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10話



 連日で奇妙な話を聞くものだ。


 昨夜に続いて、今日もベッドの中で眠れない夜を過ごしていた。

 頭の中に居座るのは昼間ベルナールから聞いた炭坑での、彼がその目で見て、その身に刻んできたという、彼にとってはそれはもう忌まわしかったらしい話。ベルナールが肝心なところを端折って話を終わらせてしまったため、どうにも気になって仕方がないのだ。

 あの独特な語り口が特に後を引かせていたというのもある。アルコールに脳を浸し、呂律も怪しく、しかし心底怯えたようで、自身もそれを否定しようとしてるほどに気味悪がりながら。


 まだ明るい時間帯、それも酒に呑まれて、陽気で騒がしい連中に囲まれた中で彼の話を聞いていたときは、それこそ周りの男たちが言うように所詮酔っぱらいの与太話程度にしか思っていなかった。暗い穴の中という、常の世界とは真反対の異空間、その雰囲気が見せた幻覚なのだと、そう思っていた。


 しかし、太陽の光も、人工の灯もない真っ暗な部屋の中では、不覚にも彼が潜っていたという暗い穴倉の中を幻視してしまうのだ。


 それほど広くないはずの、もともと小さな物置だった自室。

 石積みの冷たい壁と、板張りの軋んだ床に囲まれた四角い空間はしかし、その隅が暗闇にのまれ、ともすれば先の見えない奈落にでもなっているのではないかと錯覚する。

 暗さに慣れた目でも、薄っすらとでも見通すことのできない闇がそこにあった。


 怖い話を聞いたときなどの、妙に背後が気になって仕方ない、そんな感覚に近いだろうか。

 たった二部屋隣ではエマール夫妻が眠っているであろう寝室があるのだが、どうも広い空間に独りぼっちでいるような気がしてならない。

 肌寒さが余計にそれを助長する。ブランケットを口元まで引っ張ってみるが、何も変わらない。


 今日に限って、月も雲に隠れていた。時折雲の切れ間から顔を覗かせることはあるが、まあその程度だ。

 小さな格子窓から差し込むのはひどく弱弱しい薄明り。雲に遮られ、地上まで碌に届かない光では部屋の中を十全に照らすには至らずに、光の届かない、じめっとした淀みのような空間が出来上がっている。


 この頼りない月明かりが、ベルナールたちにとっての安全灯だったのだろう。

 実に頼りない、しかしそれすらもなければどれだけ心細かったか。

 『この通りにも街灯があれば』

 皮肉にもこんな理由で、そう思わなければならないとは思いもしなかった。


 本当の闇とは、蠢くものだと初めて知った。

 質量のない空間が形をもって、まるで踊るかのようにうねっている。

 愛でるように、見守るように。

 嘲るように、害をなすように。

 贄をよこせと、気味の悪い触手を伸ばすように――。

 もちろん、イメージが作っている幻覚に過ぎない。頭では理解していても、というやつだ。




 結局ベルナールたちが遭遇したものたちはなんだったのだろうか。

 彼曰く、ぽっかりと不自然に空いた横穴の奥深く、標高的に地下か地上だったのかはわからないが、深い穴の中にいたという極端に不潔な人間――のようなもの――らしいが。


 これだけならば、浮浪者か、あるいは何らかの理由で身を隠さねばならなかった何者かが潜んでいて、その横穴が炭坑として開発され始めてしまった。

 彼らは見つかるのを避けるため、奥へ奥へ引っ込んでいかなければならなくなる。

 そうして、更なる炭層を求めて炭鉱夫たちも奥深くまで潜り、異様な雰囲気にのまれ動転したベルナールらが彼らと鉢合わせ、この世ならざるものに見間違えたのでは、と考えることもできる。

 そんなオチならば、怖がっていることがバカらしくて仕方がなくなるだろう。



 しかしそうなると、『炭坑として開かれて以降の長い時間、食糧はどうしていたのか』、や、そもそも『その横穴はどうやってできたのか』などの疑問も出てきてしまう。

 ベルナールの口ぶり、そしておそらくその手の専門知識も持っていたであろう、石炭公社の人間の反応からすると、それが自然にできたものにはとても思えないようなものらしいし。

 ほぼ規則正しい高さと幅をした長い長い洞窟。洞窟といえば、鍾乳洞なんかが思いつくが、さすがにそれとは違ったのだろう。


 誰かが何かの目的を持って掘り進めたと?

