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どうあがいても

酷い裏切りだった。

師匠が僕の全てだった。

あの日、あの店の前で、死ぬはずだった僕の運命を全て変えてくれた人。

物珍しい獣ではなく、一人の人間として扱ってくれた人。

優しさがなんであるか、教えてくれた人。

それが全て、嘘。師匠にとって、只の夢の中の出来事だったって?

ああ、もう、何もかも考えられない。

僕は亡霊のようにゆらゆらと立ち上がり、不思議そうな視線を向ける師匠の目の前に立つ。

こんな事を知るぐらいなら、来なければよかった。

ゆっくりとその細い首に手を伸ばす。

殺してしまおう。

こんな師匠なら、要らない。

そして僕が夢ではなく、現実であると思い知って、恨みながら死んでくれ。

幻覚だと信じている師匠は、不穏な手にも無防備のまま逃げ出さない。

そして触れた首の生々しい温かさに、怖気づいてしまったのは僕の方だった。

師匠に飼いならされた弟子の手は、どれほど憎い感情を抱こうと、それ以上動こうとはしない。

妙なテンションで僕を抱きしめてくれた姿が、いい加減な事を言って仕事を押し付けてくる姿が、僕の成長を見て目を細めてくれる姿が、脳裏に浮かんで心に語り掛けてくる。

そんな事、出来やしないと。

だから代わりにその襟首を掴んで、呑気に座っている師匠を引きよせ無理やり立たせた。

「これでも、僕が夢だって言うんですか?」

自分でも聞いた事がない低い声で、師匠に聞く。

師匠は平然と僕に言った。

「自分の知覚が確かであると、保証はないでしょう」

そして震えながら掴んでいる僕の手を指一本ずつ外してしまうと、軽く押しのける。

迷惑そうに皺になった服を正し、相変わらずの冷ややかな視線で僕を見た。

確か、師匠は三歳の頃にこの夢に入ったはずだ。

その年頃の子供に、この世界がどうして夢であると判断できる。

知らずに師匠は育ち、夢で成人までしたのかもしれない。

そして現実に戻って八歳の体で目覚めたとしたら。

確かにこれではどちらが夢だか、分からなくなってもおかしい事ではなかった。

けれど理解はしても、僕の心は納得出来るはずもない。

交わした言葉も、思いも、全てまがい物だと思われていた事実がただ苦しかった。

僕がやらなければならない事が、何であるのかようやく分かる。

この世界が夢だと、この人に教えなくてはならないのだ。

だから僕は手から剣を作り出し、物騒にも師匠へとその切っ先を突き付けた。

「現実で、こんな事が出来るとでも?」

あと少しで額に傷が出来る程近づけているのに、微動だにしない。

いっそ傷を本当につけてしまおうか。

師匠は僕の目を正面から見つめ、静かに口を開いた。

「出来そうにない事が出来るからといって、夢だという証明にはならない」

まるで赤子に物を教えるかのような、絶対的な響きだった。

そして少しだけ視線を下に逸らして先を続けた。

「それに、それを言うなら私はあの世界で何でも出来た」

その言葉の意味をすぐに理解する事が出来なかった。

腹立たしそうな口調で、けれど少しだけ笑って師匠は僕に話す。

「人を狂わせる事も、悪人を善人にさせる事も、秘められた真実を語らせる事も。

死んだ人を生きていると思わせる事も、生きている人を死んだと思わせる事も」

初めて知る師匠の真実に、突き付ける剣の切っ先が耐えきれないように震える。

化け物。

いつだかローリーさんが師匠に言った単語が、僕の脳裏にも自然と浮かんだ。

「目を合わせて、ほんの少し『いじって』やるだけで良かった。

それを自分にかけてやったとしたら、私は全てを手に入れられたでしょうね」

察しの悪い弟子は、今ようやく自分が師事していた人の巨大さを知る。

この人は天才すぎる故に、全てを叶えられてしまうが故に、現実を現実だと認識する事さえ出来なかったのだ。

これがローリーさんのように、物理的な破壊力などの才能であればこうはならなかっただろう。

