捕まえに行きます
机に山積みにされた本を前に、僕は腕を組んで椅子に座っていた。
頭を巡るのは、全くの未知である夢魔の夢についてである。
眉間に皺を寄せて重苦しい溜息を吐いていると、壁を軽く叩く音がして目を向けた。
いつも調剤をしている場所から出て来たジュードさんの目の下には、くっきりとした隈が浮かび上がっている。
夢魔の夢など、何が悪く作用するか全く分からない。
その為、時間経過と共に状況が悪化するのを恐れてこの三日間を徹夜で薬品づくりに取り組んでいたのだ。
「……出来たぞ」
そう言って、小さな薬瓶を僕に手渡す。中には黒い丸薬が入っていた。
見た目からは特別さは感じないが、ジュードさんが使用した材料はどれも一級品の入手困難な物ばかりだった。
「後はアランのタイミングに任せる」
そう言ってジュードさんは目頭を指で押さえ、酷使した目を労った。ここまで疲労したジュードさんを見るのは初めての事だ。
彼がどれだけ力を尽くしてくれたのかが伝わってくる。
「何か突破口は見つかったのか?」
ジュードさんの言葉に僕は疲れた笑いを浮かべ、目の前の本の山から一冊取り出して開いてから彼に渡した。
分厚い本を受け取った彼は、分かりやすく印がつけられた場所に目を通す。
『夢魔とは、現象を指す言葉である。
ある日唐突に覚めない眠りに落ちた時、人は夢魔が現れたと表現する。
しかし、その実体は不明である。外的要因は何もなく、老若男女を選ばない。
体が弱り果て死を迎えるその時まで、決して覚めることはない』
その一文を直ぐに読み終えたジュードさんが片眉を上げて僕を見た。
「これだけか」
「それで全部です。この本達ぜーんぶ、引用ばかりで同じ事しか書いてません」
顔を益々険しくさせたジュードさんに、師匠がよく使っていた揺り椅子に座りながらローリーさんが口を開く。
「目覚めた者がいないからな。助けに夢に潜り込んだ魔術師も、全員帰ってない」
彼は暇そうに手元でクルミの殻を素手で砕きつつ食べていた。何があっても彼と指相撲の類はするまい。
「結局、いつも通りの事しか事前に準備出来る事はなさそうです」
僕の言葉に無表情ながらも暗い声色でジュードさんが返事した。
「そうか」
まず夢に入り込んだら、夢の中心地を探す。
夢では中心地から離れる程、物の輪郭が曖昧になっていく。これをするのはそう難しくないはずだ。
そして中心地を見つけたら、夢を作っている原因と師匠を探す。
今、事前に決められる事はそれだけだ。
夢魔に対抗するにはあまりにも心許ない。
けれど僅かなヒントとして、師匠が最後に持って行った道具達の存在がある。
その中に、目を引くような目新しい物は含まれていなかった。
最後に師匠が所持していた道具の一つであるコンパスを机の上から手に取ると、代り映えのしないその道具に視線を向けた。
これは夢の中の異物を大まかな方角で示してくれる道具である。普段はこの道具で、夢を生み出している魔法道具などを特定する。
うまく機能してくれる事を願いながらズボンのポケットに押し込んだ。
後はもう、本当に夢の中に入って奮闘するしかない。
目覚めた女の子が僕たちに夢の中の出来事を教えてくれてはいたが、さっぱり意味が分からなかった。
沢山の人、絵。
そんな夢であれば代り映えのしない事を言われても、何も分からない。
考える材料にするには少なすぎる情報である。
このまま現実に居て思考を巡らせていても、行動しなければ状況は変わらない。
ジュードさんとローリーさんを前に、強い決意をもって宣言する。
「もう、行きます」
迷いのない言葉に、ローリーさんが口の端をあげて面白そうに笑った。
「威勢がいいな。……俺はお前をそう長く待つつもりはない。お前の師匠が惜しければ、とっとと帰ってくるんだな」
それが全くの本気であるのは、今までの付き合いから分かった。
ジュードさんに迷惑をかけない為にも、早く帰ってこなければならないだろう。
まあ、夢魔と戦わなくてはならない時点でプレッシャーは十分感じている。
「善処します」
へらりと笑って、彼の言葉を受け流す。僕も随分動じなくなった。
ローリーさんは僕の反応を不快に感じるでもなく、ただ面白がるような表情のままだった。
さあ、行かなくては。
ジュードさんの作ってくれた薬瓶を手に、寝室へと移動した。
そこには覚めない眠りについたままの師匠がベッドの上にいた。
この姿を見る度に、本当に目が覚めないのだと深い失望がわき起こる。
顔を隠していない今は、痩せこけた病人のような顔が露わになっていた。
この人は本当に自分を大切にしない。僕達がどれだけそれについて本気で怒っているのか、理解しているのだろうか。
そして自分が夢魔にやられ覚めない眠りについても、のうのうと日常生活を送ると思っていたのだろうか。
……理解してないのだろうなぁ。
僕の後を追ってついてきたジュードさんが、僕の表情を見て片眉をあげる。
「どうした。険しい顔をして」
多分師匠への怒りが隠しきれていなかったのだろう。
「いえ。ちょーっと、師匠の無神経さについて考えてしまいまして」
口を歪ませて答えた僕の肩を、ジュードさんは同情した表情で叩く。
「思い知らせてやろう。自分がどれほど愚かだったのか」
「ええ」
僕達は助けに行くというよりは、しばき倒そうという強い決意の漲る顔で師匠を見た。
心なしか師匠の顔が苦しげに眉を寄せたような気がする。
手にした薬瓶の蓋を開ける。ほのかに薬草の臭いがたちこめた。
「必ず帰ってきます。それまで、大変かと思いますが後をよろしくお願いします」
主にローリーさんの事で多大な苦労をかけるだろう。
一人残してしまうことに申し訳なさを感じてジュードさんを見上げると、少しだけ口元を緩ませて僕に言った。
「現実の事は俺に任せて、安心して行ってこい」
初めてジュードさんの笑顔というものを見た気がする。
それは冬の厳寒に少しだけ暖かい日差しが差し込んだような、淡くて優しい顔だった。
師匠、悔しいでしょう。僕は一足先にジュードさんの笑顔を見ましたよ。
その笑みに少し不安が消えた気がした。
後の憂いも無くなり、後は自分のやるべき事をやるだけである。
倒れてもいいように僕はベッドの上で師匠と並んで横になった。
「行ってきます」
そして薬を一気に飲み込んだ。
苦みが喉を通り抜け、胃の中に落ちていく。効果はすぐ現れた。
視界が回る。力が抜けていく。
意識が吸い込まれるように、夢の中へと導かれていった。




