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14話



 ――冷たい。


 ぽちゃり、と水面で雫が跳ねた。

 波紋が広がる。それもすぐに、流れの中に消えていく。


 ゆったりと流れる水面は、いまや黒々しい赤色に染まっている。

 噴き出した血、滑る唾液、そして返り血。

 固まって、べったりと肌に張り付いていたそれらが水に溶け、川下のほうへ帯のように続いている。

 それも水の勢いに呑まれ、次第にまっさらになって、流れていく。

 岸に上がる頃には、穏やかな川面に戻っていた。



 木々の隙間から冷たい風が吹きつける。一糸を纏わない体が風に飲まれた。

 ――寒い。

 そう頭は判断するが、実際は顔を少ししかめる程度だった。

 濡れた体では風邪をひいてしまうかもしれない。

 古臭い常識的な思考はそう告げる。

 今さら風邪などひかないだろう。

 新しい常識はそう判断する。


 随分感覚も狂ってしまったものだ。

 何が正しいのかがいまいちわからない。

 古い感性を信じるのがいいのか、新しい感覚に従えばいいのか。

 

 ただ、裸でいるのもどうかと思い、そそくさと先ほどまで洗っていたワイシャツを絞る。

 ばしゃばしゃと水面が弾ける。跳ねた水滴が時折肌を打った。

 幾分水気の飛んだそれをタオル代わりに体を拭く。シワになるなど、今更気にすることではない。

 身にまとっていた衣服はボロボロだった。

 汚れこそ落としたものの、破けた痕はどうしようもない。屍食鬼に噛まれた部位、そして内側から突き破った部位。

 腕と胸、背中から腰に掛けてが特にひどい。

 言ってしまえばほぼ全体だ。服の体裁を保っているだけマシですらある。


 対照的に服の下には傷跡一つ残っていなかった。乾いた血や屍食鬼の唾液。それと、正体のわからない、濃い緑の粘つく液体だけが先の出来事を物語っていた。

 それらもすべて、水浴びで洗い流してしまった。


 湿度が高いこともあって満足に拭き取れなかった。しかしこれ以上も望めそうもない。

 再び水気を吸ったシャツを絞り、今度こそ身にまとった。

 当然冷たい。湿っている。季節的にも、天候的にも衣服の乾燥など望めまい。湿ったままのそれらを着るしかない。ボロボロでも全裸よりよっぽどマシなはずだ。

 正直、寒さは別にどうでもよかった。

 気にするべきは外見、見てくれのほうだ。

 まだまだまともな生活の保障されていない、貧民の多いこの時代。職務質問なんてされはしないだろうが、見てくれが悪ければまともなサービスを望めないのは『今も昔も』変わらない。

 贅沢がしたいわけではない。だが、あいつらみたいにゴミを漁る真似はしたくなかった。



 ベルトを締め、最後にコートを羽織る。

 ナイフは持っていない。

 柄だけは見つかったが、刃のほうはどこかに行ってしまった。もはや使い物にならない。ならば、持っていく必要もあるまい。


 鏡を見なくてもわかる。濡れ鼠よりひどい格好だ。

 半年ぶりの不審者じみた装いだ。

 臭いがしないだけまだましか。血の臭いは落とせたはずだが、鼻が麻痺しているだけという線が否定しきれないのが辛い。


 やはり早急に新たな服を手に入れなければいけない。金はある。外套のポケットに財布が入りっぱなしだったのは幸いだった。

 湿気た紙幣とコインがそれなりに。新しい衣服を用意するのも、食事や宿にも困らない程度は入っている。

 ロランスでの給金、それとチップ。

 金を使うことも滅多になかった。おかげで――ほとんどは部屋で保管しているものの――財布には子供が持つには過ぎた金額が入っている。何か高価な買い物でもするつもりだったか。

