フリースタイル桃太郎
むかーしむかし、あるところに、仲睦まじい一組の老夫婦が暮らしておりました。いや、二人は籍を入れているわけではないので、正式な夫婦ではありません。同棲を始めてからもうすぐ5年、内縁の夫と妻ということになります。
おじいさんの名は権左衛門、おばあさんは嘉代といい、互いに「ゴンちゃん」「カヨちゃん」とちゃん付けで呼び合う仲です。おじいさんもおばあさんも、互いにどこか似通ったところがあると感じていて、考え方や食の好みが似ているのが何気に嬉しかったり、一緒にいるとなんとなく居心地が良かったり、ふとした瞬間にそばにいられるよろこびを実感したり、ほんとはずっと一緒にいたいけれど、そんな本心を口にして相手を縛りつけてしまえば途端に二人の間にある何かが壊れてしまいそうで、それがこわくて、だから見つめ合うと素直におしゃべりできない――と、そういう関係でした。
ある日、いつものように、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に出かけました。
おじいさんは加減というものを知らない人なので、毎回山中の芝を根こそぎ刈り取ります。そのせいで山に棲みつく草食動物のエサがなくなり、生態系のバランスが崩壊していました。さらに、付近に住む環境学者がこれを問題視しておじいさんを非難すると、あろうことかおじいさん逆ギレ。発狂して山の緑を片っ端から火炎放射器で燃やしまくり、環境破壊をよりいっそう進行させてしまいました。最悪のジジイです。
一方、おばあさんは、米国製の有毒な洗剤を使って洗濯をします。その洗剤が川に垂れ流されているものですから、魚はことごとく死に、下流の村では公害として取り沙汰されていました。さらに、付近に住む環境学者がこれを問題視しておばあさんを非難すると、あろうことかおばあさん逆ギレ。発狂して川に多量の水銀を流し込み、水質汚染をよりいっそう深刻なものとしてしまいました。最悪のババアです。
おじいさんもおばあさんも、夫婦そろって自己中心的で偏屈であり、典型的な「キレやすい老人」なのでした。
この日、おじいさんは山を丸裸にして早々に帰宅しましたが、おばあさんの方は、おじいさんの着物についたガンコなシミを落とすのに手間取っていました。
「蒲焼きのタレって落ちにくいのよねぇ」
独り言を呟きながら、汚れた箇所に洗剤をたっぷりとつけてゴシゴシとこすります。おじいさんには5歳児のように食べ物を食い散らかすクセがあるもので、いい年こいて困ったものです。まあ、そこもおばあさんにとっては可愛いところなのですが。
それから小一時間、ようやく洗濯を終えたおばあさんは、首にかけた手ぬぐいでポンポンと額の汗を拭うと、身の回りの道具を片付けて帰ろうとしました。
すると、どこからか異音が聞こえてまいりました。
ドンブラコ……。
ドンブラコ……。
ドンブラコ……。
ドンブラコ……。
「何? この音」
不審に思い、音のする方を見てみれば、おやまあびっくり。なんと、川の上流の方から、大きな大きな桃が流れてくるではありませんか。
それはそれは、インディ・ジョーンズに出てくるあの岩(転がってくるデカい丸岩からインディ・ジョーンズが逃げてるシーンのやつ)くらいの、桃の概念を覆す大きさでした。
「ぎゃあっ!? 何よあれ!!」
おばあさんは思わず叫びました。しかし、その場から逃げようとはしませんでした。
もちろん驚きはしたものの、同時に「美味しそう」と思ってしまったのも事実だったのです。
(あそこまでの巨大桃、なかなかお目にかかれるもんじゃないわ。何としてでも手に入れたいわね)
そこからのおばあさんの行動は実にスピーディでした。
まず、急いで下流へと移動し、付近にいた漁師から追い込み漁で使う張り網を借りると、川の岸から岸へと素早く張ったのです。川の流れに運ばれてくる桃を、網に引っかけようという作戦でした。
はたしてこの作戦は功を奏しました。上流から悠々と流れてきた巨大桃は、おばあさんの思惑通りにまんまと網に引っかかってくれ、難なくゲットすることができたのでした。
何とも見事な手際です。年の功という他ありません。
おばあさんは、親切な森のクマに手伝ってもらい、桃を家まで持って帰りました。
家に帰ると、おばあさんの帰りを待ちわびていたおじいさんが玄関までダッシュでお迎えにきてくれました。
「おかえりぃ~」
「はいはい、ただいま戻りましたよ」
「ばあさんや、いくらなんでも遅いぞよ。ワシはもう待ちくたびれておったわい」
口をとがらせるおじいさん。おばあさんの帰宅に喜びを隠しきれない様子ですが、家に一人で待たされたことを少し不服に感じてもいるようです。
「まあまあ、そう拗ねないでくださいよ。今日はとっておきのおみやげがあるんです」
「おっ、そりゃ気になるのぉ! どれ、見せとくれ」
「うふふ、それはねぇ……ちょっとこっちに来てくださいね」
おばあさんは、玄関の外に置いてある巨大桃のところまでおじいさんを誘導しました。
「はい、これ! どうです、こんな大きな桃、今まで見たことがないでしょう?」
「え……? なんじゃこりゃ? 桃なの? え?」
戸口の脇に置いてあった桃を見たおじいさんは、口をあんぐりと開けて立ち尽くしました。無理もありません。マジで規格外の、化け物みたいなサイズですから。
人間、あまりに並外れたものを目にすると、すぐにはそれを受け入れられないものです。混乱したおじいさんは、思わずトチ狂ったことを口走りました。
「なぁばあさん、これはひょっとすると、この桃が大きいんじゃのうて、ワシらがちっこくなってしまったのではなかろうか……?」
「はぁ? 何を馬鹿なことをおっしゃってるんです? いいから早く食べましょうよ」
「お、おう……」
巨大桃に畏怖の念を抱いているおじいさんは、罰当たりにならなければいいが、と不安に思いつつおばあさんに従いました。
おばあさんは、刃渡り90センチもある凶器としかいいようのない包丁を持ち出してきて、早くも桃を切ろうとしていました。
「ジェ○ソンから引き出物としてもらったこの包丁しかないけど、まあいいわ。早速切ってみましょう」
「どんな味がするんじゃろう……モノが大きいだけに大味かのぅ? にしても、ここまで大きな桃じゃし、さぞかしでっかい種が出てくることじゃろうなぁ」
「種の方は、魔除けとして玄関に飾っときましょうか」
古くより、桃の種には厄払いの効果があるとされているのです。種が大きければその分効果も期待できそうであるし、自分たちで魔除けとして使うのではなく、希少価値が高いことを利用して市場で高値で売りに出してもいいかもしれない……と頭の中で算段を巡らせながら、おばあさんは包丁を振り上げました。そして、そのまま真っ直ぐに振り下ろしました。
天空をも切り裂く勢いで振り下ろされた包丁は、巨大桃のちょうど真ん中に、寸分違わず、垂直に命中しました。その衝撃で大地が割れ、海が割れ、そして巨大桃にはビリッと裂け目が入りました。
「やった……のか……?」
さながら一騎打ちのような様相に、おじいさんは息を呑みました。包丁についた果汁を布巾でさっと拭き取るおばあさんの姿は、敵を討った後の剣豪が、刀についた血を拭っているかのようにも見えました。
そして、斬撃から一拍おいて、巨大桃が真っ二つに割れました。綺麗に半分に斬られた果肉が観音開きのようにパッカリと裂け、床にごろんと転がります。なんとおばあさんは、桃の中に入っているであろう種を傷つけないよう、包丁を振り下ろした際の衝撃波で果肉のみを切断したのでした。
するとどうでしょう。桃の中からは、桃の種ではなく、男の赤ん坊が姿を現したではありませんか!
