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どういうことですか

知らぬ街に朝がきた。

夜がきた。

そしてまた、朝がきた。

絶望するには、十分な時間だった。


精神的疲労で目眩がする。ふらふらと近くの壁の丁度いい窪みに腰を下ろす。

そこで背を丸めて、ぼうっと目の前の景色に目をやった。

本当に、打つ手がない。もう駄目かもしれない。

僕はこの世界から出られない。師匠にも会うことが出来ないまま。

人は絶望が過ぎると泣きわめく事さえできないらしい。どうにもならない現状がただただ冗談のようで、可笑しいとさえ思えてくる。

けれどその感情に身を任せてしまえば正気を失う事も分かっていたので、ただまともな振りをして行き交う人々を真面目な顔をして眺め続ける。

沢山の人が僕の目の前を通り過ぎていった。

若い恋人達が手を繋いで幸せそうに歩いている。買い物を終えたらしき女性が沢山の紙袋を何度も肩にかけなおしている。

足早に何処かへ向かっていた男性が、ぶつかりそうになった人に誤って頭を下げていた。

数えきれないほどの人がいるのに、師匠の姿は見つからない。

夢魔から帰還した女の子が言っていた『おねえちゃん』の姿をしているのは分かっている。

それが僕の知っている師匠の姿であればいいが、夢の中ではその保証はない。

女性に絞って目を凝らすが、似たような恰好をしている人ばかりで顔の見分けさえ覚束ない。

また幾人もの人が通り過ぎて行った。

昼の盛りを過ぎ、涼しさを感じるようになった時刻の事である。

長い黒髪をした凛とした姿の若い女性が、目の前を通り過ぎて行った。

年は二十歳ぐらいだろうか。長いスカートを履いて、真っすぐ前を向き、僕の事など視界にも入らない様子で雑踏の中に消えていこうとしている。

何故だろう。とてもその後ろ姿が気になる。

理由はない。けれど、目を離すことが出来ない。

逃しては駄目だと本能が警告を大音量で鳴らしていた。

人の中に消えそうになっているその後ろ姿を、慌てて追いかけた。

師匠が動く骸骨だとすれば、この人は可愛らしい雰囲気の女性である。似た要素はない。

目鼻立ちも輪郭も、何処にも師匠の片鱗さえ見当たらない。

いつも薄笑いを浮かべて、何を考えているのか分からないような変人の素振りも見えない。

師匠ではない。いや、本当にそうだろうか。

心の中で葛藤しながら、その姿をひたすら追う。

歩き続けていると、街並みは静かな住宅街へと変わっていった。

相変わらず僕の事など何も気づいていない様子で、彼女は颯爽と歩き続けている。

猫背気味で、のそのそと歩く師匠の姿とは違う。違うはずだ。なのにどうして目を離すことができないのだろう。

前触れもなく、その後ろ姿が何かに重なる。

雷に打たれたように、脳裏に鮮明なイメージが沸き起こる。

外へ仕事に行く時の、師匠の背中だ。

誰かが助けを求めている時、師匠は普段とは違って背を伸ばし、自信に満ちた足取りで向かうのだ。

それは客への演技であり、仕事に対する意気込みの表れでもあった。

何度も見続けた背中の、微かな一致を頼りにして僕は彼女が師匠であると確信した。

「し、ししょう……」

弱弱しい声が僕の口から漏れた。

きっと師匠はおどけた顔をして『ばれてしまったか』なんて言いながら振り向いてくれるだろう。

師匠は僕がつらい時は、いつでも手を差し伸べてくれた。

ようやく師匠を見つけられた安堵で縋りつきたくなるのを抑えながら、希望の混じった声を更に大きくする。

「師匠!」

間違いなく届いたはずである。けれど彼女は足を止める事もなく、何も聞こえなかったかのように歩き続けている。

やはり只の勘違いだったのか? いや、そんなはずはない。

僕が見間違えるはずがない!

「師匠!!」

人目もはばからず、大声で目の前の姿に叫んだ。もはや他人であったとしても、無視できないような呼びかけである。

しかしそれにも反応せず、まるで僕が透明人間にでもなったかのように足を動かし続けていた。

なんで応えてくれない?

「聞こえてるでしょう? 師匠ですよね?」

僕は隣に立って、顔を覗き込むようにして師匠に聞いた。けれど師匠は視線も合わせてくれやしない。

酷い仕打ちだった。師匠を助けようと身一つで危険な世界に飛び込んだというのに、まるで邪魔者のように僕を無視する。

あんまりではないか。

疲れ切った精神は、取り繕う気力も残っていなかった。込み上げてきた涙を袖で拭う。

「僕が見えないんですか」

恨みがましく歩き続ける師匠に言う。少しも速度を落とさない足取りは、意識しなければ置いていかれそうな速さである。

「本当は見えているでしょう。僕の事を無視するのは、貴女だけですよ。

それは、貴女が師匠だからでしょう?」

音の無い夢がある。耳の聞こえない人の夢だ。

夢の住人が無視してくる夢がある。他者に興味がなく、背景としか感じていない人の夢だ。

けれど、この夢はそういった類のものではない。

いつまでこんな茶番を続ける気ですか。

若干の怒りを込めて言った言葉に、ついに師匠は足を止めた。やはり聞こえてはいたらしい。

そして一度僕の方を見て、他人行儀な冷たい溜息を吐いて迷惑そうな顔をした。

「鬱陶しいなぁ」

「うっと、……え?」

その言葉は刃物のような鋭さで僕の心に突き刺さった。

その目、その表情。向けられたことのない、凍り付くような冷たさだった。

僕は今まで師匠に甘やかされていた事を知る。

子が親に全幅の信頼を寄せるように、僕は師匠に突き放されるなんて予想もしていなかった。

何もなかった僕の寄る辺となってくれたその人は、他人の顔をして、敵意すら滲み出る態度で僕に向き合ったのだった。




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