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11話


 小さい町、それも狭い路地の中だ。

 逃げ場など初めからなかったのか、騒ぎに目を覚ました住民、そして駆け付けた鉄道警備隊の男性に捕らえられた。

 その手に持ったナイフを向けることなんてできるはずもなく、ただただ、非力な腕で暴れるしかなかった。



 ***



 それからどうなったのかは、わからない。

 過程はどうあれ、自分は今、ベッドの上で寝かされていた。

 ナイフこそ取り上げられているものの、特別拘束されている状態でもない。外套はポールハンガーにかけられていた。

 自由にさせられているというわけでもなかったが、扉のすぐ脇に、軍服に似た警備隊の制服を着た一人が立っているくらいだ。


 見たことのない部屋だった。

 どこかの民家というわけでもない。おそらく、警備隊の詰め所かなにか、その医務室、あるいは休憩室といったところだろうか。

 四方を囲うレンガと、華美でない、落ち着いた色合いのカーペットが引かれて、全体的に温かみの感じられる部屋だ。

 部屋は広すぎることはなく、隅に置かれた小さな鋳物製の薪ストーブには火が入っている。

 部屋に窓はなく、今の時間帯はわからないが、それほど立っているようには思えない。

 まだ空が白むほどではないだろう。



 ベッド脇には寝巻の上に、申し訳程度にジレを羽織った、それこそたたき起こされたような風な老年の男性がこちらの様子を伺っていた。

「落ち着いたかな?」

 彼の問いかけに、無言で頷く。

 彼、エドモン先生はパーヴァペトーのに居を構える、いわゆる町医者だった。

 古くからこの町に住み、どこで仕入れてきたのかわからないような雑学――まあ博物学と言おうか、知恵を溜め込み、また沈着で懐の深い人となりから医者というより単純に相談役として頼られることも多い。