「あらまあ! なんて可愛いんでしょう!」
おばあさんは、思わず赤ん坊を抱き上げました。桃の中に赤ん坊がいる、なんていう超常現象を平然と受け入れています。あまりに可愛い赤ん坊の姿を見て猛烈に母性本能をくすぐられ、正常な判断力を失っているようです。
「桃の中に赤ん坊……? こりゃまた奇怪な……」
首をかしげるおじいさんをよそに、十代の娘に戻ったかのようにはしゃぐおばあさん。
「よちよち、可愛いでちゅね~。ほら! あなたも抱いてあげてくださいな」
「あ、ああ」
おばあさんから赤ん坊を手渡され、おじいさんはまるで壊れ物を扱うかのようなおっかなびっくりした手つきで抱っこしました。それを見たおばあさんは、思わずクスクス笑ってしまいました。
すると、それにつられるかのように、赤ん坊もニッコリと笑顔を浮かべたのです。
「あら、この子笑いましたよ!」
「ほんとじゃ! うーむ、なんて可愛い顔をするんじゃ」
「ね、本当に可愛いでしょう?」
おじいさんもおばあさんも、今まで味わったことのない多幸感に包まれていました。
「きっとこの子は天からの贈り物だわ。子供のいない私たちを不憫に思って、お空の上から見ている神様が授けてくれたに違いありませんよ」
このおばあさんの言葉を聞き、おじいさんは感動に打ち震えながら叫びました。
「おお、なんたる僥倖! 人生、最後まで何があるかわからんもんじゃ。生きててよかった!! これから二人で大切に育てていかないといけんのぅ」
「ですね。まず最初に、この子の名前を決めてあげないと。あなた、どうします?」
「うーん、『桃太郎』なんてどうじゃ? 桃から生まれた桃太郎。なかなかいい名前じゃろう?」
********************
25年後―――。
「おいババア、勝手に人の部屋に入ってくんじゃねーよ!」
「ちょっと掃除しに来たんですよ。また散らかしているだろうと思って……」
「うるせー! 早く出て行かねーと叩き出すぞクソババア!!」
様々な物が乱雑に散らばった汚い部屋の中、響き渡る怒号。
「まあ何です、親に対してその口の利き方は――」
「黙れ! オレはアンタのことなんか、これっぽっちも親だとは思ってねーんだよ!」
憮然とした表情で罵倒文句を吐き散らしているのは、無精髭を生やした童顔の青年です。彼は、布団の上であぐらをかき、部屋の入り口で立ち尽くしているおばあさんを睨めつけています。どうやら先程まで寝ていた様子です。
「おい、聞こえねーのか!? さっさと出てけよ!!」
動こうとしないおばあさんに癇癪を起こしたのか、青年はまたしても怒鳴り声をあげました。そして、今度は手近にあった文鎮をつかんでおばあさんに投げつけました。
おばあさんは、飛んできた文鎮を反射的に避けた後、キッと険しい顔つきになり、何か言いたげに唇を震わせました。しかし、出てきたのは、言葉ではなく深い溜息。結局は何も言わず、諦めたような疲れたような表情を浮かべて部屋を出て行きました。
青年は、部屋の襖が閉まるのを見届けると怠そうに布団に寝転がり、再びまどろみ始めました――。
この青年の名は、桃太郎。
月日は流れ、桃から生まれた桃太郎は25歳になっていました。とっくに成人している年齢でありながら、働きもせず部屋にこもっているひきニートです。
彼は、もう長いことずっと部屋にひきこもっていました。部屋から出てくるのは便所と風呂に入る時のみであり(風呂は一週間に一度しか入りません)、食事もおばあさんに部屋まで運んでもらっている始末。一緒に暮らしているおじいさんとおばあさんとは何年もろくに口を聞いておらず、それどころか自分の部屋に入ってくると猛烈な拒絶反応を見せます。
いつからなのか、桃太郎は誰に対しても心を閉ざしてしまうようになり、生身の人間の感情に触れることを拒み続けていました。
こうなってしまった原因は、ひとえにおじいさんおばあさんの育て方にあります。
桃の中から出てきたあの赤ん坊を、二人はさんざん甘やかして育てました。身の回りの世話は何から何まで手を焼き、欲しいものは何でも買い与え、桃太郎のすることなすこと全てに先回りしてあれこれ手を尽くしました。
そしてその結果、桃太郎は一人では何もできないダメ人間に育ってしまったのです。
何でもおじいさんおばあさんにやってもらうのが当たり前だったので、もはややってもらって当然という態度で、感謝の気持ちは一切持ち合わせていません。また、おじいさんおばあさんに頼りっきりだったせいで問題解決能力はゼロ。めっぽう打たれ弱く、自分の思い通りにいかないことがあるとすぐに心が折れて自棄になってしまいます。その上、とにかく無気力で、自発的に行動を起こすことはほぼなく、もちろん何かを成し遂げようという気概や向上心など微塵もございません。
予め用意された箱庭の中での生活に寝そべり、そこから飛び出そうともしないわけです。好奇心、探求心、冒険心、挑戦心といった、人生における羅針盤となる志向性の欠落。現状に甘んじ、怠惰な日々をだらだらと受け流すだけの、実験用のマウス以下の存在――それが桃太郎です。
彼は、何の目標もなく、趣味らしい趣味も持たずに暮らしています。唯一熱心なことといえば、春画蒐集くらいのもの。本当にどうしようもない輩なのです。
おじいさんとおばあさんは、常々頭を悩ませておりました。引きこもりの桃太郎に、どうしたら社会に溶け込んでもらえるだろうかと。
もちろん、桃太郎が今のままでかまわないと言うのなら、その意思を尊重すべきなのかもしれません。しかし、人間誰しも一人では生きてゆけぬもの。周囲との繋がりを断絶している桃太郎は、おじいさんおばあさんがいなくなったら、たった一人になってしまいます。
これまで身の回りの一切を親任せにしてきた桃太郎のことです、一人でやっていけるとはとても思えません。ですから、せめて良いお嫁さんを見つけてほしい、というのがおじいさんおばあさんの願いでした。
このままいけば間違いなく結婚相手は見つからず、家庭も築けず、後に待っているのが孤独死であることは確実です。
ある時、おじいさんとおばあさんのもとに耳寄りな噂が流れ込んできました。
聞いたところでは、「鬼ヶ島」という離れ小島に凶悪な鬼が棲みつき、一帯に暮らす人々の生活を脅かしているとのこと。
そやつは鬼ヶ島中央部にあるいかめしい要塞を拠点として活動しており、方々から宝を強奪してきては要塞地下の蔵に蓄え込んでいるという話でした。
おじいさんとおばあさんは、この噂を耳にし、あることを思いつきました。
