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12話


 下水道は半円状にくりぬかれた空洞、といったつくりをしていた。レンガで組まれた水路、その壁面はかなり劣化しており、ほこりっぽい。

 メンテナンス用だろう、水路わきには一応人が通ることを想定された足場もあるようで、今はそこを歩いている。

 同じくメンテナンスのためだろう、中を覗いたことはなかったのだがどうやら入り口に壁伝いの小さな階段があったようで、安全に下りることができたのは幸いだった。


 こんなところで転びたくはない。ケガもそうだが、何より汚いのだ。水路の底は未だ汚泥らしきものが溜まっている。臭いの大本だ。

 それも歩を進めるたび、奥へ進むたびにその堆積具合が増していく。思わず目をそらしたくなる。いったいいつ頃に廃止されたのかは知らないが、それにしても汚れ過ぎではないか? おそらく廃止されたのも数年やそこらではないだろうに。トンネルだからこそ分解に適した動物・昆虫などが入り込みにくいのだろうか? ハエなら先ほどからうるさいほど飛び回っている。

 ここらの気候はやや温暖寄りで、微生物の活動も著しく低調というわけでもないだろう。

 それともすでに分解が終わった後の残りだったり、土砂でも混じった結果なのか。

 東端の新しい下水道まで行くのが面倒だから、ここに捨てている、なんてことはないと信じたい。



 水路の底はともかく、壁面にも乾燥した何かがへばりついており、とても清潔とは言えない。風通りが悪いのだろう、空気はよどみ、嫌な臭いに満ちている。蜘蛛の巣もところどころにあり、まれに目の前をネズミが横切ったりもする。

 使われなくなってから掃除などはしていないのだろうか。カビなのかコケなのか、それとも、まあ考えたくはないが汚物なのか、あんまりに地面に不注意だと〝ズルっ〟といってしまいそうだ。

 おかげで、下に下りてからさっさと靴を履きなおしたのだが、靴下を履いた足の裏がどことなくしめって不快な気分だ。



 それにしても、下水道の中は光が届かないというのに何も見えない、なんてことはなかった。

 確かに入ってきた開口部、そしてはるか遠くに見える地上に出ることができるのであろう穴、あるいは出口とおぼしきところから光が差し込んでいるのだが、それでもその両端以外、今歩いているような中ほどまで届くとは思えない。


 この世界の住人は皆目がいいのだろうか。

 いや、それにしては昨夜、部屋の中ですら満足に把握できなかった。

 ならば一日で目の構造でも変わったというのか? そんな馬鹿な。

 違いといえば昨日と違い今日は月明かりがあるくらいだが、それは先ほど切って捨てたばかりだ。


 いささか以上の自身に起きた変化に戸惑いながらも歩みを進めると、前方にあった光の差し込むところまでたどり着いた。


 見るとそれは出口というわけではなく、天井の崩落した場所だったようだ。

 何層かに積み重ねられたレンガの天井の断面。その上では土の地面が露出し、何かの根っこが飛び出ている。

 そして、深い藍色の空と、地上を煌々と照らす月が、その穴から覗いていた。


 しばらくぶりの新鮮な空気を味わいつつも、ここからどうやって出るかを考える。天井の高さは2m程、当然身長以上だ。

 足場になるようなものは、せいぜいが崩落した天井の残骸。

 安定さを求めながら積み上げたとして、碌な高さにはならない。

 危険を承知で、必要最低限の安定性以外を排除し、高さを追求したのなら。その場合はジャンプをすればもしかしたら、といったところか。下手をすれば足場が崩れるだけで、ずり落ちて終わり、なんて結果もありえる。

 それほどの高さもないが、少しくらいはケガもしてしまうだろう。


 そも、崩れた部分に手が届いたとして、だ。

 そこからまた1mほどは積みあがった厚いレンガの層を登り切り、その上にこれまた厚く積もった地面までをも突破しなければ、地上に出ることは叶わない。

 交互に積まれるというレンガ造りの特徴ゆえか、一応開いた穴にはとっかかりがある。

 腕力勝負になるが、手が届けば何とかならなくもないのかもしれない。

 しかし、それもレンガがしっかりと自分の体を支えてくれればの話だ。

 ただでさえ崩落しているのだ、崩れない保証はどこにもない。長い間風雨にさらされていたのだろう、力を込めればぽっきりと折れてしまいそうなほどに頼りない。

 いくら子供の体重とはいえ、支えきれない可能性のほうが高い。


 無理をしてここを登る必要があるのか?


