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19話



 はじまりは一人の悲鳴からだった。

 町の中心だったか、東だったか、西だったか。どことも知れぬ民家から、一人の女性の、恐怖を喚起させるような叫び声が鳴り渡った。

 それは一人の人間の――一般的というのもおかしなものだが――ただの悲鳴であったはずなのに、ジューブルッフに住まう多くのものがそれを耳にした。

 しかし、それもすぐに収まった。


 一瞬の静寂を挟んで、つい呆気に取られていた町の人々もいつもの生活を再開した。

 あるものは食べかけのスープにパンを浸し、あるものは食べ終えた後の食器を洗い、あるものは座り心地のずいぶん悪くなったソファでまどろみを堪能しようとし、またあるものは酒瓶を片手に仲間たちとダーツの点数を競い始めた。


 何もなかったと放棄するものも、何か驚くことでもあったのだろうかと思案するものも、皆少しばかり話題にすることこそあったが、すぐにそれも忘れさられようとしていた。


 それがおかしいと気づいたのは、数分も経たないうちのことであった。


 二件目、三件目、四件目――


 町のあちこちで悲鳴が、そして怒声が上がり始めてからだ。

 初めのように女性の甲高い声、子供の金切り声、そして恐怖心を無理やり振り払おうという荒々しい男の怒声。それらがいつのまにか町の全体から絶え間なく聞こえ始めたのだ。

 酒場でゲームと洒落込んでいた連中もさすがにおかしいと気づき、酔いも吹っ飛んで表へと飛び出した。

 多くのものが自宅から、酒場から、宿から、それぞれ姿を現し、そうでないものもガラスの窓を開け顔を覗かせていた。


 ボドワンも、その一人だった。酒場で安物のシードルをあおっていた彼は、酒瓶も離さぬまま周りの男たちとともに外へ飛び出てきたのだ。

「なんだってんだよ、畜生め!」

 夜の冷えた風が体を冷やした。

 いやに不快な臭いの混じったそれは芯から凍えるような異質さを持ち、酒で火照った体にも、筋の繊維の隙間にまでじわりと染み渡るようだった。


「まさか、グルヌイユの連中がまたおっぱじめたってわけじゃあねえだろうな!」

 彼の隣で怒声を上げるのは飲み仲間の一人であった。不愉快だとばかりに皺を深くしたその顔には、それ以外の何か、焦りのようなものも張り付いている。

 北部の者たちはかつてとある暴動を起こしていたのだ。その時のことが彼らの頭を過っていた。

 当時は鉄道線路に群がるような悍ましき人の群れと、そして騒ぎに乗じてか南の町にも何人も何人も暴徒が押し寄せ、阿鼻叫喚の騒ぎになったのだった。



「――ひっ、あぁぁぁあああああっ!」


 また一つ、悲鳴が上がった。

 それはどこかではない、彼らの目と鼻の先でのことだった。

 酒場の隣、どこかの都市で料理を専門に提供するという店を見たとかなんとかで真似てはじめられた、ジューブルッフで最初の食堂。

 そこの店主の、気の強い一人娘が、悲鳴の主だった。

 いつもの勝気な鳶色の瞳は落ち着きがなく、視線の先のものを捉えて離さない、いや、釘付けとなって離すことができていないようだった。


 薄気味の悪い風が吹く。石畳の冷たさによって足元からやってくる冷えよりも、よっぽど体を震え上がらせる寒気が体を襲った。毛細血管がきゅっと締まるのを明確に知覚し、痛みすら走る。

 不快な生臭さが、一段と濃くなった。


 大通りではオイルランプの街灯が夜という時間においては眩い光を煌々と放っているが、何より数が足りない。鎧戸の隙間から民家の明かりが漏れ出ているといっても、月も登らない夜とあっては圧倒的に光量が足りず、視界が極端に悪かった。

 だからこそ、酔っ払って碌に視線の定かではなかった彼らではそれに気づくのが遅れたのかもしれない。



「お、おい、なんだあれ」

 はじめてそれを指さしたのは、飲み仲間のナタンだったかヤニックだったか。ボドワン自身ではなかった。

「あ?」

 震えた調子の声に促され、ボドワンは若干乱視気味の目を細めて、指の刺された方向へと目を凝らす。

 ちょうど街灯のそば、薄明かりと薄暗がりのはざま。方形に切りそろえられた石のタイルを敷き詰めた地面は、夜露にしては過剰に、そして不自然な広がり方をして地を濡らしていた。