 しかし、そんなに広い洞窟を掘るならば、それこそ炭鉱夫たちのように大勢の人間が、そしてダイナマイトのような爆発物、つるはしなどの掘削道具も必要になってくる。


 はるか昔に、たとえば軍事的な理由などでつくられた穴だったりしたのだろうか。用途は思いつかないが、軍事的理由なら隠していたとしてもおかしくはない。

 もしくは石炭以外の鉱物を求めていた、など。

 しかし地元の人間すらも知ることなく、そんな穴を作ることができるのだろうか? もし当時を生きていた人間が残っていなかったのだとしても、口伝か何かくらいは残っていてもいいのではないか?


 ――似たようなことを、つい昨日考えていたような気がする。




 ……腐臭がしていたというからには、身を隠していただろう誰かが飢え死にしてしまっていたのかもしれない。人に見つかることを恐れ、洞窟の奥の奥でひっそりと、あるいは仲間に見守られながら息絶えた。

 そうであれば、なんとも気の毒な話ではある。


 前向きに考えるなら、仕留めた獲物の、ちょうど生ごみとなってしまった部分が臭っていただけなのかもしれない。

 しかし数か月もの間、食料を補充することなく生き延びられるのだろうか。冷蔵庫なんてものは当然ないし、干物なんかの保存食だって、そう簡単に作れたものではない。


 ならば、実は出口は一つではなく、どこからか食料を調達できていた。

 あるいは炭鉱夫たちも朝も夜もなく働いていたわけではあるまい、必ず睡眠をとる時間がある。その時を見計らって食料調達に出ていたのかもしれない。

 そんな風にも考えることもできなくはないが、だとしたら戻ってこないでそのまま逃げてしまうと考えたほうがよっぽど自然だ。


 どうにも、悪いほうに、悪いほうに考えが進んでいく。


 腹が減る、食べ物が手に入らないかもしれないという恐怖は、少しばかり覚えがあった分、余計情を寄せてしまう。


 同じような状況のとき、自分はどう考えていたか。

 もう随分前のことになるが、身一つで山の中に放り出されるなんて、なかなかに忘れられない経験だ。むしろ忘れようとしてたというのに、忘れられないくらいだ。

 特にあの胡散臭い男のせいで鮮明に思い起こされたまでもある。

 

 自分が飢えていたあの時は、そういえば、食べられるかもわからない毒々しい果実を口にしたのだったか。

 リンゴのようで、黒い艶を持つ、こぶしよりも大きな果実だった。

 集めていた時、そして、まともな料理を食べた後となってはあれほど不気味なものもないと思っていたのだが、腹が減っていた時、気力が付きかけていた時、それはひどく魅力的に見えていたことを覚えている。

 一度かじりついてしまえばもはや他のどんな料理よりもおいしく感じすらもした。


 極限状態に近くなればなるほど、きっと人は、まさしく生きるために何でもするようになるのだろう。

 なりふり構わず、その後のことを考えられず。

 何よりもまず、今を凌ぐ。

 毒かもしれないものだって平気で口にするのだ。


 ならば、もし。

 飢え、衰弱し、追い詰められ、真っ暗な穴の中という生きるのにまるで適さない空間で、どうしようもなくなったとしたのなら。

 人は一体どんな選択をするというのだろうか。

 隣に立つ誰かを、どういった目で見るのだろうか。

 

