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声が聞こえる

 

 まるで初めから何もなかったのように、アランが消えた虚空をぼんやり眺める。

 痕跡は何も残されておらず、それは彼が幻覚であった事の証明のようでもあった。

「やっぱり、幻覚か」

 そう一人の公園で独り言ちると、異常者だと思われていないか周囲を確認する。

 幸いにも誰もおらず、さっきまでしていただろう一人芝居を目撃した者はいなかったようだ。

 私はその場を離れると、見慣れた景色の中をいつも通りに歩いて進む。

 そして近くのアパートの一室に入り、中に向かって声をかけた。

「ただいまー」

「おかえりなさい」

 掃除機を抱えた母が、私に向かって返してくれた。

 背の低い、働き者の彼女は今も忙しそうに手を動かしている。

 玄関を抜けリビングに行くと、父がテレビでニュース番組を見ていた。

 今日は休日なのでまったりと過ごしているのだろう。仕事はいつも忙しいようなので、休日ぐらいはそうやって体を労わってくれた方が良い。

「おかえり」

「うん、ただいま」

 当たり前の風景が何故だかとても懐かしく、切ないほどだった。

 きっと変な夢を見たせいだろう。うんざりするほど長く、妙にリアルな夢だった。

 この平和な国よりも随分物騒な世界で、毒のように激しい個性の人間が溢れていた。

 どうせ夢ならば、もう少し気持ちのいい世界にしてくれればいいのにと思ったものだ。

 勿論、親しかった幾人かの人達まで悪いように言うつもりはないが。

 鞄を床に置いて父の隣に腰を下ろし、同じようにテレビを見る。

 最近の事件を伝えるニュースキャスターは、火事や窃盗などを淡々と読み上げる。

 そして交通事故の報道を始め、生々しい現場の写真が流された。

 見流しながら、行儀悪く肘をついて見る。いつもの日常である。


 ———本当に、全部夢だったのか?


 白紙に墨汁が一滴落とされたような、不安が生まれた。

 そうだよ。全部夢だ。じゃなければ、この両親だって偽物だって事になる。

 そう自分に言い聞かせ、思考を閉ざそうとした。

 けれどもう一人の私が、不気味な黒いローブを羽織ったフランキーがそれでは黙らない。


 ———だってアランは来たじゃないか。縋りつくような目をして、殺意を感じる程怒りに身を任せて、そして子供のように泣いて、下手に笑いながら消えていった。それを君は否定するのか。


 嫌なところを指摘する。いつだって夢はリアルだった。まるで本物のような感情を私に見せてくる。

 それでも否定し続けてきたのは、この世界で成長した記憶があるからだった。


 ———それはいつから? 疑え、全てを。あちらの世界でもそうしたように。


 疑うのはもう疲れた。

 どんなに楽しい事があっても、所詮まがい物だと思いながら生きるのは苦しい。

 人形に話しかけるような、白々しさが常に胸にあった。それが生への実感を奪い続けてきた。

 ようやく終わったんだから。お願いもう黙ってよ。ここが本物だ。それでいい。

 もう誰も、何も、嘘だって思いたくない。


 ———いいや、黙らない。彼らに対して不誠実だ。アラン、ジュード、ローリー……皆を見捨てるのか!


 見捨てる訳じゃない。私がいなくても、彼らはもう十分に一人で生きていける。


 ———ほら、本当は気付いているじゃないか。お前はいつだって、実在する彼らが困らないようにと布石を打っていた。愛していたじゃないか。


 愛していた。それ以上あの夢を見続けるのが、苦しくなるほどに。


 ———ならば目を背けるな。思い出せ。


 何を?


