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17話



 宿の窓から、ようやく沈み始めた夕日を眺めていた。曇ったガラスから差し込む西日が眩しい。

 朱色に染まった太陽。それが、枯草色の田畑ばかりのだだっ広い平野と、夕日を照らして銀に照り輝く川の下流へと沈んでいく。



 墓場を後にしてからは、どうにも気勢がそがれてしまい、寄り道もせずに宿屋に引き返していた。

 それからも、何をするでもなくぼうっと時間を過ごし、気が付けば出窓の天板に肘をついていた。別に、景色を眺めていたというわけでもない。目線をさまよわせるでもなく、かといってどこかを注視するわけでもない。

 視界も何かを映していたというわけでもなく、ただただ移ろいゆく町の景色に漠然と顔だけを向けていた。


 目をさすような夕日に、はじめて何時間も過ぎていたことを悟ったくらいだ。


 だからこそ、それがいつからだったのかがわからない。

 ふと、眼下に広がる景色の中に、どことなく違和感を覚えたのだ。


 宿が面するのはメインストリート。

 寒さに首をすくめながらも、点灯夫が街灯に灯をともし始めている。

 既に素面には見えない、仲のよさそうな二人組が酒場の戸を開く。

 世間話に興じていたご婦人方が別れの挨拶をし、各々の自宅へと帰っていく。

 畑仕事の帰りだろうか、泥まみれの男たちが寒さなど知らぬとばかりに気勢よく歩いている。

 暇なのだろう、本来の仕事ではない警邏の真似事をしていた鉄道警備隊が、きびきびと歩み去っていく。


 誰も彼もが和やかに、そして各々の仕事、生活を過ごしている。今を輝かしく生きている。暖かな人の営みが町の端まで広がっている。

 そんな中での、違和感。

 生き生きとした人々と、まさに対になるような陰気な気配。どことなく、悪感情を抱いてしまいそうな不気味な視線。

 視界の隅、建物と建物の間。物陰になるような場所で、こちらを見上げる人物がいることに気づいた。


 見間違うことはない。

 目深に被った中折れ帽、やけに襟を立てたシャツ。コートも同様で、ぴっちり隠された袖口から覗くのは手袋に覆われた大きな手。

 昨日、夕食の際に見かけた男だ。

 部屋の隅で独り料理をつつき、ボドワンに絡まれていた男。

 北側の住人の面影を持った男。


 彼は安宿の窓、つまりは自分のことをじっと見つめていた。やがて、こちらが視線に気づいたのを確認すると、背を向け、暗い路地裏へと消えていった。


 

 誘っているのだろうか。


 天板に預けていた体重をそっと外す。

 ベッドに放置していた革袋をひっつかんで適当にベルトにくくりつける。


 そのまま宿屋を後にした。



 ***



 路地裏へと足を踏み入れると、暗い影の中でごくりと唾をのむ音が聞こえた。

 数歩戻ればすぐ表通りだというのに、喧騒がどこか遠いものとなっていく。

 思考がすっと、切り替わっていく。

 思考がどろりと、黒いものと混じり合っていく。


 闇の深みへと、躊躇なく歩を進めていく。

 濃い、濃厚な影が壁を、地面を、空間全体を埋め尽くしていく。

 体の輪郭が、闇に溶けていくようだ。


 闇の中に佇んでいたのは、痩躯の男だ。


 窓から見えた、中折れ帽の男。

 正面から改めて見れば、その顔の異様さがよくわかる。顔は頭蓋骨から他人と違うのかと思われるほど妙に縦に平べったく、両脇の耳もやけに小さかった。

 大きな眼球は眼窩から飛び出しそうで瞬きもし辛いだろう。

 立てられた襟から覗く肌はひどく不健康そうに青白く、どことなくてらてらとしたぬめりを持っていた。体毛の少ない顔は、ところどころ水疱が破れた痕のように荒れている。

 年齢などまるで判別できない。


 飛び出しそうなぎょろめは所在なさげにちらちらと動き、満足に瞬きもできないのか充血気味だ。手袋に覆われた大きな手はぎゅっとこぶしを握り、荒い呼吸が異様に低い鼻をひっきりなしに膨らませてはすぼませている。