「この鬼を退治したなら、桃太郎も村のみんなから認めてもらえるかもしれない――!」
村社会の中で上位にのしあがるにはどうしたらよいかといえば、まず自らが役に立つ人材であると周りに知らしめることです。そのために鬼を倒して能力を示すというのはなかなかの良案に思えました。
無論、自主性を持たない無能な桃太郎にそんなことができようはずもございませんから、おじいさんとおばあさんが代わりに鬼を倒してやって、手柄だけ桃太郎にくれてやるのです。
子供の喧嘩に親がでる、とは言いますが、子供の鬼退治に親が出陣、など聞いたことがありません。前代未聞の過保護っぷりです。
翌日、おじいさんとおばあさんは、早速鬼を討伐するための作戦を練り始めました。
まずは情報収集から。周辺住民への徹底的な聞き込み調査を行い、敵の情報を割り出します。
調査の結果、鬼ヶ島に棲んでいるのは「黒鬼」と呼ばれるタチの悪い鬼であることが判明しました。赤鬼でも青鬼でも緑鬼でもなく、黒鬼。黒々とした肌を持つ、珍しい鬼です。
名前からしてヤバそうな感じのする黒鬼は、生まれついての凶暴な性格に加え、筋肉の塊のようなドデカい図体をしています。そのパワーは大型クレーン車に匹敵し、トヨタのハイエースを片手で握り潰せるほどの並外れた怪力を持っているそうです。さらに、分厚い皮膚は鎧のように硬く、トヨタのハイエースに猛スピードで追突されてもびくともしない頑強さをも備えています。まさに向かうところ敵なしなのです。
この強敵を物理的に打ち負かすには、大型戦車が数十台ほど必要となるでしょう。肉弾戦ではまず勝ち目がないといえます。
ということで、おじいさんとおばあさんは、こんな作戦を考えました。
毒殺。
おばあさんの得意料理のひとつであるきびだんごの中に猛毒を仕込み、差し入れを装って黒鬼に渡して食べさせる。そして、毒入りのきびだんごを食した黒鬼はほどなく死に至る……という流れです。
「黒鬼も、まさかこんなヨボヨボの老夫婦が鬼討伐に来たなどとは考えまい。差し入れを持ってきたと言えば信じ込むはずじゃ」
「そう、そこでお手製きびだんごの登場ですよ。ホッホッホ」
鬼に対し、どういった毒が有効なのかは定かではありません。蔵書を片っ端から漁ってみたのですが、過去のどの文献にも載っていなかったのです。鬼を毒殺しようなどと試みる酔狂な輩はこれまでに存在しなかったようで、前例がないのは少々心許ないところです。
とはいえ、鬼も人間と同じく生き物であることには変わりありませんから、人体に害を及ぼすとされるだいたいの物質は鬼に対しても有害であると仮定できましょう。ただし鬼は人間より遥かに体が大きいため、その分毒の致死量は多く見積もっておく必要がありそうです。
おばあさんは、ゴーグル、ガスマスク、ゴム手袋を着用し、万全の装備で毒入りきびだんごの製作に臨みました。
今回毒として使用するのは「フッ化水素酸」。触れると骨が溶けてしまうほどの腐食性を持つ恐ろしい物質で、人間の経口致死量はわずか1.5gといわれています。強力な分取扱いは危険なので、作業には細心の注意を払う必要があります。何しろ、気化したガスを吸うだけでも怪我人が出るのですから。
考えた結果、おばあさんは、最大濃度のフッ化水素酸水溶液を大きめのゼラチンカプセルに詰め、そのカプセルをきびだんごの中に仕込むことにしました。噛んだ瞬間にカプセルが割れ、中に入っている液状のフッ化水素酸が小籠包の汁のように噴き出す仕組みです。
念のため毒の効力を確かめておきたいところでしたが、誰かを使って実験するわけにもいきません。ぶっつけ本番で黒鬼に挑まなければならないのは不安であったものの、フッ化水素酸が効いてくれることを信じるしかないと思い、決意を込めてきびだんごを笹の葉にくるみました。
「おじいさん、身支度は済みましたか?」
「おう、準備万端じゃ」
「それでは行きましょう」
時刻はまだ肌寒い早朝でした。おじいさんとおばあさんは、自室ですやすやと眠る桃太郎に「行ってくるよ」とそっと声をかけてから、勇み足で鬼退治に出かけました。
いざ鬼ヶ島へ出陣です。
鬼ヶ島に出発したおじいさんとおばあさんは、光の速さで歩き続け、野を越え山を越え、鬱蒼とした森へと突入しました。
そして、そこで一匹の犬と出会いました。
道脇に生えていた草むらがガサゴソと動いたかと思うと、茂みの中から勢いよく野犬が飛び出してきたのです。いかにも人になつかなそうな獰猛な感じのするその犬は、おじいさんとおばあさんの行く手を阻むように道の真ん中に立ちふさがり、こう言いました。
「グルルル……食いモン、よこせ」
鋭い牙を剥き、低く喉をうならせて威嚇しています。今にも食い殺されそうです。
まったく、空腹の野犬ほど気が立っているものはありません。
おじいさんは、とっさに懐刀に手をかけました。
「ばあさんや、ここはワシに任せておきなされ」
戦う以外に選択肢はないと判断したおじいさんは、体勢を低く身構え、戦闘態勢に入りました。
それを見たおばあさんは、勇み立つおじいさんを片手で制しました。
「まあまあ、そうピリピリしないで。ここは平和的に解決しましょうよ」
柔らかな微笑を浮かべ、のんびりとした口調で話すおばあさん。しかし、その目は全く笑っていません。おじいさんはゾッとしました。これは何か企んでいるに違いない、と直感したからです。
おばあさんは、微笑んだまま、唸り声を上げ続けている犬を優しく諭すように言いました。
「お腹が空いているのかい? なら、このきびだんごをひとつあげましょう」
そして、犬に向かってひょいっときびだんごを放りました。お手製の毒入りきびだんごを、です。
犬は、よほど腹を減らしていたのか、放られたきびだんごが地面に落ちる前に、バクッと反射的に食いつきました。
その瞬間――。
「グ、グハァッ……!!」
激しく悶え始める犬。
それはそれは、描写がはばかられるほどの、何ともむごたらしい苦しみようでした。が、それも長くは続かず、犬はあっという間に動かなくなりました。自分が死んだことにすら気づいていないのではないかと思えるほどの、即死でした。
フッ化水素酸の毒性は予想以上です。おばあさんは満足げにほくそえみました。
そう。おばあさんは、毒入りきびだんごの効力を確かめるため、偶然出会った犬で実験をしたのです。こういうことを平然とやってのけるあたり、本当に怖い人です。
おじいさんとおばあさんは、犬の屍を踏み越えて進みました。
森を抜けると、またしても二人の前に立ちふさがった者がありました。
「ウキキッ! ここを通りたきゃ、通行料を払いな」