けれど全ての認識を操る事が出来る人に、誰が現実を保証してやれるのか。

師匠の孤独と苦悩を、僕は何も分かっていなかった。

「師匠」

怒りなど消えてしまった。

誰よりも苦しんでいるのが、師匠だと気づいたからだった。

突き付けていた剣を煙のように掻き消し、可哀想なその人を、せめて何かが伝わるようにと抱きしめる。

「師匠……」

夢は夢でしかないと、かつて師匠は言った。

ならば師匠にとっての僕もまた、その程度の存在でしかなかったのだろう。

向けられた愛情が全て偽りだったとしても、僕はそれに救われていた。救われていたのだ。

腕の中の師匠は戸惑った後、諦めたように脱力して僕の好きなようにさせてくれた。

「君が表れてからの夢は、結構楽しかった」

その声は意外と柔らかくて、いつもの師匠が戻ったような気になった。

ああ、なんだ。師匠が優しいのは本当だったじゃないか。

全てが夢と思っている中で、心のままに師匠は僕を助けてくれた。その事実は変わらない。

僕はどうやっても、師匠の事を嫌いになれないらしい。

「これは夢です。師匠。夢なんです」

もう理屈も浮かばなかった。ただ、泣き声混じりで懇願するように僕は事実を伝える。

師匠は僕の頭をいつものようにくしゃりと撫でた。

「……もう充分話は聞いてあげたでしょう。そろそろ、終わりにしようか」

それはとうとう僕の言葉が師匠に届かなかったという絶望的な宣告だった。

同時に体に違和感が生まれ、抱きしめていた手を放す。

指の先が少しずつ透けていくのが見えた。

夢魔術師フランキーは、この夢魔の夢を現実だと思いながらも完全に支配しているらしかった。

師匠が現実だと思っているから、師匠はこの世界で魔術を使えない。

けれど、僕は師匠にとってただの幻覚だ。幻覚ならば、跡形もなく消える事もありうるだろう。

「師匠、僕を消してしまうつもりですか?」

「違う。元々いなかったんだよ」

先程と同じ淡々とした様子に、僕は一つの可能性を思いついた。

師匠は現実の世界がただの夢であると、どこかで信じきっていないのではないだろうか。

だからこそ僕の事を振り切るように無視をして、都合の悪い僕という存在を排除しようとしているのかもしれない。

これはただの希望的観測で、その根拠となるものは何もない。

でも残された手段は、これしか思い浮かばなかった。

「……だったら、願ってください。完全に消えてしまえと」

僕は師匠に対し、挑発的な顔をしてそう言った。

「そうすれば、僕の精神は粉々に砕かれて、二度と目が覚めないでしょう」

消える僕を眺めていた師匠の眉が、少しだけ動いたような気がした。

その僅かな感情の揺れに、最後の望みをかける。

体は既に下半身が消えていた。これを永遠の別れになんて、したくない。

只管この心が届くように願いながら、声を張り上げた。

「でも、きっと僕は現実で目が覚める。師匠が僕を『目覚める』ようにと願うから!」

泣きそうになるのを堪え、無理矢理口角を上げて笑顔を作った。

「師匠。一足先に、あっちで待ってます」

悪あがきのような言葉である。でももう、僕に伝えられる時間は残されていない。

感覚が消えていく。自分の手や、胸がどういう形をしているかも分からない。

そして全てが暗くなり、落ちるように意識は消えた。



意識が戻った瞬間、僕は上半身を勢いよく起き上がらせた。

僕の寝かされている寝台の脇には椅子が置かれており、そこに座るジュードさんとローリーさんが突然の動きに驚いて目を開いている。

隣に視線を向けると、相変わらず寝たままの師匠が横になっている姿があった。

「ほら、僕の事を夢なんて思ってないじゃないですか……」

返事がないのを知りながら、それでも言わずにはいられない。

そして師匠の体に縋りつき、痛いほど強くその服を掴む手に力を込めた。



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