 医者にかかった覚えはないが、会話を交わしたことくらいはあった。

 物腰の柔らかい人だ。

 今も柔和な笑みを浮かべ――しかし何かおかしな点でもないかと探っているようにも見える――こちらの様子を伺っている。


 先生は、こちらが頷き以上の返答がないことがわかると、「まずは、ここがどこだかわかるかい?」と問いかけてきた。

 首を振ると、「そうか。ここは鉄道警備隊の詰め所の一室でね、〝暴漢に襲われていた君〟を保護してくれた人が、ここに運んできてくれたのさ」

 と、現状を軽く教えてくれた。

 その言葉に、何も返すことはなかった。


 彼は一度、困ったように笑みを崩し、頬をかきながらもポケットから、何がしかの書かれたメモ紙を取り出した。

「だいぶ落ち着いたようだからね、いくつか聞きたいことがあるんだが、いいかな?」

 また、無言でう頷いた。

 内心では、取り調べは彼が行うのか、などと考えていた。


「まず最初にだけど、アン。君はどうしてこんな夜更けに、あの場にいたのかな」

「……今朝、店の裏手のゴミが、何かに荒らされてたから……今日もそいつがきたかと思って、追っ払おうと」

 特に隠すこともない。

「そうか。なら、そうだね。どうしてエマール夫妻を起こそうと思わなかったのかな? 真っ暗で怖かっただろう、大人を頼ってもよかったんじゃないかな?」

 中身が見た目相応ではないから、とは言えはしない。だがまあ、やはり本心を偽るようなものでもない。

「……迷惑をかけたくなかったから。野良犬くらいなら、どうとでもなると思ってたし」


 先生は「ふむ」と、小さく唸りながらあごをさすった。その姿が薄っすらと、あの気に食わない紳士を思わせる。

 不機嫌面が顔に出ていたのか、「どうかしたかい?」と不思議そうな顔をされてしまった。

「なんでもないです」と、口に出して言えば、彼はにっこりと笑った。あの男とは似ても似つかない、優しげな笑みだった。



 先生はそれからもいくつか質問をしてきた。

 なかには何個か『何の意味が?』と思えるようなものもあったが、きっと彼にとっては大切な情報にでもなりえるのだろう。


 そして、いよいよ〝本題〟の質問が飛んできた。

「それじゃあ、アン。君は……君が路地裏でみた……いや、隠してもしかたないか。アン、君はアドルフを襲っていた暴漢の顔は、覚えているかね?」


 それを聞かれた時の自分は、いったいどんな顔をしていただろうか。

 あの醜悪な犬面を思い出して、苦い顔をしていただろうか。

 あの時嗅いだ、死の香りを思い出して恐怖に歪めていただろうか。

 取り逃がしてしまったことへの、強い後悔だろうか。

 それとも、それらのすべてだろうか。

 はたまた、どれにも当てはまらないだろうか。


「……アン。君の知っている人だったり、したのかね?」


 気遣うような声音をした先生に、顔を覗き込まれた。

 ふるふる、と首を横に振る。

 あんな顔をした知り合いなど、いはしない。

「……犬」

「犬? 野犬ということかね?」

「いいえ。犬のような顔をした、いや、人間みたいな、裸の……」

 あれは、どうやって説明すればいいのだろうか。

 いまいちいい説明が思い浮かばない。なにせ、あんなものは生まれてこのかた初めて見たのだ。姿かたちは、今でもはっきりとイメージすることができる。あれだけ刺激の強い体はそうは忘れないだろう。


「犬みたいな顔をして、二本足で立って、足には蹄がついていて……手には大きなカギ爪があって……」


 先生は、困ったような笑顔を浮かべている。

 おもむろに後ろを向くと、監視役だろう男性と顔を見合わせていた。


 一度振り向くと、

「アン、もう少し休んでいてね」

 と一度頭を撫でられると、彼は警備隊の男性を伴って、部屋を後にした。


 扉を挟んで、小声で話し合っているのが聞こえる。

 聞こえてしまうのだ、その程度の囁きでは。


「やはりまだ意識がはっきりとしていないのでは」

「暗闇だったから、正確に見ていないのかも」

「野犬と見間違えたとか」

「被害者の、胸の傷の説明が」


 ――なんとなく、わかっていた。

 自分が見たものは、およそ常人が信じるようなものではない。

 それこそ、ベルナールの話を与太話と切って捨てたように、誰も信じない。


 宙ぶらりんになってしまったような、なんとももどかしい感情にかられる。誰に何を言っても、信じてもらえない、理解してもらえない、聞いてもらえない。


 自分たちとは違うものだと、異端を見るような目で見られてしまうかもしれない。


 『居場所を失うかもしれない』

 

 ――それだけは、嫌だ。

 

 今の居心地の良さは、きっとそう簡単には手に入らないものだ。今までが恵まれすぎていた、きっと運がよかったのだろう。次があるとは思えない。

 だからこそ、今の居場所を失うわけにはいかない。

 また、失うわけにはいかないのだ。



 言葉で伝えるだけでは信じてもらえないというのなら、無理やり信じさせればいい。

 ヤツを連れてきて、直接見せてやればいい。

 連れてこなくても、頭だけでも、腕だけでも、足だけでもいい。

 殺しても構わない。

 ただ持ってくるだけでいいんだ。


 たったそれだけで、証明できるのだ。




 そのあとも、彼らは何かを話し合っていたようだが、そのほとんどがどうにもうまく、頭に入ってこなかった。

 きっと、聞くに堪えないことを話していたか、あるいは聞く必要のない話だったのだろう。


 


 ただ、有益な情報もあった。

 耳を澄ませずとも聞こええてくる外の様子。

 どうやら別の警備隊員も会話に加わったようなのだ。そしてそのおかげで、アドルフさんを殺したヤツは下水道のほうへ逃げて行ったということが判明した。

 下水道、おそらく共同のゴミ捨て場のことを言っているのだろう。分別の考え方なんてない。各家庭ででたゴミは、生ごみから糞尿まですべて下水道に流す。それは町の壁を越え、どこかの川にでもつながっているのだろう。

