18話
昨日と同じ、出窓の天板に肘をつき外を眺めていると、外の世界はいつの間にか夕暮れになっていた。
日の出ているうちからあの帽子の男が来るとは思わなかったが、半日も時間を潰してしまった。
まあ、いい。
待っているだけで屍食鬼の情報がやってくるのだ、探す必要がないならこの町にだってもはや用はない。
真っ赤な夕日は遥か西方に伸びるジューラ川を越え、地平の彼方へ沈んでいく。
窓からは見えないが、そろそろ月が上り始める時間だろう。
いや、今日あたり、新月かもしれない。
闇夜に紛れる者たちにとって、格好の夜だ。
窓の外から視線を感じる。
そっとそちらに目をやれば、昨日と変わらない格好の男が路地の前に佇んでいた。
彼はそのまま路地の闇に消えていく。
宿屋で話をする、というつもりはないらしい。自分はそれでもいいのだが。
なにはともあれ、革袋をひっつかんで部屋を出る。
一階の酒場のカウンターでは、店主が日付がかなり遅れた新聞に目を通していた。
顔を隠すほどに新聞紙を広げ、どっかりと椅子に腰かけ、微動だにしない。
新聞で隠された顔は、どうなっているのか。
きっと少し赤らんでいるのだろう。
微量なアルコールの匂いが鼻腔をくすぐった。
フロアでは店員が夕方以降の仕事の準備を始めている。
横顔を覗くと、気の強そうな女性だ。てきぱきとした動きから几帳面さもにじみ出ていた。
いくつもある丸テーブルを、酔っぱらいは誰も気にしないだろうに丁寧に布巾で磨いている。きっと、宿のほうの掃除もあの店員がしているのだろう。天井のほうが甘かったのは、身長のせいで見逃していたのかもしれない。平均より少しばかり小さかった。
なんにせよ、酒場も宿屋も、昼間から隠れて酒を飲んでいるような店主にはとても務まらなそうだ。
まもなくここは酒を求めた客たちで騒がしくなるのだろう。
どこの町でも、こういった店はきっと変わらない。
娯楽の少ない時代、酒と賭け事は強いのだろう。
店の扉を開け放つ。ドアベルが掠れた音を立てた。店主がちらとこちらを伺うのを背中に感じる。
ここに戻ってくることはもうないかもしれない。しかしまあ、あと2日分の宿泊料は既に払っている。
振り向くこともなくドアを閉める。視線も既に切れていた。
***
路地裏へと足を踏み入れると、がさがさとした空気が肌を撫でた。日もあたらず、じめっとしていそうな暗がりはなぜかざらついていた。
一歩、また一歩進むたび、足元から伸びるより暗い影が辺りを包んでいく。
昨日と変わらない。
地面も、壁も、狭い空さえも黒い何かに覆われる。喧噪は、既に遥か彼方だ。
薄ら寒い風が吹く。亡者がすすり泣くような神経をざわつかせる不気味な音を立てて、路地の闇へと吹き抜けていった。
影の奥で息をのむのが聞こえた。だが、二度目ということもあってか昨日よりは驚きは少ないらしい。緊張こそすれ、怯えた様子はない彼の姿がゆっくりと目に映る。
しかし、どうにもその顔には焦りのようなものがひどくこびり付いていた。
「こんばんわ」
対する彼は、軽く頷くだけだ。
よほど焦っているのかそのまま口を開く。
「大変なことになりましたっ。あいつらは、あいつらは本当に恐ろしいことを考えていた。私の想像なんて優に超えるような恐ろしいことだ」
大きな手ぶりもつけて、彼は少しばかり声を荒げる。今までじっと堪えていたようで、それが爆発したかのようだ。
だが――
「それは、後にしてくれませんか。僕は屍食鬼のことのほうが知りたいです」
本音だ。
繕うとするのならば、彼を落ち着かせるという意図もあった。このままでは勢いのまま滅茶苦茶な話を始めてしまいそうな雰囲気だったのだ。
恐怖からではなく興奮で鼻息を荒げ、今にも掴みかからんと身を乗り出した彼の様子は昨日夢の内容を語っていた時を彷彿とさせる。
「しかし、本当に大変な――」
「後にしてくれませんか?」
二度目の忠告に、小さく息を呑んだ彼はようやく引き下がった。
少し、悪いことをしてしまった。罪悪感のようなものが薄っすらとだけ浮かんできた。
「それで、どうだったんですか」と促してやれば、彼はしぶしぶといった様子で語りだす。
「屍食鬼という奴らのことは、神官たちはやはり知っていました。穴倉に潜み、死肉を漁る浅ましい連中だ、と」
「それはいいんです。どこにいるかとかは、聞けましたか?」
「はい。連中は覚醒世界とドリームランドの双方にいるらしいです。またはクン・ヤンの古い地下世界にも少なからずいるだろうと。覚醒世界においてはいたるところに穴倉を持っているそうです。それを通路として、あらゆる場所に現れるとか」