 ———始まりの記憶。


 脳内に響くフランキーの声は大きくて、黙殺するのが難しい。

 他人を気にすることなく振舞う奔放なフランキーは、枷の無い私の本音そのものだからだ。

 掃除を終えた母が、ベランダで洗濯物を取り込んでいるのが見える。

 父はニュースが終わったテレビにリモコンを向け、電源を落とす。そして老眼鏡をかけると、読み途中だったらしい本を手に取った。

 私は二人を見ていた目を少し伏せ、徐に立ち上がった。

「どこに行くんだ?」

 鞄を再び手に取った私に、不思議そうに父が話しかけてくる。

 言葉に出来ない感情を持て余し、曖昧に笑って、出来るだけいつも通りに聞こえるように努力して言った。

「ちょっとね」

 真実なんてとても言えないまま背を向け、玄関で靴を履く。

「行ってきます」

「あんまり遅くなるんじゃないぞ」

「はーい」

 扉を開けて家を出る前に、ベランダの母にも届くように声を大きく張り上げた。

「行ってきまーす」

「気を付けてねー」

 母の声が耳に届き、それに酷く安心して外へと出て行った。

 公園、近所の建物、電信柱。

 夢の中の二十年の歳月など、この町には何も関係がないらしかった。

 夢だ。夢。全部、夢だ。茶番だ。

 あんなファンタジーな世界だったのは、昔読んだ小説や映画の影響だろう。そうに違いない。

 そう思っているのに私は今、たかが夢の為に、わざわざ外に出向いている。

 アランの幻覚を見た時と同じように、無視しても何の支障もないだろうに。

 顔を上げると人の多い駅前までたどり着いていた。

 花挙駅の前は栄えていて、大きなモニターが次々と広告を変えて宣伝している。

 そして道路に面したスペースに、大きな鏡の四角柱がモニュメントとして佇んでいた。

 昔から存在するそれは、謂れなど誰にも気にされる事もなく、ただ景色の一部と同化していた。

 私はその鏡の前で、三階分はあろうかという高さをじっくりと見る。

 鏡の中の自分は、同じようにつるつるとした鏡面を見上げていた。

 こちらの世界に戻って来た時、泣いていた女の子を見つけて私はこの鏡に押し込んだ。

 何故、自分はそうしたのだろうか。

 そうすれば、帰れると知っていたからだ。

「ああ、そっか……」

 脳裏に鮮明にあの日の光景が蘇る。

 暴走した恐ろしい速度の車が、『ここ』で私にぶつかったのだった。

 泡を口角から吹きながら、どう見ても正気ではない運転者の男の顔が、酷く近い距離で見えた。

 最後に見えたのはこのモニュメントに映る、青ざめた自分の姿だった。

 助かるはずもない事故。なのに、その直撃をうけたモニュメントは、罅一つついてはいない。

 都合よく忘れていられたのに。思い出してしまった。アランが、フランキーが、あんな事を言うから。

「は、あはっ!……馬鹿みたい」

 頬を流れる冷たい雫を感じながら、私は自分を嘲笑する。

 周囲の人々の視線が集まるのを感じたが、もはや気にならなかった。

「夢……、夢、夢、これも夢か!」

 あれほど帰りたかったこの世界こそが、夢だったなんて!

「あはははは!」

 ひとしきり腹を抱えて笑う。異常者のような私を、人々が遠巻きにして避けていく。

 鏡像の私に向かって、言ってやった。

「聞いたか? これは夢なんだって」

 映るもう一人の私は心底可笑しそうに笑い転げていて、それが更に笑いを誘った。

 なんて滑稽だろう。これまでの苦悩の馬鹿馬鹿しさをひとしきり笑い飛ばす。

 随分と無駄な時間を過ごしてしまった。

 醒めない夢を醒まそうと、この世界への帰還の道を探ってきた。

 夢から夢を渡り、あらゆる術と薬物に手を伸ばし。

 法を犯して真理を求め、時に個人の過去を全て暴いた。

 あちらの世界の全てを眠らせればどうなるかと、そんな乱暴な事まで手を出したのに。

 全部、一人芝居だったという事か。

 フランキーという人間は、決して善人ではなかった。善意を捨ててはなかっただけだ。

 もしも彼女の行いが全て白日の下に晒されたのならば、生涯牢屋につながれてもおかしくない程である。

 心に降り積もっていく何かを、必死にかき分けながら息をしていたのに。

「はは……はぁ」

 ようやく笑いの波が収まり、次に来たのは悲しみの感情だった。

「父さん、母さん……」

 いつものように、只の夢だと割り切れない。育ててくれた両親が、偽りの存在だったなど決して受け入れられる事ではなかった。

 唇を噛み締めて涙を落とす私の姿は、まるであちらの世界で孤独に目覚めた時のようだった。

 二十年。こちらの世界で過ごした時間だ。

 孤児だった私を引き受けて、実の子供のように育ててくれた両親。

 これから恩返しをするはずだった。しなければならなかった。だからこそ、必死になってここに帰ってきたのに。

 少し前にアランが触れた自分の首に、そっと両手を添わせてみる。

 絞めるか、落とすか。

 そんな終焉が脳裏によぎった時、鮮やかに蘇る言葉があった。


(夢であっても。心を交わせれば、僕にとっては本当です)


「……アラン」

 それは何もかもの苦悩を失わせる訳ではなかったが、胸の重荷をいくらか軽くしてくれた。

 そろりと首から手を放してみる。

 鏡の中の自分は、少しほっとしたような表情をした。

「お前に教えられるなんてなぁ」

 夢であっても、確かにこの世界は私の故郷だ。あちらの世界のどこにもない、この場所こそが。

 耳鳴りのように、あの子の泣き声が何処からか聞こえてくる。

 私を引き留めるように。私を引き戻すように。

 少し目を閉じる。あの白髪を撫でてやった後、照れくさそうに笑うアランの顔が鮮明に蘇る。

 それを再び突き放す事など出来そうになかった。

 だから私は諦めたように笑って、虚空に向かって言ってやった。

「帰るよ。我が弟子」

 まだまだ師匠離れできていない弟子があちらの世界にいる。情けない姿をこれ以上見せる訳にもいかなかった。

 鏡の表面に手を伸ばしてみた。触れた感触は冷たく、只の鏡にしか感じない。

 恐らく無意識のうちに、このモニュメントの力を操ってアランを現実に返したのだろう。

 自分のものとして既に使えていた物である。自分を目覚めさせるのも、簡単な事だった。

 好き勝手に生きるフランキーの姿がほんの一瞬だけ胸を過り、思わず眉を寄せる。

「まあ……夢だと思っていたんだもん。不可抗力だ」

 それでも全て受け入れてくれる人がいる。ならばもう、あるがままの自分を貫き通すのもいいだろう。

 私は諦めの溜息を吐いた後、手からゴルフクラブを作り出す。

 大きく振りかぶって、一息ついて声を張り上げた。


「夢魔術師フランキー! 夢魔の夢を成敗いたす!!」


 周囲から上がる、遠巻きに見ていた群衆の悲鳴。

 それに構わず、ゴルフクラブを振り下ろした。




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