 なるほど、町の入り口でも、線路でも、壁をよじ登ってきたわけでもなく、あんな汚い場所からやってきたのか。

 あの不潔な存在には、まさにお似合いだ。



 パーヴァペトーには下水道は二つある。

 二つ、といっても一つは現在は使われてはおらず、ずっと昔に廃止されているようだ。

 二つは正反対の方向にある。町の東端と西端だ。

 どっちだ。

 ヤツはどちらに逃げたんだ。

 先ほどよりも耳を澄ませていても、彼らはまるでそのことについては話してくれない。

 もどかしい。

 なぜそんなしょうもないことばかりを話すのだ。

 やつはいるのだ。

 幻覚でも、想像でも、嘘でも、逃避でもない。

 誰があんなヤツを庇うものか。

 捕まえるのだ。捕まえて証明するのだ。


 それだけが自分が安らげる道だ。



 パチパチと、暖炉の中で薪が爆ぜる。

 普段は心地よいそれも、今では慰めの一つにもなり得はしなかった。



 ***



 解放されるのは、早かった。

 もっとも、もう夜も遅いからとそのまま詰め所のベッドで眠った後のことだが。

 

 朝に起こされると、ほどなくして家に帰ることになった。監視の人の話によるとエマール夫妻が迎えに来てくれたようだ。


 ああ、迷惑をかけてしまった。

 こんな時間から揃ってきてくれたということは、今朝は店を開けなかったのだろうか。

 それとも、遅れて開店するのか。どちらにせよ、仕事の邪魔をしてしまったことに変わりはない。ちゃんと、謝らなければ。



 開口一番に言われたことが、「無事でよかった」だった。泣きながら抱きしめられてしまった。なんということだ、迷惑だけでなく、心配までかけてしまっていたのか。

 店のほうも、どうも今日は終日休みにしてしまうようだ。定休日でもないのに。

 もし自分に原因があるのならば、気にしないでくれと言ったところで「今日はゆっくり休みましょう」と、取り合ってくれない。

 

 迷惑をかけてしまった。

 

 これ以上迷惑を余計な迷惑をかけるわけにはいかない。

 嫌われてしまうのだけは嫌だ。

 

 昼間の間は、夫妻はずっと面倒を見てくれていた。

 くすぐったいような温かさを感じたが、それを失くしてしまうかもしれないことを思えば、恐怖に顔が強張ってしまう。

 そんな顔をするたびに、彼らは自分を抱きしめてくれた。

 

 それが、とても怖かった。

 

 結局日中は何もできなかった。

 夕方、温かい夕食を終えて、早くに眠ることになった。

 一緒に寝ようかと誘われたが、了承するわけにはいかない。断ると、ひどく心配そうな顔をされた。どうにも胸が痛い。

 何か選択を間違えているような気がしてならない。

 だが、仕方のないことなのだ。少なくとも、アレの存在を証明するまでは甘えることはできない。

 そうだ。

 アレを持ってきた後、うんと甘えよう。

 これまで遠慮していた分まで、甘えよう。

 

 自分がこんなに弱い人間だったとは、こんなに人とのつながりを、人の温もりを欲するような人間だったとは、思ってもいなかった。

 こんなに、見た目相応に心が幼いとは思っていなかった。情けない。


 人は一人では生きれないとは、こういう感情のことを言うのだろう。

 ならばこそ、早くアレを見つけよう。



 日も暮れた。

 自分は早いうちからベッドに押し込まれたが、彼らまでそんな早くから眠るようなことは、さすがになかった。


 夜更け。

 体感的に、昨日、一昨日とヤツがやってきた時刻と重なっている。それがわかった。

 今日は来ていない。

 あの不潔な咀嚼音は聞こえてこない。

 まだなのか、それとも今日は来ないのか。

 ヤツのほうからやってくるというのなら楽だったのだが、さすがにそうはうまくはいかないようだ。

 しかも、どうやらそこらを歩いている人がいるようだ。コッコッと石畳を歩くブーツの音が聞こえる。音からして、きっと鉄道警備隊の人たちだろう。そんな音のしそうな靴を履いていたと思う。