そう言ってとおせんぼしてきたのは、赤ら顔の汚い猿でした。いかにも小狡そうな顔つきをした、卑しいけだものです。
今度こそ戦うしかない、とまたもや懐刀に手をかけようとしたおじいさんを、おばあさんが素早く目で制しました。その目は爛々と輝き、妖しい光をたたえています。どうやらおばあさんには、目の前に現れた猿がもう〝実験体〟としか見えていないようでした。
おばあさんは、猿の目線の高さにまでかがんでこう言いました。
「今、ちょうどお金を持っていないの。このきびだんごをあげるから、勘弁してもらえるかしら」
そして、猿にきびだんごをひとつ渡しました。
「金がないならまあしょうがない。これで許してやるよ」
猿はふてぶてしくそう吐き捨てると、きびだんごをひったくるようにして受け取り、ポイと無造作に口に放り込みました。
その途端――。
「ック、クヒィ……ッ!!?」
口に入れてすぐ、猿は引き攣ったような声を上げました。そして、じたばたと大きく手足をばたつかせ、地面をのたうち回ると、野犬と同様に凄惨な最期を遂げたのでした。
おじいさんは、一連のおばあさんの行動に対して内心恐怖を感じていましたが、何も言えませんでした。
秘めたる狂気を剥き出しにした、サディズム全開のおばあさん。こうなったらもう、誰にも止められません。
おじいさんとおばあさんは、猿の屍を飛び越えて進みました。
道中、お腹が空いたので、キジを捕まえて二人で食べました。腹が減っては戦はできぬ、です。
ちょうどアウトドア用の調理器具を持参していたため、それを用いて竜田揚げにし、残さず食しました。
「いのちの恵みに感謝しなければなりませんね」
おばあさんは、そう言っておじいさんに笑いかけました。
つい先ほどは何の躊躇いもなく生き物のいのちを奪っていたというのに、いきなり何を言いだすのでしょうか。これにはおじいさんも返す言葉がありませんでした。
腹ごしらえをしたおじいさんとおばあさんは、ふたたび歩き始めました。
するとほどなく、二人の眼前に海が現れました。
それは、死臭の漂ってきそうな、荒れ果てた海でした。海岸はゴツゴツとした石だらけで、海水は灰色っぽい濁った色をしています。周囲には人っ子一人おらず、ざあざあと荒っぽい波音以外は何も聞こえてきません。どことなくカサついた寂寥感が立ち込めていて、吹いてくる潮風さえ、なんだか埃っぽいような感じがしました。
「えらく恐ろしげな、骸骨みたいな海じゃな……」
おじいさんが呟きました。
「この海の向こうに鬼ヶ島があるはずですよ。探してみましょう」
辺りを見渡してみると、沖から離れたところに、ぽつんとひとつだけ島があるのを見つけました。
そう、目的地の鬼ヶ島です。
鬼ヶ島に上陸するには海を渡る必要がありますが、その手段は既に考えてありました。
「そいじゃ、出てきてもらうかの」
そう言った後、おじいさんは指笛を吹きました。
ひゅうぅーーーい!!!
ホイッスルのような甲高い音が遠くまで響き渡り、その音に反応して海の中から何かが出てきました。
バシャッ、バシャッ、バシャッ。
水しぶきを上げて水中から姿を現したのは、なんと、シャチでした。しかも一匹ではありません。シャチの大群です。
シャチたちは、訓練された動きで次々と一列に並んでゆきました。岸から鬼ヶ島へ向けて、ちょうど橋を架けるような形になります。このシャチたちの背を渡っていけば、鬼ヶ島まで辿り着けるというわけです。日本神話に出てくる『いなばのしろうさぎ』のように。
実は、おじいさんとおばあさんは、知り合いの調教師に頼み込み、事前に鬼ヶ島近海のシャチに訓練を施してもらっていました。
おかげで、二人は難なく海を渡ることができたのでした。
実際に降り立ってみると、鬼ヶ島は大変不毛な場所であり、島というよりは岩礁に近い見た目でした。島全体が岩でできていて、木も草も土も何もありません。刺々しい、殺伐とした雰囲気です。
おじいさんとおばあさんは、鬼が棲むという要塞を探して適当に歩き回りました。鬼ヶ島は殊の外小さく、歩いて一周できてしまいそうな面積しかないので、要塞はすぐに見つかりました。石造りの、いかつい外観をした建物です。
要塞の入口には堅牢な鉄の扉が設けられており、その横に受付用の窓口がありました。中に入るためには、許可をもらわなければならないということです。
「おじいさん、受付に行ってきてくださいよ」
「え、なんでワシが?」
「たまには亭主らしいところを見せてください」
「む、むぅ……」
おばあさんに言いくるめられ、おじいさんは仕方なく窓口に向かって呼びかけました。「すいませーん」
おじいさんの呼びかけに、ややあって、窓口から厚化粧の受付嬢が顔を覗かせました。
「はい、何でしょうか」
おじいさんは即座に営業スマイルを浮かべ、明朗に挨拶しました。
「どうも、宅急便でえす。白鬼さんからのご依頼で、お荷物を届けに参りました」
聞き込み調査によって仕入れた情報によると、黒鬼には、白鬼という唯一無二の親友がいるようです。そこに目をつけたおじいさんおばあさんは、白鬼の名前を出せば要塞の中に入れてもらえるのではないか、と踏んでいたのでした。
「わかりました、今黒鬼さんに確認を取って参りますので」
受付嬢が奥の部屋へと消えていきました。見知らぬ客人は通せない決まりなのでしょう。
(もしこれでダメだったら、強硬手段に出るしかない)と二人でハラハラしていると、すぐに受付嬢が戻ってきて「どうぞお通りください」とにこやかに言われました。同時に、ガチャリと扉の鍵が外れる音が聞こえてきます。
意外なほどすんなりと事が運んだことが逆に怪しく思え、おじいさんとおばあさんはやや不安げに顔を見合わせました。しかし、いつまでも立ち止まってはいられませんから、意を決して鉄の扉を開けることにしました。二人で力を合わせ、扉に体重をかけて押すと、ギギィーッという金属の軋む音とともに重たい扉が開きました。
玄関から中に入ると、まず十六丈ほどの異様に長い廊下が真っ直ぐに続いていて、その突き当りにまた鉄の扉がありました。壁際には等間隔でいくつもの燈籠が置いてあり、足元をぼんやりと照らしています。
二人は、燈篭の明かりを頼りに慎重に廊下を進むと、恐る恐る鉄の扉を開きました。
するとそこには、予想外の光景が広がっておりました。
黒鬼が暮らす要塞の内部は、外観からは想像もつかないような、西洋風の洒落た部屋でした。窓こそないものの、天井が高く開放感があり、凝った作りをしています。家具は全体的にシックな色合いで統一されており、家主のインテリアへのこだわりが感じられました。