 再び、溜まった唾液を嚥下する音が聞こえた。


 彼はどうにも、ひどく緊張しているようだった。


 ――普通は逆ではないだろうか。

 そう思っても、きっと仕方のないことだろう。



「来てくださって、ありがとうございます」


 意を決したように、一度ぎゅっと閉じた瞼を見開かせた彼は、独特な、喉を鳴らし唸るような声でそう口火を切った。


「なんで、敬語なんですか?」


 平坦な声でそんなことを告げると、目の前の、一種の威圧感さえ放てるであろう異容をした男は「いや、その」と今まさにしどろもどろになっている。

 嗜虐心が鎌首をもたげ始めるが、そっとそれはしまい込んだ。


 こんな〝子供〟にも敬語を随分小心者なのだな。なんて、何も知らぬものが見ればそう思うのかもしれない。


 しかし、彼と、そして自分にとってはまた別の理由があるのだ。

 彼は、自分の正体を見抜いている。少なくとも、勘付いてはいるようだった。

 なるほど、北部の連中もきっとそうなのだろう。

 目の前で相対している分、彼は顕著な反応を見せるが、北部のあの陰気臭い連中も似たような反応ではあった。


 自身の勘も、捨てたものではない。

 一方で、古臭い常識のほうはさっさと捨ててしまうのがよかったらしい。

 彼も、彼らも、普通の人間ではないということだ。その異容は正しく人外由来のものだったわけだ。

 あの犬畜生共と同じように、人の世に非ざるものだったらしい。



 しまい込んだ蛇の頭が再び起き上がる。

 今度はそれを抑えることもない。

 化け物相手に情はいらないのだ。

 冷えた目で彼を見る。

 しかし口元はうっすらと吊り上がっていた。

 嬉しかったから?

 それとも嫌悪していたから?