 ――そういえば、エクトルさんの誕生日がそろそろだったか。誕生日を祝う風習があるのかは知らないが、お世話になった二人にはどうしても渡したいと思っていたのだった。


 間に合いそうにはないが。



 これらの金も、元をたどれば彼らからもらったものだ。子供なのだから、住み込みなのだからと断っていたのだが、エマール夫妻は正規の給料分を渡してくれた。

 騒がしく、時には迷惑行為ばかりを働く客たちだったが、いつもチップを握らせてくれた。


 ――少しずつ、少しずつ使っていこう。



 ***



 目指す先はジューブルッフ。ジューラ川沿いの集落だ。どんなところなのかは知らないが、駅馬車くらいはあるだろう。多くはきっとパーヴァペトー経由になるだろうが、バルトー方面へ、叶うならばそのまま炭坑まで行けるものがあることを期待している。

 本当の目的地は、炭坑。名前があるのかは知らない。

 連中がいそうな場所は、あいにくそこしか思いつかないのだ。


 屍食鬼どもは、この墓場にはもう一匹も残っていない。

 皆、どこかへ行ってしまった。


 奴らが出てきたであろう、奴らが逃げようとしたのであろう、墓穴に隠された洞窟もすべて途中で行き止まりだった。

 長く、長く、どこかに続いているのかと思っていたがそういうわけではないらしい。巣穴のようなものだったのだろうか。

 それにしては、諸々の理由とそぐわないのだが。

 何より、触手の感覚ではもっと深かった覚えがあるのだ。

 奴らがいないのなら用はないのだが、奴らにしか使えない特別な道とやらがあるかもしれない。もしもそれを使えたとしたら、なんて考えないわけにはいかなかった。

 あり得ないと切って捨てるには、いささか常識から外れすぎたためもある。


 しかし、あるかもわからない隠し道を探すの現実的ではない。まして、ここで待っていても向こうからやってくるとも考えにくい。

 ならばやはり、こちらから探しに行くしかないのだろう。


 唯一やつらがいそうだと思える炭坑は、バルトーとパーヴァペトーの中間付近にあるという。パーヴァペトー方面からならば整備された街道もある。道に迷うこともない。本来ならジューブルッフなんて目指さずに、このまま川沿いに逆戻りして、パーヴァペトーから仕切り直したほうが合理的である。

 ただ、そちらには行こうとどうしても思えない。心情的な理由だ。

 帰るなら、奴らの首の一つや二つでも持っていかなければならない。

 だから、バルトー方面から行く。

 遠回りになるのかもしれないが、顔見知りに会わないことのほうが、きっと重要なのだ。

 そう、会ってはいけない。

 絶対に。


 炭坑についてからは、まあ機を見計らうしかない。あそこには馴染みの炭鉱夫たちが、それこそ両手で足りないほどにいる。

 しかしそれも、彼らも潜りたがらないという穴の奥深くまで行ってしまえばなんとかなるだろう。あの死肉漁りどもも奥深くにしかいないなら、都合もいい。

 

 気がかりなのは、ロランスで耳にしたこと。

 憲兵隊による調査が行われるのだと、炭鉱夫たちは言っていた。

 もう一週間近く前のことだ。憲兵隊がすぐさま動いたのだとしたら、事はもう終わっているかもしれない。しかし化け物がいたなんて、なかなかに荒唐無稽な話だ。立場のある人の言葉とはいえ、まともに取り合われない可能性もなくはない。

 これも、ジューブルッフでいくらか話を聞いてみようと思う。噂話くらいは届いているかもしれない。


 憲兵隊がもし、連中を皆殺しにしたのだとしたら……そうだとしたらどうしようもなくなってしまう。あんな不気味な死体を放置などもしないだろう、おこぼれもにもあずかれない。