 小さな水たまりのように、いやまるで水に濡れた足で歩いた跡のように、それは広がっていた。

 その水たまりには二本の、細いようなぶよぶよとしたような何かが立っている。地と接するのは魚のヒレを無理やり立たせたような、あるいは大きな亀の手を薄く広げたような、水かきのある歪な形のもの。

 その基部からやや前傾して伸びるのが、青白く、ぬめりけとがさがさの混じった不気味な二足。時折くすんだ青や緑の鱗のようなものをもち、鈍い光沢は橙色に揺れる街灯の灯りを照り返していた。


 それは痩躯でありながらも、その節々、人が陸上で生活する際にそうは使わないであろう部位に異様に発達した瘤のような筋の塊が見て取れ、決して貧弱な力で立っているのではないことを示している。

 やや蟹股に開いた二本の、認めたくはないが二足で立つ足に支えられたどことなく人と似つかわしい上体は前傾に傾けられ、不気味なほどに白い腹に浮かぶ青褪めた血管の筋道からそれが血の通った生き物であるのを理解する。


 サメ肌のようにざらついた腕はだらりと垂らされ、されど異様な数本の突起とヒレを備えた肘は曲げられ、その足と同じく大きな、不浄とすら思われる醜い粘汁を滴らせた短い指をした手では、棒状のもの――三又に分かれ、返しのついた鋭い穂を持つ錆付いた銛がしっかりと握られていた。


 何よりも恐ろしいのは、その悪夢もかくやというほどに悪魔じみた形相をした頭部だった。

 くびれの極端に喪失した、鰓のような切れ込みを持つたるんだ首に支えられているのは、およそ魚やカエル、あるいはその他の水生生物の特徴を色濃く備えた顔だった。

 いやに平べったい、毛の一本も生えていない大きな頭には発達し、瞼という機能を失った大玉の目がぎょろりとのぞき、ぱっちりと開かれたそれはこちらを睨み、鼻頭を喪失した二つの穴ぼこと、半開きになった厚ぼったい唇からは荒い息が漏れ、白い靄を作っている。


 その忌まわしき怪物は、ボドワンたちの姿を認めると「げっげっ」と気色の悪い、嘲笑じみた念を備えた唸り声を喉で鳴らすと、地を濡らす粘着質の水音を伴ってその足を踏み出した。