 この際、危険性は二の次である。

 第一に重要なのは、ヤツがここを通ったかどうかだ。ヤツがここから地上に出たというのなら、何としてでもその後を追うべきだ。


 下水道はまだ続いている。


 もう一度天井の穴を見上げる。

 ヤツの身長は人間の大人のそれとさして変わらなかったように思える。この穴は大人でも、いや大人だからこそ登れないだろう。大人の体重であれば、飛び出たレンガ程度簡単にポッキリだ。そうなると、積み重なったレンガの隙間、その窪みに指をひっかけなければいけない。そんなのはまず無理だ。


 だが、化け物に同じ理屈が通るのか?

 常識の埒外の存在なのだ、強靭な脚力を持っていたとしてもおかしくない。2m、3mの高さなどひとっ飛びできるといわれても納得してしまう。次いで、両手に備わっていたカギ爪。どれだけ鋭く、そして頑丈なのかはしらないが、少しのとっかかりでひょういひょい登っていけそうな印象もある。


 ためしに、足場なしで穴に向けて飛び跳ねてみた。

 まあ、当然手が届くようなことはなかった。

 それどころか砂ぼこりが舞ってむせてしまう始末だ。


 ――脚力は何も変わっていないようだ。



 天井の穴に何か、痕跡でも残っていないか。

 あるいは、この下水道のさらに奥に、痕跡はないか。足跡でもあればいいのだが。


 穴から差し込む月明かりを頼りに目を凝らすも、なかなか手掛かりは見つからない。

 わかりやすく血痕でも残っていればよかったのに、思わずそう愚痴りたくなる。

 皮を突き破った程度とはいえ、ヤツの胸には穴が開いているというのに。止血でもしたのだろうか。それとも強靭な生命力ゆえか。


 土埃の積もった地面を見ても、蹄のような足跡はない。


 いや、本当にそうか?

 今見ているのはそれこそ自分が歩いてきた、メンテナンス用の足場だ。汚水が流れていたであろう水路は見ていない。あまりの汚さに思わず目をそらしていたのだ。

 だが、ヤツはどうだ。

 あんな不潔な化け物が、今更そんなことを気にするのか?


 視線を汚泥の堆積した水路へと向ける。

 茶色いような、黒いような。

 乾燥した地面とはまた違った様相のそれはカビなのかコケなのか判別のつかないものがところどころ覆っている。


 しかし、その柔らかいであろう汚泥の層にはくっきりと、人とはまた違う、独特な足跡が残っていた。



 ***



 それなりの距離を歩いたのだが、水路はまだ続いている。

 時折水路の底へと目をやるも、まだ足跡は途切れていない。最初に見た天井の穴ほどではないが、度々『もしや』と思えそうな小さな抜け道も見かけたが、どうやらそちら側には逸れていないようだ。


 パーヴァペトーの周辺にも孤立というか、寄り集まった小さな村落などもないわけではないが、そんな田舎にまで下水道が完備されているはずなどなく、途中で水路が合流するなんてこともない。

 このまま、おそらく自然の川まで続くのだろう。まさか海なんてことはあるまい。


 たしか、ジューラ川だったか。

 パーヴァペトーの西側を流れる大きな河川があったはずだ。

 そして、ジューラ川の後背湿地に発展したのがジューブルッフ、以前鉄道警備隊とひと悶着あった村、だったはず。

 しかしこの下水道がジューラ川につながっているのだとしたら、ジューブルッフの人たちもそれはもう苦労したのではないだろうか。

 案外先の騒動もそういった経緯から環境汚染に対して敏感になっていたからなのかもしれない。


 肌の感じる湿気が、少しばかり強くなってきた。心なしか臭いもきつくなってきているが、なんとなく、この地下下水道も終わりが近いのかと感じる。

 直接ジューラ川につながるのか、それとも支流につながるのか。


 はるか遠くに、薄明かりが見える。

 

