすぐそこにある。



 大波が引き、海底火山のように噴き出す湖面の気泡がひときわ大きくなると、ついにそれはその巨躯を晒した。


 人の何倍も高く、2、3階の建物と並ぶほどの巨体。

 深きものたちがそのまま大きくなったかのような、水生生物然とした姿。

 しかしその体はほとんどが厳めしい緑灰色の魚鱗に覆われ、大きなヒレも、水かきとカギ爪のついた手足もかの子供たちよりも圧倒的に鋭く、鋭角的で、そして攻撃性を持っていた。

 その顔に浮かんだ不浄の二つの宝玉は悍ましき光が差し込み、見るものすべてを狂気へと駆り立てるだろう。

 逞しきアギトはギラギラと覗く鋭い三角状の歯を隠すこともなく、荒々しい吐息を突風のように吹かせている。



 父なるダゴン――


 大気を震わし、有象無象を圧倒する、威容たる海の神が、とうとうその身を顕現させた。




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