 どちらだろうか。


 目の前の彼は慌てる一方だ。

 まあ、聞きたいこともある。殺してしまうのは――まだにしよう。もしもがあってはいけない。

 一度確認しておこう。

「お前は、何だ? 人間か?」

 思った以上に冷たい声だった。

 自分ではない誰かのもののように、この体の声帯ではない何かからずるりと這い出てきたように。底冷えするほどに悍ましい声だった。

 驚くほどのことではないが、我ながら酷い嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

 しかし、それもまた彼にとっては恐怖的なものに移ったのだろう。

 せわしなく動いていたぎょろ目はいよいよ焦点があわず、このままでは卒倒でもしかねない。

 これでは話もできまい。


 しかし、雰囲気などどう変えればいいのかがわからない。

 とりあえず、目を閉じ、一度息を吐く。

 かつての自分を思い返しながら。

 闇の中で、輪郭が蘇る。

 嗜虐心に満ちていた心がふっと冷静になっていくのを感じた。波が引くように黒い感情は姿を消し、泥のような何かがわずかに燻るのみだ。

 先ほどとは、まるで違う心の在り方。

 今までの自分が、本当に自分であったのかも疑わしいほどに。


 目を開く。


 彼は恐ろしいものを見たように顔を歪めていた。許してくれるだろうか。自分自身、恐ろしかった。

 恐怖に歪んでいても、それでも顔色は先ほどよりは幾分ましだった。

「それで? あなたは、人間なんですか?」

 優位であることは悪いことではない。相手の正体がわかる前に下手に出るのと、最悪嵌められてしまうかもしれない。

 だから、同じ問いをもう一度。余裕を、そして上位者であることを振る舞うように。

 子供らしい、高く、透き通るような声だった。


「――私の、父と、母は人間でした。間違いなく」

「なら、あなたはどうなんですか。僕が思うに、それは病気の類とはとても思えないのですが」

 彼の全身を見渡す。露出している部分だけでなく、服の下に隠されたものがどうなっているのか、それが知らず頭の中にイメージとして確立する。

 青白く、ぬめった肌。

 しかし瘡蓋のようにがさついた肌は、鮫肌のようになっている。

 そして、その手と足には、水生生物のように水かきがついている。


 彼は、呼吸がし辛いかのようにその厚ぼったい唇をパクパクさせている。見透かされているのがわかったのか、それとも単純に怖いのか。

「――確かに、私の見た目は、あの北側の連中と何も変わりません。しかし、私は確かに人間として生まれてきたんです。子供のころは、町の皆と何も変わらなかったっ……!」

「なら、なんでそんな姿になってしまったんですか? まさか魔法をかけられた、なんていいませんよね」


 彼はだらだらと冷や汗を流していた顔を伏せると、ぼそぼそと、先ほどよりもより聞き取りづらい声で答えた。

「……やはり、私はやつらと同じ血を引いていたんです。それは、祖母の代からだった。祖母が、向こうの連中との間に作ったのが私の父なんです。父は子供のころも、そして大人になってからも人間のままだった。だから、きっと安心していたんでしょう。しかし、私が生まれ、育ち……きっと、向こうの連中とのかかわりがよくなかった。少しずつ、私はやつらに似たような顔つきになっていったんです。そして、祖母から私には北部の血も流れているんだと教えられました」

「……」

 隔世遺伝、というやつだろうか。いや、子供のころは普通だったというからには運悪く〝素質があった〟ということか。

 同情の余地がありそうな話だ。しかし露にもそれがわかないのは何故だろう。

「もう少ししたら、きっと心まであいつらと同じになってしまう。それはきっと避けられない」

「なんでそんなことがわかるんですか?」

 大きな手袋で、彼は目を覆った。思い出すのも恐ろしいとでもいうように、彼の肩はプルプルと震えている。

 それは自分が路地裏に足を踏み入れた時のそれよりもひどく、より恐ろしい何か、あるいは耐え難い精神的凌辱に苛まれているのだということを示していた。

 『思い出したくないなら、言わなくてもいいんですよ』普通ならそう、言うべきなのだろう。何もそんなことを話すために彼は自分を呼んだのではない。

 そして、自分もそんなことにさして興味もないのだから。

 それでも、勇気をふり絞ったのか、彼は顔を上げる。人間とは程遠いそれをぐしゃぐしゃに歪め、不快感すら覚える。それなのに、目の前の男がどうにも眩しいもののように見えた。

 とても人間らしく見えたのだ。

「夢を、夢を見るようになったんです。深い、深い水の底を泳いでいる夢だ。その時の私の姿は、そう、完全にあいつらと同じ姿で、もしかしたらそれ以上に化け物じみていたかもしれない。もはや人間の形をした魚といったほうがいい。周りには私と同じ、なんらかの水生生物の特徴をもったような顔、水かきと大きなひれ、そして気味の悪い緑灰色の鱗を皮膚に持った怪物が泳いでいて、完全に閉じなくなった瞼を、濁ったぎょろ目をこちらに向けていた」

 

 次第に熱が入り始め、彼の体の震えに呼応するようにその話口調も激しくなる。

「私はそいつらと仲間だった。深い海の底を揺蕩い、見たこともない深海の魚たちをかき分けながら底の見えない水底を目指していた。

深みにいけばいくほどそこに住まう連中はよほど化け物じみていった。私よりもっと、もっと恐ろしい。人の何倍も大きいような魚のような化け物だってそこを目指していた。気味の悪い水生生物たちはみなその手足を巧みに使ってどんどん、どんどん深くまで潜っていくんだ」


「そこは光なんて届かないはずなのに、不思議とはっきりと見える。私はまだたどり着いていない。あの深い水底に沈んだ神殿に、滅んだはずの都市にたどり着いていない。でもきっといつか、もうすぐあそこに泳ぎ着いてしまうんだろう。私の仲間たちはどんどんとそこまで泳いで行ってしまう。私はそれを追いかけているんです。だからきっと私もそこに足を踏み入れてしまうんです。そこにいるのはきっと恐ろしいもの。恐ろしい旧き支配者が眠っている。お、おお! おお! いあ・いあ・くとぅるー・ふたぐん! ふんぐるい・むぐるーなふ・くとぅるー・るりえー・うがあ=なぐる・くとぅるー・ふたぐん! そして、そして! その恐ろしいものを、恐ろしいものに、彼らは皆仕えている。北部の連中は、深海に潜らずともかの支配者の僕であることを理解している連中なんだ。そして、かの死せる神の望みのままの行動をし、いつか彼が蘇ったときのために世界を動かそうとしている、恐ろしい計画を進行しているんだ」