おじいさんとおばあさんは、一瞬来る場所を間違えたのではないかと戸惑いましたが、部屋中央に置かれた椅子にどっかりと腰かける主の姿を見て、やはりそこが鬼ヶ島の要塞であると気を引き締めました。何故なら、そこに鎮座していたのは、紛れもない黒鬼だったからです。
黒鬼は、革製の肘掛け椅子に座り、赤ワインの注がれたグラスを片手におじいさんとおばあさんの方を見ていました。噂通りの、丹波の黒豆のような色の肌をしています。皮膚の色が暗いため、顔立ちはあまりよくわかりませんでしたが、思ったより綺麗な顔をしているように見えました。
おじいさんは、赤い目玉でじっと自分たちを見つめる黒鬼に若干たじろぎつつ、演技を続けました。
「こんにちは。黒鬼さんで間違いないですよね?」
「左様だ」
黒鬼が鷹揚に答えました。それは、地獄の底から響いてくるような、恐ろしい声でした。
黒鬼の返事を聞いたおばあさんは、すかさず口を開きました。
「こちら、黒鬼さん宛てに、白鬼さんから小包が届いております」
そう言って、笹の葉でくるんだきびだんごを渡しました。
「白鬼からか? ほう……」
「白鬼さん、今度肥後の国で菓子専門店を開くつもりらしいんですよ。それで、つい先日店頭に出す菓子の試作品が完成したということで、ぜひとも黒鬼さんに味の感想を聞かせていただきたいそうです」
おばあさんは、ぺらぺらと澱みなく嘘の説明を述べました。胡散臭い話ではありますが、嘘をつくことになんら抵抗感のないおばあさんが言うと、妙に説得力があるから不思議です。きっとそれは、彼女が真実を話すのと同じ調子で嘘を言えるからなのでしょう。
「アイツが菓子屋を?」
黒鬼は訝しげに眉をひそめました。
「はい。今ここで私どもにに感想をお聞かせいただければ、こちらから白鬼さんにお伝えいたしますので」
「つまり、今ここで食え、ということか」
「はい。お手数をお掛けしてすみませんけれど……私どもも、仕事が終わらない限りは帰れないものですから」
下手に出ているように見せかけて強引なおばあさん。そのやり口に、おじいさんは内心肝を冷やしました。もし嘘がバレたら、何をされるかわかったものではありません。(頼むから怪しまれませんように!)と祈るより他ありませんでした。
そんなおじいさんの願いが通じてか、黒鬼は「わかった、いいだろう」ときびだんごを食すことをあっさり承諾しました。
「ありがとうございます! では早速――」
表情を明るくしたおじいさんとおばあさんに、黒鬼は「ただし」と人差し指を立ててこう付け加えました。
「まずは昼飯を食わせてもらうぞ。菓子の試食は後回しだ」
どうやら、黒鬼が昼食をとろうとしていたところに、ちょうどおじいさんとおばあさんが押しかけてしまったようでした。時刻は午後二時頃、遅めの昼食をとるとしてもまあおかしくはない時間帯です。
「これはこれは、大変失礼いたしました。どうぞお上がりになってください。私どもはここで大人しく待っておりますので」
おじいさんは慌てて頭を下げました。
しかし黒鬼はおじいさんの言葉など全く聞いていない様子で、構わず台所に移動すると、おじいさんとおばあさんに呼びかけました。
「おい、こっちに来てくれ」
見ると、台所には大きな木箱が置いてあり、黒鬼はその前に立っていました。
「はい、なんでしょう」
二人は、警戒しつつもすり足で黒鬼の傍に寄っていきました。
「お前さんたちに見てほしいものがある。今日仕入れたばかりの、珍しいブツだ」
そう言って、黒鬼は木箱の上蓋をパカリと開けました。この中を見ろ、とあごをしゃくってきます。
黒鬼に促されるまま木箱の中身を覗き込んだおじいさんとおばあさんは、驚いて腰を抜かしそうになりました。
何故なら、そこに入れられていたのが、自分たちの息子――桃太郎だったからです。
「「も、桃太郎!!?」」
おじいさんとおばあさんは、声を揃えて驚嘆しました。
桃太郎は、木箱の中で体育座りをさせられた状態で意識を失っていました。猿ぐつわを噛まされ、手足は拘束されています。何やら物騒なことが起こるのは確実と見えましたが、それはさておき、自宅の部屋に引きこもっているはずの彼が何故鬼ヶ島にいるのでしょうか。
「引きこもりの息子がどうしてここにいるのか、疑問に思っていることだろうな」
黒鬼は、おじいさんとおばあさんの心の内を見透かしたかのように言いました。
気づけば二人は、どこからともなく現れた黒鬼の子分たちによって腕を取られていました。あっという間に組み伏せられ、縄でぐるぐる巻きに縛られて、身動きが取れなくなってしまいました。
黒鬼は、床に転がるおじいさんとおばあさんを見下ろし、優越感を滲ませながら言いました。
「今日の朝、貴様らがノコノコと家を出て行った後に手下を使って誘拐させてきたのさ」
「な、何ですと!?」
おじいさんとおばあさんが鬼ヶ島に到着する前に、既に手を打たれていたということです。どうやら、二人が鬼退治に向かうらしいという情報がどこからか黒鬼に漏れていたようです。鬼の情報網、恐るべし。
「貴様らの目論見などお見通しだ。そんな下手な小芝居に俺が騙されると思ったのか? 愚かな人間め」
恫喝するような口調でしたが、黒鬼はどこか愉快げでした。この状況に嗜虐心をくすぐられているのか、込み上げてくる興奮を抑えているようにも見えます。
事態は間違いなく、最悪の方向に向かっていました。おばあさんは思わず叫びました。
「桃太郎に、一体何をするつもりなんです!?」
「おいおい、何だその態度は? 逆に聞くが、自分たちが何をしでかしたかわかっているのか? この俺様をハメようとしてきたくせに、ただで済むと思うなよ」
「でも、桃太郎は関係ないでしょう! せめて、せめてその子だけでも、逃がしてやってくれませんか」
黒鬼は、必死に懇願するおばあさんをフンと鼻で笑いました。そして、馬鹿にしたようにこう問いかけました。
「この穀つぶしが、そんなに大事か?」
おじいさんとおばあさんは、それぞれ答えました。「もちろん! 私たちの大切な息子ですとも」「誰よりも、何よりも愛しく思っています」
黒鬼は、二人の返答を聞くと、意味ありげにニヤリと笑いました。
「よし。ならば――」
ややもったいつけてから、斧を振り下ろすような無慈悲な口ぶりでこう言いました。
「コイツを食ってやろう」
そして、桃太郎をひょいとつまみあげ、ガマガエルのように大きな口を開けてパクリ。
なんと、桃太郎を食べてしまったのです!