「……おい、おい。まじかよ――」


 ざり、と靴底が後ろに擦れる。

 その光景を見て、最も優れた判断をとれたのは皮肉にも奇声を上げながら走り去った、精神に異常をきたしてしまったものだった。

 ほかの、不幸にも正気の縁に手足をひっかけてしまったものは、臆病者も怖いもの知らずも関係なく、理性と体の統率が取れず、その場に立ち尽くしてしまっていた。

 走り去っていった誰かを知覚していたものはきっと『羨ましい』とでも思っていたか、それともそんな余裕は持っていなかったか。


 彼らは見てしまった。

 その異形の両生類が、神が作ったとは到底思えない怪物が、群れをなし歩くさまを。

 それらは特徴こそ似通っていたが、誰一人とて同じ顔はない。魚、カエル、サンショウウオ、あるいはそれらが混じったような。

 数多にいる水生種たちが急に二本足をもって立ち歩くように進化したかのようだった。


 それは決して一匹ではなかったのだ。

 二匹、三匹、四匹と、続々と暗闇の向こうから、水音と不気味なゲタゲタ笑いを伴って歩いてくる。


 一匹が、不気味な吠え声を上げた。

 それに呼応して、まるで醜いカエルの合唱でもするかのようにその場の数匹が吠える。

 悍ましい、喉を鳴らしてひりだされたそれを聞いて。

 人々はようやく、はじかれたように逃げ出した。

 喚き散らし、時には誰かを押しのけてまで。

 押し倒されたものに手を差し伸べるものなど誰一人いない。皆が皆、その怪物から逃げることだけを考えていた。


 ゲラゲラと、その無様を楽しむかのように笑う怪物たちは、ゆっくりと、ゆっくりと歩を進めた。



 ***



「なんなんだよ、こいつらは!」


 泣き言を叫びながらも己の得物を構えるのは、不運にもジューブルッフ駐勤になってしまった鉄道警備隊の男だった。

 コック・ポジションから引き金を引く。

 雷管で爆発が起こり、一瞬の間も置かずに炸裂音が轟いた。

 しかし、味方含め既に数回の斉射の後。月にすら見放された闇夜の上、白煙が視界を覆っていては狙いも碌につけられない。

 その一撃は、嬲るかのようにじわじわと迫る怪物どもの嘲笑を永遠に止めることはできはしなかった。


 命中しない。

 当たれば倒れることはわかっているのに。

 特別素早いわけではない怪物たちは、まぐれ当たりかもしれないが何度か凶弾に倒れていた。決して不死の存在などではない。その事実が儚いながらも希望を抱かせるせいで、外した時により焦れったさを覚えるのだ。


 近寄って撃てばそれもましになるのだが、後ずさりこそすれ、足を前に出す者誰一人いなかった。

 また、恐慌からか戦列というものがまるで機能していない。並んで撃てばまだ可能性も高かったろうに、誰もが個々勝手に発砲していたのだ。


 戦闘の端緒を切ってから数分後、恐慌から幾分立ち直り、足並みも揃い始めたとはいえ、それも完全ではない。

 彼らの武装は管打式のマスケット銃。先込式で、弾丸と火薬を包んだ紙製薬莢をラムロッドで込めなければならない。到底連射などできない代物で、個人で撃てば必中させない限り敵の接近を容易に許してしまう。


「くそっ、くそっ、くそったれ! なんで当たらないんだ畜生めっ!」

 薬莢を銃口に詰め、ロッドで押し込む。この行程がいちいち煩わしい。訓練で慣れていたとはいえ、それでもどうしても時間はかかってしまう。

 ゲタゲタ笑いながら突きつけられている銛に捉えられぬよう、必死に後退し距離をとりながらそれをこなす。



 彼らはそも軍人ではない。訓練こそ受けていたが、それでも想定された対象は人だった。

 今相対しているような、半魚人とでもいえる怪物などでは、決してなかったのだ。


 連中はただでさえ恐ろしい形相を歪にゆがめ、「ゲッゲッ」という気味の悪い吠え越えを上げながら突進してくる。

 蟹股のそれはひどく不格好だが、だからこそ怪物然とした様をまざまざと見せつけられた。


「もうっそこまで来てるぞっ!」

 後に続くはずの銃声がないことを訝しみ背後を振り返ると、10人はいた同僚が今や半分に減っていた。

 まだ悪魔の手が届いたわけではない。

 彼が気づかぬうちに、逃げ去ったのだろう。

 しかし混乱した頭では彼もそこまで考え付くに至らなかった。減ったことにすら、気づいていなかったかもしれない。

「ちっ」

 残った連中がラムロッドで銃口をつついているさまだけが目に映り、ひどくじれったく感じる。震えた手ではうまくロッドを扱えず、途中でつかえてしまっているようだった。涙も鼻水すらもこぼしながらの必死の形相を見ても、もはや悪態しか吐けなかった。


 こちらに迫る異形は5、6匹ほど。


 しかし、当然のようにこれだけではない。

 町中には、湧いて出た虫のように底知れない数の化け物がうようよといる。今や立って動いているものは、人間より怪物のほうが多く思えた。


 実のところ、これは彼が知らぬことではあるが、もともと襲撃者たちのほうが圧倒的に数を誇っていた。

 彼ら、北部に住まう海の眷属たちは、ジューブルッフに移住してきてからというもの増えることはあれ、減ることなど滅多になかった。

 人に比べ長きを生きたものは底知れぬ、物理法則をおよそ無視したかのような深い水底に身を隠していたのだ。

 だからだろう、彼らは一向に減る気配を見せない。


 町中を逃げ惑う者、家の中に隠れていた者。

 彼らが本来守るべきことを想定していた対象ではないが、それでもやはり助けなければならなかった者たち。

 彼らは錆び付いた銛で突かれるか、包丁や鉈で切られるか、そのどちらかで死んでいく。

 恐怖にまみれた断末魔を上げながら、血だまりの中に沈んでいく。


 地獄のような光景だった。



 彼ら警備隊の一部隊がもともといたのは町の中心付近。

 高台にある広場に陣取っていたが、だんだんと後退せざるを得なくなり、とうとう道幅の広い街路にまで追いやられ、町の端のほう、彼らの詰め所の方向まで逆戻り状態になっていた。