 気を違えたかのような悍ましき、海の悪魔たちの主を称える祝詞をはさみながらも、彼はその夢の出来事を吐き出した。

 妄執じみた独白を終えた彼はひどく錯乱したまま、自分の肩を掴んだ。手袋越しに、湿った、生臭い液体がしみ込んでくるような悪寒に見舞われる。

 荒い吐息が、すぐそばにあった。

 口はだらしなく半開きになり、ギラギラと覗く歯は臼歯であろうものも鋭くとがっていた。

 湿った手も、生臭い息も、何もかも不愉快だった。

 不快感を隠すつもりもない。

 彼は自分の不機嫌な顔を見てはっとし、すぐに先ほどの位置へ、数歩下がった。


「それで、結局何が言いたいんですか。殺してほしいんですか?」

 不快感からか、予想以上に辛辣な言葉が飛び出た。

 別に、信じていないわけではない。


 彼の言葉が嘘だとは思わない。

 ただの妄言だとも思わない。

 彼の見た夢の内容にはただの一片も疑いの余地のない真実の一つであり、彼はあるいは実際にその地に行っていた、つまりは正夢の類であるのだ。

 海という強大な檻の中にあってもかのものと縁をもつ、あるいは精神感応に不幸にも優れてしまった存在ならば、人知では明らかに計れない異質的手段にによってばらまかれた思念を捉えることも不可能ではない。


 夢の中で彼が目指していたのははるかかつて失われた太古の大陸にあった都市、海洋に沈んだ異星よりの者たち――それこそ深きものどもとは比較にならないほど悪魔じみた容貌をもった、かのものの眷属たち――の住処のことを言っているのだろう。そのことは彼の言葉だけでなく、茫洋とした瞳に浮かんだ幾何学的な、地球人類の築いたいくつものそれとはまるきりことなる異次元の建築群の影、そしてその都市の中で眠りについている恐ろしき悪魔たちの姿からもわかっていたからだ。


 そして、彼が目を背けたいのはそこに住まう、うず高く積むような巨大な石造りの都市の頂にて死という眠りについている、異星からやってきた、忌まわしき旧き支配者の姿だろう。縁がない存在ではないがそれを認めてしまうというのもこの精神に致命的な汚染を与えることは間違いない。


 同じことが、今まではまっとうな人間として生きてきたであろう彼にもいえるのではないだろうか。彼にはその悍ましき邪悪なる存在は刺激が強すぎる。だからかのものを恐れて、いや彼の眷属である深きものになってしまうことを恐れて、その理性の光が今にも消えそうになっているのはやはり自身にも言えることではないか。それは見てはいけないものだ。目を背けなければならない。それを感じ取ってしまうということは一人のまっとうな人間の精神構造の終わりを意味しているのだ。それは死に等しい一つの無様な結末を迎えてしまう。


 頭が痛い。

 淡く輝く都市の歪んだ燐光が網膜を通って脳を焼き払うようだ。血流にのってそれは脳幹から大脳新皮質にまで染み渡るようにして脈動とともに熱を放つ。

 脳に直接注射でも刺されたかのように鋭い痛みが二度、三度、四度と数えるのも億劫なほどに走り、注入された何かがじわりと頭の中を侵していくように頭が重くなる。

 思わず添えた右腕すらも、内側から沸騰しているかのように激しくうねる。黒い暴流が皮膚を突き破ろうかとばかりに暴れくるっている。

 脳の中では何かが枝を伸ばしているかのように不快感と全脳感が広がっていく。

 これはダメだ。

 これはいけない。


 己を根底から変えてしまいかねない狂気の渦が広がった。入り込んでくるのは遥か深淵の彼方の無限に広がる宇宙と、そこに輝く数多の星々。名も知られぬそこに住まう奇妙に膨れた黒い渦と数え切れぬほどに伸びた細かい黒い枝。足。腕。