 まさに前途多難だ。

 しかしそれも憲兵隊が勝てるのを前提とした場合のこと。

 あの化け物共は、普通の人間の敵う相手なのかどうかはわからない。

 たしかに、ナイフは通った。それでも奴らはなかなかにタフで、また殺傷力の高い爪という武器を持つ。

 憲兵隊の武器は銃だ。接近戦をしなければ問題ないように思えるが、銃の性能がわからない。威力も、装填にかかる手間も。


 パーヴァペトーまで巡回に来た彼らを遠目に見たことがある。

 そのとき彼らが携行していたのは、銃身の長いシンプルな銃だった。

 なんという種類なのかは見た目からは判別できなかった。マスケット銃、あるいは初期のライフル銃といったところだろうか。

 ライフル銃ならまだしも、マスケット銃で奴らの厚い皮膚を貫通できるのか。

 マスケット銃の弾は、近年――今から考えると未来か――のそれと構造が違った覚えがある。

 しかし、威力に違いがあるのかどうかまでは知らなかった。

 わからないことだらけだ。

 もっとも、1対1、あるいは1対多にはならないように立ち回るだろう。ならば、数で押せるのか。

 屍食鬼どもが彼らに駆除されても困るが、犠牲者が増えてほしいわけではないのだ。


 もし奴らが一掃された後なのだとしたら、おとなしく諦めるしかないだろう。

 諦めて――墓でも巡るしかない。

 他に奴らがいそうだと思えるのは、このような人気のない墓地くらいだ。墓地を巡ればいつかは奴らに出会うかもしれない。


 なにせ屍食鬼なのだから。

 死肉を求めて彷徨う化け物なのだから。




 だが――

 やつらはなぜパーヴァペトーにいたのか。

 それだけがやはり、わからない。



 ***



 墓地には未舗装だが、おそらく集落へ続いているであろう小道がある。

 粗末な縁石で囲っているが、手入れもされていないのだろう、このまま放置していたら獣道と大差なくなるのではないか。そう思えるほどに、暫く人の手が入っていないことが伺えた。

 墓地には最近建てられたと思しき墓もあった。現在は使われていない、なんてことはないだろう。


 晴れない霧、小道に沿うように茂った広葉樹の葉によって、まだ日も暮れていないというのに薄暗い。

 以前の感覚でいえば『こわい』と感じていたのだろう。陳腐な言い方をすればお化けが出そう、そんな道中だ。


 ぬかるみとも、砂利ともいえない何とも言えない地面を歩く。途中からは緩い上り坂だった。表土はずるりと滑る。転ぶほどではないが、歩きにくいことこの上ない。

 そんな道を歩くこと幾ばくか。

 そろそろ日も落ちそうといった頃になってようやく集落らしきものが見えてきた。

 あの場を離れたからか、それとも単に天気の変化だろうか、いつの間にか霧も晴れていた。

 澄んだ視界に映るのは緩く蛇行したジューラ川。川を挟んで、また傍流に囲われるようにして広がる町並み。

 自然堤防の裏に町を作り、町の外には田畑が広がっている。


 町と墓地を隔てるようになっていた台地。

 おそらくそのピークなのだろう、木々の切れ間から見下ろすようにして町並みを見渡せた。

 ジューブルッフは日の傾きからして南北に広がっていることがわかる。

 眼下に広がる景色は、傍目でも発展具合の差がひどかった。


 南部には西洋漆喰だろう、白壁に暖色系の屋根。切妻や方形と形も様々で、パーヴァペトーとはまた違った方向で〝西欧〟らしい風景だ。

 中心付近には、頭一つ飛び出た建物が一つ。 役所かなにかだろうか、大きく、そして中心の屋根から首のように塔が伸び、壁面には大きな時計がついている。

 ほかの建物の大きさはまちまちで、区画整理などもされていないのだろう、どことなく無秩序に発展していった感じがする。ストリートも町の中心を除けばぐねぐねと曲がりくねったものが多い。それでも一体感があるのはやはりデザインが似通っているからか。

 湿度の高い気候に反して、温かさとさわやかさを感じさせる。

 外周にはいくつかの三日月湖、そして大きな湖沼が広がり、西端の湖は近く、また大きかった。帆をたたんだ船がいくつも岸に並んでる様は漁港のようにも見える。


 対する北部の地域は、ひどいものだった。 北側は全体的に、気候を抜きにしてもじめっとした雰囲気をまとっている。

 南部と対比すると、その格差が際立った。

 目につくのはあばら家といって差し支えないものばかりで、小さな小屋のような建物が寄り集まっている。ところどころに頑丈そうな大きな建物――一つは教会だろうか、背が高く、悪目立ちする尖塔を持ち、天頂付近に大きな時計が見える――があり、それを囲うように家々が並ぶ。