 まさか憲兵隊の人たちまで出張ってきたわけではあるまい。彼らは今炭坑のほうに行っているはずだ。

 しかし、これは監視だろうか。

 ならばより慎重に事をなさなければならない。

 難しいだろう。

 しかしやるより他はない。



 のそりと、ベッドから体を起こす。

 音は立てない。

 肌寒いこの時期は木の床は温かみがあって好きだったが、今では余計な音を立てる要因にしかならない。

 変に音をたてないように、外へ出るためのの準備はすべてベッドの上で済ます。

 寝巻から普段着へ。

 ベルトを巻き、オーバーコートを羽織る。

 ナイフは、残念ながら取り上げられてしまった。物証ということだろう。

 

 ロランスの包丁などを使えれば、きっと切れ味もすばらしいだろう。だが、エクトルさんの大事な商売道具をそんなことに使うわけにはいかない。

 あんな汚らしいものを切るためのものではないのだ。


 サイドチェストの2段目を開く。

 中には読み書きの勉強のために使っている本と紙束、鉛筆、そして一本のナイフが入っている。

 デスクナイフと呼ばれる、まあ鉛筆の芯を削ったり、ペーパーナイフなどとして使われるものだ。

 刃渡りは7、8㎝ほど、自身の小さな手のひらほどしかないが、その分果物ナイフなんかよりは頑丈かもしれない。

 これも、夫妻が用意してくれたものだ。

 考えている通りの使い方をするのは、とても胸が痛む。

 

 しかし、仕方がない、仕方がないことなのだ。


 デスクナイフをホルダーへと収める。

 長さも太さも合わず、どうにも収まりが悪かった。



 ***



 この時間帯の貧乏通りは相変わらず暗い。

 普段は気にならないのだが、二階構造の、のっぺりと威圧感のある建物が、それもほぼ隙間なく並んでいる分余計に暗く、そして息苦しく感じる。

 人工の光がない分月明かりが、とはよく言うが、便利さで言えばやはり電気のほうが優れている。一度電線を引いてさえしまえば自動点灯、自動消灯の街灯がいくつでも作れてしまう。

 ただ、今みたいに目立たないよう、見つからないよう行動するとなればこの暗さは頼もしい味方になり得た。少し離れた相手の顔もろくに見えないような暗さだ。

 まあ、もともと人通りなんて皆無な上、人死にのあった後だ、誰もいないのだが。


 ……そのはずだったのだが、人死にがあったからこそ警備隊の巡回というものが行われてしまっている。彼らにとっても自身の仕事の範囲外だろうに。おそらく、事件が解決するまで、あるいは憲兵隊に引き継がれるまで彼らは眠れぬ夜を過ごさなければならないのだろう。もっとも、交代くらいはあるのだろうが。



 建物の、ちょっとした陰に身を隠す。

 すぐわきの路地をランタンの眩い明りが通り過ぎて行った。コツコツとよく響くブーツの音のおかげで、巡回の接近に気づくこと自体は簡単だ。ただ、それも物陰があるところまでの話。

 西端の、現在は使われてはいない下水道までの道のりは、最後は開けた場所を通らなければならない。一気に駆け抜けてしまうのも悪くはないが、そうなればどうしても足音が立ってしまうだろう。しかしタイミングを見計らって、というのも難しい。どうも下水道に近づけば近づくほど巡回が増えてきている気がする。

 当然か、何せ逃走ルートに使われたのだ。

 普通ならば同じルートを使うとは考えにくいが、それも〝ばれていることがばれている〟ときに限る。

 自分の逃走経路がばれていると知らなければ、戻ってくる可能性もなくはないのだ。

 もっとも、ヤツにはそんなことを考えるだけの知性があるのかどうかはわからないが。



 なんにせよ、これだけ警戒が強いということは、ヤツが逃げて行ったのもこの道で間違いないようだ。もともとこちら側はバルトー側。つまり、炭坑の方角でもあるのだ。

 ヤツはおそらく、いや間違いなくあの炭坑の、暗い穴倉から這い出てきたのだろう。

 ならばまったくの反対方向よりも、こちらを選ぶだろうと思っていた。

 