 その後も歩き続け、地下水道の終わりが見えた。

 いつの間にか夜も明けていたようで、温かい日差しが暗いトンネル内に差し込んでいる。

 しかし、実際に外に出てみると、眩く見えた空も靄が立ち込めていて視界が悪い。日光も碌に浴びることができず、冷えた体には優しくない。


 アーチ状の出口を抜けると、水路は細く、そして浅い川底へとつながっていた。土質にもよるが、足首より少し上まで浸かるくらいだろう。

 流れはないに等しい。濁度の高い水がゴミやら油やらを浮かせていた。

 下水道は川というよりも用水路といったほうが正しいような小さな水流と合流していたようで、つくりがおかしかったのか、それとも地形が変わったのかは知らないが、本来川のほうに流れ込むはずの水が逆流し、下水道の入り口付近で淀みができているようだった。

 中で溜まっていた汚泥も、もしかしたら大雨などで水かさが増えた際大量に逆流でもしたのかもしれない。

 思えばパーヴァペトーに住むようになってから、天気の荒れた日がなかったわけでもない。


 川は水面と岸壁にはかなりの高低差がある、いや川底自体にもだいぶ干上がった様子が見られることから、水量はもっと上下するようだ。時折氾濫でもするのだろう、ゆっくりと流れる濁水の傍には雑草の類はほとんど見当たらない。

 それともここも人工的に掘られてできた水路で、下水道からの流入がなくなったからこうも水嵩がないのか。

 まあ、気にすることでもないが。


 なんにせよ汚水に浸かりたくはないので、干上がった川底を歩き、なんとか川の岸壁をよじ登る。1mもない高さだったが、川底も岸壁もどうも水気が抜けきっていない。手にするのはまとまりもなく柔らかい土で、泥だらけになりながら登る羽目になった。

 特に川底は泥濘のようにぬかるんで、足首まで泥に飲まれた。

 泥から引き抜いた革靴は、縫い目から水を侵入を許してしまったようで、靴下が湿っていた。おかげで歩くたびに気持ちの悪い、ぐちゅぐちゅとした感覚が足を襲う。


 何よりも大事なヤツの足跡は、水底に消えていた。

 もっとも、足跡が残るくらいに柔らかい、露出した地面を見ると、岸に上がったとは思えないが。

 まだ、手掛かりを失ってはいないはず。




 周囲は背丈の高い草が群生し、落葉の高木が密生している。霧もいつまでたっても晴れず、日中なのに薄暗い。

 目印となるようなものはなく、またこれほど視界が悪いとなると川に沿って歩かなければきっと迷ってしまうことだろう。

 ヤブ蚊も多く、いちいち手で払っていてはキリがない。

 雑草は朝露に濡れ、歩くたびに弾けたそれが顔にかかっていやに冷たい。

 湿気も多い。草の根、木の根が張っていくらか頑丈になっているのだろうが、水はけの悪い土壌らしくひどくぬかるむ。これでは川底と大してかわらないのではないか。

 草をかき分けながら進むも景色はなかなか変わらない。


 つくづく平静を奪ってくるような場所だ。

 下水道の臭いがなくなったのはありがたいが、足跡という明確な痕跡を失ってしまった以上多少焦りがちらついてくる。

 川底からジャンプして岸に移った、なんてことはそうそうないと思うが、やはり見当はずれの方向に進んでいるのでは? と考えずにはいられないのだ。一本道であった分、下水道の中のほうがまだましだったかもしれない。


 空腹感というのも、焦りに拍車をかけているのだろう。そういえばもう朝食をとっていてもおかしくない時間だ。過ぎてすらいるかもしれない。時計もなければ他人の生活リズムも感じられない。

 せめてパンのひとかけでも持ってくるべきだったか? いや、店のものに手を付けるなんて、するべきではない。

 山の時のように木の実やら果実やらを探すのもだめだ。

 なにせヤツが定住地を持っているとも限らない。あてもなく彷徨うような奴ならば早く追いつかないと本当に見失ってしまう。

 持て余すほどに実をつけているのならば別だが、それはあの山が異常だっただけだろう。

 軽く見渡したところで目につくものはなかった。

 

 体力的にも、精神的にも、はやいところ見つけてしまいたい。

 そうすれば、あとはあいつを殺すだけなのだ。多少運ぶのには苦労するだろうが、まあ持って帰るのは一部分でも構わないだろう。

 