 恐ろしいことに、彼らの背後でも悲鳴は鳴り響いている。

 いや、前方も、左右も、そして背後も。そこかしこから。

 

 発砲音もあちこちから聞こえた。しかしそれは、一向に収まらない暴虐の光景の中、何の慰めにもならなかった。

 警備隊は暴徒による襲撃を悟るや否や、隊を複数に分け、町中に広がった。このありさまを見ると、それは悪手だったかもしれない。

 悪魔の行進によって齎された恐慌の中において、まともに動ける者は少なかった。

 弾幕が、圧倒的に足りなかった。


 何より不幸だったのは、ジューブルッフにいるのはほとんどが新任の隊員だったことだ。

 ベテランの、それこそかつての暴徒鎮圧に参加したものは、その多くが職を辞したか、少なくとも本部の方で内勤などに移動していた。

 新たに配属された多くのものは彼らを、人を撃つ覚悟のできていなかった軟弱ものだったのだと、口に出さずとも内心で見下した。

 しかしそれは、間違いだった。

 彼らはその時、見ていたのだ。

 この悍ましき怪物たちの姿を見ていたのだ。



 異形どもの襲撃は、町全体に広がっている。

 全周囲で、男の平静を奪うような、喉をがらがらとさせるような唸り声や吠え声が高まっていくのが聞こえていた。

 間違いなく、怪物たちは増えていた。

 そして、彼らを一人たりとも逃さぬよう、町の外周、複数ある門付近すらも抑えられていた。

 逃げ場すらもなかったのだ。




「助けてっ! だ、だでかっだずげでえぇええっ!」

 すぐ近く、交差した路地に立っていた民家のドアが乱暴に蹴破られ、中からまだ若い女性を担いだ異形がのそのそと現れた。

 それも、既に何度も見た光景だった。


 幸か不幸か、殺されなかったものは、特に女子供を中心に、あの悍ましき悪魔どもにまるで戦利品とでもばかりに担がれていく。


 それを見るたびに、義憤にかられ血が沸き立つのと、愉快気に歪められた怪物の顔に底知れぬ恐怖を覚えるのとで頭がくらくらしてしまった。

 精度の低い銃では、彼女を攫う暴漢だけを狙い撃つことなど到底できない。目と鼻の先まで近寄ればそれも可能だが、彼には到底その勇気が湧かなかった。


 歯がみをしながらも、それを見過ごすことしかできない。一発撃つのにも時間がかかる上、弾にだって限りがある。威嚇射撃なんてこともできなかった。


 彼女たちが連れていかれる先は間違いなくあの忌々しい北の廃墟街だ。人の住む町とは到底かけ離れた不浄の地で、連れていかれた者たちがどんな目にあわされるのか。

 想像もしたくないほどに恐ろしいことに違いなかった。


 その場で死ぬのと、どちらが幸せだったのか。ふっと頭をよぎったとりとめもないはずの疑問だったが、彼にはその答えがまるでわからなかった。



「――あっ」


 いつの間にか、目の前に二又の刃物が突きつけられていた。迫る怪物から目を逸らしてしまったこと、何の意味もない疑問に思考を傾けてしまったことが、失敗だった。

 ゆっくりと、憲兵隊の制服が銛の穂によって突き破られていく。

 錆びて鋭さなどとうに失った金属に無理やり引き裂かれ、ぷちぷちと繊維が嫌な音を立てた。



 それは難関の門を突破した証。

 それは厳しい訓練に耐え抜いた証。

 それは使命と理想を背負っている証。


 だがそれは、ただの布でしかなかった。


 ゲタゲタ笑いが、耳元で聞こえた。



 ***



 遥か暗闇の向こうで、空を裂く炸裂音がいくつも弾ける。遠く聞こえる阿鼻叫喚の中で一種独特なその音は、機関銃のような掃射ではないが、一発、二発、三発と続けざまに発砲している証だ。

