ひとりぼっち
唯一の手がかりであるコンパスが機能しなくなり、行く先さえ分からない。
僕は深い井戸の底に落ちたような、息の詰まるほどの閉塞感を覚えた。
不安が胸を押しつぶして子供のように喚きたい衝動がわき起こるが、夢の住人達が余りに現実の人と同じ理性的な目をしていたので、押しとどめた。
何か、何かあるはずだ。
師匠の手がかりとなるものが。脱出のヒントになるものが。
全ての物にくまなく視線を向けながら、ひたすら歩く。
この世界を構築している物。それを見つけるための、ほんの少しの違和感を。
標識らしき立て札。綺麗に整えられた街路樹。
道行く人の肩からかけている鞄。落とされているハンカチに至るまで、何一つ見逃さないように神経を集中させて景色を観察した。
店先に置いてある光る箱のような物が気になり、近づいてみる。
店内から騒々しい音が漏れるのを煩わしく思いながら、その箱に向かって魔術を使ってみた。
「判別」
箱に灰色の煙が上がったかと思うと、直ぐに虚空に消えていく。
この箱が魔術道具であれば煙が紫色になるはずなので、只の夢の中の物質に過ぎないのだろう。
これでは、いつ夢の原因に辿り着くか分からない。
溜息を吐いていると、店員の男性が僕に慌てながら声をかけてきた。
「お客さん大丈夫でしたか!? 目覚まし時計から今、煙出ていましたよね?」
「平気です、大丈夫です」
どうやら誤解させてしまったようだった。心配してくる彼に手の中の道具を渡し、そそくさとその場を立ち去った。
そんな事をしながら歩き回る。空腹は夢の中なので感じないが、精神は次第に疲れてきていた。
街中にある花壇の縁が丁度良い高さだったので、そこに腰を下ろして地面に視線を向ける。
夢魔の夢が、こんな世界だとは思わなかった。
生きているかのように個性のある夢の住人達。奇天烈な世界観。何処までも続く境界線のない空間。
「どうしろっていうんだ」
今まで得て来た夢の世界の常識など、何も役に立たない。
もしかしたら、僕は帰れなくなるのではないか。そんな避けようのない不安が胸を過った。
けれど僕が返れなくなったら、ジュードさんはどうなる。
師匠の生命維持費だけでなく、僕の分までとなれば重い負担だ。
それでなくとも、ローリーさんの相手をしなくてはならない厄介な仕事がある。
並の人間にはとても務まらないだろう。有能な彼でさえ、出来るかも分からない。
しかしどれだけ大変でも、ジュードさんは投げ出さないに違いない。
彼が受け入れた人間に対してはとても情が深いのを、僕は既に知っている。
ふと、とある光景が脳裏に浮かんだ。
ジュードさんが何年も僕達の体を介護し続ける光景だ。
想像の中の彼は疲れた顔をしながら、文句も言わず淡々と一人で店をまわしていた。
そして動かない二人の体に視線を向け、在りし日を懐かしむように遠い目をしている。
切なく熱い感情が胸に込み上げた。
それを現実にしてはいけないと、強く思う。
「……探さないと」
立ち上がり、足を再び動かして探索を開始する。
しかしそう簡単には突破口など見つからず、時間だけが無為に過ぎていく。
そして夜が訪れて、入り口の閉まる店も出てきた。
月が出て、それでも街灯りがあるので全く見えなくなることはない。
更に時が過ぎて、酒場も閉まってしまった。こうなると何処に行っても人を見かけない。
昼間の喧噪は嘘のように静かになって、馬車が数台通る度に夜の街に大きく響く。
僕は疲れて、小さな公園のベンチに腰を下ろす。深いため息を吐いて、少しずつ浸食する絶望から目を逸らそうと努力した。
こんな心許なさは何年ぶりだろうか。師匠に会う前、安眠堂で行き倒れる直前も同じような孤独と不安があった。
体はこれほど成長したというのに、僕はあの頃と何も変わっていないのだろうか。
僕を救ってくれた師匠のように、僕が師匠を救う事が出来るのだと思ったのはただの勘違いだったのだろうか。
冷えた空気に長袖の服を一枚作り出して羽織る。
深く俯き、足の上で手を組んだ。公園内のわずかに許された土が、踏みしめられて小さく音を鳴らす。
夢魔の夢は、とても僕の手に負えるような物ではなかった。
自分の無力に打ちひしがれた。いくら師匠に次いで夢の事に詳しいとしても、師匠は別格だった。
催眠と夢に関して、出来ない事はないと言ってもいい。
あの人に出来たなら、僕にも出来るはずと思ったのが間違いだったのだろうか。
落ちた涙が地面に染みを作る。ぽつぽつと増えていくそれをただ眺めながら、手を強く握りしめた。
「どこに、いるんですか……?」
震えるその声に答える声はなく、ただ夜の闇に消えていく。
僕はまた、寄る辺をなくしたのだ。