 ベルナールは、自身が見た何かのことを〝あいつら〟と称していた。

 その洞窟には、炭鉱夫たち以外の存在が複数人いたのだ。


 そいつらは、その口を涎で塗れさせるほど、飢えていたのかもしれない。

 生き物の類など見当たらない、深い深い暗闇の中で。


 彼らはいったい、何を口にして生きていたのか。

 彼らはいったい、何を思って身を潜めていたのか。

 恐る恐る近づいてくる、ベルナールたちを見て、何を考えていたのか。




 ――おかしなことを考えていると、おかしな方向へ想像も膨らんでしまうものだ。


 目が使えないとなると、それは一層と明確に、そして不合理な方向にまで突き進んでいく。

 部屋の外、ロランスの裏手のほうから、決して〝カナリアの囀り〟にはなりえない音が聞こえていた。


 ガサゴソガサゴソ、くちゅくちゅぐちゅぐちゅと、幾分以上に気味の悪い音が、しんと静まり返った世界の中で唯一鳴り渡っている。


 こんな下卑た音では、不安に軋む心を安心させる要素には決してなりえない。

 むしろ不吉の象徴だ。

 音の絶えた暗闇で彼らが聞いていたかもしれない、不気味な息遣いと同様のものなのだ。

 不潔なニタニタ笑いなのだ。

 いや、それよりもさらに直接的で、そして真に迫っているのかもしれない。

 今なお聞こえている、路地裏のゴミを漁る物音の正体が、どうしようにもないほどベルナールの話にでてきた化け物のように思えてしかたない。


 薄汚く、カビ臭い肌。だらりと垂らされた涎は、大きく裂けた獣のような口から続いている。

 そいつらはまるで獣のように、無様に、汚らしく、生ごみの入った木箱の中に顔をうずめている。

 まるで犬のように、貪るようにして。

 残飯をまるで御馳走のように食らっている。


 そんな姿が、頭の中にありありと想像される。



 一度思い浮かべてしまうと、そのおぞましい姿が脳裏から離れない。

 そんなものがいるはずがない、そもそもベルナールが語っていたのは炭坑での出来事で、わざわざこんな町中に、そんな化け物じみた存在が現れるわけがないのだ。

 そう否定してみても、頭の中で、まるで現実に見たことでもあるかのように精緻に再現され、嫌悪感だけを丁寧に浮き彫りにさせるほど鮮烈に、その醜さを強調しながら化け物は蠢く。


 何匹も、何匹も、まるで犬のように群れて。

 死肉を求めて徘徊するハイエナのように街を歩き回って。


 やつらは今は生ごみで満足しているが、それがもし、もっと別のものを食べたいと思ったのなら?


 


 ガバリ、と背中にスプリングでも仕込んでいたのかと思うほどの動きで飛び起きる。

 ブランケットなど跳ね飛ばして、しかし肌寒さに震えるようなこともなく、ただただじっとりと背中にいやな汗が滴っている。


 ――どうしても、正体を確かめたい。

 そうでもしなければ、このまま朝まで眠れぬ夜を、それも不愉快なニタニタ笑いとともに過ごさなければならなくなってしまう。


 どうせ、ただの飢えた犬か何かだろう。

 近所の人たちの話では、どうも野良犬や野良猫の類ではないかもしれないということだったが、一体ほかにどんな生き物がいるというのか。

 形骸化し、すでに取り壊しの案も出ているとはいえ、パーヴァペトーは少なく見積もっても2m以上はある壁に囲まれてすらいるのだ。入り口だって、夜中は門が閉じられている。入ってこれるのは道具を使う知恵を持った人間か、それか壁など意味のない鳥ぐらいのものだ。


 町を横断する線路を通ってきたというのなら、話はまた別なのだが、ここ最近は鉄道警備隊の監視が強いと聞く。先の沼沢地の村、ジューブルッフでの暴動が効いているのだろう。暴徒たちは執拗に鉄道の線路を壊すことに躍起になっていたという。

 そのため入ってこれる動物なんて、いはしないのだ。


 ならばやはりごみを漁っているのは犬猫か、あるいは知恵を持っているかもしれない、想像上の化け物のどちらか。

 端から存在しないものと天秤にかけるというのもおかしな話だが、確かめてみればすべてがわかる。


 そう、それに明日の朝もゴミが荒らされていてはいけない。またもエクトルさんの手を煩わせてしまうことになる。

 やはり物音に気づいてしまったのだから、追っ払うべきなのだ。



 一応、腰にはしばらくの間使っていなかったベルトを。そしてホルダーには、少し頼りないが、歯の欠けたナイフを。

 寝巻のままではなんだと、子供向けに仕立てられたオーバーコートを羽織って。

 突っ掛けのようなサンダルではなく、頑丈なつくりの革靴を履く。

 オイルランプは、なしのほうがいいだろう。

 明かりがあればいらぬ騒ぎにも発展するかもしれない。



 夫妻を起こさぬようそっと自室の扉を開けると、窓のない廊下はまさに闇に包まれていた。冷たい壁の感触を頼りに、足音も立てぬようこっそりと進み、やたら踏面の狭い階段を慎重に下りていく。