覚醒世界とドリームランド? 覚醒世界というのはおそらく普通の世界だろう。ならばドリームランドは? 異世界のことか、それともそのまま夢の中のことなのだろうか。
地下世界、はそれこそそのままだろう。地底人なんてものが本当に存在していることになってしまう。
笑いも出てこない。
「その中でも多いのが人が多く多つまるところ、人が多く死ぬところ。そういうところによく彼らの洞窟がつながっているのだと、神官は言っていました。スラムや墓地なんかがその例でしょう。特に採石で大きくなった都市などでは石灰などをとるための古くからの採石場が。ほかにも、大きな街では下水道も本格的に整備され始めました。今では人間が作った穴がかなり増えたので、そこにひそかに彼らの通り道をつなげているそうです」
「つまり、都市、その地下にいけば屍食鬼を見つけられると?」
「おそらくは」
そうか。都市か。
「一番多いのは、やはり首都でしょう。しかし首都まで行くとなるとかなりの距離があります。ここから一番近い、ラロシェルも、それこそちょうど採石で有名な大きな都市です。あそこは都市の地下でも石をとっていたとも聞きます。あなたが求めるような穴もいくつでも存在するでしょう。まずはそこを目指してはどうでしょうか」
ラロシェル。確か、ロランスの客たちもたまに出稼ぎに行っているという都市だったか。
彼らの話ではあまり綺麗な街ではないらしいが……だからこそ、あの薄汚い連中もいるかもしれない。
「そう、しようかな。ありがとう」
「いえ。〝約束〟なので」
いやに約束を強調した彼は、そわそわしながらも、彼にとっての本題へと舵を切った。
「それでですけど、北部の連中の話です」
一応は伺いを立ててくる。ぎょろ目が所在なさげにこちらを見ていた。
聞きたいことは聞いたのだ、そのまま無言で待つ。それを許可と捉え、安心したように彼は話を続ける。
妙な上下関係ができてしまったものだ。
もっとも、そうなるように仕向けもしたが。
「連中は本当に大変なことを考えていました。これはあなたの計画、屍食鬼を探しに行くという目的にも関わることです」
「鉄道の線路を破壊したいとかじゃなかったんだ」
「それも目的の一つです」と、彼は遥か北側のほう――ちょうど自分の頭の上のほうへと視線を向けた。暗闇に閉ざされていることに気づいて、またすぐに視線を戻したが。
「鉄道に関しては、どうやらこの町、ジューブルッフ、そして彼らの拠点であるグノーループ――こちらははるか南方の港町なのですが、そちらのほうまで近代化の波が波及するのを恐れてのことだったみたいです。近代化が進み、人々の暮らしが安定化すれば彼らが入り込む余地が少なくなってしまうからと」
「なら、本当の目的とやらはもっと別のことなのですか?」
ありがちなものであれば、世界征服といったところか? ひどく陳腐なものに聞こえるが、力を持った者にとって、それをなす術を持った者にとって、それは現実的な欲望の到達点の一つに過ぎない。
彼は少し興奮気味に、そして恐ろしいものを思い出すようにして、震える声で話し始めた。
「はい、彼らは町で人を攫い、その人たちを生贄に『父なるダゴン』を呼び出そうとしているのです」
「ダゴン?」
聞いたことがあるような、ないような名だった。間違いなく、脳の奥底に根を張る暗黒の知識には記されている情報だろう。しかし、それを呼び出す気はない。脳髄の間隙を無理やり押しのけるようにして、冒涜的な蕾を携えながら枝を伸ばそうとするそれから意識をふっと逸らす。
「はい。私は見たことが――夢の中でしかありませんが、『父なるダゴン』は我々……彼ら深きものどもの長、祖といってもいい、大いなる神の名です。我々……彼らとダゴンは、ルルイエにて眠る偉大なるクトゥルーの再来のために活動し、地上を再び狂乱のもと支配するための準備を……父なるダゴンの力で人々の安寧を崩し、我らが人の世に紛れ込む。成功すればいくつもの都市を壊滅させ、そこにヰ・ハ・ンスレイから同胞がその地を手中に収めんと……だからダゴンを呼び出すのは、それだけは阻止しなければ」
忙しなく動いていたぎょろ目は次第に焦点を失っていく。茫洋としたそれはいったい何を映しているのか。震えるようだった声は低く唸るような、獰猛で気味の悪いものへと変わっていく。
明らかに精神がやられているような彼の様子に、どこか感じるものがある。
『何を言っているのか、さっぱりわからないのだけれど』