 並びがばらばらなため、道路も広くなったり狭くなったりと落ち着きがない。


 北端にはやはり三日月湖が散在し、南部よりも大きな湖がいくつか。

 また、町より更に北にはジューラ川の傍流が流れている。

 湖には桟橋や小舟なども見て取れることから漁などもしているのかもしれないが、その数も規模も南部のそれとは比較にもならない。

 人もほとんどおらず、活気はなかった。掘っ立て小屋がある程度、と碌に遮るもののない景色なため、余計それが顕著に思える。

 

 そんな中一際目立つのが、そう線路だ。

 湖沼を避け、大きく迂回するようになってはいるが、それでも湖のすぐ脇を通り、傍流は橋を作って越えている。


 ここからでは随分と距離があるが、その異質さからよく目立っていた。

 ジューブルッフの住民が目の敵にしていたと聞いたが、思ったより町のすぐそばを通っている、というわけではないようだ。あれでは町中に大量の黒煙が入り込むようには見えない。だが湖沼や河川のすぐそばだ、水質の心配でもしているのだろう。

 確かに真っ黒な煙をまき散らしながら走られると、得体のしれない悪い物質を貰ってしまうのでは、そう考えても仕方ないのかもしれない。教育水準の低い時代だ、そういった知識も少ないのだろう。実際、悪いものであることに違いはない。




 町の北側と南側は大きな橋でつながっている。

 おそらく南部が主導したのだろう、しっかりとしたつくりのアーチ橋だ。

 夕暮れ時という、時間的な問題だろうか、通る人は一人もいない。

 ここから眺めると、橋の向こうに夕日が沈んでいくのが見える。片側の町並みさえマシになればいい名所になりえるだろう。


 ふと、このままでは町につくまでに日が暮れてしまうことに気づく。

 目的地も見えたのだ、少し駆け足気味で、ゆるやかな下り道を下り始めた。



 ***



 道が途中つづら折りになっていたため、平地にでるまで少しばかり時間がかかった。

 まだ日は落ち切っていないが、町のほうはぽつぽつと明かりが灯され始めている。

 しかし、自分がいま向かっているのは町の北部。当然のように街灯の類はない。窓から漏れ出る橙色の灯が、明かりらしい明かりだ。

 申し訳程度の柵で囲まれ、いくつか入口がある。門といっていいのか、それとも単に壊れたのを放置しているだけなのか、いまいち区別がつかない程度のもの。


 誰とすれ違うこともなくそこを通ると、ようやくジューブルッフに到着したのだと少しばかり達成感を覚える。

 長旅でもない。精神的なものは置いておくと、特に疲れもなかった。


 町中はひどいものだ。

 海でもないのに生臭い。潮の香りとはまた別の、胸の悪くなるような悪臭が立ち込めている。

 歩けばわかることだが、地面は不自然なほどに水気を吸い、干潟を歩いている感覚すらある。大きな道がかろうじて踏み均らされた程度で、とても人の住む地とは思えない。

 この土質が南部と違い、立派な建造物が少ない理由だろうか。だが向こうとて立地的に大差ない。大規模な干拓でも施されたのだろうか。



 そのまま何の気なしに村の中を歩いていると、すれ違う人々に時折ぎょっとしたような顔で見られた。

 少々不愉快だが、今の自分の恰好を思えば仕方ない。薄汚れているわけではないが、衣服の損傷具合は乞食のそれよりひどいかもしれない。

 