「え……?」
おじいさんとおばあさんは、突然の出来事に状況が理解できず、固まりました。
フリーズしている二人をよそに、黒鬼は桃太郎をせんべいよろしくバリバリと噛み砕き、あっという間に平らげてしまいました。それから、「ふう。味はひどかったが、ともかく腹はふくれた」などと腹をさすり始めます。
「おい、こんなに不味い人間は食ったことがないぞ。一体どんな育て方をしたらこんな味になるんだ?」
黒鬼の言葉を聞いて、ようやく事態を呑みこんだおじいさんとおばあさん。あまりのことに唇をわななかせ、顔面蒼白となりました。
「も、もも、も、も……」
おじいさんとおばあさんは、二人同時に叫びました。
「「桃太郎ーーーーッ!!」」
25年間大切に育ててきた息子が、一瞬にして鬼の腹の中へと消えてしまったのです。これほどショッキングなことがありましょうか。
瞬間、おじいさんとおばあさんの脳裏に、走馬灯のように桃太郎との思い出が駆け巡りました。
桃太郎を桃の中から授かった日のこと、桃太郎が初めて「おとうさん」「おかあさん」と呼んでくれた日のこと、桃太郎がよちよち歩きできるようになった日のこと、桃太郎がはしかにかかって高熱を出し九里も離れた病院まで担いで行った日のこと、桃太郎と一緒にどんぐりゴマを作った日のこと、桃太郎が通っていた寺子屋での授業参観の日のこと、桃太郎を連れて家族三人で南米を縦断した日のこと……。
桃太郎――――。
「喧嘩を売られたら、相手を徹底的に打ちのめさない限りは気が済まない。これが俺の流儀でね。どうだ、目の前で愛する我が子を食われた気分は?」
黒鬼は、そう言って意地悪く笑いました。こやつはとことん根性が腐っているようです。人の一番弱いところを抉ってくる、邪悪な陰湿さがあります。
「晩飯の時間になったら、次はお前たちを食ってやるぞ。親子三人、仲良くあの世で暮らすんだな」
ショックで動けなくなったおじいさんとおばあさんに、黒鬼がとどめをさすかのように言い放ちました。しかし、放心状態の二人には、その声はどこか遠くの方から聞こえてくるように感じられました。
桃太郎は、おじいさんとおばあさんにとって〝生きがい〟であり、全てでした。二人は、自分たちを犠牲にすることも厭わず、いつでも桃太郎のことを一番に考えてきました。惜しみなく愛情を注ぎ続けてきました。それが度を越した過保護・過干渉であったとしても、二人が桃太郎を思う気持ちは本物でした。それに、桃太郎のためを思ってこそ、年々言うことを聞かなくなる老体に鞭を打ち、労苦に耐え続けることができたのです。
どんなにわがままでも、怠け者でも……たとえひきニートだったとしても、桃太郎はおじいさんとおばあさんにとってかけがえのない存在でした。
その桃太郎を失ってしまったのですから、二人の絶望は計り知れません。
おばあさんは、自分にこう言い聞かせることで辛うじて正気を保ちました。
(こんなのは現実じゃない。夢よ。きっと、悪い夢を見ているんだわ……)
一方、おじいさんは、解離性健忘を起こして意識を失っていました。自我を現実から切り離すことで、ギリギリのところで精神崩壊を防いでいたのです。
二人とも、〝愛する我が子の死〟という現実を、すぐには受け止められそうにありませんでした。
それから、おじいさんとおばあさんは、しばらく床に転がされたまま放置されていました。縄を解こうにも、すぐ傍で黒鬼の子分たちが見張っているため下手な動きはできません。
子分は全部で三体、大柄な赤鬼と小柄な青鬼、中肉中背の緑鬼とがいました。大・中・小とまるでマトリョーシカのように行儀よく並び、そろっておじいさんおばあさんを監視しています。
そして、黒鬼はというと、ソファにどっかりと腰掛けて煙管をふかしていました。無表情で紫煙をくゆらせる様は、いかにも〝冷酷な執行人〟といったふうでした。
そう。おじいさんもおばあさんも、晩食の時間になれば黒鬼に食われてしまうのです。桃太郎と同じように。
「もうすぐ自分たちは殺される」その事実は二人を底知れぬ恐怖に陥れ、屠殺場に運ばれる家畜のような気分にさせました。
ですが、それ以上に大きいのが我が子を失った絶望感であり、「もはや失うものは何もない」という開き直った心境でもありました。何故だか変に肝が据わってしまって、自分らの置かれた状況を冷静に俯瞰しているところがあるのです。実際には、そんな余裕などないはずなのに、です。
心が絶望で満たされることは、ある種の希望といえるのかもしれません。それはおそらく、受容というよりは諦念に近い感情なのでしょう、不思議と心は凪いでいました。おじいさんとおばあさんは、漆黒の希望に包まれながら、間近に迫った〝死〟を半ば受け入れつつありました。
「わしら、もうじき死ぬんじゃな……」
「そうですね……」
「ばあさんや、今まで、本当にありがとうな……楽しかったぜよ……」
「私もですよ、おじいさん……」
二人は、穏やかな表情で見つめ合いました。この人と最期まで添い遂げよう、と互いに覚悟を決めていました。
―――が。ここで事態は急変します。
煙管をぷかぷかやっていた黒鬼が、突然、濁った叫び声を上げて苦しみ出したのです。
「ヴ、ヴうううッッッ!!!」
黒鬼は、もんどりうって床に倒れ、口から泡を吹きながら全身を痙攣させたかと思うと、意識を失ってしまいました。
黒鬼の子分たちは慌てふためきました。「親分!!」「大丈夫ですかい!?」「おい、誰か医者を呼べ!!」
おじいさんとおばあさんは面食らいました。しかしすぐさま思考を切り替え、脳みそをフル稼働させ始めました。これは願ってもないチャンスです。鬼たちに大きな隙ができたわけですから、上手くやれば絶体絶命の危機から脱出できるかもしれません。いうなれば、奈落の底にひとすじの蜘蛛の糸が下りてきたようなものです。
おじいさんとおばあさんは、一旦は息子を亡くした悲しみを忘れることにし、何か打開策はないものかと懸命に考えました。
と、ここで頭の回転の速いおばあさんがあることを閃き、狼狽する子分たちに向かって声を張り上げました。
「みなさん、聞いてください!」
子分たちが一斉におばあさんに注意を向けました。