 彼のものを讃える、どこか旧きギリシアの建造物を思わせる純白の柱を持つ神殿の中央に揺蕩い、渦巻く雲のように滞留している。

 形というものを持たぬ雲から伸びるその大きな蹄は荘厳なる神殿を勇ましく踏み鳴らし、ただただ何かを待っていた。

 だらりと広がった大きな口には粘ついた不浄の液体が滴り、冒涜的な音を立てながらそれはどこかの世界へと落ちていく。

 恵みの雨のように滴り、枯れた地を潤すオアシスのように湧き出で、生命の源のように命を満たす。


 彼女は何かを望んでいた。

 それはとても受け入れがたきことだが、同時に自分に与えられた根源的使命のようにも感じ始める。

 邪な感情が脳を支配しようとする。想像もしたくないような悍ましい、残虐的な思想が芽生え始める。それは自分を人間ではないと痛烈に否定し始め、自らに与えられた役割を押し付けようとしてくる。

 それは黒い靄のように広がっていく。

 それはどこまでも大きい母の姿を真似るかのように、黒く、うねり、大きく膨らんでいく。



「――あの」


『なんだ』

 今話しかけられるのはとても不愉快だった。

 しかし今話しかけられるのはとてもありがたかった。思考を無理やりにでもそちらに向けることで絡めとるように伸びてきた枝からするりと抜け出した。

 じくじくと脈打つ痛みは人である以上無視してはならないものだ。それでも耐え難い苦痛にそれを存在しないものと扱うことで不安定さが正しき形となり、影を差し始めていた思考もようやく冷静さを取り戻していく。


 幾分落ち着いた目で目の前を見やれば、そこにはひどく怯えた顔の深き者がいた。

「たしかに、やつらのように、なってしまうのなら、そ、その、いっそ死んでしまいたいとも思わなくもありません」

 ああ、そういえば質問をしたのだった。

「ただ、その前に、どうしても止めなければいけないことがあるんです」

「止めなければいけないこと?」

 目線はそのままに、小さくうなずいた。

「私は、やつらの同族とはいえ人間でもあった。だからほとんどのことは知りません。しかしあいつらはもういちど暴動を起こして、今度こそその目的を達成しようとしています」

「その目的というのは? 人を攫うこととか?」

 

 昨夜見た、ボドワンの苦々し気な顔を思い出す。もしかしたら、彼も近しい人が連中のせいで……何かひどい目にあったのかもしれない。

「それも、あると思います」

 言い辛そうに、彼は紡いだ。

「けど、それはきっと計画の一部に過ぎません。もしかしたらただの儀式の生贄にすら過ぎないかもしれない」

「サバトとやらは、本当にやってたんだ」

 答えは返ってこない。しかし、苦虫を噛み潰したかのようなその顔が真実を語っている。

「止めなければいけないことって、結局何なんですか。それを手伝えっていうんですか」

「――私には、できません。やろうと思っても、すぐに殺されて終わりです。それでは意味がない」


「彼らを止めるには、族長を、神官たちを全員殺さないといけない。すべて彼らが主導して計画を進めているはずです。そして、神官たちがいなければ、きっと計画は頓挫するはずなんです」

 神官。

 おそらく、いや間違いなく彼が夢で見た支配者とやらを信仰している宗教なのだろう。

「それは、僕に人殺しになれと?」

 人ではないが。

 彼はおずおずと頷いた。

「私には、私にはもう、神か悪魔に縋るしかないのです」

 自分は神でも悪魔でもないのだが。

 しかし、そういう風に見えているのか。

「連中のなかには私と同じように批判的な意見を持ったものはいません。彼らは身内や協力者には寛容なのですが、彼らの敵には容赦はしません……もし私が彼らに恭順していないと、本格的に知られれば……いえ、それは今はいいでしょう」


「認めたくはありませんが、血に目覚めてしまった以上私は人よりは膂力もあります。しかし、まだ年若い。私では、そして人間にだって、彼らのように長き時を生き、忌まわしき術を覚えた神官に敵うようなものはいないんです」