 しかし村の人たちも似たようなものだ。

 身にまとうのは清潔とはおよそ程遠い、伸びきったようなシャツ。ところどころ穴だって開いている。パッチを当ててはいるが継ぎはぎで不格好だったり。

 見慣れない恰好をしているものも多かった。

 いわゆるローブといわれるものだろう。くびれのない、フリーサイズで、ゆったりとしたワンピース形式の上着。フードもついているそれを目深に被る様は、不審者具合でいえばこちらとどっこいどっこいだ。

 恰好も相まってか、どことなく怪しげな雰囲気を振りまいている。彼らにわざわざ構う必要もない。向こうも関わり合いを持ちたくないのか、こちらを一瞥した後は――足でも悪いのか――ひょこひょことした足取りで物陰のほうへと消えていった。

 似たような連中も、時折こちらを伺うことこそあれどせいぜい遠巻きに眺められる程度だった。

 呼び止められるようなこともなかったので、そのまま無視をすることにした。


 今の自分は色々と隠さなければいけないことも多い。必要以上の関わり合いを持つ意味もない。


 しかし、本当のところはそれ以上の、もっと本能的な部分で彼らを忌避していたようだ。

 大々的に人種差別をするような気はないのだが、彼らはどうにも自分たち――いや、これまで関わり合いを持ってきた人たちと比べ極端に見慣れない特徴を持っていたのだ。

 なんと表せばいいのか、ここの住人は奇形の伝染病でも患っているのか、程度の差こそあれ彼らはみな頭の幅が狭っこく、その平べったい鼻と合わせて割合に合わないような大きな目が際立つ。頭髪も薄いものが多く、厚着の袖やほつれた隙間から覗くのは肌が悪いのかざらざらとした青白い体。そして妙に大きく、しかし妙に短い赤ちゃんのそれのような指をした手。足も同じなのか、極端につま先の長い靴を履いている。

 いかにもバランスが悪そうで、踏ん張りの利きにくい足場の多いここらでは、地元の人間であるはずなのに大層歩きにくそうだ。

 それらのさまが、どうにも不格好で、違和感を覚えて仕方なかった。

 人種の違い、それよりも上位の分類の違いをどことなく示唆するようで、人の真似をしているのでは、などと薄ら寒い想像すら頭を過る。

 屍食鬼といういかにもな化け物を見た後でなければ、彼らの容姿には更なる嫌悪感を抱いていたかもしれない。

 もちろん、そのような差別的思考を表に出すにはいかず、ただただ不愛想な顔を通しはしたが。




 遠目からでもわかっていたが、ここらの家屋は木造のあばら家がほとんどだ。

 湿気対策というわけではあるまい、隙間風が通り放題なボロ家で、廃屋といわれても納得してしまうだろう。実際、空き家も多いのかもしれない。人の姿があまり見られないのも、そんなイメージを助長した。

 窓や壁の隙間から覗くぼんやりとした明かりだけが、今なお使われているということを示している。

 ただ、それらの家々もひどく静かだ。

 人の気配がしないわけではない。ただただ、じっとしている。何を話すでもなく、食事をするでもなく。

 もう寝ているのか、と思えど、そんなときに限って聞き取りづらい内緒話のようなものが耳に届く。団らんのような温かさはない。

 共にいるのは家族や友人だろうに、そこに楽しみのようなものはなく、ただただ事務的な会話を声を潜めてしているような。



 陰鬱な家々の間を抜けて、少し広めな道路に出てみれば、時折一風変わった建物の前に出たりする。

 高台から見えた頑丈そうな石造りの建築物だ。しかしそれらも近くで見ると、やはり寂れ、外壁も何もかもが風化している。

 曇った窓の向こうから薄っすらと橙色が灯っているのがようやく見て取れ、ともすれば一番廃屋染みている。

 華美な装飾などなく、のっぺりとして妙に圧迫感、そして不安感を煽る。つくりも単純で、ただただ石を積み上げただけのように見え、ひどく不格好だ。そのアンバランスさがが今にも崩れるのではないかと、そういう意味でも不安である。