闇に溶けるような声でそう告げれば、彼はピクリと一度静止した後、体の震えをこれでもかと大きくし、「お、おおおお、お」と唸る。
額を抑える手は、その小さな指で顔を掻き毟っている。
「私は、私は、違うのだ、私は人であって、彼らのように、怪物には、違う、違う……」
口からは泡を吹き、唾を吐くような呟きが漏れるたびに嫌な音が滴る。
もう、駄目かもしれないな。
「話は終わりなら、もう帰ってもいいかな。もちろん、よくわからないまま人殺しなんてしたくない。このままジューブルッフを去るけれど」
「――それは、それはダメだっ! 約束をしたっ、あいつらを殺すのだと、やつらの暴挙を止めさせるのだと」
「なら、さっさと続きを話してよ」
「うっうううううううっ」
悪夢を振り払うように頭を滅茶苦茶に振るう彼の姿は、見ていてとても―痛ましい《あいらしい》。
きっと必死に抗っているのだろう。自身のルーツに、自身の辿るべき運命に。
その様を、目を逸らさずに、しかし何か手助けをする出なく、ただただ見ている。
それはもしかしなくても、未来の自分の姿でもあった。
ここで終わらせてあげるのが、人のまま終わらせてあげるのがもしかしたら正しいことなのかもしれない。彼にとっての救いなのかもしれない。しかし、それはしたくはなかった。頼まれればするが、そうでもない限りは。
既に彼に〝人〟を見てしまったのだ。
真に化け物であれば、きっと躊躇なく殺していたというのに。
人殺しには、できるだけなりたくなかった。
傲慢な振る舞いをしておいて、なんとわがままなのかと思わなくもない。
所詮は同じ化け物なのだと、冷めた目で見ないわけでもない。
彼が人である限り、殺すつもりはなかった。
願わくば、彼には人のままであってほしかった。
「連中はっ、我々はっ、新月の闇に紛れて人を攫うのです! そして、そいつらを生贄に、司祭様が我らが父を呼び出すのだ……父なるダゴンは、川を氾濫させっ……はるか上流まで逆流させるのです! 最も近い都市、ジューラ川を遡った先の都市ラロシェルを洪水で半壊させるのだ!」
彼は混乱しながらも、その精神を汚さんとする狂気に抗いながらも、彼ら深き者たちの陰謀を語った。
「半壊なんだ。全部壊さないの?」
「すべてを壊してしまえば、人間たちはそこからいなくなってしまうかも、しれない。だからある程度被害を与えた後は、復興を名目に我らがその土地へと入り込むのだ。普段は我らを忌避するとはいえ、復興には人手が必要となるので諸手を上げずとも、きっと受け入れられはするでしょう」
「それでそこに居座るんだ」
「そうして、私のように、人との間に、無理やりでも子を生し、その血を我らのものと入れ替えていくつもりなのです」
「人間の血を汚して、仲間を増やすと同時に人間の数すらも減らそうってことか。たしかに、鼠算式に増えそうだね」
恐ろしいといえば恐ろしい計画だ。気づけば自身の子孫が化け物になっているのだから。
しかしそれも成功すればのこと。無理やりに子を生すと言ってはいるが、それもそううまくはいくまい。何せ彼らの容姿どころかその性質まで人のそれとかけ離れている。あからさまな嫌悪をしめされ、碌に近づくこともできないだろう。彼のように、『子供のころは人と同じ』な者もいるのかもしれないが、それは時間制限があるということだ。
何より強姦は犯罪だ。
人権なんてまだまだ守られていないに等しいこの時代、彼らによる被害が増えればいつか一斉に検挙され、民族ごとの浄化もあり得ない話じゃない。
「いくつもの都市、いくつもの国で同じことを行う。そして、現地の同胞が、そしてヰ・ハ・ンスレイに住まう古き者たちも、一斉に人の世に混じりこむのだ」
「だから、だから止めないといけないんですっ」
正気と狂気の狭間を行き来する彼の目は、尋常でないほどに大きく見開かれ、今にも飛び出そうな大きな目はもはや瞼を完全に下すことができなくなっていた。
潤んだ瞳は目を乾燥から守るための防衛機構なのか、彼の感情に呼応しているのか、判別はつかなかった。
濃厚な水の臭い、北の地に漂っていた、鼻をふさぎたくなるような一種独特な臭いが立ち込めていく。
遣る瀬無さが胸に燻った。
「情報はもらった。それに、ラロシェルに被害を出されても困るから、力を貸してあげるのはやぶさかじゃないよ。でも、そのダゴンってのを呼び出すのにどれだけ時間がかかるかわからないし、もし呼び出されたとしたら……さすがに神様に勝てる気はしないな」
「それでっ、それで構いません。私では、何もなせないっ」
「そう」
話は終わった。