おばあさんは、全員の注意を十分に引きつけるだけの間を空けてから、こう続けました。
「私は医者です。黒鬼さんに応急処置を施しますから、どうかこの縄をほどいてくださいませんか」
もちろんこれは嘘でして、おばあさんは医師免許など保有しておりません。つまりは拘束を解いてもらうためのでまかせにすぎないのですが、馬鹿な子分たちはあっさりとおばあさんの言葉を信じ込みました。「本当か!?」「おお、ちょうどいいところに!!」
ただ、一体だけ、不思議そうに首をかしげる者がおりました。中肉中背の緑鬼です。
「なあ……親分はあんたらの息子を食っちまったのに、どうして助けてくれるんだ?」
鋭い質問です。憎くてたまらないはずの息子の仇を救助すると言うのですから、疑問を抱くのは当然でしょう。
おばあさんは、ハッタリだと悟られないよう、努めて落ち着いた口調で返しました。
「私は、医者として当然の務めを果たそうとしているまでです。いついかなる時も、私たちには患者を助ける義務があるのです。たとえその患者が息子の仇であろうと――ね」
おばあさんのこの回答に、子分たちは皆感激した様子で目を見開きました。
「すごい……医者の鑑だ……」「ナイチンゲールだ……!」「よし、今縄を解いてやる!!」
一番体の大きい赤鬼がどしどしと駆け寄ってきて、不器用な手つきでおばあさんの縄を解いてくれました。
ほどけた縄が床にはらりと落ち、おばあさんは晴れて自由の身となりました。
と、次の瞬間、おばあさんの手が素早く動きました。
懐から閃光玉を取り出し、床に向かって放ったのです。
「おじいさん、目をつむって!」
おばあさんの手から放られた閃光玉は床に着くやいなや勢いよく弾け、パァンという破裂音と共に部屋中にまばゆい閃光が走りました。咄嗟に目を閉じたおじいさんとおばあさんは無事で済みましたが、まともにフラッシュをくらった黒鬼の子分たちは気を失い、仰向けにバタンと倒れました。
おばあさんは、くるりと振り返っておじいさんの様子を窺いました。
「おじいさん、大丈夫でした?」
「ああ、平気じゃ……それより、でかしたぞばあさん!」
「こんな時のためにと、こっそり閃光玉を忍ばせておいたんです」
おばあさんは、おじいさんの縄を解くと、その縄を使って子分たちを柱にくくりつけました。もがいてもすぐには逃れられないよう、三体まとめてきつく縛り上げてやりました。
「これで安心ですね」
「うん、コイツらは片付いたとして……黒鬼は、どうしようか? いきなり倒れよったが……」
「ちょっと見てみましょう」
二人は、倒れている黒鬼の傍に屈み、顔を覗き込みました。
見たところ、黒鬼はまだ呼吸をしていました。どうやら、昏睡状態に陥っているだけのようです。しかし、おばあさんが瞼をこじ開けて瞳孔を確認したところ散瞳が見られたため、危険な状態であることは変わりありません。放っておけば命を落とす可能性が高いと見えました。
「何が原因かはわかりませんが、生命の危機に瀕しているようですね」
「どうする? 海に投げ捨てて、シャチどもの餌にしようか??」
「いや、その必要はないでしょう。放置しておけばそのうち死ぬはずです」
おばあさんは、静かに立ち上がりました。
「こやつは桃太郎の仇です。このまま見殺しにしてやりましょう」
「……む。そうじゃな」
おじいさんも同意します。
「村の者たちにはこう伝えるんです。桃太郎は鬼を倒した。そして、遠くに旅に出たのだと……」
「くっ……なんてことじゃ……」
おじいさんは、一言そう漏らすと、それきり黙り込みました。そして、深く項垂れ、重たい沈黙の中へと沈んでいきました。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
おじいさんとおばあさんは、双方無言で黒鬼の最期を見届けました。
黒鬼の呼吸は次第に弱々しくなってゆき、とうとう、蝋燭の火がふっとかき消えるようにして息を引き取りました。おばあさんが黒鬼の脈を取って臨終を確認します。
それから、おじいさんとおばあさんは、鬼討伐の証拠を作るため、黒鬼の顔で型を取ってデスマスクを作成しました。また、噂通り要塞地下の蔵に隠されていたお宝も忘れず頂戴した後、重い足取りで要塞を後にしました。
かくして、戦いは何とも後味の悪い形で幕を閉じたのでした。
鬼ヶ島からの帰り道、おじいさんはこうひとりごちました。
「鬼を倒しに来さえしなければ、こんなことにはならんかったのに……。わしらが……わしらが悪かったんじゃ……。こんなダメな親に育てられて、あの子は幸せだったんじゃろうか……あの子は、あの子は……」
あとはもう、言葉になりませんでした。おじいさんは、激しい嗚咽と共に崩れ落ちました。
そして、咽び泣くおじいさんの姿を見たおばあさんも、とうとう堪え切れなくなったのかしゃがみこんで泣き出しました。
泣き崩れる二人をよそに日は傾き、太陽は地平線の彼方へと逃げようとしています。もう日暮れ時です。昏く邪悪な色合いをした夕暮れ空は、何やら不吉な予感を孕んでおり、まもなくやってくるであろう永い夜の訪れを暗示しているかのように見えました。
――――――――――
結局、黒鬼の死因は何だったのでしょうか。
最後までおじいさんとおばあさんにはわからずじまいでしたので、ここで少し説明を加えておきましょう。
実は、黒鬼の突然死には桃太郎が関係しています。なので、謎を解明するには、まず桃太郎の正体について説明しなくてはなりません。
桃から生まれた桃太郎は、元より普通の人間ではありませんでした。これは当然といえば当然のことでしょう。人の腹から桃が産まれることなどないように、桃から人が誕生するということはありえません。
では桃太郎は何者なのかといいますと、実は、彼の正体は〝桃の種の化身〟。桃の種が突然変異を起こして人型の生命体になった、極めて稀な例だったのです。
桃といえば、梅、杏子、林檎、梨などと並ぶバラ科の植物です。