 奴はどこにいったのか。実は隠れていたりするのだろうか。

 これだけ背丈のある草むらだ。少し屈めば姿をすっぽりと隠せる。何せこの小さな体では何とか首から上が出ているくらいなのだから。

 だが、隠れていたとしてもすぐにわかる。

 きっとわかってしまう。

 なんでなのかは、この際気にする必要もないだろう。ヤツを見つけられればそれでいいのだ。いっそのこと犬のように臭いで追えないものかとも思うが、さすがにそれは無理らしい。青臭さと濃い土の臭いばかりが鼻をくすぐる。



 この川は一体どこにつながっているのだろう。このままジューラ川の本流までだろうか。

 あの激しく不潔な体からは、〝川〟というイメージはまるで浮かばない。やはりベルナールの話に聞いたように、暗い穴倉の中のほうが似合っていると思うのだ。

 ここいらの地理情報に明るければヤツの向かいそうな場所もわかりそうなものだが、パーヴァペトーから出ることをあまり考えていなかったため、どうも地理には疎い。

 周辺事情くらい調べておくんだったと、今さらながら後悔してしまう。

 

 いっそのこと炭坑を目指して見ようか、とも考えるには考えた。何せヤツの同類が今もなお潜んでいる可能性が高いのだ。別にヤツ本人にこだわる必要もない、別個体だって何も問題はありはしない。