もう顔を合わせている必要もないと、その場を後にする。広まっていた影が色を薄くし、それに合わせて濃密な生臭さは空に抜けていった。
「そうだ――」
一つ、聞こうと思っていたことを思い出した。記念というわけでも、思い出でも、ましてや情でもない。なんとなく、覚えておきたかっただけのこと。
「あなたの名前、教えてくれませんか」
「ミシェル……清く生きよと、主のご加護があるようにと」
一瞬呆けたように動きを止め、再起したころにはどこか柔らかな雰囲気をまとっているようだった。きっとこれが、彼と、ミシェルと交わした最後の言葉になるだろう。
「そうですか――あなたのことは、きっと忘れません」
「――用は、済んだろう。出ていけっ! そして我らの計画に今後関わるんじゃあない」
それもすぐに掻き消え、明確な敵意を持ちながら獣のように吠える彼の瞳からは、理性の色が消し飛んでいた。
厚いコートの下、膨らんだ背には一筋の隆起線が浮かぶ。青白い肌に、緑灰色の瘡蓋は魚の鱗を思わせた。厚ぼったい唇は長く裂け、てらてらと光る牙が覗く。
「わかったよ。〝約束〟だからね」
さようなら。
荒々しい闇が彼の身を覆い隠した。
***
太陽が地に落ちきるまで、まだわずかばかりに時間があった。
町の中央を走る往来にもまだまだ人も多い。
朗らかな声がそこかしこから聞こえてくる。
吹き付ける寒風にも負けない、活気ある声だ。
そろそろ夜になる。日中は日差しが出て暖かかったが、この頃からは、石畳の地面から冷えがやってくる。
カツリ、カツリと靴底を鳴らす。
パタン、パタンと不格好な靴音が鳴る。
ジグザグの道を何度か曲がった先の広場では、まだ露天商が何人か残っていた。
客足も遠のき始め、彼らも店じまいのようだ。広げていた商品をまとめ、荷車を押してどこかへと歩み去る。
人のいなくなり、寒々しい広場にも点灯夫が火をつけに来た。
広場から続く一番広い道を歩くと、徐々に町並みも様変わりする。緩いカーブを伴った坂道を下り、乱立するようだった建物も穏やかになっていく。
一度足を止め、振り返る。
足音もパタリと止まる。
遠くに見える時計台を見ると、時刻はもうすぐ5時になろうとしていた。
少し前にはまだ欠けた日が見えていたというのに、いつの間にやら夕闇もいよいよ深まった。
日はほぼ没し、月の上ることのない空は、凍えるほどに黒い。
星だけが輝いている。
いつもよりも一際、輝いていた。
「おい、こんな時間から外に行こうってのか?」
町の門付近までくると、仕事帰りだろうか、土に汚れた作業着の上から外套を着こんだ男が、話しかけてきた。
寒いのか、ポケットに手を突っ込んでいる。
「うん、ちょっと大事な物を落としてきちゃったみたいで」
気恥ずかしさを覚えているかのように眉を垂らす。
「せめて明かりくらい用意しろよな。待ってろ、俺のランプを貸してやろう」
言うや否や彼は背嚢を下ろし始める。褪せた緑のそれは、地面に置かれると鈍い金属音と軽く土埃を巻き上げた。
「ああ! 大丈夫ですよ、ほんのすぐそこですから。落としたなら、もうそこを探すだけなので」
「しかしなあ」
「大丈夫ですよ、本当に。それに、夜目は利くほうですし」
それじゃ、ありがとうございました、そう別れを告げて、ジューブルッフの、形ばかりの門をくぐる。
この先は街道。少しばかり田畑の広がる平原が続いて、遥か西にはきっと村か町がある。
明かりも持たず、一人歩く。
石畳は町を出てすぐに途切れ、ここから続くのは土の地面だ。
広がる田畑も、この時期となればほとんどが枯草色で、刈られた草が田畑の脇に山のように積まれている。
中にはまだまだ元気な緑もないわけではない。キャベツだろうか、冬に収穫する野菜も育てているようだ。
もう少ししたら、ここらも雪が積もるのだろうか。
そうなれば、一面の雪原となって、きっときれいだろう。
さらに歩けば、時折三日月湖が現れる。少しばかり道にも高低差が出てきて、地面もどことなくしっかりとしている。
湖を避けるように道も、田畑もぐねぐねとうねった。
ジャリ、ジャリと、一人歩く。
一人分の足音だけが静寂に響く。
後を付けてくる者も、もういなくなっていた。
もう一度、背後を振り返る。
遥か彼方に見えるのは、疎らな明かりに彩られたジューブルッフの町。どこか地中海風な町並みを思わせた姿も、今や暗闇に閉ざされている。
北側はもはや、闇でしかない。
夜という大きな影に飲まれ、ひっそりと息を殺しているかのようだ。
この景色を見るのもきっと最後になるだろう。
しばらくそのまま、夜の町を眺めていた。