 銃声はいまだ収まることがなく、そこがいまだに地獄の底のような様相を呈しているだろうことは、たやすく予想できた。


 道も畑も水面も関係なく、ただただ一足飛びに駆けるが、だいぶ遠くまで歩かされたためまだ町へは着きそうにない。


 大地を捲りあげながら地を踏む自らの足に、違和感を覚えないわけではない。まさに人外の所業だ。

 だが、考えに耽ることも、己の変わりように嘆くことも、ましてや頼もしく思うこともない。

 体はそれを当然のことのように認識していた。

 一瞬で過ぎていく景色など目にも入らない。

 ただただ先に進むことのみに専念すればいい。

 そう、自分はただ〝約束〟を果たすだけを考えればいいのだ。




 悲鳴が耳に届いてから、どれほど立っただろうか。体感ではまだ10分も過ぎていないはずだった。

 キロ単位の道程を無心に駆け抜け、目の前まで迫った町の外壁、その開口部。木柵でできた町の門を一息に飛び越えた。


 宙に浮いたままに周囲に目をやれば、大鉈、銛、包丁等を持った歪な怪物たちがぎょっとした面持ちでこちらに顔を向けていた。

 南部の町どころか北部の通りでも見なかった、人の面影など二足で立つことくらいしか残されていない、完全な怪物の姿だ。

 もしかしたら、北部で見たローブの連中、そのフードの下はこんな顔だったのかもしれない。


 口角泡を飛ばしながら何事かを喚く怪物、その中で手近な一体へめがけて、駆けた速度をそのままに、腰のベルトから引き抜いたナイフを突きつけた。

 ずぶりと皮を破る感覚も一瞬のうちに過ぎ、抵抗などまるで無視してその柔らかい肉に肘までが沈み込んだ。

 勢いの付きすぎた初手は、胸のすぐ下に大穴を開けることとなった怪物を引き連れて、10数メートル先の民家に激突することでようやく止まった。


 激しい重低音と、不愉快な水音がこだまする。


 壁に空いてしまったこぶし一つ分の穴から腕を引き抜くと、壁と一体化したつぶれたカエルのような不格好な肉が、支えを失ってぶちゅりと音を立てて地に落ちた。

 粘っこい液体が前腕から糸を引き、赤い粘液を吸った布地がてらてらと光る。

 握ったナイフは、石壁との衝突には耐えられなかったらしい、柄を残して砕けていた。

 どうせ安物だ、この程度だろう。

 しかし、素手というのも必要以上に服が汚れる。触手も論外だ。いちいち着替えを用意するのは面倒なのだ。


 ちょうどいいところに大鉈が落ちている。

 幾分頑丈そうだ、これならば何体分かは持つだろう。



 大鉈に手を伸ばしたところで、悍ましい喚き声を背に受ける。

 振り返ると、銛を持った勇敢な怪物が、その穂先をこちらに向けながら突進してきていた。

 それは同胞を殺された恨みなのか、それともやけくそというものなのか。

 まあ、気にすることでもあるまい。


 突き出された銛を左手で掴む。しかし、驚いたことに握った柄は乾いた音を立てて砕け散ってしまった。さすがにこれは予想外だった。力の加減を見誤っていたようだ。


 穂先を失った銛だが、鋭くささくれ立った柄は残る。

 突進の勢いは残ったまま。柄の先は握ったこぶしを抉るように突き進むが、手のひらには血の一滴も滲まない。

 木屑ばかりが、こぶしの合間からポロポロとこぼれた。

 半ばほどを失ってようやく勢いのなくなったそれを握る怪物は、もしかしたら呆けた顔をしていたのかもしれない。

 口は半開きにだらしなく開けられ、粘つく唾液が間抜けにも唇から滴っていた。


 その首を、鉈で叩き切った。


 無造作に振るわれた大鉈からは肉を裂く感触も、骨を断つ感触すらも碌に伝わらず、ちぎれた首はくるくると回ってから地に落ちた。

 天に向かって勢いよく血の噴水が舞う。しぶきがかかるのも癪だ。倒れ行く首なしの死体、戦意を喪失し腰を抜かす魚など放置して、先を急ぐ。


 目指すのは橋の向こう。


 連中の住処。

 神官とやらがいると思われる、あの歪な教会だ。



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