 まあ、炭坑への行き方も知らないのだが。



 ついには川も深さを取り戻し、砂地も消えた。どこでヤツが岸に上ったのかは、もうわからなくなっていた。

 もはや手掛かりをなくしてしまい、ただ川沿いに歩いていたのだが、日も天頂に近くなった頃、ようやく辺りの雰囲気が変わってきた。

 川幅は2mを超え、淀みはすっかりと消えていた。時折吹き付ける風によって草木が波立つのを除けば、今ではせせらぎばかりが辺りを包んでいる。

 いつまでたっても霧は晴れないが、ここらでは間伐でもされているのか、鬱蒼としていた木々が徐々に数を減らし、幾分視界が開けていた。草丈もひざ下までに留まっている。

 ぬかるんでいた地面もようやく踏ん張りが効くようになって、見違えるほどに歩きやすい。

 しかし鬱屈とした雰囲気はまるで変わっていない。それどころか、どうも先ほどまでよりも陰鬱さが増しているような気までする。


 そのまま道なりに歩けば、視界の端で朽ちかけの木柵が目に留まった。

 柵は川の向こうだ。

 こちらから渡ることは想定されていないのだろう、橋などは見当たらず、川を歩いて渡るしかない。

 このまま歩いていても何も見つかりそうがない。一縷の望みをかけてそちらへ向かうことにした。

 飛び越えられる幅ではない。一度戻ってから、というのも手だがそれではかなり引き返す必要がある。橋代わりになりそうな倒木なども見当たらない。

 時間に余裕があるわけではないのだ。仕方なく、ゆっくりと川へと下りる。

 今更濡れることなど気にしないが、さすがにこの時期の川の水は刺すように冷たい。深さは太ももに届くといったところ。

 足から上ってくる冷えた血液に思わず身震いする。

 これは、結構くる。

 日のぬくもりを遮る霧が恨めしい。

 流れはそれほど早くはない。流されることなく向こう岸までたどり着き、かじかむ体でなんとか這い上がった。


 止まっているほうが寒い。休むのもそこそこに、柵のほうへと歩いていく。地面を踏みしめるたびに水音が走る。地面ではない、靴からだ。足先が痛いほどに熱を持っている。

 霜焼けで済めばいいが。



 20も歩かぬうちに目的地にたどり着く。

 柵は腐食し、今にも崩れそうだ。

 苔むした表面は湿気を吸って黒ずんでいる。

 柵を越えるとまた木々に囲まれる。

 ただ、これまでと違い、すぐにそれも抜ける。開けた空間が目の前に広がった。



「ここは――」


 ――墓場だ。


 陰気さの所以は、この墓場か。


 小川から少し離れた位置にある柵で囲われた広場。上から見れば、木々の中でぽっかりと口を広げているように見えるだろう。

 墓地の周囲は木々に囲まれてそれ以上先を見ることはかなわないが、位置的にきっとここはジューブルッフの共同墓地なのだろう。 木々の切れ間には荒れ気味の通り道もある。

 縁石が設置された程度で、整備らしきものはほとんどされていない。多少周囲よりは雑草が目立たないくらいだ。

 あそこを辿れば、いずれは集落にたどり着くのだろう。

 だが、そちらには用はない。


 中は日本のそれと随分趣の違う、プレート状の墓碑がずらりと並ぶ。時折クロスも見えるが、少数だ。

 規則性はないのか、疎密のバランスがひどく悪い。通路もない。

 手入れもされているようには見えず、墓石にすら苔が広がっている。一角だけ苔の生えていない一団がある。比較的最近に建てられたのだろうか。

 だが、何よりひどいのは墓石の多くが傾き、果てには完全に倒れているように見えるものすらあることか。

 地質の問題だろうか。それとも――



 自然と頬が緩んだ。

 まさに、まさに、おあつらえ向きな場所じゃないか。草に覆われた地面では足跡などは残らない。

 しかし、ヤツはここに来た。

 ここにいる。

 確信めいたものが脳内で渦巻いている。


 知らず気分が高揚してくる。

 きっと今の自分はひどい顔をしているのだろう。口の端が裂けるほどに吊り上がっているのが自覚できる。


 一歩、また一歩。

 墓地へと足を踏み入れる。

 湿った芝、露出した土がそれぞれ柔らかな音を立てて沈み込む。くしゃり、くしゃりと、嵐が過ぎるのを黙って待つように。



 墓地内は、ひどいありさまだ。

 倒れていた墓石は自然に起こったものではないようだ。


 すべて、掘り起こされたことが原因だった。

 無造作に放られた墓石のそばには何者かに掘り返された穴があり、中は石で組まれた倉庫のようになっていた。そして棺桶が2~4個、棚のようなものに並べられている。

 だが、その重い蓋は――まさしく冒涜的に――開けられていた。

 中には腐りはてた誰かが横たわっていた。

 しかし、決まってどこか足りてない。

 腕だったり、足だったり、胴だったり、頭だったり。生気を失った体では抵抗することも叶わず、無残にその身を奪われていた。

 引き千切られたもの、引き裂かれたもの、それすらも面倒だったのか、直接噛み付かれたもの。

 様相は様々。

 だが、間違いなく彼らは食われていた。

 恐ろしい死肉漁り、死肉食らい――屍食鬼に。

 まさしくヤツは、グールだったのだ。




 耳を澄まさずとも、その邪な息遣いが聞こえてくる。ひどく怯えたように、浅い呼吸を繰り返す。その中で何かに祈るかのようにボソボソと不愉快な声で呟いている。

我ながら働き者の耳だ。

 思わず耳をふさぎたくなるような不快感すらも正確に伝えてくる。

 それでも、何事かは聞き取れない。聞こえないのではない。知っている言語ではないのだ。


『……あ…いあ……とてっぷ……るふ・ふたぐん……とてっぷ・つがー……』


 狂気を孕んだ呪文のようなそれは、ひどく耳障りだ。一言一言が脳にやすりでもかけられているかのように精神を掻き乱す。

 祈りは墓石の後ろから聞こえてくる。

 ――一歩を踏み出す。

 その声は小さく空いた穴の中から聞こえてくる。

 ――腐臭の立ち込める穴倉をのぞき込む。

 その姿は、本来の穴の主、無残に転がされた棺桶を踏みつけるようにして、蹲っていた。

 ――その姿を目にして、歓喜の念が沸き上がる。


「――つけた」


 胸の中で何かが狂喜的に渦巻く。

 ごりごりと肋を削るように、今か今かと騒ぎ立てる。


 ベルトに刺したナイフを、ゆっくりと引き抜いた。

 今から行われるのは本来想定されたのとまったく別の仕事。10㎝にも届かない刃渡りの、その柄を、しっかりと握る。

 露に濡れた手では、よく滑るのだ。


 ただの人間ならばともかく、この埒外の化け物を、デスクナイフなんかで殺せるのか?


 別に、いいのだ。

 一刺しで殺せなくてもいいのだ。

 何度も何度も、死ぬまで刺し続ければ、それでいいのだ。



 いつまでも知らぬ神に祈り続ける、おぞましい怪物に、その切っ先を向けた。



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