おやすみ
レベイン村は見るからに貧しい鄙びた場所だった。農村らしく畑がいくつもあるが、育てられている作物は無造作に生えて収穫は少ないように思えた。
魔術師にろくに触れ合ったことのなさそうな、痩せこけて襤褸を纏った人たちが僕たちを奇妙な目で見てすれ違う。
屋根の補修もされずに放置されている一件の小さな家があった。
「ここだ」
ローリーさんが扉を叩くと、中から壮年の頬のこけた男性が出てきた。格好から察するに農夫だろう。彼は怯えた目で僕たち三人を前に口を開いた。
「あんたらは?」
「フランキーという魔術師を探している。ここに来ていないか」
「フランキーさんの……!」
師匠の名前ですぐに農夫の表情が変わる。目を見開き、先頭のローリーさんを凝視した。敵意はなさそうだった。
まるで偉い人を向かい入れるように腰を低くして扉を大きく開いた。
「中に入ってください」
ローリーさんが案内されるままに勢いよく室内に入っていく。僕はジュードさんと一瞬目配せをして、頷きあってローリーさんに続いた。
家の中は薄暗く太陽の光だけが窓から入っている。三人が入れば狭く感じる小さな家だった。
小さな女の子と母親らしき女性の二人が、中で僕たちを頭を下げて迎え入れる。
何故そんなに腰を低くした歓迎の仕方をするのだ。
まるで、これから怒りに触れるのが分かっているような丁寧な接し方だった。
「フランキー……!」
血の滲むような掠れた声でローリーさんが師匠の名前を呼ぶ。
ジュードさんは険しく眉を寄せて、血管が浮き出るほど両手で拳を握った。
二人の視線の先、粗末なベッドに寝かされているのはいつもの師匠の姿だった。真っ黒な目元しか見えない服装も、安眠堂を出て行った時と変わらない。
なんだ、師匠は寝てるだけじゃないか。
僕は棒立ちする二人をかき分けてベッドの横に近寄る。
「師匠、迎えに来ました。起きてください」
僕はまだ現実感がなく、師匠の肩を掴んで大きく揺さぶる。起きない。
「ほら、帰りますよ!」
いつものように頭をひっぱたいた。起きない。
「師匠!いい加減にしてください!」
僕は大きく拳を胸に下ろして叩きつけた。起きない。
更にもう一度振り下ろそうとして、ジュードさんに腕を掴まれて止められる。
「アラン、止めろ」
「起こさなきゃ」
「止めろ!」
ジュードさんは僕を怒鳴りつけ、押さえ込むように自分の体で抱きしめてきた。
頭をジュードさんの胸に押しつけられ、ジュードさんの服が塗れたのを見て、自分が泣いていることに気付く。
師匠が起きない。師匠にとって眠るのが意のままであるように、起きるのだって自在に操れた。
それがここまで乱暴に扱って、目覚めないのは異常である。
呼吸は非常に遅く、刺激には反応せず。
見た目はただ眠っているように見えて、僕は師匠の元で勉強した多くの知識からこの状態が明らかに普通ではないと判断できてしまう。
師匠は、夢魔に囚われたのだ。
その事実を徐々に実感し、冷たい水のように背筋も凍らせる絶望が押し寄せた。
「だっ……だって、師匠は、夢魔術師でしょう? 夢魔だって、大したことないって……!」
いつか師匠は夢魔であっても対処してみせると豪語していたではないか。その時は僕は何にも知らなかったが、師匠が自信満々だったのは覚えている。
しかしいくら言い募っても、目の前の横たわる師匠の姿は変わらない。
それとも、この姿こそが師匠なりの夢魔の対処法なのか。
いつまでも続くと思っていた平穏な日常から余りに唐突過ぎる事態の変化に、ついていけずぼろぼろと泣いた。
師匠は僕の全てだった。
僕は全てを師匠に依存していた。
この人は僕の親で、先生で、親友だった。
大地のように盤石な足下の土台で、見上げる空を飛ぶ自由の鳥だった。
僕は師匠がいなければ、どうすればいいか何も分からない。師匠がいなくなるなんて、想像もしなかった。
文字すら読めない僕に全てを教えてくれた。
地獄に落ちる寸前だった僕を育て上げてくれた。
恩人なんて言葉では収まらない。師匠より大切は人はいないのだ。
子供のように泣けば師匠は「やあやあどうした!」なんて言いながら、未熟な僕を心配して戻ってきてくれるのではないか。
そんな思考が少しでもよぎり、僕ははばかることもせず全力で泣いた。
しゃくりあげる僕に、農夫は痛々しいものを見るような目を向ける。
「私達の娘を、助けていただいたんです」
そう言って彼は深々と頭を下げた。助けたところで、お金も払えないような貧しい身なりである。
夢魔に囚われた植物状態の娘の生命維持の資金もだせず、死を待つだけだったろう。
師匠は迷わず行った。いつになく急いで、彼女がその命を消す前に。
復讐?それとも次の犠牲者を出さない為に?
今となっては真意を聞くことも出来ない。
「おねーちゃんがね、おうちにかえしてくれたの」
女の子が舌っ足らずな口調で僕達に伝えた。ジュードさんが、怖がらせないようにそっと優しく言う。
「そうか」
「にこにこわらってたよ」
間違いなく師匠だろう。僕はジュードさんから身をはなし、事実を受け入れざるを得なかった。
夢魔に囚われ、生還したのは今まで師匠だけだった。
彼女は初めての『助けられて』生還した夢魔の犠牲者だ。師匠はどうやったのだろう。自分を犠牲にする方法だったのだろうか。
涙を袖で拭う。酷い顔を、どうにかまともな子供が怖がらない程度のものにした。
「……夢の中は、どんなところだった?」
僕はしゃがんで女の子に視線を合わせ尋ねた。
夢魔に囚われ生還したのが師匠と女の子しかいない以上、どんな夢を見させられているのか、何が起きているのかを正確に知るのはこの子しかいなかった。
「んーとね、ひとがいっぱいいた。あと、おおきいのぶーんぶーんって!」
「そっか。こっちに戻ってくる前、最後に見たのは?」
「おねーちゃんと、わたし!」
「他には?」
「え?うーんと、いっぱい。いっぱい、たくさんひととか、えとか!」
しばらく女の子は説明を続けていたが、僕には理解出来なかった。この様子では夢の中の描写を正確に聞くことは難しいだろう。
ローリーさんは僕達の様子に耳を傾けている様子もなく、心で何か語りかけるようにひたすら眠った師匠を凝視していた。
ジュードさんも女の子の頭を不器用に撫でているが、その手は小さく震えている。
二人にも師匠に割り当てた心の空間があり、その大きな喪失を受け止めきれないようだった。
師匠、貴女は罪深いよ。あの東の森の守護者ローリー・オーツと、鉄面皮のジュードさんをここまで動揺させるなんて。
静かに呼吸のために上下する胸をみる。生きてはいる。けれど、僕達は間に合わなかった。
ジュードさんが目を瞑って言った。
「連れて帰ろう」
静かな室内にその一言が大きく聞こえた。僕は反論もなく、頷いて答えた。
背負った軽すぎる体に例えようもない物悲しさを感じながら、僕達は師匠を安眠堂へと連れて戻ったのだった。