ご存知でしょうか、バラ科植物の種子にある「仁」という部分には、「アミグダリン」と呼ばれる青酸配糖体(天然有機化合物の一種)が多く含まれています。これは、微量ながら未熟果実の果肉にも含まれているのですが、通常は果実が成熟するにしたがって分解されて糖に変化していきます。一方、仁のアミグダリンは果肉に比べ濃度が高く、分解にも時間がかかるため、果実が成熟した後も消失しない場合が多いのです。
例に漏れず、桃の種の化身である桃太郎にもアミグダリンが含まれておりました。そして、これこそが黒鬼を死に至らしめた原因だったのであります。
といっても、アミグダリンそのものには特に毒性はないのですが、もしアミグダリンが生物の体に取り込まれ、体内の酵素との結合によって分解されていった場合には、シアン化水素という猛毒を発生させます。これが少量であれば害はないものの、多量摂取により中毒を起こしてしまうと、悪心、嘔吐、眩暈、頭痛、発熱、血中酸素低下、肝障害、神経障害、痙攣、意識混濁、昏睡といった様々な有毒作用に見舞われることとなり、最悪の場合は死に至ります。つまり、アミグダリンは、死の危険を秘めた天然毒といえましょう。
桃の種の化身・桃太郎のアミグダリン含有量は、なんと約1300g。人間の場合、アミグダリンからシアン化水素へと遊離した状態での致死量が60mg程度といわれていますから、とんでもない量だということがわかります。
桃太郎を丸呑みにした黒鬼は、同時に桃太郎に含まれていた多量のアミグダリンをも体内に入れてしまったことになります。1300gものアミグダリンを摂取してしまえば、さすがの黒鬼とてかないません。毒にやられてあっさり昇天してしまったのでした。
桃太郎を失うという最悪の結果となりましたが、結果として鬼討伐の目的は果たせたわけです。
それにしても、まさか、桃太郎を思うおじいさんおばあさんの親心がこのような悲劇を招いてしまうとは。皮肉なものです。
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桃太郎の死から数年。
家族で過ごしたあの家では、一人、おばあさんだけが暮らしています。
あれから、色々とありました。
鬼を倒した桃太郎の功績は認められ、桃太郎は村で英雄としてまつりあげられました。
しかし、我が子を失ったおじいさんおばあさんの悲しみは深く、しばらくは外にも出れずに、暗い部屋の中でボーッと佇んで一日を終える毎日が続きました。
鬼ヶ島から持ち帰った宝も、最悪の記憶を蘇らせるだけの忌まわしいものに思えてきて、結局村人たちにあげてしまいました。
体の中が空っぽになってしまったかのような喪失感だけがあり、気力も何もかも抜け落ちてしまって、ただただ呆然と日々を送るしかありませんでした。
さらに、ほどなくして、おじいさんが流行病にかかって亡くなりました。
たった一人残されたおばあさんは、悲しみのどん底に突き落とされました。ノイローゼのようになってしまい、もう何をするのも億劫で、生きている意味を見失いかけました。
それでも桃太郎の墓の手入れだけは毎日欠かさずに行っていましたが、そんなおばあさんをよそに、いつしか人々は桃太郎のことを忘れてゆきました。かつては村全体が桃太郎フィーバーに沸いていたものでしたが、無情なもので、いつの間にか商店に置かれていた桃太郎グッズは姿を消し、人々の会話に桃太郎の話題が上ることもなくなっていました。
この状況を見たおばあさんは、危惧を抱きました。このまま忘れ去られてしまったら、鬼退治のために命をなげうった桃太郎は一体何だったのか……そう考えると、胸の中に一陣、虚しい空っ風が吹き抜けてゆくように感じました。
そこで、おばあさんは筆を取りました。
桃太郎が生きた証を何とか形にして残しておきたいとの思いから、彼を主人公にした物語を書こうと思い立ったのです。
物語として残しておけば、桃太郎の偉業を後世にまで伝えることができ、より多くの人に知ってもらうことができるはずです。
おばあさんには元々文才があり、文章を書くのが好きだったことも手伝って、執筆活動は順調に進みました。内容は事実に沿ったものではなく、桃太郎との思い出を美談に仕立て上げた造話でしかありませんでしたが、事実をそのまま書いたところで崩壊家庭のノンフィクションドキュメンタリーにしかならないのはわかっています。脚色も捏造も大いに結構、とにかく桃太郎の存在を人々の記憶に刻み込めるよう、心に残る物語にできればいいのです。
子供から大人まで、いや、老若男女人種国籍問わずいろんな人に読んでもらいたいと願うおばあさんは、誰にでも理解できるよう平易な文章で簡潔に書き綴ることを心がけました。その上、登場人物の役割を明確にすべく勧善懲悪のわかりやすい構図を組み、全体として起承転結の構成にまとめて、徹底して万人受けを狙いました。
おばあさんは、あらん限りの情熱を注ぎ込み、命を捧げる覚悟をもって筆を進めていきました。
そして、執筆開始から約一年。生みの苦しみを経て、一冊の絵本が完成いたしました。
その名も――『桃太郎』(って、そのまんまやないかい! とツッコミを入れたいところですが、この題名には、おばあさんが伝えたい全てが集約されているのです)。
おばあさんが事前にあちらこちらに手回しをした甲斐もあって、この絵本は全国で一斉に売り出されることとなりました。発売された暁には、作者のおばあさん自ら広告塔となって各地で執拗なまでの宣伝活動を行い、そのおかげもあってか『桃太郎』は瞬く間に大ベストセラーとなりました。
こうして世間に広く知れ渡った童話が『桃太郎』だったのです。
『桃太郎』といえば、日本人であれば知らない人などいない有名なお話です。その知名度は童話の中で日本一といっても過言ではありません。しかし、その裏にこのような親のエゴが隠されていたなどとは誰が知り得たでしょうか。
我が子のために骨身を削ったおばあさんの執念は実り、桃太郎は時代を超えて今なお人々の心の中に生き続けているのです。
ちなみに、『桃太郎』で一躍有名作家となったおばあさんは、細々とした年金生活から一転、夢の印税生活を送ることとなりました。
プールつきの大豪邸に住み、大勢のメイドを雇って身の回りの世話をさせ、さらには年下の恋人まで囲って、存分に余生を謳歌しましたとさ。
めでたし、めでたし。