 ぴちゃぴちゃ、くちゃくちゃ、という汚らしい音が先ほどまでよりはっきりと聞こえてくる。


 一階に降りると、うっすらと光が覗くカウンター、フロアの方へは行かず、更に暗い裏口の方へ。この辺りは物置――二階の生活用品を置いていたものとは別に――に収まりきらなかった食材やら何やらが詰まった木箱が積まれていたりと、何かと歩きにくい。

 ランプも途中までは持っていてもよかったかもしれないと今更ながらに後悔していた。

 下手をすると自分の方がよっぽどうるさい音を立ててしまいそうだ。

 そう、内心別の意味でもひやひやしながらも歩いていると、


 ――不意に、扉が開く音が聞こえた。


 急な状況の変化に思わず飛び上がりそうになる。

 声が漏れそうになるのをとっさに我慢し、数拍ばかり、ぴたりと動きを止める。

 音はやはり、ロランスの裏手から、もう幾歩かも歩けばたどり着くだろう扉の向こうからのものだった。こちらに入ってきたというわけではさすがになかった。

 自分と同じように、物音に気付いた人がいたのだろうか。そういえば、神経質で臆病だという近所の旦那さん、アドルフさんが昨日の物音に気付いていたのだったか。

 

 人がいるのだと安心し、ほうと息が漏れる。

 強張っていた体も、肩からゆっくりと力が抜けていく……そう思っていた時、



 ひと際大きな異音が、外から聞こえた。

 これまでの水音でも、扉を開ける音でも、ましてアドルフさんの声でもない。


 薄汚い、甲高く、耳障りな金切り声が響いたのだ。


 思わず両の手で耳を塞いだ。

 扉の向こうから、ドブネズミの声を不気味にしわがれさせたかのような声で、それは恐ろしいことに、ただわめくだけでなく、明確な意思を持ったように何事かの言葉のようなものを叫んだ。絶叫する風でなく、畜生が何かを威嚇するような唸り声のようなものだった。


 次いで、争うような、そして何かが倒れたような、水音とは似ても似つかない騒音へと変わる。金属とガラスが派手な音を立て、路地を転がる様が伝わってくる。


 まずい――。

 

 いよいよもって事は大ごとへと変わる。

 瞬時に、決して見過ごしてはいけない何かが起きてしまったと思い至り、慎重さなどかなぐり捨てて駆け出した。

 木箱やらに突っかかり、時折派手に転びそうになりながら扉までたどり着いた頃には、さっきまでの騒音は鳴りを潜め、再び〝何か〟を咀嚼する音に変わっていた。

 不快な臭いが鼻をくすぐる。いつも以上に吐き気を誘うのは、そこにいつもと違うものが混じっているからだろうか。


 嫌な想像が頭をよぎる。

 ノブを握る手は手汗まみれで、幾分以上に震えていた。

 しかし、躊躇っていたのは一瞬だ。

 ベルトのホルダーからナイフを引き抜き、震えの収まらない、感覚もやや怪しい左手にぐっと力を籠めると、ドアノブを勢いよく引いた。




 頼りない月明かりでは到底照らしきれない、鬱屈とした路地裏。

 汚物と残飯のぶちまけられた石畳の上に転がるオイルランプの明かりだけがその場を照らす。グローブという、ガラスの風防には穴が開き、風でも吹けば消えてしまいそうに灯がちらついている。


 だがその灯は最後の仕事とばかりに消えずに残り、汚れた地面と何かが飛び散った壁、壁にもたれ掛かるように倒れる誰かと、それに覆いかぶさるように屈むソレを照らし出した。