 しかし予想は当たってはいたが、ここからどうするか。

 通りをちらりと覗く。

 灯りが遠ざかっていくのがわかるが、それもしばらくすれば戻ってくる。

 下水道まではこの名前もない裏通りを通るのが一番早いのだが、巡回が厳しい。


 背を預けた石の壁がひどく冷たい。吐く息も白く、外套に守られていない指先が寒さにツンと痛む。

 体力的にも、あまりゆっくりはしていられない。凍死なんてことにはならないが、寒さは体力だけでなく集中力も奪っていく。体力と気力が有り余っているうちになんとか町から出たいところだ。

 

 路地裏をうまく使えればいいのだが、半年住んでいたとはいえ、パーヴァペトーの路地裏事情までには詳しくない。少しずつ、巡回の様子を伺いながら進んではいるのだがずいぶん時間を食ってしまった。

 空が白むまでにはまだまだ時間はあるが、もし夫妻が自分の様子を見にでもくれば、まあまたひと騒ぎが起こってしまうことだろう。

 そうでなくても、朝になれば自然とわかることではあるのだが、できれば町を抜けてからのほうが、ありがたい。



 なんとか巡回の目をかいくぐりながら歩を進めたのだが、ここが最後の難関だ。

 町の西端。メインストリートは十字に伸びているが、基本的に南北に伸びる通りがメインなため、ここまで端にくれば建物も、そして街灯もない。暗闇とはいえ、100m近く物陰も何もない場所を通らなければいけない。

 暗闇の中、ずいぶん慣れた目で遠くを見やる。今はもう使われていない下水道、その入り口が見える。月明かりがあるとはいえ、暗闇の中これだけ遠くのものを見ることができるとは、なかなかに異常なことだ。それでもやはり今はありがたい。

 下水道といったものの、見た目は大きめの井戸のようなものだ。中が人工の水路のようなものになっているらしく、そこにごみを投げ捨てていたのだ。

 今はふさがれているが、かつては町内のいくつかから排水管が伸び、合流していたらしい。水はもう流れていない。


 巡回も、今は使われてはいないとはいえさすがに下水道には近づきたくないのか、やや離れた位置から監視をしている。あんな位置ではたとえランタンを持っていたとして、監視にならないのではないか? 自分のように、やけに夜目が利かなければたとえ不審人物がいても気づかないような気がするのだが。

 いや、音があるか。

 これだけ静かならば足音一つとってもとても目立つ。


 しかしどうしたものか。

 極限まで音を出さないようにしなければいけない。

 裸足になって一気に駆けていくか?

 舗装されているとはいえ、まっ平ということはない。そのうえ石畳だ、当然足が痛い程度で済みはしまい。

 ただ、布を巻いていたとはいえ、靴もなしに山道を駆けていたのよりはよっぽどましだろう。

 一瞬だけ、またあの時みたいに原始じみた行動をしなければいけないのか、とげんなりしたが、目的がある。それに裸足でさえ完全に音を消せないのだ、四の五の言っていられない。


 そう諦めて靴を脱ごうと手をかけたのだが……


 町の中央の方がにわかに騒がしくなった。

 なんだ、何が起こっている? 

 耳を凝らしてみても、さすがに聞こえなかった。

 だが、まったく役に立たなかったわけではなく、別のものを捉えることができた。町の中央のほうから警備隊と思われる誰かの足音が聞こえてきたのだ。

 咄嗟に身を、壁の裏、家と家の間に隠す。

 これまでよりももっと深くに。


 どうも足音は焦り気味で、若干駆け足になっていた。

 呼吸も乱れている。交代の時間に遅れた、なんてことではあるまい。

 足音が通り過ぎて行ったのと、後続がいないことをを確認すると、隙間からそっと顔を出して様子を伺う。どうやら先ほどの彼は下水道付近の監視と何事かを話しているようだった。

 ここからでは表情までは伺えないが、やはり焦っているように見えた。

 それが監視の方にも移ると、彼らはどこかへと駆け出して行った。


 これは、チャンスではないだろうか。


 いつ彼らが戻ってくるかはわからない。難しく考えず、好機が訪れたのだと思おう。

 理由が気にならないわけではない。むしろ、考えたくないのか、胸がざわついてしかたないくらいだ。


 迷いを追い払うように、一度頭を振る。

 念のため靴を脱ぎ、胸に抱えて駆け出した。



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