「だから、同じ人外である僕にそいつらを殺してほしいと? だが僕に益がない。最悪人殺しの烙印を押されるだろう、それだと。悪いけど人の世を捨てるつもりはないんだ」

 随分と、無下に断るものだ。我ながらそう思う。こんなに、自分はこんなに薄情だったか。

 少しずつ、少しずつでも平静へと近づいていたはずではあるが、何かがもう狂ってしまった気がする。

 しかし、まあ目的があるのは変わらない。

 彼らに構っている暇もないというのは、本当のことでもある。

 自分は屍食鬼を追って、そして――そして――そう、とにかく首を獲らねばならない。

 そうだ――

「そんな……」と絶望の表情を浮かべる彼に、一つ質問を向ける。今まで彼の話を聞いてやったのだ、それくらい構わないだろう。


「あなたは、屍食鬼について何か知っていますか?」

 彼の顔に、再び知性の色が戻った。「グール……」と呟き、何やら考えを巡らせている。


「申し訳ありません。私にはわかりません」

「そうですか」

 彼の返答に、落胆を隠せない。同じ化け物同士なら知っていそうなものだと思ったのだが。まあ、彼はどうもまだ化け物未満らしいから、仕方ないのだろうか。

「しかし、彼らなら、神官たちなら知っているかもしれません」

「……殺しに行くついでに、聞いて来いと?」

 彼は大きく首を横に振った。

「いいえ。私が聞いてきましょう」

「あなたが聞いたところで、答えてくれるのですか? 信用されていないようですが」

「はい。ですが、あなたが屍食鬼の居場所のことを知りたがっていると伝えれば、そして情報と引き換えにこの町を去ることを承諾していただければ、きっと教えてくれます」


「ジューブルッフを去る?」

「彼らは、あなたのことを恐れています。きっと、神官たちも同じ。だからあなたがこの町にいる間は行動を起こせなかった。だからあなたに屍食鬼の情報を与えてやれば、きっとこの町を去るだろうと考えるに違いありません」


「――それで、その代わりに何をやらせるつもりなんですか」

「神官たちを、殺してください」


 彼は、跪いてでもそれを望んだ。


「あなたが町を去れば、きっと彼らはすぐにでもことを起こします。そうなれば、町もきっと混乱するでしょう。その機に乗じて、神官たちを殺してほしいんです。そうすればあなたの、人としての名誉にも経歴にも傷が残るようなことはないでしょう」


 彼の言葉を、少しばかり吟味する。

 正直、連中が化け物だと分かった時点で殺すことに忌避感はない。しかし、どれだけ混乱状態に陥っていたところで取り巻きくらい、そうでなくても目撃者が完全にいない状態での殺害なんて、そうそうできないだろう。

 北の住人の言葉を南の人たちはどれだけ信じるのかはわからない。しかし、人の生き死にが関わったときは、さすがに無下にはしないのではないか。

 神官もろとも殺すのだとしても同じこと。

 下手をすれば北の住人を皆殺しにでもしないと目撃者を根絶することは難しいかもしれない。

 きっと、できないことではない。

 彼らには脅威を感じなかったから。

 だからこそ人間と間違えてしまったくらいだ。

 しかしそれほど事が大きくなると、今度は南側の住人にも気づかれてしまうだろう。ほぼ、間違いなく。

 異形の姿を、人前に晒すことになる。


 大きなデメリットがあった。

 きっとそれは耐え難い苦痛を覚えるだろう。

 体の痛みなんかより、もっと嫌だと思えてくる。


 だが、本当に彼が屍食鬼の情報を持ってきてくれるなら――


「いいよ」


「本当ですかっ!」

 ばっと顔を上げた彼の顔は、どうにも希望に満ち溢れていた。

「屍食鬼の居場所を教えてくれるなら、ですけど」

「必ず、必ず聞いてきます。彼らも、あなたを、あなたの神を怒らせるようなことは絶対にしたくないはず。だから情報もきっと間違いないはずです」

「そう」

「ありがとうございますっ」

 安堵したのだろう、最初のようなたどたどしさはいつの間にかなくなっていた。

 調子のいいものだ。

 しかし、どうにもそれが微笑ましかった。


「でも、いいの? 暴動が起こってからだと町の人にも被害が出ると思うのだけれど」

 喜びに水を差すのも気が引けたが、そこは聞いておきたかった。彼も、顔を曇らせてしまう。

「犠牲は、やはり出てしまうでしょう。しかし、今回ははじめから武装した警備隊の方々がいらっしゃいます。町の人も、まだ警戒したままのようですし、前回ほど酷くはならないでしょう」