 尖塔の上層に大きな時計があるのだが、先ほどは気づかなかったがどうも壊れているようだ。日も暮れようというのにいまだに短針は3時を指していた。

 時間的理由からか、公共施設らしいものでも出入りする人はこれっぽっちもいない。


 また、ぽつぽつと点在する、個人の商店らしきものには数人が立ち見していたりする。

 店の軒下、薄汚れた布をテント代わりにして、その下に店主らしき不愛想な人物がどっかりと座っている。体格のいい男だ。マリンキャップを目深に被り、一見退屈そうに客たちを眺めている。

 彼らの間には世間話のようなものはない。

 

 売り物は魚介が中心で、店外にはなんの処理もされてない生の魚が樽や木箱に無造作に詰め込まれた状態で並んでいる。

 生臭さの理由はこれだろう。

 目につく中ではどの店舗も似たような樽が必ずと言っていいほどにある。

 店の中の様子も、少しだけ覗ける。

 棚が壁際に並び、木箱の類が収納されている。中身も見えず、売り物なのかいまいちわからない。また、竿か梁のどちらからか、いくつも干物が吊り下げられていた。


 ある種異様な光景だ。

 何せ樽一杯の魚なんてそうそう見ない。

 おまけに一日で売れるはずもない量だ、保存技術の低い中、燻製にも塩漬けにもしないで大量に、それこそ放置ともとれる格好で売るなんてあまりに異質だった。

 それほどここは水産資源が豊富なのだろうか。たしかに河川に湖沼と、淡水魚に限るが漁場には困らなそうではある。しかしそれにしても、と疑問を呈さずにはいられない光景だった。




 どうにも不思議な町である。

 人々がどのようにして生活しているのか、まるで想像できない。あるいは目に見える状態が常なのか。

 この、じめじめとひそひそという言葉が似あうほどに鬱屈と生きているのか。


 観察をしながら歩いていた。

 しかし、こちらもまたずっと観察されていた。


 じっと見られている。

 息を潜めて。しかし不躾に。

 周囲から聞こえるひそひそ話は、聞こえるものはすべて自身への陰口なのではないか。

 そう錯覚するほどに、どうも居心地がよくない。

 陰気な理由は、立地だけの問題ではなさそうだ。

 そも、ロランスで働いていたときでも、ここの話題が滅多にあがらなかったのもこれが原因かもしれない。

 余所者を歓迎しない雰囲気、いやそれ以上の不気味な何かが町全体を包んでいるのだ。

 バルトーも、ランステッドも、ウェルマインも。どれも田舎であるというのによく聞いた名前だ。実際に赴いたことがなくとも、どんな場所なのかはわかってしまうくらいに。

 一方でここジューブルッフはどうだ。まったくもって知らなかった。悪いほうにとはいえ、これほど特徴的だというのに、だ。皆忌避していたのか、それとも本当に訪れたことすらなかったのか。

 半年の間、少し前に暴動が起きたというくらいしかまともに話を聞かなかった。



 まだ足を運んでいないが、南部のほうはどうなのだろう。

 こちら側で宿をとるつもりは既になかった。

 安ければ、と思ってもいたが遠慮したい。

 そもそも宿があるのかどうかもわからない。

 北部のほうはこちら側とはまた違った雰囲気を放っているが、そこに住まう人々が似たような質ならば野宿すらも考慮するくらいだ。



 そう考えていたが、通りを抜け、橋のたもとへと辿りつく頃にはそれも杞憂であったとわかる。

 町中は暖かい明かりに満ち、歩く人々も皆晴れやかな顔をしている。遠くに聞こえる喧騒がこれほど好ましいものと思えるとは。

 50mもない橋の向こうはまるで別世界のようだ。


 だからこそ、橋を渡ってからは奇異な目で見られた。

 北側からやってきたことも後押ししているのか、こちらを見る目はただ『物珍しい』だけではない。彼らの視線は皆清潔な恰好で、こちらがボロを着ていたのだと思い出させる。

 自身も今は不審人物であることに変わりはないのに、ずいぶんと偉そうな考えをしていたのだと、少しばかり羞恥心が芽生えた。


 帽子やフードがあれば、きっと顔を隠せたのに。




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