 それは異形の姿だった。

 腰布一枚巻かず、その汚らわしい肌を晒している。

 屈んでこそいるものの、その体は二足でしっかりと支えられ、その足先は蹄のようになっていた。

 倒れた男の体をがっしりと掴むのは、その大きくえぐれ、鮮血にまみれた胸と首を切り裂いたであろう鋭いカギ爪を備えた両手だ。

 尖った耳、犬のように突き出した鼻と口。

 しかしどこか人間味を感じる平べったさがあるその顔を、餌食となってしまった誰か――アドルフの首筋に突き立てて、うまそうに目を細め、涎をたらし、しゃぶっていた。


 悲鳴を抑えるのに精いっぱいだった。

 もしかしたら、抑えきれてないどなかったのかもしれない。両の目から侵入してきた情報に麻痺した思考ではそのどちらかの判別もつかない。


 突然の来訪者に向こうも驚いたのか、恍惚とした笑みは一瞬にして彼方へ消え、〝もどき〟の顔を振り向かせた。


 正面から見ると、その醜悪さがさらに際立った。口元にはさっきまで食らっていただろう残飯と――そして血肉がこびり付き、ゴムのように撓んだ皮膚には、瘡のようにカビがへばりついている。

 常にも漂っている生ごみの臭いを押しのけて、カビ臭さと、鉄の臭いを惜しげもなく振りまくその口はぽかんと開けられていた。


 動くことができたのは、あの忌まわしき山で幾分肝が鍛えられたからか。

 取り落としそうになっていたナイフをしっかりと両手で握りしめ、呆けたままの死肉あさりへと突っ込んでいく。


「あああぁぁああッ!」


 その人を放せ! なんて言葉が口から出るはずもなく、雄たけび以上の意味をなさない声で吠え、ようやく体をこちらへ振り向かせたばかりの奴の胸へと、刃を突き立てる。


 ずぶり、と、弾力のある皮膚を破き、侵していく感触が手のひらを伝う。

 刃こぼれし、かろうじて切っ先だけが尋常な刃の体をなしているようなナイフでは分厚い皮膚を貫通させることはできなかったようだ。

 体重をかけるようにして押し込んだところで、それが筋と骨に守られた肺臓まで届くことはなく、金をすり合わせたような絶叫を上げて暴れる〝もどき〟に簡単に振り払われてしまう。


 それでも目の前の相手はその身を切り付けられたことに恐怖を覚えたのか、いやにおびえた顔で目をぎらつかせている。

 その大きなカギ爪を振るのではなく、小さく開いた胸の穴を庇うように。じわじわと垂れ流れる血液を抑えようとしている。


 転がされた自分は、荒くなった息を無理やりにでも整えようとしながらも立ち上がり、その様を睨み付けている。

 向こうから飛びかかられでもすれば終わってしまう状況なのに、妙な均衡が生まれていた。



「あなた、あなた? 何かあったの?」


 唐突に、消えかけだった灯の代わりに新たな光が路地を照らし出した。

 怯えたような、ひどく震えた声で呼びかけたのはアドルフさんの伴侶、デジレさんだった。

 混乱していたこともあって、彼女の接近にまるで気づかなかった。

 彼女は開けたドアから半身をのぞかせ、路地の方を、もたれるようにして倒れている自身の夫と、そして血の滴ったナイフを握りしめている自分を見て――


「キャアァァッ――!」


 絹を裂くような悲鳴が路地に響き渡った。


 大声に驚いたのか、それともタイミングを伺っていたのかはわからないが、もどきの方はすぐさま明かりの届く範囲から退いた。そしてそのまま、わき目も振らずに逃げて行ったようだ。


 これまでの騒音と、そしてデジレさんの悲鳴を聞いてか、にわかに路地裏には人が集まってくる音が聞こえてくる。

 慌てたようにガタガタと、階段を下りる音。

 ドタドタと板張りの廊下を走る音。

 何の騒ぎだと焦ったような、怒ったような、冷静さに欠いた喧噪が近づいてくる。


「違う、違う、僕じゃない」

 震える声で、誰に言うでもなく、否定する。

 その言葉はきっと、誰にも届かなかっただろう。

「違う、違う違う違うっ!」


 ただただ、その場を離れるために、暗い路地の中を駆け出した。




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