「……そう」

「彼らも、本来の姿を隠しながら活動しています。だから、神官たちのように力を持った連中は出てこないはずです。だから、あとは警備隊や、自警団の方に任せるほかは……」

「そう」



「なら、明日も宿屋にいるよ。だから、今日と同じように」

「……わかりました。ありがとうございます」


 彼との話はそれで終わった。

 一息つくと、闇に包まれていた空間も穏やかな夜の暗さに戻った。


 彼は何度かこちらをちらちらと振り返りながらも、路地裏の奥のほうへ消えていく。裏通りに出たあたりで、その姿も見えなくなった。


 辺りはすっかりと夜になっていた。

 夜空は雲一つないが。浮かぶ月は随分と華奢だ。明日あたりは、完全にその姿を消すだろう。


 表通りに出ても、人はほとんど見当たらない。しかし、煌々と明かりの漏れるいくつかの店から、騒がしい人々の声が聞こえてくる。

 食欲はない。

 しかし、夕食の時間だ。

 また、あの店にでも行こうか。



 ***



 味気なかった夕食を終え、宿屋のかび臭いベッドに腰を下ろす。

 軋みを上げるのも気にせずに、そのまま横になった。

 部屋に明かりを灯すこともない。

 見上げた天井は、ところどころにシミができている。古い割には丁寧に掃除されている部屋だったが、天井までは盲点だったのか、廻り縁には埃が残り、隅にはうっすらと蜘蛛の巣も見て取れた。

 この中途半端さが、妙に心を落ち着けた。



 今日もボドワンは酒を飲んでいた。しかし、どこか大人しく、絡んでくることもなかった。

 昨日は特別酔っていたのか、それとも何か思うことでもあったのか。


 一方で、食事を終えるころになってもあのカエル顔の彼は現れなかった。たったの二日目だ、町の住人がどんな生活をしているのかまではわからない。

 ただ、なんとなく彼はきっと北のほうに行っただろうことが予想できた。


 そういえば、名前を聞くのを忘れていた。

 聞いたところで意味はないのかもしれないが、なんとなく覚えておきたかった。

 思えばおかしな男だった。

 化け物のような見た目でありながら、おどおどとした男。もしかしたら、造船所で働いていたのも彼だったかもしれない。コートを着ていなかったし、帽子も被っていなかった。

 普段がいやに着込んだ格好であるため定かではないが、なんとなくそんな気がした。


 正直、あのカエル顔の彼のほうが、見た目を除けばよっぽど人間らしかったと思う。

 自分より、断然人間臭かった。

 自分はいつの間にか、人としての何かを致命的なほどに落としてきてしまったらしい。

 情も、倫理も、どこかどうでもいいものになり始めていた。

 その変わりようが、とても恐ろしい。

 その変わりようが、とても喜ばしい。


 自分はきっと、彼と同じだ。

 これからどんどん変わっていく。

 どんどん人間から離れていく。

 人間らしさを失っていく。

 それは避けられないことだ。


 どこかで間違えたのではない。

 最初からそうだったのだ。

 あの暗黒の雲そのもののような母から生まれた時点で、きっとそうなることは決まっていた。生半可に人間としての在り方を持っているせいで、こうも中途半端なのだろう。


 だけど、それがとてもありがたい。

 それのおかげで、今もまだ人間のフリを続けられてる。

 いつかそのうちそれもできなくなるのかもしれない。だが、そうなってしまうその前に、決して変わることのない、芯のようなものを見つけられれば――



 そうすれば、人の世に寄り添え続けるだろうか。




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